追放された聖女、今では魔王の隣でティータイムを楽しんでいます

タマ マコト

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第8話 王都からの通達

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 その日、空はよく晴れていた。
 雪の切れ間から覗く青は薄く、黒曜の城の輪郭をやわらかく縁取っていた。中庭では兵が訓練用の杭を打ち、新しい木屑の匂いと鉄の匂いが混じる。私は台所で朝の仕込みを終え、紅茶の湯気を吸いながら、窓から落ちる光の角度で時刻を測っていた。

 鐘の音が、ひとつ。
 いつもと違う高さだった。私の指がカップの縁で止まり、湯気が少しだけ背筋を撫でる。

「使者だ」

 廊下からガルドの声がする。短い、刃みたいな声。
 私は外套を肩に掛け、戸口へ向かった。台所の空気が、紅茶の甘さから、鉄の匂いに切り替わっていく。

 城門の前には、白い馬と黒い旗。
 旗の中央には王国の紋章――白い百合。その下に、紋章とは別の印がぶら下がっていた。教会の印。硬い光を抱えた銀の輪に、縦の線。私は無意識に喉を押さえる。輪は、時々縄に見える。

 使者は、銀色の鎧を着た若い男だった。顔は疲れているのに、目の奥だけは乾いた炎を宿している。彼の背後には弓兵が四、五。さらに後方、王都から連れてきたであろう神官が一人、白い外套のフードの奥で口を固く結んでいた。

「魔王城へ王命を届けに参った!」

 青年の声が、中庭の空気を無遠慮に切り裂いた。
 レアが翼を軽く広げ、ガルドは無言で一歩前へ出る。魔族の兵たちが弦を張り、鱗の列がざわっと逆立つ気配。私は息を詰めた。空の青が急に薄くなる。

 門の陰がふ、っと濃くなり、カインが姿を見せた。黒いマントが朝の光を飲み込み、銀の眼が動かぬ水面のように静まっている。彼が現れるだけで、騒ぎは半歩、後ずさる。沈黙が、城の壁に戻ってくる。

「言え」

 カインの声は低く、鋼を冷やした水の音のようだった。

 使者は顎を上げ、巻物を広げる。白い紙に刻まれた黒の文字。遠目にも、線が硬いのが分かる。読み上げる前から、内容はもう、風の匂いでわかっていた。

「王国の布告!」

 彼は喉を張り上げた。「“元聖女セリーヌ・アルディアは、神託を偽り国を惑わせし裏切り者なり。見つけ次第これを捕縛し、抵抗するならばその場で処刑せよ。これに協力し匿う者も同罪とする!”」

 中庭の空気が、石のように固まった。
 兵の誰かが弦をきり、と鳴らし、レアの羽が音もなく一度たわむ。私は足の裏に血が降りていくのを感じた。体が空洞になっていく。紅茶の余韻は、もう舌の上にない。

「もう一度言う!」

 使者は言葉に石を詰めたみたいに、強く繰り返す。「“匿う者も同罪”だ。魔王よ、お前の城に人間の女がいると聞く。その女を引き渡せ!」

 視線が私の背中に刺さる前に、私は一歩、前に出た。
 カインと使者の間に、線を引くように。
 風が私の髪を後ろに引っ張る。呼吸は浅く、胸が痛い。だけど、足は止まらない。

「ここにいます」

 自分の声が、自分のものとは思えないほど静かだった。
 使者の目が私に焦点を合わせ、にわかに燃える。憎悪の火。恐れの火。どちらも匂いが似ている。

「セリーヌ・アルディア!」

「はい」

「自ら出てきたか。ならば楽だ」

 弓兵が弦に指を掛ける音。
 私の首筋を、冬の犬が嗅ぐように冷たい空気がなぞった。
 その瞬間、空気が握り潰されたみたいに重くなる。カインが、半歩――いや、気配だけではっきり分かるほどの圧で、前に出た。

「下がれ」

 その一言で、弓の指が止まる。弦が悲鳴の手前で震え、矢羽が小さく鳴った。使者のこめかみを汗が伝い、紙の端が風に踊る。

「王命だぞ」

「俺の領だ」

「王国はこの地を――」

「紙は雪の上では燃えにくい。だが、燃える」

 カインの瞳が、わずかに細くなる。銀の刃が鞘を出る直前の細さ。
 レアが羽を伏せ、ガルドが弦からそっと指を離す。城の兵たちが、一斉に息を潜める音がした。

「セリーヌを渡せ。そうすれば――」

「何をくれる」

 使者は言葉に詰まった。
 この国の使者として用意された句は、脅しと恩赦と、名誉と金だろう。だが、ここでそのどれを口にしても、彼の前にいるのが“人”ではなく“魔王”だという現実の前に、砂みたいに崩れる。

