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第10話 消えた聖女
しおりを挟む朝は、紅茶の匂いで始まるはずだった。
火床の灰を起こす前に、誰かの足音が台所に差して、湯を落ち着かせる“待ち”の気配が城の空気を静かに包む――この数日で、城はそういう朝のリズムを覚えたのだ。
けれど、その朝は違った。
音がなかった。湯の立てる小さな歌も、匙が磁器を触る乾いた音も、聞こえない。代わりに、冷たい空気が石の継ぎ目からゆっくりと這い上がってきて、黒曜の壁に薄く白い息を乗せていた。
カインは廊下を歩きながら、その違和を皮膚より先に背骨で感じ取った。
塔の踊り場に一番近い窓から、淡い青が細く流れ込んでいる。夜が終わりきらない時間の色だ。彼は踊り場を素通りして、台所へ向かった。扉は鍵が掛かっていない。押せば、音もなく開いた。
そこに、湯気はなかった。
代わりに、テーブルの端に置かれた二つのカップ。どちらも、もう冷えている。片方には薄い琥珀色が半分ほど残り、表面に静かな膜が張っていた。もう片方は空だ。二つの欠けが向き合って置かれ、まるで昨夜の会話をそのまま閉じ込めたように黙っている。
その間に、紙片。白い、小さな、手のひらに乗るほどの。
カインは立ち尽くした。
足の裏から、音が抜ける。耳の奥で、昨夜の風が一度だけ鳴った気がした。手を伸ばす。指は冷たいカップの縁に触れ、湿り気のない冷たさが皮膚の感覚から体温を奪っていく。彼は空の方のカップを一度だけ傾けて、そこに残っている温度を確かめ――何もないことを確かめ――それから紙を取った。
――“あなたの世界が少しでも穏やかでありますように”
整った小さな文字。癖の少ない筆跡。音の出ない祈り。
彼はその一行を、何度も読む。読むたびに、文字の黒が薄くなり、代わりに内側の静けさが濃くなっていく。静けさは、たいてい、嵐の輪郭を縁取る。
胸の内側に、じわ、とひずみ。怒りが来るはずの場所に、別のものが生まれて、彼自身がそれを名付けられない。喉が硬くなり、言葉が引っかかる。
「……セリーヌ」
名を出すと、台所の石が温度を変える。誰もいないのに、返事をする場所がいくつもある。ゆうべ拭かれたばかりのテーブルの木目、磨かれた刃の鈍い光、火床の灰の形――彼女の手の痕跡が、そこかしこに残っていた。
扉の向こうで足音。ガルドだ。レアもいる。ふたりとも、朝に似合わない顔をしていた。
「主様……」ガルドが言いかけて、言葉をなくす。「……いないのか」
レアは視線だけで台所を一周し、テーブルの紙へまっすぐ歩いてくる。「置き手紙?」
カインはそれを差し出した。レアは一読し、羽をきゅっと小さくたたむ。
「……“穏やかでありますように”ね。人間の女らしい」
「どこへ行った」ガルドは短く問う。
「門番に訊け。夜番も全部起こせ」カインの声は平坦だった。平坦に作った。でなければ、割れる。
衛兵が連れて来られ、夜の記憶が一つずつ確かめられる。
塔の上で見張りをしていた翼持ちは首を横に振る。「踊り場には誰も来てない」
城門のすぐ上で交代していた角持ちは「外へ出る人影は見てない」と言う。
裏門、倉庫、古井戸、温室、どれも同じ答え。
――では、どこへ。
問いは雪の上の足跡を探すように城中を歩き、どこにも深く沈まない。セリーヌは、足跡を残さない歩き方を覚えてしまっていた。
レアが、台所の棚のひとつを開け、息を止める。「……茶葉が、一袋、なくなってる」
「彼女の荷も?」
「簡素な包みがひとつ……見当たらない」
静かな朝に、不在の輪郭がはっきりしていく。穴は最初に小さく、見ようとすると広がる。
カインは紙をもう一度見た。
