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第14話:王太子の孤独、そして愚かさの完成
しおりを挟む権力って、あったかい毛布みたいな顔をしてる。
包まれている間は安心する。
でもあれは、誰かが手で持ってくれているだけだ。
手が離れた瞬間、毛布は床に落ちる。
落ちた毛布は、冷たい布になる。
王宮の“祝賀”が崩れた夜から、アデリオス・ヴァルステインの周りの温度は目に見えて下がっていった。
貴族は速い。
風見鶏みたいに速い。
正義ではなく、損得で羽根の向きを変えるから。
サロンでの囁きは、もう堂々とした会話になっていた。
「殿下は危うい」
「闇資金の話、まだ燻っている」
「巻き込まれる前に距離を取るべきだ」
「……次の支持先を考えなくては」
支持先。
その言葉は、忠誠の墓標みたいに冷たい。
側近たちも同じだった。
王太子の机の前で、彼らは頭を下げながら目だけを忙しく動かす。
責任の矛先を探す目。
押し付け先を探す目。
殿下のせいじゃない、私は悪くない、と言うための目。
「殿下、あの手紙は……どなたが管理を……」
「導線の件は、私は存じません。担当は別です」
「帳簿の不備は、倉庫番が――」
言い訳のリレー。
バトンは責任。
握った手が熱くなるから、みんなすぐ投げる。
アデリオスはそれを見て、歯を食いしばった。
彼のプライドは、王太子という肩書きに寄りかかって生きてきた。
寄りかかる壁が崩れたら、倒れるしかない。
でも彼は、倒れることを許さない。
――自分は正しい。
それだけが、今の彼の最後の甘い麻酔だった。
麻酔は甘い。
痛みを感じなくなる代わりに、現実も感じなくなる。
現実が見えない人間は、同じところで転び続ける。
夜。
王宮の長い回廊。
灯りは少なく、足音だけが響く。
アデリオスは一人で歩いていた。
護衛はいる。
でも護衛は“人”ではない。
命令で動く影だ。
彼が欲しいのは、命令に従う影じゃない。
崇拝と同意だ。
そして彼が、その“同意”を得られる相手だと勘違いしている人物がいる。
リシェル・ノワゼル。
リシェルは王宮の一角、来客用の小さな控え室に呼び出されていた。
呼び出しの名目は、“話し合い”。
こういう名目はだいたい、“お願い”の顔をした“脅し”だ。
部屋の中は静かだった。
蝋燭の灯りが揺れて、香が薄く漂う。
いつもの王宮の甘ったるい香りではない。
むしろ焦げ臭さが混じっている。
どこかで、何かが燃えている匂い。
リシェルはソファに腰掛け、手袋を外していた。
扇子は膝の上。
エルナは扉の外で待機。
カイエンは影。
見えない位置で、息を殺している。
扉が乱暴に開いた。
礼儀も演出もない音。
アデリオスが入ってきた。
顔色は悪い。目の下に影。
いつもの眩しい笑顔はなく、代わりに焦りの汗が光っている。
彼は王太子の衣装を着ているのに、背中がやけに小さく見えた。
「……リシェル」
呼び捨て。
それだけで、彼が余裕を失っているのがわかる。
リシェルは立ち上がらない。
立ち上がれば、相手の舞台に上がってしまう。
だから座ったまま、微笑む。
「殿下」
甘い声。
でも距離がある声。
「お呼びでしょうか」
アデリオスは一歩近づき、机に拳を叩きつけた。
どん、と音。
拳が震えている。
怒りの震え。
恐怖の震え。
「お前が頭を下げれば終わる」
彼は吐き捨てるように言った。
「俺の顔を立てろ。そうすれば、全部……全部、終わるんだ」
終わる。
その単語の裏には、“俺が助かる”がある。
正義ではない。
国でもない。
聖女でもない。
ただ――面子。
リシェルは瞬きを一つ。
その瞬きが、夜の中でやけに大きく見える。
「……顔を立てろ、ですか」
彼女は丁寧に反復する。
反復は、相手の言葉を鏡にする。
鏡に映った自分の醜さに、人は気づく。
アデリオスは苛立ちで顔を歪めた。
「そうだ! お前が悪役を演じて、俺が裁いて終わればいい! そうすれば――貴族も民も納得する!」
「納得」
リシェルが小さく笑う。
「殿下は、納得させたいのではなく……納得しているように見せたいのですね」
「黙れ!」
アデリオスは叫ぶ。
叫ぶ声は、論理ではなく感情の刃。
感情の刃は、周囲を切る。自分も切る。
リシェルは叫ばない。
ただ、唇の端を少し上げる。
甘く、残酷に。
「私に頭を下げてほしいの?」
声は優しい。
優しいからこそ、殿下の心臓に刺さる。