「……王の恩赦が」

「要らない」

「王命だ!」

「俺の世界で、王は俺だ」

 空気の温度が一度下がった。
 カインのマントが微かに揺れ、影が地面で形を変える。私はその背中を見た。大きい背中だ。孤独が形になったとき、背中になるのだといつも思う。
 そして、私は知っている。この怒りは、ただの誇りから来ていない。私の首筋に向いた冷たさへ、過去の傷が反射した結果だ。

「これ以上、俺の世界を乱すな」

 彼は静かに言った。その静かさが、城のすべての石に染み込み、門の外の雪へも届く。
 使者の喉が上下する。弓兵が視線だけで互いの顔を探り、神官が祈りの言葉を口の中で濁らせた。

「セリーヌ・アルディア」

 使者が、最後の足掻きみたいに私の名を呼ぶ。「お前は……自分の罪を理解しているのか」

 私は息を吸った。冷たい空気が肺に刺さる。
 罪。
 この国で罪は、時々“都合”の仮面をかぶる。けれど、私の胸に小さな石のように残っている罪は、他の誰にも渡せない重さだ。あの霧の日、見えたのに、救えなかったもの。守りたいと言えなかった瞬間。だから、私は頷いた。

「わかっています。私は、あなたたちのための聖女ではありません。いまは、この城の台所で鍋をかき回す人間です」

「開き直りか」

「生き直しです」

 使者の顔が、憤りと困惑で揺れた。その揺れの隙間に、カインの声が、薄い刃のように滑り込む。

「布告は聞いた。答えも出た。――帰れ」

 使者は躊躇った。王命を持ち帰る背中に刺さる視線や、帰る先での問い詰めや、責任の重さを、きっと想像したのだろう。彼は弓兵に目配せし、矢を下ろさせると、紙を巻いて革紐で縛った。
 その動きがやけに遅く見えたのは、張り詰めた糸が緩む手前の時間だけが、いつも伸びて見えるからだ。

「……王命は、撤回されない」

「世界も、簡単には撤回されない」

 言い返す気力を失ったのか、使者は馬に跨がった。神官が最後にちら、と城の陰を見た。罪を見る目。祈りが間に合わない目。
 一行が雪を蹴り、門はゆっくり閉じていく。鉄が軋み、影が重なり、光が細くちぎれた。その細い光が消えた瞬間、中庭に残った空気は、いっせいに息を吐いた。

 ざわめき。
 兵たちが互いの顔を見る。誰かが「処刑だと……」「匿う者も同罪……」と呟く。レアは無言で羽を折り、ガルドが私を見る。視線に混じる感情はひとつじゃない。心配、怒り、疑い、そして微かな誇り。
 私は彼らを見返し、笑おうとして、やめた。不自然な笑顔は、ときに恐怖の匂いを強くする。

「解散だ」

 カインの一声で、ざわめきが波のように引く。兵たちは散り、持ち場へ戻る。誰もがやるべきことを知っている城だ。恐れは仕事で薄まる。
 カインは踵を返し、私に目を向けた。銀の瞳は、さっきより濃い色で、底に沈んだ何かが小さく灯っている。

「中へ」

 命令の形。
 私は頷き、彼の後ろについて歩き出す。廊下の影はさっきより深いのに、足音は妙に軽かった。緊張が切れると、体は自分が重いことすら忘れてしまう。

 塔の踊り場に出ると、風が頬を打った。空はまだ青い。遠く、王都の方角にわずかな白い筋が走っている。あれが、布告の残響かもしれない。
 カインは欄干に手を置いたまま、しばらく黙っていた。私も黙る。沈黙が、今日はいちばん正しい言葉に思えた。

「……脅しは、ここへ来ない」

 彼の声は低く、石の温度に近い。

「わかってます」

「だが、影は来る」

「影?」

「人の恐れは形になる。布告は恐れの形だ。兵の目、商人の手、祈祷師の舌。どれも影になる」

「はい」

「お前は、外に出るな」

「……はい」

 その返事は、思ったよりも喉に重かった。城下の子どもたちの顔が浮かぶ。ミナの翼。勝ちの味。明日の粥。私の胸の中で、それらがこすれ合って、小さな火花を散らした。火花はすぐ消える。けれど、消える前に熱を残す。

