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第9話 夜のバルコニー、すれ違う影
しおりを挟む夜のはじまりは、音が薄くなる瞬間に訪れる。
台所の鍋が最後の泡をひとつだけ残して静かになり、廊下の松明が油を啜る音を細くする。私は布巾を絞って手を拭き、暖炉の火を細めてから、塔の外側に張り出した小さなバルコニーへ出た。
冷たい夜風が、顔の輪郭を確かめるみたいに撫でていく。
黒曜の欄干に手を置くと、石の冷たさが掌から腕へ、骨へと染みていった。上を見れば、月。切り出した氷の欠片みたいな、硬質の光。輪郭が鋭く、でも芯はどこか水のように柔らかい。雲は薄く、星は控えめ。夜は絶対の支配者ではなく、少しだけ迷いを抱えた客人のように城の上に座っていた。
息を吐くと、微かな白が生まれて、すぐ消えた。
消えるものは、怖くない。消えるとわかっているから。怖いのは、形を変えながら残るもの。言葉、視線、噂。昼間の布告の残響は、まだ柱の影に細長く張り付いている。耳を澄ませば、その紙の擦れる音さえ聞こえそうだった。
足音はなかった。
それでも気配でわかる。背中の皮膚が、ひとつだけ違う温度を拾うから。私は振り向かず、月に話しかけるように声を出した。
「今日は、冷えますね」
返事はない。返事の代わりに、風が少しだけ強くなる。マントの裾が空気を叩いて、低い音が一度だけ鳴る。
彼はそこに立っていた。私と欄干の間に影を落とさないように、半歩、控えめに。優しさを、立ち位置で演じる人。
「私、ここにいてもいいですか?」
月に向けた問いを、彼に渡す。
夜は、正直を引き出す。影に隠れるのがうまい人ほど、影の濃さで言葉の輪郭が際立つ。
しばらくの沈黙。遠くで見張りの交代を告げる鈴の音が痩せた糸みたいに響いて、すぐ夜に飲み込まれる。
やがて、彼が言った。
「お前は光の人間だ。闇の側にいれば壊れる」
優しい声だった。
優しいと装った拒絶の声。
その言葉は、冬の扉の前に置かれた薄い敷き藁のようで、入るな、と言っているのに足裏の冷たさを確実に軽くする。
「……壊れたくありません」
正直に言ってから、息を吸って、もう一歩踏み込む。
「でも、ここに居たいです」
欄干に置いた手に風が刺さる。冷たさの先で、感覚が逆にくっきりする。骨の形、皮膚の薄さ、血の流れ。自分の輪郭が夜と擦れ合う音が、内側でかすかにした。
背後の彼が、体重を移す気配。石の床がほんのわずか鳴る。
彼は近づきすぎず、遠ざかりすぎず、私の斜め後ろに立った。視界に入らないで届く距離。届いてしまうから怖い距離。
「ここは、俺の世界だ」
静かに落ちる言葉。
その世界に、昼間、布告の影が伸びたことを私は知っている。王都の紙切れが、ここにも冷たい手を伸ばせると示した。彼はそれを、剣でなく背中で受け止めた。背中は、世界の風を測る器官だ。
「私の世界でもあります」
「いつから」
「あなたが“勝手にしろ”と言った日から」
「……言った覚えはある」
「便利な言葉でした。責任を押し付けず、許可にもならず、でも、入口にはなりました」
彼が息を吐く。白は見えない。呼吸は夜に混ざり、音だけが残る。
「入口に立つことと、内に入ることは違う」
「入ってるつもりは、まだないです。敷居の縁に湯気を置かせてください。朝晩、少しずつ」
「湯気は消える」
「だから、好きです。消えるものは、誰の邪魔にもならない」
彼は何も言わない。言わない代わりに、風が彼の肩で向きを変える。影の角度が、月の輪郭でわずかに流れる。
私は月を見ていた。氷の皿の上にこぼれた牛乳みたいに、白が薄く広がっている。ここからでも、王都の方角は見えない。見えないのに、影は届く。見えないから、届く。
心の中で、布告の文字が黒く浮かんでは溶けた。
“匿う者も同罪”
言葉は容易く刃になる。刃は、ふたつの意味を持つ。守るために抜かれるときと、傷つけるために抜かれるとき。昼間、彼はたぶん、どちらの刃も選ばなかった。選ばないという選択肢を、彼は身につけている。難しい選び方だ。私はそれに、救われた。
「俺は、お前を守ると言った」
「はい」
「だが、守るために、締め出すことがある。わかるか」
「わかります」
「お前は光で、光は目を痛める」
「闇は、形を曖昧にします」
「だから、離れていろ」
「だから、近くにいます」
「……矛盾している」
「人間だから」
「俺は人間じゃない」
「知ってます。でも、あなたの言葉は、時々、人間より人間らしい」
欄干の石が冷たい。冷たいのに、手を離したくなかった。冷たいものに触れていると、体の奥にある火がよく見える。
沈黙が、二人の間に薄く積もる。私の呼吸と、彼の呼吸。二つのリズムが一度だけ重なる瞬間があって、それがやけに長く感じた。
「セリーヌ」
「はい」
「……ここにいると、傷が増える」
彼の声は低く、砂の上に水を注ぐみたいに静かに染みた。
私は小さく笑う。笑いは、夜の中で形が崩れやすい。
「傷が増えたら、数えやすくなります」
「数えるのは、痛い」
「でも、数えたものは、いつか、物語になる」
「物語は、救うのか」
「時々、間に合います」
彼は鼻で微かに笑った。夜の端で、音のない笑いは雲の影のようだった。
私は深呼吸をして、背中越しに言う。
「私を、ここに居させてください」
同じ言葉を二度繰り返すのは、勇気がいる。