“穏やか”――その言葉は、彼には似合わない。似合わないと、ずっと思ってきた。闇は秩序だ。秩序は冷たい。冷たいものは割れにくい。割れにくくあろうとすると、硬くなる。硬いものは、時々、音を嫌う。
しかし、ここ数日の彼は、音を許していた。匙の音、湯気の音、子どもの笑い、レアの羽音、ガルドの短い舌打ち。城の壁に触れるそれらが、驚くほど腹に落ちた。音があると、人は人になる。
彼は気づく。
――俺は、孤独を恐れている。
初めて、言葉になった。
孤独は彼の武器であり、盾だったはずだ。人間の裏切りで彼はそれを手に入れ、それで立ってきた。だが、武器はたまに手の中で重くなる。盾はたまに胸を押し潰す。
彼は、その重さを誤魔化すために、怒りを使ってきた。今日も、怒りに逃げることはできる。布告、王都、教会、過去。どれに向けても、怒りはたやすく燃える。
けれど、今は違った。
冷めた紅茶の表面に映る天井の梁が、ほんのわずか揺れた。揺れたのは彼の呼吸だ。呼吸は、生きている音だ。孤独を恐れるという事実は、彼を弱くしなかった。むしろ、視界を鮮明にした。
「主様、指示を」
ガルドの声が現実を戻す。
カインは紙を丁寧に折り、小さな革袋に入れて懐へ滑らせた。
「城内すべて確認しろ。塔の外周、下水の通路、古い竜の抜け道もだ。外へ出た形跡がないなら、隠れている」
レアが眉を寄せる。「隠れる理由は?」
「俺が言った。“外に出るな”と」
レアは薄く笑う。「逆らうタイプね、あの子」
「逆らっていない」カインは即答した。「従い方を、選んだだけだ」
レアとガルドが視線を交わす。主の口から出た“従い方”という言葉に、ふたりとも少し驚いていた。
「見つかったら?」ガルド。
「……俺が行く」
短く置かれた言葉に、石の床が微かに響いた。
探しは始まった。
塔の裏階段、物資庫の帳場、干し肉の棚の影、幼い角の子がかくれんぼに使う樽の中。レアの羽は埃の層を震わせ、ガルドの足跡は石の目地を深くする。
カインは、自室に入った。
部屋の空気は、昨夜の月をまだ少し吸い込んでいる。机の上には、見慣れない布が一枚。彼女の……手巾。昨日、濡れた縁を火で乾かしていたもの。端に小さな刺繍。針目は不器用だが、丁寧。
彼はそれを指でたどり、指先の内側で柔らかい繊維の感触を覚え込ませた。感触は、匂いより長く残る。戦場で知ったことが、台所で役に立つなどと、誰が思っただろう。
窓を開ける。冷気が入る。遠く、城下町の屋根から湯気が立ち、朝が始まる匂いが運ばれてくる。パンの焦げ目、湿った薪、眠気を振り払う人の汗の塩気。
その中に、ほんの少し、彼女の紅茶の香りが混じる気がした。幻だ。だが、幻は方角を教える。
カインは踵を返し、階段を降りる。途中でレアとすれ違う。彼女は首を振った。
「いない。子どもたちの区画も見た」
「城壁の外は?」
「足跡なし。昨夜は風が弱い。跡が残る」
「……なら、地下だ」
地下は古い。
この城がまだ城でなかった頃、地脈の上に掘られた穴が、今も迷路のように伸びている。竜が通った痕、魔術師が隠した通路、戦のたびに増えた抜け道。
カインは松明を手に取らない。闇の質感は、光で測るより皮膚で測る方が、正確なことがある。階段を降りるごとに温度が変わり、湿り気が増し、岩の匂いが濃くなる。その間、心は奇妙に静かだった。
――怖いのは、孤独ではなく、孤独を知らぬふりをする自分だ。
そう気づいてしまった以上、闇はもう彼を脅かさない。
古い踊り場の手前で、気配がひとつ、揺れた。
人の気配。風の届かないところで、呼吸を遅くして体を壁と同じ温度にするのは、素人には難しい。
カインは足を止めた。
「出ろ」
静かな声。命令ではなく、確認に近い。
石の陰から、小さな影が滑り出る。角の短い少年――ミナの兄だ。彼は唇を噛み、恐れをごまかすために背を伸ばしている。
「……ごめんなさい、主様」
「謝るのは、何に対してだ」