「……可愛いのね」
可愛い。
その言葉は、褒め言葉の形をした侮辱だ。
侮辱より残酷なのは、同情に近い温度で言われること。
王太子の誇りは、そこで粉々になった。
「……な、にを……!」
アデリオスの声がひっくり返る。
顔が真っ赤になる。
目が潤む。
潤みは涙ではない。怒りの湿り気だ。
「俺を……俺を馬鹿にするな!」
彼は剣を抜こうとして、抜けなかった。
手が震えているから。
震えは、彼が孤独だという証拠だ。
孤独な人間は、自分の手さえ信じられない。
リシェルは微笑みを崩さない。
崩さないことで、彼はさらに追い詰められる。
「馬鹿にしていませんわ」
リシェルは淡々と言う。
「ただ……殿下が“正義”ではなく“面子”を守りたいと、今ご自分で証明しただけ」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
アデリオスは喚く。
喚けば喚くほど、王太子の品格が剥がれる。
剥がれた下から出てくるのは、ただの男の恐怖と欲。
彼は踵を返し、乱暴に扉へ向かった。
逃げる。
逃げることで、自分の崩壊を見ないふりをする。
そして彼は、そのまま“やってはいけないこと”をやろうとした。
禁じられた帳簿。
闇資金の流れ。
取引の記録。
それらが記された帳簿を、自ら焼く。
燃やせば消えると思った。
麻酔で現実が見えていないから。
紙は燃える。
でも証拠は、紙だけじゃない。
匂いも、記憶も、噂も、もう燃えない場所に散っている。
王宮の裏手。
小さな書庫。
そこは通常、立ち入りが制限されている。
だからこそ、今夜の行動は“禁じられた”とわかる。
アデリオスは鍵を乱暴に回し、書庫に入った。
灯りも点けず、暗闇の中で帳簿を探る。
焦りで指先が滑り、紙束が床に落ちる。
「……どこだ……どこだ!」
息が荒い。
自分の心臓の音がうるさい。
うるささが、さらに焦りを呼ぶ。
ようやく分厚い帳簿を掴み、彼は火皿に紙を近づけた。
蝋燭の火が舐める。
紙の端が黒く焦げる。
煙が上がる。
焦げ臭さ。
さっきの控え室で漂っていた匂いは、これだ。
だが――
「殿下」
低い声が背後から落ちた。
氷みたいに冷たい声。
アデリオスが振り返る。
ヴァルト・グラディスが立っていた。
騎士団の制服。
その隣に、帳簿官。
さらに衛兵が二人。
誰も剣を抜いていない。
抜かないから、逃げ場がない。
「……なぜここに」
アデリオスの声が掠れる。
「警備の確認です」
ヴァルトは淡々と言った。
「そして……火の匂いがしました」
帳簿官が目を見開き、火に近づいた帳簿を見て固まる。
数字の人間は、燃える数字を見ると顔色が変わる。
燃える数字は、国家が燃える匂いだから。
「殿下……それは……」
帳簿官の声が震える。
「監査対象です……!」
衛兵の一人が、床に落ちた紙片を拾った。
そこに押された印章。
闇商人の印。
その瞬間、衛兵の動きが止まる。
止まった動きが、“目撃”になる。
アデリオスは、そこでようやく理解した。
自分が今、何をしているか。
そして――誰に見られているか。
「違う!」
彼は叫んだ。
「これは……これは……!」
言い訳は出ない。
出ないから、怒りだけが出る。
「お前ら……! 俺を陥れたな!」
叫びは、惨めだ。
惨めさは、権威の死だ。
ヴァルトは目を伏せずに言った。
「殿下。……ご自分で火をつけました」
その言葉は、剣より鋭い。
“自爆”の確定だ。
アデリオスの顔から血の気が引く。
引いた顔は、もう王太子ではない。
ただの追い詰められた男だ。
遠くで、鐘が鳴った。
夜更けを告げる鐘。
でも今夜の鐘は、終わりを告げる音に聞こえた。
リシェルはその頃、控え室を出て回廊を歩いていた。
カイエンが影の位置で寄り添う。
彼女の耳にも、焦げ臭さは届いていた。
王宮のどこかで“愚かさ”が完成する匂い。
「……殿下は」
カイエンが小さく言う。
「自分で終わらせに行きました」
「ええ」
リシェルは微笑む。
蜜のように甘く、氷のように冷たい微笑み。
「孤独は、人を賢くしない。孤独は、愚かさを完成させる」
アデリオスは今夜、完成した。
正義ではなく面子。
誇りではなく見栄。
救いではなく麻酔。
そしてその麻酔が切れたとき、彼の周りにはもう誰もいない。
それが、彼が自分で選んだ破滅の形だった。
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