追放された聖女、今では魔王の隣でティータイムを楽しんでいます

タマ マコト

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第12話 封印された記録

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 東の谷は、風が言葉を隠す。
 白く乾いた草の間を抜けるたび、音は砂になって足もとに落ちた。冬の太陽は薄く、空に置き忘れられた灯りみたいに頼りない。私はフードを深くかぶり、支院へ続く獣道をたどった。石段の縁は崩れ、苔が凍り、祈りはとうに人の口を離れて久しい。

 支院――王都の大聖堂に付属する古びた聖堂。
 かつて巡礼の子らが眠り、祈祷師が灯火を見守ったとされる場所。今は誰もいない。いや、誰も「居ないふり」をしている。

 扉は閉ざされていた。けれど、鍵は甘い。古い木は秘密の重さに疲れていて、押すだけで、長い息のように開いた。
 中は冷たかった。石の床に薄く霜がおり、祭壇の布は色のほとんどを失っている。香の匂いはとうに消え、代わりに紙と布と黴の、静かな死の匂いが沈殿していた。

 私は祭壇に近づき、手を添え、薄く頭を垂れる。
 祈りは求める言葉じゃない。確かめる手順だ。ここに何があり、何が失われ、何がまだ残っているのか――それを自分の内側に問いなおすための。

 祭壇の裏に回る。壁に埋め込まれた一枚の石板。
 記憶がうずく。修道女見習いのころ、ここで古い祈祷文を写した日々。教えられた順路と、教えられなかった寄り道。師の手が一度だけ迷った位置――そこだ。
 私は指先で石板の端をなぞる。冷たさの裏に、わずかな隙間。鼓動を数えて、古い虚栓に爪を入れる。押す。引く。
 石が、呼吸を思い出したみたいに鳴って、わずかにずれた。ほこりが舞い上がる。咳が出そうになるのを飲み込む。表層の仕掛けは簡単――問題は、奥だ。

 暗い隙間に、指を差し入れ、小さな鉄環を探る。あった。引くと、床石がわずかに下がり、祭壇の横に短い階段があらわれた。
 下りる。
 空気が濃くなる。湿気の膜。言葉が降り積もって風化した味。
 燭台は朽ち、油は枯れている。私は持ってきた火打石で布切れを炙り、小さな灯りをひとつ生む。炎が壁の文字を揺らし、隠されていた部屋の輪郭が浮かび上がる。

 そこに、記録はあった。
 綴じ紐の切れた束、革で巻かれた冊子、封蝋の割れた筒。どれも古いのに、わざとらしく手付かずではない。隠して、必要なときだけ開いた形跡。
 私は手に取り、表紙をなでる。指先に伝うのは、人の体温の名残――何十年も前のそれなのに、確かに触れる。これは、隠した誰かが最後にここで息をしていた証だ。

 一冊、開く。
 紙の匂いが濃くなる。
 文字は細く、しかし迷いがない筆致でこう書かれていた。

 ――聖の継承は、血筋にあらず。
 ――聖の継承は、教義にあらず。
 ――聖の継承は、“魂分有(こんぶんゆう)の儀”による。

 私は息を止めた。目で追った文字が、喉へ降りてこない。喉の奥で、何かがきしむ。
 読み続ける。

 ――“魂分有の儀”は、ひとつの炎を二つに割る術にあらず。
 ――ひとつの泉の水を、別の器へそっと注ぎ移すことに似たり。
 ――器を選ばず注げば、水は濁る。
 ――器を足らず注げば、炎は餓える。
 ――選ぶは祈り、量るは愛。

 紙の縁が指にひやりと触れる。
 “愛”――この文字が、ここにある。教会の硬い書式の中で、見落としたくなるほど小さく、しかし確かに。
 私は次のページをめくる。
 そこには儀の手順が、乾いた手引きのように淡々と記されていた。
 聖女となる者(源泉)と、新たに選ばれし者(受け手)が、同じ杯から水を飲む。
 源泉は自らの“光”の縁をゆるめ、受け手の器へと通路を開く。
 受け手は通路を形として受け入れ、器の内側に薄い膜を張る。
 光は通路を通り、膜に触れ、温度を合わせ、なじむ。
 ――どちらかが焦れば、流れは濁る。
 ――どちらかが怖れれば、膜は硬化し、飲み込む。

 飲み込む。
 喰う、という字ではなく、飲み込む。
 けれど意味は同じ、いや、もっと厄介だ。
 私はページの下部に記された小さな注釈に目を落とす。
 ――“膜硬化の事例。源泉の多くに衰弱。受け手の光、暴走。裁きに傾く。祈りに乖離す。”
 喉の奥に鉄の味がした。
 あの広場。リリアの掌。男の皮膚に浮いた赤。
 私は手を震えさせないように、指先に力を入れ、別の束を開く。