言い終えて、寒さが一段階ギアを上げたみたいに、骨の内側がひりついた。
「頼むな」
「頼ります」
「……面倒だ」
「生きるのは、だいたい、面倒です」
「お前はそればかり言う」
「そうですね。今日、三回目」
「数えるな」
「数えたものは、物語になるので」
彼は黙り、欄干の縁に手を置いた。私の手から二つ分ほど離れて。石の上に置かれた彼の手は、指が長く、節が太く、白い。闇の側の手なのに、月の光を少しずつ吸っている。
「昼の布告は、王の声ではない」
「はい」
「王の背中で、別の手が口を動かしている」
「教会?」
「言葉に名を与えたところで、影は薄くならない」
「影が濃いほど、火はよく見えます」
「火は、消える」
「消えるから、またつけられます」
私の声は震えていなかった。驚く。
台所で火をつけるみたいに、言葉にも火打石があるのかもしれない。信じたいことと、信じられること。その二つの間で、今日くらいは、うまく火花が落ちた。
「……紅茶は」
まるで話題を無理に変えるみたいに、彼が言った。
私は笑って、袖を押さえた。夜風が布の内側をすり抜けて、肌に薄い刃を置く。
「今から、淹れますか」
「いや。今日は要らない」
「珍しい」
「眠れない夜になる」
「紅茶のせいで?」
「お前のせいで」
心臓が、月の光に直接触れたみたいに跳ねた。
返事を探す間に、風が一度強くなり、雲が月を半分だけ隠した。光が弱くなり、影が一斉に形を変える。私は欄干から手を離して、両手を袖の中に戻した。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「謝られると、俺が怒っていることになる」
「怒ってないんですね」
「怒っていない」
本当は――と喉元まで来た言葉を、彼は飲み込んだ。
飲み込む音は聞こえない。けれど、それが喉を通るとき、空気がわずかに抵抗するのを、私は知っている。
「怖いんですか」
自分で驚く質問が、口から滑り落ちた。
夜は、時々、言葉の刃から鞘を外す。
彼は答えない。
答えの代わりに、私に近づいた。半歩。影が重なる。手は触れない。触れない代わりに、呼吸の温度が、わずかに混ざる。
「俺は……選んで、捨てて来た」
低く、やっとこぼれた音。
「城も、部下も、秩序も、戦も。選んだもののために、捨てたものがある。だから、今の形がある」
「はい」
「お前は、選ばせない」
言葉が、夜の真ん中に置かれる。
私はゆっくりとまばたきした。月が雲から出て、また顔を隠す。
「選ばせない?」
「選ばずに、置いていく。湯気とか、匂いとか、笑いとか。消えるものを、ここに置いていく。捨てたはずの側に、それが薄く積もる」
胸が痛くなった。嬉しさと、申し訳なさと、誇りと、恐れ。混ぜたら灰色になりそうな感情の粉末が、夜露でまとまって塊になる。
「……邪魔ですか」
やっと出た言葉は、情けないほど小さかった。
「邪魔だ」
即答。刃は、研がれている。
沈黙が一瞬刺さる。すぐ後に、彼は続けた。
「だが、悪くない」
呼吸が戻る。胸の中で、火が小さく鳴った。
悪くない。
彼の世界に置いてもらえる、唯一の肯定。
「だから言う。離れていろ。俺の目が届くところだけにいろ」
「はい」
「お前は光の人間だ」
「はい」
「闇の側にいれば、壊れる」
「……壊れないように、淹れます」
「茶でか」
「茶で」
彼は口の端を、ほんのわずかに上げた。
風がまた緩み、月が顔を出す。欄干の石が光を薄く返す。私は背中で彼の気配を感じながら、空に祈りの形を描いた。言葉にならない祈り。名前のない神に向けた、ひどく人間的な願い。
「セリーヌ」
「はい」
「……寒い」
短い、正直。
私は振り返らないまま、袖の端を彼の方向へ差し出す。意味のない仕草。けれど、意味がないものほど、夜には効く。
「中へ戻りましょう」
「先に行け」
「はい」
私は扉へ向かい、手をかけてから、もう一度だけ月を見た。
ここに居たい――そう言った自分が、見知らぬ誰かみたいに遠くで頷く。遠くでも、頷きは頷きだ。
扉が開く。室内の空気が頬に触れ、冷えた肌に現実を戻す。私は一歩中へ入り、振り返る。彼はまだ欄干に手を置いていた。夜に触れ、世界の輪郭を確かめるみたいに。
「カイン」
「何だ」
「おやすみなさい。……静かな夜になりますように」
「努力する」
その言い方が少し可笑しくて、私は笑った。笑いは軽い。軽いものは、夜に浮く。
扉を閉める直前、風が一度だけ強く吹いて、彼のマントの裾を揺らした。影が揺れ、二人分の輪郭が重なってはほどける。
――すれ違いは、近さの別名。
そう心の中で呟いて、私は静かに扉を閉じた。
部屋に戻ると、暖炉の火はまだ生きていた。
火に手をかざし、今日のことを順番にほどく。昼の布告。兵の目。カインの背中。バルコニーの風。月。
眠る前に、湯を沸かす。紅茶ではない。ただの温かい水。カインに言った通りの、夜の儀式。カップを両手で包み、少しずつ飲む。喉が温まり、心がやっと自分の速度に戻る。
目を閉じる。まつげの裏で、月の輪郭がゆっくり溶けた。
すれ違った影は、形の違う挨拶。
明日、また言葉を選ぶための、静かな合図。
私は毛布を引き上げ、深く息を吐いた。
夜は、音の薄いまま、遠くの塔で風の線を描き続けた。
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