「セリーヌ」

「はい」

「俺は怒っていない」

 嘘だ、と思った。
 けれど、彼は続ける。

「怒りは……剣の柄を滑らせる。俺が持っているのはそれではない」

 私は彼の横顔を見た。頬の筋肉が固く、眉間に薄い皺が寄る。怒りの形というより、恐れを飲み込んだあとの、胃の重さに耐える顔。
 わかっている。
 彼は自分の世界が乱されることに怒っているのではない。私の首筋に向いた冷たい言葉が、彼の古傷を撫でたから。昔、守れなかった誰かたちの代わりに。
 私は、彼のマントの裾を、指先でほんの少しつまんだ。
 彼が、気づくか気づかないかの距離で。

「ありがとう」

「何に対して」

「私を、ここに置いてくれて」

「世話はしない」

「邪魔、って言わなかったから」

「……言ってほしいのか」

「たぶん、言われたら泣きます」

「面倒だ」

「生きるのは、だいたい面倒です」

 彼の唇の端がわずかに動いた。笑いかどうか、判別の難しい線。けれど、その線が一本引かれるだけで、私の胸の中の火花はもう少しだけ長く灯る。

「茶を」

「はい」

「濃く」

「了解」

 私は踊り場を降り、台所へ戻った。手は勝手に動く。湯を沸かし、ポットを温め、葉を選ぶ。今日は苦味の芯が強いほうがいい。香りで刃を丸くするより、刃の存在を正しく舌に載せるほうが楽な日がある。
 注ぐ。琥珀が広がり、湯気が上へ。私は二つのカップを盆にのせ、また階段を上がる。

 カインは同じ場所にいた。空はわずかに光を濃くし、遠い雲が薄く流れていく。私は彼の前にカップを置いた。欠けの位置を、いつもどおりに。

「ありがとう」

 彼は珍しく、先に言った。
 驚いて顔を上げると、銀の瞳がまっすぐこちらを見ていた。目には嘘がない。彼の“ありがとう”は、怒りの代わりに置かれた、重い石だった。石は冷たいのに、触れると手のひらに温度を残す。

「どういたしまして」

 彼はひと口飲み、短く息を吐いた。
 湯気と一緒に、少しだけ張り詰めていたものが、空へほどけていく。

「……セリーヌ」

「はい」

「お前は、俺の世界を乱す」

 胸の奥が、きゅっと縮む。
 彼は言葉を間合いで切り、続ける。

「だが、それは……悪くない」

 息が喉の奥で引っかかった。
 悪くない。
 この城でいちばん甘い肯定。私はただ頷く。言葉にすると、何かがこぼれる気がしたから。

「明日からは、警護をつける」

「私は」

「外へは出るなと言った」

「……王都へ行くつもりは、ありません。ここが、今の私の世界です」

「なら、守る」

 言い切る声。彼自身を鼓舞するみたいな硬さ。
 私はカップを両手で包み、湯気に顔を近づけた。祈りの言葉が喉の奥で形を探す。神は遠い。けれど、祈りは言葉になる前に立ち上がる。
 この城の石が冷たくならないように。
 この世界が、彼の世界で在り続けるように。
 その隅で、どうか私の湯気が、誰かの鼻先に届きますように。

 夕暮れが近づくにつれて、空はゆっくり色を変えた。
 王都からの布告は紙片となって遠ざかり、けれど、言葉の影はしばらく城壁に残るだろう。恐れは形を変えてやってくる。噂、目配せ、余計な親切、沈黙。
 私たちは、そのすべてに火を絶やさず、塩加減を見張り、湯気を上げ続ける。
 乱される世界を、乱されない温度で、少しずつ満たす。
 それが、いまの私にできる戦いだった。

 夜。台所で鍋をかき混ぜていると、扉が軽く叩かれた。開けると、レアが立っていた。彼女は羽を半分だけ広げ、目だけで笑う。

「人間。明日の朝の配分、あなたと一緒に決める。外には……出ない方がいい」

「わかってます」

「怖い?」

「はい。でも、怖いときは、塩をひとつまみ増やす」

「料理の話?」

「生きる話」

 レアは小さく笑って、羽を畳んだ。「悪くない」

 鍋の湯気が天井の梁に触れ、薄く消える。
 遠くで、塔の上に立つ影が風に揺れた。
 私はもう一度、火を確かめる。火はまだ小さいが、息をすれば、応える。
 この城の夜は長い。けれど、火と湯気があれば、越えられる長さだ。
 “匿う者も同罪”――その言葉の重さを、私たちは二人で半分ずつ持つ。半分なら、持てる。そう思った。

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