10 / 20
第10話 消えた聖女
しおりを挟む朝は、紅茶の匂いで始まるはずだった。
火床の灰を起こす前に、誰かの足音が台所に差して、湯を落ち着かせる“待ち”の気配が城の空気を静かに包む――この数日で、城はそういう朝のリズムを覚えたのだ。
けれど、その朝は違った。
音がなかった。湯の立てる小さな歌も、匙が磁器を触る乾いた音も、聞こえない。代わりに、冷たい空気が石の継ぎ目からゆっくりと這い上がってきて、黒曜の壁に薄く白い息を乗せていた。
カインは廊下を歩きながら、その違和を皮膚より先に背骨で感じ取った。
塔の踊り場に一番近い窓から、淡い青が細く流れ込んでいる。夜が終わりきらない時間の色だ。彼は踊り場を素通りして、台所へ向かった。扉は鍵が掛かっていない。押せば、音もなく開いた。
そこに、湯気はなかった。
代わりに、テーブルの端に置かれた二つのカップ。どちらも、もう冷えている。片方には薄い琥珀色が半分ほど残り、表面に静かな膜が張っていた。もう片方は空だ。二つの欠けが向き合って置かれ、まるで昨夜の会話をそのまま閉じ込めたように黙っている。
その間に、紙片。白い、小さな、手のひらに乗るほどの。
カインは立ち尽くした。
足の裏から、音が抜ける。耳の奥で、昨夜の風が一度だけ鳴った気がした。手を伸ばす。指は冷たいカップの縁に触れ、湿り気のない冷たさが皮膚の感覚から体温を奪っていく。彼は空の方のカップを一度だけ傾けて、そこに残っている温度を確かめ――何もないことを確かめ――それから紙を取った。
――“あなたの世界が少しでも穏やかでありますように”
整った小さな文字。癖の少ない筆跡。音の出ない祈り。
彼はその一行を、何度も読む。読むたびに、文字の黒が薄くなり、代わりに内側の静けさが濃くなっていく。静けさは、たいてい、嵐の輪郭を縁取る。
胸の内側に、じわ、とひずみ。怒りが来るはずの場所に、別のものが生まれて、彼自身がそれを名付けられない。喉が硬くなり、言葉が引っかかる。
「……セリーヌ」
名を出すと、台所の石が温度を変える。誰もいないのに、返事をする場所がいくつもある。ゆうべ拭かれたばかりのテーブルの木目、磨かれた刃の鈍い光、火床の灰の形――彼女の手の痕跡が、そこかしこに残っていた。
扉の向こうで足音。ガルドだ。レアもいる。ふたりとも、朝に似合わない顔をしていた。
「主様……」ガルドが言いかけて、言葉をなくす。「……いないのか」
レアは視線だけで台所を一周し、テーブルの紙へまっすぐ歩いてくる。「置き手紙?」
カインはそれを差し出した。レアは一読し、羽をきゅっと小さくたたむ。
「……“穏やかでありますように”ね。人間の女らしい」
「どこへ行った」ガルドは短く問う。
「門番に訊け。夜番も全部起こせ」カインの声は平坦だった。平坦に作った。でなければ、割れる。
衛兵が連れて来られ、夜の記憶が一つずつ確かめられる。
塔の上で見張りをしていた翼持ちは首を横に振る。「踊り場には誰も来てない」
城門のすぐ上で交代していた角持ちは「外へ出る人影は見てない」と言う。
裏門、倉庫、古井戸、温室、どれも同じ答え。
――では、どこへ。
問いは雪の上の足跡を探すように城中を歩き、どこにも深く沈まない。セリーヌは、足跡を残さない歩き方を覚えてしまっていた。
レアが、台所の棚のひとつを開け、息を止める。「……茶葉が、一袋、なくなってる」
「彼女の荷も?」
「簡素な包みがひとつ……見当たらない」
静かな朝に、不在の輪郭がはっきりしていく。穴は最初に小さく、見ようとすると広がる。
カインは紙をもう一度見た。
“穏やか”――その言葉は、彼には似合わない。似合わないと、ずっと思ってきた。闇は秩序だ。秩序は冷たい。冷たいものは割れにくい。割れにくくあろうとすると、硬くなる。硬いものは、時々、音を嫌う。
