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第7話 雨の日のティータイム
しおりを挟む朝から降っていた雨は、昼を過ぎても止む気配がなかった。
黒曜の壁を淡い灰が撫で、細い雨脚が何本も連なって塔の先から地面へ線を描く。城の中庭は薄い水鏡になり、落ちる滴が輪を広げては重なり、音の小さな花を咲かせ続けている。
こんな日は、火と湯気のそばにいるのが正しい。私は台所の窓を少しだけ開け、雨の匂いを指先ほど入れた。濡れた石、鉄、遠い土の匂い。冷たい空気が頬を撫でる。
火床に薪を組み、火打石を打つ。乾いた火花が綿に落ち、細い火が小さく口を開けた。私の息でそれを育てる。ぱち、ぱち。炎の音は、雨とは別の鼓動を持っている。二つのリズムが重なって、台所の壁に薄い揺れを作る。
棚の一番奥から、昨日選んでおいた茶葉の袋を取り出す。封を切ると、乾いた果肉みたいな甘い香りと、焦がした木のような渋い香りがひっそり立ちのぼった。指でひとつまみ。葉脈がしっかり残っていて、揉みは強すぎない。今日は雨だから、少し濃いめにしよう。外の音に負けない芯がほしい。
鉄の薬缶に水を張り、湯の音を待つ。
雨の日の台所は、音がよく通る。遠くの廊下でレアの羽が一度だけ鳴り、訓練場の金属音は雨に溶けて丸くなり、どこかの部屋で小さく欠伸の音がして、それもすぐ雨に洗われた。私は呼吸を整え、ポットとカップをあらかじめ温める。白磁の欠けは相変わらずだが、欠けの位置は頭に入っている。今日はその欠けも、雨のリズムに合って見えた。
湯が歌い出す。底から零れた泡がひとつ、ふたつ、数を増やす。沸騰の直前で火から外し、ほんの少し置いて、茶葉に湯をまとわせる。
注ぐ音が、雨脚に紛れて消えそうで消えない。ガラスのポットの中で、茶葉がふわりと立ち上がる。琥珀が広がる速度は、雨の粒より遅く、心拍より速い。蓋をして、待つ。待つことは、雨に似ている。こちらの都合では止められないが、確実に景色を変える。
「一緒にどうですか?」
言葉は、扉の向こうに投げる前から決めていた。雨の午後には、分け合う湯気が必要だ。
私は盆にポットとカップをのせ、蜂蜜の小瓶を添え、廊下へ出た。石の床がひんやりと足裏に上がってくる。塔の踊り場は雨の音がいちばん綺麗に響く。いつもの、風に切り取られた空の角。そこへ向かう途中、角灯の陰でガルドがぼんやり空を見ていた。
「訓練、休み?」
「雨の中で剣は鈍る」
「スープ、持っていくね」
「……紅茶は?」
「主様に聞いて」
ガルドは鼻を鳴らし、壁に背を預け直す。その背中にも、雨の音が薄く染みているように見えた。
踊り場に出ると、予想どおり彼はいた。欄干に片肘を置き、雨の糸が垂直に落ちる先をじっと見ている。黒いマントの肩に細かい滴が光って、銀の瞳は空の色を半分だけ飲み込んでいた。
私は盆を低い台に置き、湯気を逃さないよう手早くカップを温め直す。
「午後の紅茶です」
彼は視線だけこちらへ動かし、すぐまた雨に戻した。
「……雨の音が邪魔だ」
「じゃあ、雨に勝てる香りにします」
注ぐ。雨の白い線の前で、琥珀が小さく息をする。湯気が彼の頬に触れて薄く消えた。私は空いている椅子を自分の方へ引き、もう一脚を彼の横、半歩分だけ離して置く。
「一緒にどうですか?」
言い終わる前に、自分の胸の奥がひとつ深く鳴った。誘うという行為には、いつも小さな高さの段差がある。そこを越えるのに少し勇気が要る。
彼は視線を湯気から私へ移し、短く息を吐いた。雨の音に混ざって、その息はほんの少しだけ温かい。
「……渋々だ」
「渋みは紅茶の仕事。殿は座るだけで」
「言葉遊びは嫌いだ」
「じゃ、素直に“座ってください”」
彼は椅子を引いて座る動作をわざとらしくゆっくりやって見せた。脚が石に擦れ、低い音が一つ。私は笑いを喉で溶かし、自分の席にも腰を下ろす。
雨の音がすぐ近くなる。屋根の庇を叩く音、塔を滑る音、遠くの森を濡らす音。音の粒が幾重にも重なって、空を満たしていた。