「姉ちゃん……じゃなくて、セリーヌさん、ここ通った。夜明け前に。誰にも見つからない道、教えてくれって」
胸の奥で、氷が鳴る。
「どこへ向かった」
少年は、俯いて指で石の目地をなぞった。「王都、じゃない。『東のほうの、光の濁り』って。言ってた……霧を、止める、みたいなこと」
カインは目を閉じた。黒いまぶたの裏で、地図が浮かぶ。東。王都の手前、神殿の古い支院が点在する谷。祈りが捨てられ、霧が溜まりやすい場所。
彼女は――行った。
言葉ではなく、確信の重さで、彼はそれを受け取った。
「案内したのか」
「ちがう……道だけ教えた。『誰にもついて来ないで』って。『主様に、迷惑かけたくない』って」
迷惑。
その二文字は、彼の喉に砂を詰める。迷惑を避けるために、彼女は孤独を選んだ。孤独を恐れていたのは、彼だけではない。
カインは片膝を折り、少年の目線に自分を落とした。「よく話した。お前の判断は、俺が引き受ける」
少年の肩が震え、安堵と罪悪感が混じって涙になりかける。「でも、主様、怒る?」
「怒らない」
「ほんとに?」
「怒るのは、帰って来なかった時だ」
少年は小さく笑って、涙を引っ込めた。強がりの笑い。闇の中の光。
地上に戻ると、レアとガルドが待っていた。ふたりの顔に、覚悟の影。
「行くんだな」ガルド。
「行く」
「布告は?」
「紙は雪の上でも燃える」
レアが小さく目を細めた。「護衛、つける?」
「要らない。早くなる」
「主様、一人で行く気?」ガルドが低く唸る。
「俺がいれば、城は守られる? 俺がいなくても、守られる。それを確かめるために、育ててきた」
ふたりは、短い間の後、同時に頷いた。
「なら、お願いがある」レアが口を開く。「帰って来たら、謝って」
「誰に」
「自分に」
カインは返事をせず、踵を返した。台所に寄り、冷めた紅茶の入ったカップに目を落とす。表面の膜が、扉の風でわずかに波打つ。
彼は空のカップ――いつも彼女に渡す方――を手に取り、ほんの一瞬、唇を触れさせた。何の味もしない。だが、確かに重さがある。
革の外套を肩に掛ける。剣は持たない。剣より速く、剣より遠くへ届くものが、今の彼にはある。
門が開く。
黒曜の城の影が雪に落ち、白の上に長い黒い線を描く。朝の光は冷たい。冷たい光は、影をくっきりさせる。
カインは一歩、外へ出た。
空気が肺に刺さる。刺す痛みは、生きている証拠。痛みがなければ、ここまで来られない。彼は歩く。東へ。霧の溜まる谷へ。
背後で、レアが小さく囁く。「……戻ってきて」
その声は、風に乗る前に雪に吸われる。吸われても、残る。小さな祈りは、地面の浅いところで燃える。
カインは歩幅を一定に保ち、呼吸を細く均す。迷いは速度を鈍らせる。だが、迷いが方向を指すこともある。
――お前は光の人間だ。闇の側にいれば壊れる。
昨夜の自分の言葉が背中を刺す。刺さる痛みは、今はもう、責めではない。合図だ。
彼は、胸の中で、短く呟いた。
「……穏やかであれ、か」
穏やかとは何か。戦を避けることか。怒りを押し殺すことか。
違う。
穏やかとは、戻る場所を持つことだ。湯気の立つカップが二つ、欠けを向き合わせて置かれる場所。そこへ帰るために、今は荒れる。荒れて、割れて、すり減って、それでも引き返せる細い路を心に描いておく。
雪が鳴る。黒い霧の匂いが、遠くの風に混じる。
彼は、初めて、自分が何を恐れていたのかを知ったまま、前へ出た。
孤独はもう、彼の武器でも盾でもない。
たった一人を追うための、風の通り道だ。
その風を切って、カインは歩く。
冷めた紅茶の残像と、小さな手紙を胸に、世界の穏やかさを――自分の手で掴み直すために。
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