しかし、ここ数日の彼は、音を許していた。匙の音、湯気の音、子どもの笑い、レアの羽音、ガルドの短い舌打ち。城の壁に触れるそれらが、驚くほど腹に落ちた。音があると、人は人になる。
彼は気づく。
――俺は、孤独を恐れている。
初めて、言葉になった。
孤独は彼の武器であり、盾だったはずだ。人間の裏切りで彼はそれを手に入れ、それで立ってきた。だが、武器はたまに手の中で重くなる。盾はたまに胸を押し潰す。
彼は、その重さを誤魔化すために、怒りを使ってきた。今日も、怒りに逃げることはできる。布告、王都、教会、過去。どれに向けても、怒りはたやすく燃える。
けれど、今は違った。
冷めた紅茶の表面に映る天井の梁が、ほんのわずか揺れた。揺れたのは彼の呼吸だ。呼吸は、生きている音だ。孤独を恐れるという事実は、彼を弱くしなかった。むしろ、視界を鮮明にした。
「主様、指示を」
ガルドの声が現実を戻す。
カインは紙を丁寧に折り、小さな革袋に入れて懐へ滑らせた。
「城内すべて確認しろ。塔の外周、下水の通路、古い竜の抜け道もだ。外へ出た形跡がないなら、隠れている」
レアが眉を寄せる。「隠れる理由は?」
「俺が言った。“外に出るな”と」
レアは薄く笑う。「逆らうタイプね、あの子」
「逆らっていない」カインは即答した。「従い方を、選んだだけだ」
レアとガルドが視線を交わす。主の口から出た“従い方”という言葉に、ふたりとも少し驚いていた。
「見つかったら?」ガルド。
「……俺が行く」
短く置かれた言葉に、石の床が微かに響いた。
探しは始まった。
塔の裏階段、物資庫の帳場、干し肉の棚の影、幼い角の子がかくれんぼに使う樽の中。レアの羽は埃の層を震わせ、ガルドの足跡は石の目地を深くする。
カインは、自室に入った。
部屋の空気は、昨夜の月をまだ少し吸い込んでいる。机の上には、見慣れない布が一枚。彼女の……手巾。昨日、濡れた縁を火で乾かしていたもの。端に小さな刺繍。針目は不器用だが、丁寧。
彼はそれを指でたどり、指先の内側で柔らかい繊維の感触を覚え込ませた。感触は、匂いより長く残る。戦場で知ったことが、台所で役に立つなどと、誰が思っただろう。
窓を開ける。冷気が入る。遠く、城下町の屋根から湯気が立ち、朝が始まる匂いが運ばれてくる。パンの焦げ目、湿った薪、眠気を振り払う人の汗の塩気。
その中に、ほんの少し、彼女の紅茶の香りが混じる気がした。幻だ。だが、幻は方角を教える。
カインは踵を返し、階段を降りる。途中でレアとすれ違う。彼女は首を振った。
「いない。子どもたちの区画も見た」
「城壁の外は?」
「足跡なし。昨夜は風が弱い。跡が残る」
「……なら、地下だ」
地下は古い。
この城がまだ城でなかった頃、地脈の上に掘られた穴が、今も迷路のように伸びている。竜が通った痕、魔術師が隠した通路、戦のたびに増えた抜け道。
カインは松明を手に取らない。闇の質感は、光で測るより皮膚で測る方が、正確なことがある。階段を降りるごとに温度が変わり、湿り気が増し、岩の匂いが濃くなる。その間、心は奇妙に静かだった。
――怖いのは、孤独ではなく、孤独を知らぬふりをする自分だ。
そう気づいてしまった以上、闇はもう彼を脅かさない。
古い踊り場の手前で、気配がひとつ、揺れた。
人の気配。風の届かないところで、呼吸を遅くして体を壁と同じ温度にするのは、素人には難しい。
カインは足を止めた。
「出ろ」
静かな声。命令ではなく、確認に近い。
石の陰から、小さな影が滑り出る。角の短い少年――ミナの兄だ。彼は唇を噛み、恐れをごまかすために背を伸ばしている。
「……ごめんなさい、主様」
「謝るのは、何に対してだ」
「姉ちゃん……じゃなくて、セリーヌさん、ここ通った。夜明け前に。誰にも見つからない道、教えてくれって」
胸の奥で、氷が鳴る。
「どこへ向かった」
少年は、俯いて指で石の目地をなぞった。「王都、じゃない。『東のほうの、光の濁り』って。言ってた……霧を、止める、みたいなこと」