「蜂蜜、少し?」
「いらない」
「今日は濃いですよ」
「いらない」
「はい」
私は先に一口。舌の上にのせると、渋みの縁が雨の冷たさを滑らかに切って、喉に小さな火を置いていった。胸の内側がじわりとほどける。カインもカップを持ち上げ、無言で飲む。雨音が彼の喉の動きを覆い隠すのに、私はそのわずかな振動を見逃さない。
沈黙。短いけれど、ちゃんと重さのある沈黙。そこに何かを入れる必要があるかどうか、舌の先で確かめるみたいに私は迷い、結局、入れないことにした。沈黙の価値は、時々言葉より高い。
「……不思議だな」
先に破ったのは彼だった。雨脚が少し強くなる。音が濃くなる。
「お前のいる場所は、静かだ」
カップの縁越しに、視線が私に触れる。その言葉は、音を立てないまま胸のなかに沈んで、柔らかく震えた。
静か。
静かと言われるたび、私は少しだけ泣きそうになる。かつて“神の声を騙る賑やかな女”と石畳の上で言われた日があるから。あの日の言葉と、いま目の前の静かという言葉は、反対側の川岸に立っている。渡ってきたのは、私の足と、ここで淹れた紅茶の湯気だ。
「……それ、多分、雨のおかげですよ」
「雨はうるさい」
「うるさい雨の中で、静かって言ったのは、カインです」
「言葉を返すな」
「返したくなる言葉でした」
雨が欄干を叩いて、小さな跳ねが私たちの手の甲に落ちた。冷たい。カップの温度で打ち消す。カインは二口目を飲み、僅かに目を細める。私は呼吸を合わせるみたいに、同じタイミングで飲む。
湯気がふたつ、雨の中に溶けていく。
ふと、遠くの訓練場でガルドの怒鳴り声が聞こえた。雨の膜に包まれて丸くなって届く。「姿勢! 背中!」レアの羽音がそれに呼応するようにひらりと響く。城は生き物みたいに雨の午後を呼吸している。
「子どもたちは」
彼が言った。話題を求めたのではない。雨の隙間に置く石のように、必要最小限の重さで。
「熱は下がってきました。明日は薄い粥でもいけます」
「スープは」
「朝に仕込みます。あの子たち、雨の匂いが好きみたいでした」
「雨の匂いは、過去を洗う」
「……好きな言い方です」
「事実だ」
「事実でも、好きって言っていいでしょう?」
彼は返さない。返さない代わりに、カップの底を覗き込み、指先で縁を軽く叩いた。石にあたる薄い磁器の音。雨の日の音に一瞬だけ混じって消える。
「お前は、雨の日に何を思う」
「よく眠れます」
「子どもか」
「眠れるのは強さです」
「そうか」
「……本当のところは、ちょっとだけ、怖いです」
自分で言って、驚いた。雨に紛れて、喉の奥の本音がこぼれた。彼の視線が少しだけ深くなる。促すでも責めるでもなく、ただ見ている。
「何が」
「音が消えると、自分の中の音が大きくなるから。あの時の声とか、石畳の冷たさとか。静かにしていないと、いけない日ほど、心の中は騒がしくなる」
「静かだと言ったのは俺だ」
「うれしかったです。だから、怖いから、うれしかった」
「矛盾している」
「人間はだいたい、そうです」
「……俺もか」
その問いは雨より小さくて、でも確かだった。私の胸の奥で、何かが柔らかく灯る。彼は雨の日、すこしだけ弱音に似た声を出す。弱い、と呼ぶのがたぶん一番強い声。私は頷いた。
「カインも、そうだと思います」
「嫌だな」
「私も嫌いじゃない」
「……言葉遊びは嫌いだと言った」
「ほとんど本音です」
彼は唇の端だけわずかに上げた。雨の午後に、それは焚き火の小さな火花みたいに短く光って、すぐ夜色に戻る。
私は蜂蜜の蓋を開け、茶匙の先にほんの少しだけ掬って自分のカップに垂らす。甘さは、雨の日に少しだけ欲しくなる。
「……それは何だ」
「雨の呪い除け」
「呪いは甘さで祓えるのか」
「祓えます。小さく、短い間だけ」
「詐欺だな」
「だから、“呪い除け”って言いました」
雨脚が弱まり、遠くの地平が薄く見え始めた。雲の縁が溶けて、灰の中に柔らかな白が混じる。私は二杯目を淹れ、彼のカップを受け取る。取っ手の温度が彼の体温を少しだけ残していて、その残り火を掌で確かめた。
「不思議だな」
彼がもう一度、同じ言葉を繰り返す。
「何がですか」
「お前のいる場所は、静かなのに……腹の底が少し、騒がしい」
私はカップを持ったまま、雨の向こうを見た。騒がしい、という言葉が、今度は私の胸を軽く叩く。嬉しくて、怖くて、どうしようもなく雨の日にふさわしい。
返事はしなかった。代わりに、カップの縁を唇に当て、少し熱の残る紅茶を飲んだ。甘さが薄く広がって、雨の音に薄い膜をかける。膜の下で、心臓が一つ、二つ、静かに叩いた。
「……そういえば」
彼が思い出したように言う。「前に言ったな。茶は儀式だと」
「はい。生きるための、簡単な」
「雨の日の儀式は、よい」
「合格ですか」
「……悪くない」
その一言に、私は笑って肩の力を抜いた。
悪くない、は彼の中で最大級の肯定だ。雨の日に聞くそれは、いつもより少し甘い。
階段の方から、足音が二つ三つ近づいてきた。レアが顔を出し、濡れた羽を一度大きく振る。
「お邪魔?」
「紅茶、少しあります」
「なら一杯だけ」
レアにカップを渡し、蜂蜜を勧めると彼女は鼻で笑ってから、ほんの一滴だけ落とした。ガルドは「甘いのは嫌いだ」と言いながら、置いてあった固い干し果物をもそもそ食べる。雨の踊り場が少しにぎやかになって、でも不思議と静けさは壊れない。音の層が厚くなっても、その底にある水面は揺れすぎない。
彼らが去ると、また雨と私たちの呼吸だけになる。
「セリーヌ」
「はい」
「明日、晴れたら」
「はい」
「……茶は、同じでいい」
「了解」
「だが、晴れの日用に、少し軽いのも用意しておけ」
「命令、多くないですか」
「頼みだ」
頼み。
その言葉は、雨に溶けずに、真っ直ぐ胸に降りてきた。私は小さく頷く。頷くたびに、紅茶の湯気が眼鏡のない目の前で薄く揺れるような錯覚がする。
「晴れたら、庭で。風が気持ちいい場所を見つけました」
「雨の匂いが残る」
「残っていいです。雨の匂いは、過去を洗う匂い」
「気に入ったのか」
「はい。今日からそれは、私の言葉にもします」
彼は何も言わず、最後の一口をゆっくりと飲み干した。カップを置く音が、小さく、確かに鳴る。雨はさらに細くなり、遠くの森に薄い光が差し始めた。
私は盆に空いたカップを集め、ポットの蓋を閉める。湯気が最後の背伸びをして、空へ消えた。
「今日は、よく眠れ」
「カインも」
「俺は眠りが浅い」
「紅茶のあとに、温かい水を一杯。足を布で包む。騙されたと思って」
「騙されたくはない」
「じゃあ、信じて」
「……面倒だ」
「生きるのは、だいたい、面倒です」
彼は立ち上がり、マントの襟を整えた。雨のやむ気配を確かめるように一度だけ空を見上げ、それから私に向き直る。
「静かにしろ」
「がんばります」
「努力でどうにかなるのか」
「半分は、どうにかなります」
彼は踊り場を去り、階段の影に溶けた。足音はすぐ雨の音に紛れて消える。私は盆を抱えて立ち上がり、欄干の向こうの水面に一度だけ視線を落とした。輪はまだ広がり続けていた。雨はいつか止むけれど、さっき生まれた輪の余韻は、しばらく消えない。
台所に戻ってポットを洗う。温かい水が手のひらを通るたび、心の中の騒がしさが少しずつ整っていく。
――不思議だな。お前のいる場所は、静かだ。
彼の声が耳の奥で反芻される。静か、という言葉は、今日の私にとって、傘みたいだった。薄い膜を頭の上に広げて、雨粒の重さから心を守ってくれる。
夜。寝台に横になると、雨はほとんど囁きに変わっていた。私は毛布を顎まで引き上げ、足先を布で包み、息を吐く。今日の紅茶の温度が喉に薄く残っている。
瞼の裏で、銀の瞳が雨を映す。
胸の真ん中が、やわらかく震えた。
静かな震えは、やがて眠りに溶け、雨は、いつのまにか止んだ。
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