 そこには、個別の記録があった。
 聖女たちの名。年齢。継承の時の状況。季節、祭り、戦、飢饉。
 いくつもの“分け与え”が、丁寧に、しかし時に残酷な明瞭さで綴られている。
 ある聖女は冬の最中、飢えた町のために自らの光を三つに分けた。
 ある聖女は戦の夜、敵味方の境で二人に分け、翌朝、声を失った。
 ある聖女は、受け手の恐れに気づけず、膜を硬化させ、光を飲み込まれた。
 ――“飲み込まれた光は、刃となる”
 ――“飲み込まれた光は、器の恐れを増幅する”
 ――“源泉は、残った分で祈るか、沈黙を選ぶか”
 私は目を閉じた。
 沈黙――私が選んだのは、それだった。祭壇の日。追放の朝。静かにされることに甘えて、自分で静かになった。
 誰も私の口を塞がなかった。私が自分の口を、神の名で塞いだ。

 指をもう一度、紙へ戻す。
 最後の束に、封蝋が固く残っている。印章は古い。大聖堂の印と、もうひとつ――見覚えのない、曲線で描かれた輪。教義の内側でもさらに内側、誰の目にも触れさせたくなかった印だ。
 蝋を割る。
 中の紙は質がよかった。長持ちするように、意図された紙だ。
 文は短い。

 ――「もし源泉が、奪われたと感じたなら、まず己の縁を見よ」
 ――「もし受け手が、裁きに傾いたなら、器の底に名もなき恐れが沈む」
 ――「恐れに名を与えるな。名は刃となる」
 ――「源泉よ、通路を閉ざすな。閉ざせば、光は行き場を失い、器を裂く」
 ――「ただ温度を合わせ、わずかに撫でよ」
 ――「祈りは、合図。戻る道の標」
 ――「それでも届かぬ時は――“戻しの儀”を行え」

 “戻しの儀”。
 心臓が一度、大きく鳴った。
 ページを繰る。
 そこには、必要最低限の記述しかない。
 ――源泉は、受け手の近くで、三度、呼吸を重ねる。
 ――受け手の器が、光を刃に変える前に。
 ――源泉は、自らの縁をさらにゆるめ、器の膜を内から撫で、ふちを温める。
 ――器は、刃を手放す合図を待つ。
 ――合図は、言葉ではない。温度だ。
 ――合図が来たら、初めて言葉を置け。
 ――言葉は短く、名を呼べ。
 ――もし失敗すれば、両者はしばらく“沈黙”に入る。
 ――沈黙は敗北ではない。沈黙は、次の合図を待つための床。

 文字がぶれて見えた。涙ではない。疲労でもない。
 認めることの痛みが、目の内側に静かに滲み、視界の輪郭をやわらかくしていた。
 ――奪われたのではなく、喰われたのだ。
 いや、喰われるように私が与えた。
 分け与える儀を、私は知らなかった。知らないまま、選ばれ知らないまま、退いた。
 残ったのは、器に不似合いな量の光。彼女はそれを抱え、刃にした。
 「私のせいで、この国は歪んでしまった……」
 口に出すと、石が一枚、胸から落ちる音がした。重さは減らないのに、置き場所が変わる。

 灯りが小さくなっていく。布切れの端が焦げ、甘い匂いが鼻を刺す。私は慌てて炎を指でつまみ、息を吹きかけて消した。暗闇が、音もなく戻ってくる。
 静か。
 静けさの中で、地上の風の線がかすかに感じられる。
 私は束を三つ、紐で結び直し、外套の内側へおさめた。持ち出して誰かに暴くためではない。これで人を責めるためでもない。
 必要なのは、“戻す”ための手順。
 そして、“誰かがまた泣く前に”間に合わせるための、最短の道筋。

 階段を上がると、聖堂の空気が少し温かく感じた。さっきまでただの冷えた石にしか見えなかった祭壇は、いまは器の底のように静かな光を湛えている。
 私は祭壇の前で膝をつき、額を軽く床に当てた。
 祈る相手は、名のある神でも教会でもない。
 祈りは、合図。
 戻る道の標。
 「取り戻さなきゃ。誰かがまた泣く前に」

 立ち上がる。
 扉へ向かう途中、風が入り口の隙間から三度、短く吹き込んだ。
 ――源泉は、受け手の近くで、三度、呼吸を重ねる。
 偶然にしては出来すぎている。私は笑って、外へ出た。
 谷の風は鋭いが、さっきより匂いが明るい。
 雪混じりの土の匂いの奥に、紅茶の残り香がほんの少し、錯覚のように漂っている。
 錯覚でもいい。合図になるなら。
 私は外套を正し、王都の方角へ向き直った。リリアの光はきっと、あの尖塔の上で揺れている。暴走の縁で、助けを求めず、助けられることも知らずに。

 歩き出す。
 足もとは崩れやすい。けれど、崩れる場所は知っていれば避けられる。
 “戻しの儀”は、危うい。
 彼女の刃を、私の縁で包もうとして、手を切るかもしれない。
 それでもやる。
 手を切ったら、包帯を巻けばいい。
 包帯が足りないなら、裂いてでも巻けばいい。
 生き残る術は、台所で覚えた。