カインは目を閉じた。黒いまぶたの裏で、地図が浮かぶ。東。王都の手前、神殿の古い支院が点在する谷。祈りが捨てられ、霧が溜まりやすい場所。
彼女は――行った。
言葉ではなく、確信の重さで、彼はそれを受け取った。
「案内したのか」
「ちがう……道だけ教えた。『誰にもついて来ないで』って。『主様に、迷惑かけたくない』って」
迷惑。
その二文字は、彼の喉に砂を詰める。迷惑を避けるために、彼女は孤独を選んだ。孤独を恐れていたのは、彼だけではない。
カインは片膝を折り、少年の目線に自分を落とした。「よく話した。お前の判断は、俺が引き受ける」
少年の肩が震え、安堵と罪悪感が混じって涙になりかける。「でも、主様、怒る?」
「怒らない」
「ほんとに?」
「怒るのは、帰って来なかった時だ」
少年は小さく笑って、涙を引っ込めた。強がりの笑い。闇の中の光。
地上に戻ると、レアとガルドが待っていた。ふたりの顔に、覚悟の影。
「行くんだな」ガルド。
「行く」
「布告は?」
「紙は雪の上でも燃える」
レアが小さく目を細めた。「護衛、つける?」
「要らない。早くなる」
「主様、一人で行く気?」ガルドが低く唸る。
「俺がいれば、城は守られる? 俺がいなくても、守られる。それを確かめるために、育ててきた」
ふたりは、短い間の後、同時に頷いた。
「なら、お願いがある」レアが口を開く。「帰って来たら、謝って」
「誰に」
「自分に」
カインは返事をせず、踵を返した。台所に寄り、冷めた紅茶の入ったカップに目を落とす。表面の膜が、扉の風でわずかに波打つ。
彼は空のカップ――いつも彼女に渡す方――を手に取り、ほんの一瞬、唇を触れさせた。何の味もしない。だが、確かに重さがある。
革の外套を肩に掛ける。剣は持たない。剣より速く、剣より遠くへ届くものが、今の彼にはある。
門が開く。
黒曜の城の影が雪に落ち、白の上に長い黒い線を描く。朝の光は冷たい。冷たい光は、影をくっきりさせる。
カインは一歩、外へ出た。
空気が肺に刺さる。刺す痛みは、生きている証拠。痛みがなければ、ここまで来られない。彼は歩く。東へ。霧の溜まる谷へ。
背後で、レアが小さく囁く。「……戻ってきて」
その声は、風に乗る前に雪に吸われる。吸われても、残る。小さな祈りは、地面の浅いところで燃える。
カインは歩幅を一定に保ち、呼吸を細く均す。迷いは速度を鈍らせる。だが、迷いが方向を指すこともある。
――お前は光の人間だ。闇の側にいれば壊れる。
昨夜の自分の言葉が背中を刺す。刺さる痛みは、今はもう、責めではない。合図だ。
彼は、胸の中で、短く呟いた。
「……穏やかであれ、か」
穏やかとは何か。戦を避けることか。怒りを押し殺すことか。
違う。
穏やかとは、戻る場所を持つことだ。湯気の立つカップが二つ、欠けを向き合わせて置かれる場所。そこへ帰るために、今は荒れる。荒れて、割れて、すり減って、それでも引き返せる細い路を心に描いておく。
雪が鳴る。黒い霧の匂いが、遠くの風に混じる。
彼は、初めて、自分が何を恐れていたのかを知ったまま、前へ出た。
孤独はもう、彼の武器でも盾でもない。
たった一人を追うための、風の通り道だ。
その風を切って、カインは歩く。
冷めた紅茶の残像と、小さな手紙を胸に、世界の穏やかさを――自分の手で掴み直すために。
6
あなたにおすすめの小説
捨てられた聖女、自棄になって誘拐されてみたら、なぜか皇太子に溺愛されています
h.h
恋愛
「偽物の聖女であるお前に用はない!」婚約者である王子は、隣に新しい聖女だという女を侍らせてリゼットを睨みつけた。呆然として何も言えず、着の身着のまま放り出されたリゼットは、その夜、謎の男に誘拐される。
自棄なって自ら誘拐犯の青年についていくことを決めたリゼットだったが。連れて行かれたのは、隣国の帝国だった。
しかもなぜか誘拐犯はやけに慕われていて、そのまま皇帝の元へ連れて行かれ━━?
