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第11話 王都の裏通りにて
しおりを挟む王都の空は、前より白かった。
雪の名残が屋根の縁で黒ずみ、朝の煙と混ざって、街全体が灰色の膜に包まれている。かつては市場の輪郭が太陽の位置でくっきり変わったのに、いまはいつ見ても曖昧だ。匂いも違う。焼きたてのパンと果物の蜜、革と香辛料――そういう生活の匂いの奥に、焦げた布と、鉄の湿りが、微量でも確かに混ざっている。
私はフードを深くかぶり、裏門から街へ入った。
足音を薄くする歩き方は、城の石床で覚えた。扉を閉める音を聞かせない癖は、カインがよくやっていた。私の中に残る彼の影に、少しだけ微笑みかけ、それをすぐ飲み込む。ここは彼の世界じゃない。私の足で、戻ってきた場所だ。
広場は、見覚えがあるのに、知らない顔をしていた。
神殿の尖塔は相変わらず空を引っかいているけれど、その根元に立つ人々の目が、前とは違う方向を見ている。誰もが誰かの顔色ではなく、塔の先の「光」を見ていた。
光は綺麗だ。否定したくなるほど、綺麗だ。
けれど、綺麗さは時々、暴力の仮装をする。
「裁きだ! 聖なる裁きだ!」
群衆のどこかで、男の声が割れた。
私の足は自然に狭い路地へ逸れる。広場を囲む裏通り。泥と灰でぬかるむ細道の向こうに、神殿の横腹が見える。石の壁は古く、ひびの中に黒い水が凍っている。
角を曲がったとき、光が走った。
閃光。
昼間なのに、昼をもう一段明るくする光。目が焼けるみたいに痛い。私は壁に手をつき、息を数える。光が引くと、空気が焦げ臭かった。人の叫びが聞こえる。泣き声、罵声、讃歌。全部が混じって、どれも真実の形をしていない。
「新聖女様がお告げを――」「嘘つきが浄められた!」「ありがてえ、ありがてえ!」
扉の隙間から覗くと、小さな広場の中央に白い衣が立っていた。
リリア。
あの祭壇の朝、光を巻き上げた少女。
彼女は以前よりも痩せ、瞳の色が濃くなっている。甘やかだった口元はきつく結ばれ、舌で祈りの言葉を押し出すたび、肩甲骨が薄い羽のように動く。彼女の周りの空気は温い。だが、その温さは、冬の陽だまりじゃない。炎の近くに立ったときの温度だ。乾いたものから先に燃やす、あの種類の熱。
「神は、見ておられる」
リリアは両手を上げ、声を高くする。
彼女の後ろには教会の神官たち。白い外套の縁から、黒い靴の先が均等に並ぶ。誰も彼女の肩に触れない。触れれば、火傷するのだろう。
「この者は、パンの重さをごまかし、皆の飢えを笑った」
男が引き出され、膝をつかされた。痩せた店主。私も何度か彼の店で硬いパンを買ったことがある。肩で息をし、子どもが泣きながら裾を掴む。
リリアの指先に、光が宿る。
祈りも、準備も、呼吸の置き方もない。ただ、光は彼女の皮膚の側面から湧き出て、真上から男に落ちた。
焼ける匂い。
悲鳴。
私は動き出しかけて、止まった。
あれは――あれは私の知っている「癒し」ではない。
なのに、根っこは同じ匂いがする。
私の胸が、内側から引っ張られるみたいに痛んだ。
誰かが私の袖を引いた。
振り向くと、少女がひとり、目を真っ赤にして見上げている。片方の靴しか履いていない。震える唇で「助けて」と言おうとして、声が出ない顔。
「どうしたの」
「お母さんが、裁かれるって……。“新聖女様のお告げを疑った罪”で」
私は膝をつき、少女の冷たい手を包んだ。
手は、怒りに冷える。恐れに冷える。空腹にも、冷える。
「名前は」
「ノア」
「ノア。ここで待てる?」
彼女は首を振った。「やだ。いっしょに……」
「大丈夫。私は目立たない。声も出さない。風みたいに行って、風みたいに戻る」
ノアは鼻をすすり、ぎゅっと私の手を握った。私は立ち上がり、広場と裏通りの境界へ再び視線を滑らせる。
光の落ちた男は、まだ動いている。焼けてはいない。皮膚の表面に赤い痕が浮き、膝から崩れただけだ。リリアは納得いかない顔をして、一歩近づく。光が濃くなる。
――濃くしなくていい。
喉の奥で、声にならない声が反射する。私の掌が熱を持つ。
その熱は、長い間忘れていた熱だ。
私は、自分の力が奪われたと思っていた。あの日、祭壇の前で、すべてを剥がされたと思っていた。
違う。
奪われたのではない。分けたのだ。
分け与えた先が、彼女だった。
頭の内側で、何かが静かに合致した。
合致音は小さいのに、世界の輪郭を変える。私は壁から肩を離し、もっと近づく。リリアの周りに立つ神官の列の隙間を、影の動きに合わせてすり抜ける。
壇の近くには、布で覆われた台がある。包まれた細長い何か――杖か、剣か。祈りの道具として飾られているのかもしれない。私は視線で距離を測り、群衆の呼吸の明滅に合わせた。
「次は、あの女だ!」
神官が叫び、ノアの母親が引き出される。細い身体。目の下に深い影。
リリアは彼女を見下ろし、薄く笑った。
その笑みは、よく知っている。誰かに付けられた重荷を、いつの間にか自分の形として抱え込んだ人の笑み。
彼女の光は、彼女自身を焼いている。
「お告げを疑った?」
リリアが問う。
女は唇を噛んで首を振る。「違います。子が熱で……薬が足りなくて……」
「神は目を見ればわかる。あなたの目は、疑いに曇っている」
「曇ってるのは、あなただよ」
私の声だった。
気づいたときには、もう壇の前に出ていた。
群衆が一斉に息を飲む。神官が動く。私は目を瞬き、両手を上げた。手には何も持たない。祈りの形でも、降伏の形でもない。ただの“空っぽ”の形。
「誰だ」
神官の声が鋭く、私を刺す。
私はフードを外す。冷たい空気が髪に触れ、首筋を削る。
「……セリーヌ?」
リリアの声が、ほんの少しだけ揺れた。
彼女の中の何かが、私の名前をまだ覚えている。
私は一歩寄る。彼女の光が私の皮膚を撫で、微熱のような刺激が走る。
彼女の瞳の奥に、揺れる火を見る。
あれは……私の火だ。分けた火だ。
奪われたのではない。手放したのでもない。知らない間に、私の中から流れ出た何かが、彼女の器に注ぎ込まれて、形を変えた。
「私は、あなたを責めに来たんじゃない」
「じゃあ何をしに」
「見に来た。私のせいで、どうなっているのか」
リリアの眉がきつく寄る。「“あなたのせい”?」
「そう。私のせい。あなたがその光を扱えないのは、私が“分け方”を教えなかったから」
彼女の頬がぴくりと動く。怒り。羞恥。拒絶。
私の胸にも、同じものが走る。
認めるのは痛い。
けれど、認めなければ、痛みは腐る。
「光は、裁くためにあるものじゃない」
「黙って。ここは私の場所」
「光は、触れるためにある。冷たくなった手に。乾いた喉に。傷んだ心に」
「黙れって言ってる!」
リリアの掌が上がり、光が弾ける。
私は目を逸らさず、一歩、前へ。
熱が額に刺さる。灼熱ではない。拒絶の温度。
皮膚のすぐ下で、私の光が反応する。懐かしい感覚。眠っていた鳥が翼を震わせるように、胸骨の内側で“ひかり”が身じろぎした。
私は掌を胸に当て、小さく呼吸を置いた。
祈りは、言葉になる前に立ち上がる。
分け与えることは、奪うことより難しい。けれど、私の体は覚えていた。
――温度を合わせる。
――相手の器を傷つけないように、縁からそっと。
――流しすぎない。
私は、自分の中の“光”を、ゆっくり外へ押し出した。
リリアの放つ光と、私の光が、空中で触れる。
弾けない。
混じり合わない。
ただ、触れたところだけ、温度が変わる。熱がすっと引き、刺すような白が、やわらかい乳白に変わる。
リリアの眉が上がる。「何をしたの」
「温度を変えた。あなたの光の、芯の温度」
「私の光は、神の――」
「私の光と、同じ匂いがする」
ざわ、と群衆が波打つ。
神官のひとりが「偽りだ」「誘惑だ」と叫ぶ。
私は彼らを見ない。リリアだけを見る。
彼女の瞳の奥で、火が揺れる。
私はその火に、言葉ではなく、温度で触れ続けた。
「あなたは焦っている。焦りは、光の縁を硬くする」
「焦ってなんか――」
「焦ってる。だって、怖いから」
彼女の喉が動く。
私たちを囲む空気が、一瞬静まる。
その静けさは、嵐の目だ。
私はそこへ、ひとつだけ、言葉を落とす。
「私のせいで、この国は歪んでしまった」
自分の声が、思ったよりも遠くから聞こえた。
軽い言葉じゃない。
でも、軽くできない。
私が分けた光が、あなたを焼いている。
私が黙って去ったから、あなたはこの重さをひとりで持った。
その事実は、誰かの罪というより、ふたり分の未熟さだ。
リリアの肩が小さく震えた。
「……あなたのせいじゃない」
「私のせい“でも”ある」
「違う。私は、選んだ。選んだから、ここにいる」
「選んだあなたを、私は、選ばせた」
目が合う。
彼女の目の色は、最初に会ったときより暗い。けれど、暗い中に、色がひとつだけ増えている。青でも、緑でもない。灰の中の、薄い琥珀。
私の胸の奥の光が、そこに呼応して、小さく灯る。
私は掌を下ろし、ひとつ息を吐いた。
ノアの母親が、怯えたまま私とリリアを交互に見る。私は彼女へ小さく頷いた。大丈夫、と目で伝える。
神官が堪えきれず一歩出る。「新聖女様、惑わされてはなりません! この女は――」
リリアが手を上げて神官を制した。
口元に、強情な影。
その影は、彼女の弱さと強さの両方の形だ。
「祈りをする」
リリアは低く言った。
神官たちがざわつく。彼女は聞かない。
彼女は目を閉じ、胸の前で指を組んだ。
私も目を閉じる。
広場のざわめきが遠のく。
光の芯へ、降りていく。
――あなたの光の縁を、柔らかく。
――あなたの火の呼吸を、整える。
――あなたの恐れに、名をつけない。
祈りは、相手の中の“まだ名のない部分”に手を置く作業だ。
しばらくの沈黙。
やがて、リリアの吐息が細くなる。光の温度が、ほんのわずか落ちる。焦げの匂いが薄くなり、乳白の輪郭が広場に満ちる。
ノアの母親が、肩の力を抜いて泣いた。
群衆の中に、最初のため息が落ちる。誰かが「……暖かい」と呟く。
光は、裁かない。触れる。
私の体が覚えていたことを、彼女の体も思い出した。
目を開けると、リリアの目にも水が溜まっていた。
彼女はそれを拭わず、まっすぐ私を見た。
「……あなたは、帰ってきたのね」
「ううん。私は、通り過ぎるだけ」
「ずるいわ」
「ずるいね」
二人の間に、短い笑い。笑いと言うには弱い、細い線。
神官のひとりが慌てて前に出る。「新聖女様! この女は王命により――」
「黙りなさい」
リリアが初めて神官へ牙を向けた。
光が彼女の周りで震える。けれど、さっきと違う震えだ。焦りの震えではなく、揺らぎの自覚。
彼女はノアの母親に目を向ける。「帰りなさい。子に粥を与え、温かい湯で手を洗い、寝かせなさい。それが、神の望むことよ」
母親は泣きながら頭を下げ、群衆が自然に道を開ける。
私はその背に、ノアの小さな影が飛び込むのを見た。
よかった。
私は胸の奥で小さく口を結び、リリアの方へ戻る。
「ありがとう」
「言わないで。私はあなたを許していない」
「私も、私を許していない」
「……救いのない会話ね」
「続きは、あとで」
神官の列が再び整い、警備の兵が私を睨む。私はフードをかぶり直し、裏路地へ引いた。背中に刺さる視線をやり過ごし、角を曲がる。
細い路地の奥で、ノアが待っていた。彼女は私に駆け寄り、勢いで抱きついた。体は軽い。軽さは、守るべきものの重さだ。
「ありがとう!」
「ううん。あなたがえらかった。待てたから」
「こわかった」
「こわいのは、命がある証拠」
ノアは私の服の裾を強く握り、顔を上げた。「どこに行くの」
「東の谷。光の濁りを見に」
「帰ってくる?」
「帰りたい場所があるから、帰ってくる」
言いながら、自分の声に驚いた。
帰りたい場所――胸の中で、その輪郭が黒曜の手触りで浮かぶ。尖塔の風、塔の踊り場、欠けのあるカップ二つ。
私はノアの手を離し、背筋を伸ばした。
「ノア。お母さんに伝えて。塩は少し、湯は多め、粥の粒は小さく。笑いは大きく」
「わかった!」
ノアが走っていく。小さな靴音が路地をはね、冬の光の中へ消える。
私は深呼吸をし、神殿から少し離れた坂を下った。広場の喧騒は背中でまだ続いている。けれど、先ほどの焦げた匂いは薄い。
“暴走した光”は、恐怖の影で肥え太る。
なら、影を小さくしていけばいい。
恐れは名前を欲しがる。
私は、恐れに別の名前を与える。
――待つ。触れる。温度を合わせる。
祈りの手順に、街の手順を重ねる。
路地の角を曲がったところで、背中に冷たい気配。
尾行。
私は足を止めず、屋根の軒と影の距離を測り、古い雨樋の位置を記憶の地図から引き出す。
曲がる。滑る。身を薄くする。
追う足音がふたつ、三つ。剣ではなく、細い棒を持った音。教会の私兵か。
私は古い倉庫の扉を押し、内へ滑り込んだ。埃の匂い。箱の山。窓のない空間。
追っ手が扉を開けるより先に、私は反対側の小扉から外へ抜ける。
外は、洗濯物の間を渡る狭い空だ。
息を整える。
胸の奥の光が、まだ穏やかな温度で灯っている。
あれが消えないうちに、東へ。
私はフードを深くかぶり直し、裏通りから裏通りへ、川のように街を抜けた。
街が変わったのか、私が変わったのか。
どちらでもいい。
変わったのなら、戻せる。
戻らないのなら、新しくできる。
祈りは、そのどちらにも使える。
門の影が近づく。
私は最後に一度だけ振り返った。尖塔の先、薄く揺れる光。
リリア。
あなたは、まだ炎の側に立っている。
なら、私は水になる。
熱を奪わず、温度を戻す水。
そのために私は、奪われたのではなく、分けたのだ。
あの朝、気づけなかった事実が、いまやっと形になる。
胸が痛い。
けれど、その痛みは、腐りかけた傷を洗う痛みだ。
私は息を吐き、門の外へ出た。
東の空は白く、風はかすかに甘い。霧の匂いが混ざる前の、冬の清澄。
私のせいで歪んでしまった国に、私の手の届く小さな直し方で。
まずは、一歩。
そして、もう一歩。
足音は薄く、心音ははっきり。
私は、王都の裏通りを置いて、東へ向かった。
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