 谷を出る頃、空は薄い金に変わりかけていた。
 私は歩きながら、言葉をそろえていく。
 ――合図は、温度。
――言葉は短く、名を呼べ。
「リリア」
発音の角が、口の中で丸くなる。
名前は刃にもなるが、鍵にもなる。
鍵として渡すために、私は自分の舌を研ぎ直す。嘘で濁らせないように、後悔で重くしないように。

 やがて、王都の城壁が遠くに見えた。
 巡視の旗。門の上の槍。人の流れ。
 布告はまだ生きている。
 “元聖女セリーヌ・アルディア、見つけ次第――”
文字の残響が耳の奥をひやりと撫でた。
恐れに名を与えるな。名は刃になる。
なら、私は別の名をつける。
――合図。
私の恐れの名は、今夜から“合図”だ。
合図は、私を前に押す。

 門へは行かない。裏通りから、昨日と同じように街を縫う。
 パン屋の角、干し魚の匂い、洗濯物の湿り、祈祷師の古い鈴。
あらゆる匂いと音をくぐり抜け、私は神殿の横腹へ戻った。
尖塔は薄い光を抱き、広場の人々は寒さに肩をすくめながらも、期待と恐れの混合物を胸に灯している。
壇の上には、やはりリリア。
彼女は昨日よりやつれて見えた。
光の輪郭は濃いのに、中心が揺れている。
刃は鋭いほど、持ち主の手を切る。

 私は群衆の背に紛れ、呼吸のリズムを落とす。
彼女の吸う息、吐く息、祈りの前の停止。
数える。重ねる。
――一度、二度、三度。
胸の奥の光が、合図に応える。
時間の床が、わずかに沈む。
“戻しの儀”は、儀式であり、ダンスだ。
主導権を握るのは、いつでも“間”。
私は間を拾い、そこへすべり込む。

 壇の手前で、リリアが気づいた。
目が合う。
昨日より、まっすぐに。
私は歩みを止めず、距離を詰める。
彼女の光が私の皮膚で温度を変え、刃の冷たさが乳白へと少しだけ溶ける。
周りで神官が騒ぐが、遠い。
私は一歩、踏み出す。
掌を胸に、短い言葉を置く。
「リリア」

 名前は鍵になった。
刃の音が、ひと呼吸ぶんだけ止む。
その止んだ隙間へ、私は自分の縁をゆるめ、彼女の器の膜を内側からそっと撫でた。
焦れば濁る。
怖れれば硬化する。
私は怖い。とても。
だからこそ、温度を合わせる。
自分の怖れを、彼女の怖れに重ねない。
それは祈りではなく、仕事だ。
台所でスープを焦がさないのと、同じ集中。

 光がわずかに軟らいだ。
刃の縁が丸くなる。
彼女の肩が一度、落ちる。
私の目の奥が熱くなる。
“戻し”が、始まった。
ここで言葉を増やしてはいけない。
増やせば、重くなる。
重さは、刃を呼ぶ。

 私はただ、彼女の近くで呼吸を続けた。
三度、重ねた呼吸に、さらに小さな呼吸を足す。
冬の空気が喉に触れ、肺へ、血へ、光へ。
私の内側で、分けた光が、自分の行き先を思い出していく。
リリアの瞳の色が、ほんの少し、やわらぐ。
群衆のざわめきが、ほんの少し、遠のく。
神官の舌打ちが、ほんの少し、遅れる。

 ――取り戻さなきゃ。
誰かがまた泣く前に。
それは、彼女から光を奪い返すことではない。
私から彼女へ光を押し戻すことでもない。
“戻す”のは、温度。
“取り戻す”のは、通路。
彼女の中の刃に、刃で応じない。
彼女の中の恐れに、名を与えない。
ただ、合図を重ねる。
それが、封印の奥に眠っていた記録の、最後に残された優しさだった。

 彼女の唇がわずかに動いた。
「……セリーヌ」
名前が、鍵穴にすとんと落ちる音がした。
私は頷き、笑わない。泣かない。
代わりに、胸の奥で小さく紅茶の湯気を思い出す。
湯気は合図だ。
消える前に届く。

 遠い東風が、尖塔の縁を撫でて、広場へ薄く降りた。
私は、その風の温度に合わせて、呼吸をゆっくりとひとつ足した。
“戻しの儀”は、まだ始まりにすぎない。
けれど、始まりは、いつだって最難関だ。
この一歩さえ置ければ、次は、置ける。

 封印された記録は、もう、封印ではない。
私の骨と、血と、舌に写された。
あとは、実際に、戻すだけ。
私はリリアから半歩だけ目を外し、空に向かってひとつ祈る。
祈りは、合図。
戻る道の標。
――カイン。
あなたの世界が、今日だけ少し、静かでありますように。
そして私が、この合図を、間に合わせられますように。

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