「おかえりなさいませ、皇太子殿下」
「は? 皇太子? 誰が?」
「俺と婚約してほしいんだが」
「はい?」
なぜか皇太子に溺愛されることなったリゼットの運命は……。
役立たずと追放された聖女は、第二の人生で薬師として静かに輝く
腐ったバナナ
ファンタジー
「お前は役立たずだ」
――そう言われ、聖女カリナは宮廷から追放された。
癒やしの力は弱く、誰からも冷遇され続けた日々。
居場所を失った彼女は、静かな田舎の村へ向かう。
しかしそこで出会ったのは、病に苦しむ人々、薬草を必要とする生活、そして彼女をまっすぐ信じてくれる村人たちだった。
小さな治療を重ねるうちに、カリナは“ただの役立たず”ではなく「薬師」としての価値を見いだしていく。
宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです
ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」
宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。
聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。
しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。
冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。
婚約破棄されたら、実はわたし聖女でした~捨てられ令嬢は神殿に迎えられ、元婚約者は断罪される~
腐ったバナナ
ファンタジー
「地味で役立たずな令嬢」――そう婚約者に笑われ、社交パーティで公開婚約破棄されたエリス。
誰も味方はいない、絶望の夜。だがそのとき、神殿の大神官が告げた。「彼女こそ真の聖女だ」と――。
一夜にして立場は逆転。かつて自分を捨てた婚約者は社交界から孤立し、失態をさらす。
傷ついた心を抱えながらも、エリスは新たな力を手に、国を救う奇跡を起こし、人々の尊敬を勝ち取っていく。
本物の聖女じゃないと追放されたので、隣国で竜の巫女をします。私は聖女の上位存在、神巫だったようですがそちらは大丈夫ですか?
今川幸乃
ファンタジー
ネクスタ王国の聖女だったシンシアは突然、バルク王子に「お前は本物の聖女じゃない」と言われ追放されてしまう。
バルクはアリエラという聖女の加護を受けた女を聖女にしたが、シンシアの加護である神巫(かんなぎ)は聖女の上位存在であった。
追放されたシンシアはたまたま隣国エルドラン王国で竜の巫女を探していたハリス王子にその力を見抜かれ、巫女候補として招かれる。そこでシンシアは神巫の力は神や竜など人外の存在の意志をほぼ全て理解するという恐るべきものだということを知るのだった。
シンシアがいなくなったバルクはアリエラとやりたい放題するが、すぐに神の怒りに触れてしまう。
【完結】人々に魔女と呼ばれていた私が実は聖女でした。聖女様治療して下さい?誰がんな事すっかバーカ!
隣のカキ
ファンタジー
私は魔法が使える。そのせいで故郷の村では魔女と迫害され、悲しい思いをたくさんした。でも、村を出てからは聖女となり活躍しています。私の唯一の味方であったお母さん。またすぐに会いに行きますからね。あと村人、テメぇらはブッ叩く。
※三章からバトル多めです。
『「毒草師」と追放された私、実は本当の「浄化の聖女」でした。瘴気の森を開拓して、モフモフのコハクと魔王様と幸せになります。』
とびぃ
ファンタジー
【全体的に修正しました】
アステル王国の伯爵令嬢にして王宮園芸師のエリアーナは、「植物の声を聴く」特別な力で、聖女レティシアの「浄化」の儀式を影から支える重要な役割を担っていた。しかし、その力と才能を妬んだ偽りの聖女レティシアと、彼女に盲信する愚かな王太子殿下によって、エリアーナは「聖女を不快にさせた罪」という理不尽極まりない罪状と「毒草師」の汚名を着せられ、生きては戻れぬ死の地──瘴気の森へと追放されてしまう。
聖域の発見と運命の出会い
絶望の淵で、エリアーナは自らの「植物の力を引き出す」力が、瘴気を無効化する「聖なる盾」となることに気づく。森の中で清浄な小川を見つけ、そこで自らの力と知識を惜しみなく使い、泥だらけの作業着のまま、生きるための小さな「聖域」を作り上げていく。そして、運命はエリアーナに最愛の家族を与える。瘴気の澱みで力尽きていた伝説の聖獣カーバンクルを、彼女の浄化の力と薬草師の知識で救出。エリアーナは、そのモフモフな聖獣にコハクと名付け、最強の相棒を得る。
魔王の渇望、そして求婚へ
最高のざまぁと、深い愛と、モフモフな癒やしが詰まった、大逆転ロマンスファンタジー、堂々開幕!
追放された偽物聖女は、辺境の村でひっそり暮らしている
潮海璃月
ファンタジー
辺境の村で人々のために薬を作って暮らすリサは“聖女”と呼ばれている。その噂を聞きつけた騎士団の数人が現れ、あらゆる疾病を治療する万能の力を持つ聖女を連れて行くべく強引な手段に出ようとする中、騎士団長が割って入る──どうせ聖女のようだと称えられているに過ぎないと。ぶっきらぼうながらも親切な騎士団長に惹かれていくリサは、しかし実は数年前に“偽物聖女”と帝都を追われたクラリッサであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる