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第16話 沈黙の魔王、花の咲かない庭
しおりを挟む冬は、城の影から先に来る。
黒曜の壁に最初の霜が張り付くとき、塔の踊り場にはまだ風の名残があって、石は騙すように温かい。だが、日が二つ傾く頃、温度は階段の途中で急に途切れ、廊下の音は薄紙で包んだように小さくなる。
セリーヌを失ったあとの魔王城は、その小ささの連続だった。笑いは短く、会話は要点だけ、椀は半分で置かれ、紅茶の香りは――しなかった。
「主様、火を強くしますか」
台所でレアが訊く。羽根を畳んだ肩が、いつもより狭い。
カインは首を横に振る。「必要なだけでいい」
必要なだけ――それは便利な言葉だ。だが、便利な言葉が積み重なると、城は更に静かになる。必要でないものはすべて削ぎ落とされ、残るのは命に最低限の段取りだけ。台所に立つ者は鍋をかき回す音で自分の所在を確かめ、回廊を歩く兵は踵の音で孤独を測る。
彼女が消えたのは、あの白のあとだ。
崩れた神殿から戻り、紅茶を二杯、息を合わせるみたいに飲んだ夜のさらに先。
――朝、カップは空で、寝台は温く、ただ彼女はいなかった。
扉の前に置かれた薄い布。短いメモ。
“ごめんね。もう少しだけ、静かにしてくる”
それは置き手紙と呼ぶには軽く、遺書と呼ぶには生き過ぎた文字だった。
彼女の魂は戻った。だが、戻りかけの光はまだ彼女の体に馴染みきっておらず、時折、彼女自身を外へ呼び出した。呼び出された先は、名のない静けさ。戻る鍵は置いてある。けれど、鍵穴は日によって場所が違う。そんな説明を、彼女は照れた笑いで書き添えていた。
城は待つことを覚えた。
待つために、まず音を減らす。待つために、まず火を弱める。待つために、まず言葉を削る。
孤児たちはそのやり方を真似した。騒いではいけないのだと思ったのだ。騒げば、大事な人が帰ってこられない気がしたのだ。
夜――。
北壁の下、彼らが寝起きする共同室に、蝋燭が三本、静かに灯る。薄い毛布の山が動き、角の短い少年が膝を抱える。翼の小さな少女が、手のひらを合わせる。
「おねえさん、帰ってきますように」
彼らの祈りは、教会の言葉を借りない。台所の言葉を借りる。
――塩は少し、湯は多め。笑いは大きく。
レアが戸口で目を伏せ、ガルドは壁にもたれて腕を組み、何も言わない。言えば、泣きそうになる。泣けば、冬は勝つ。
カインはその夜も塔の踊り場にいた。
空は澄んで、星だけがうるさい。月は薄く、雪雲はまだ地平線の下。城下の屋根から上がる湯気が風に千切られ、白い筋になって走る。
彼は欄干に片肘を置き、手を閉じたり開いたりする。手の甲の薄い火傷はすでに塞がり、その上に新しい皮膚が張っている。だが、掌には別の熱が残っている。紅茶の湯気の残像。湯気は消える。消えるが、消える前に確かに触れた温度は、掌の内側に薄く残る。
「主様」
レアが階段を半分だけ上がって止まる。「孤児たちのところ、今夜は祈りが長い」
「そうか」
「行く?」
「……行かない」
行けば、あの小さな背中が背伸びをしてしまう。強がる顔は、余計に寒い。寒さにだけは勝たせなくていい。
レアは頷き、羽根を閉じる。「城の庭、凍った。花壇は全部、土の色」
「見なくてもわかる」
「花は春に咲く」
「春は約束ではない」
レアはそれ以上言わず、踊り場に入らない礼儀の距離を保って降りた。彼女の羽音が風に混じる。
カインは空を見上げる。
星は視線に容赦がない。見る者を観測者に、見上げる者を被告にする。彼は星を数えない。代わりに、手の中の欠けを数える。城の欠け、街の欠け、祈りの欠け、そして――自分の欠け。
「俺が壊した世界に、花は咲かぬのか」
声は低く、石に吸われ、夜に分解された。
壊した、と言い切るのに、彼はずいぶん時間がかかった。王都の広場で光と闇が噛み合ったとき、彼は確かにいくつかの柱を折った。柱だけではない。秩序の上に置かれた薄い硝子皿を一枚、また一枚、落とした。だが、彼が壊したのは外側だけではない。
“待つ”という技術を、彼は自分から遠ざけて生きてきた。選んで、捨てて、速く進む。それが武器であり、盾だった。セリーヌはそこへ湯気を置いた。湯気は、待つことを教える。鍋の前で火を調整するみたいに、呼吸の間合いで世界を受ける方法を。
今、湯気がない。
だから、待つ技術が未熟な彼は、星の前で静かに敗北している。敗北は恥ではない。だが、寒い。
庭は、冬の定義を実行していた。
黒い土は硬く、細い霜柱が指先で崩れると鈍い音を立てる。夏には香草の芽がわずかな風に香りを撒き、秋には茶に合う小さな花を密やかに咲かせた場所。今はただ、空気の重さを測るための、広い秤だ。
カインはそこへ降りた。
雪はまだ浅い。足音は小さく、吐息は濃い。花壇の縁に座り、土に触れる。冷たい。冷たさの向こうに、生きているものの硬さがある。冬は、死ではない。保存だ。
「主様」
背後でガルドが咳払いをした。「夜番の交替です」
「見張りを増やせ」
「王都からの動きはない」
「ない日が続くときほど、油断する」
「……承知」
去ろうとしたガルドを、カインは呼び止めた。「子らは」
「祈ってる。泣きながら。泣くのは、悪くない」
「悪くない」
「主様」
「何だ」
「……花は、春になれば勝手に咲きます」
「春は約束ではないと言った」
「だから、約束じゃなく、準備をします」
ガルドは不器用な手で、布袋から小さな球根を取り出した。乾いた皮が薄く剥け、指の腹に白が触れる。「畑の隅に残ってた。セリーヌが、秋に子どもと埋めたやつ」
カインは球根を受け取る。小さい。軽い。だが、重い。
「……埋めろ」
「はい」
「深さを間違えるな。土が硬い時は、手の熱で柔らげる」
「詳しい」
「見ていた」
「誰を」
「台所の主」
ガルドは笑うかどうか迷い、結局、頷きだけを残して去った。
孤児たちの眠る部屋へ戻ると、祈りは終わっていた。蝋燭は一本に減り、その炎も背伸びの末に立っているみたいに細い。
角の少年――ミナの兄が、目を開けている。
「主様、起きてます」
「見ればわかる」
「泣かないように、見張りしてる」
「泣いていい。抑えると、熱になる」
少年はしばらく黙っていた。やがて、布団の中から小さな包みを取り出す。「これ、セリーヌさんが置いてった。『困った夜は、弱いほうから開ける』って」
包みを受け取る。開けると、乾いた花びらと、押し花にされた薄い葉、そして粉末になった香草が少し。
匂いが、冬の型をほんの少し崩した。
ミナの弟が寝返りを打ち、翼の少女ノアがうとうとしながら「おねえさん」と寝言を言う。
カインは包みを閉じ、少年に返した。「弱いほうから、開けたか」
「開けた。……泣いた」
「悪くない」
少年は、泣けてよかった、みたいに安堵の顔をして眠り込んだ。
レアが静かに入ってきて、蝋燭の芯を少し切る。「主様、寝ないと死ぬ」
「死なない」
「じゃあ、寝ないと怒る」
「誰が」
「私」
彼女の口調に、久しぶりの軽さがある。カインは小さくうなずき、部屋を出た。
塔へ戻る途中、庭に寄る。
薄い月明かりに、掘り返した土の線がいくつも走っている。ガルドの癖のある手つきは跡でわかる。深さはぎりぎり、手の熱は足りている。
カインはしゃがみこんで、土を掌で覆った。
「咲け」
命令ではない。お願いでもない。
ただ、報告の形をした希望。
土は返事をしない。だが、土に手を置く行為は、置いた者の体温を少しだけ戻す。
夜の底、風の向きが変わった。北から東へ。
その変化は微細で、城の古い窓が調律された楽器のようにわずかに鳴って知らせる。
カインは踊り場へ戻り、欄干に手を置いた。手のひらが石の冷たさに慣れる前に、彼は空を見上げる。
星の配列は、昨日と似ていて、まったく違う。
沈黙は、今日の彼の言葉だった。
沈黙でしか届かないものが、この城には多すぎる。
セリーヌの置いていった鍵の鈴音は、まだ耳の奥で鳴る。だが、扉は見えない。鍵穴は、日によって場所が違う。
「……帰れ」
誰にも聞こえない声で、彼は言った。「帰れ、セリーヌ。お前の湯気は、まだ、ここに居場所がある」
そのとき――
微かに、紅茶の匂いがした。
錯覚かもしれない。風のいたずらかもしれない。
だが、錯覚は人を生かす。いたずらは、冬の均衡を崩す。
彼は振り向かない。振り向いて何もなければ、城は余計に冷える。
代わりに、手のひらで欄干を叩いた。
ぽん、と小さい音。
それは合図。
「明日、庭をもう少し掘る」
誰にともなく言う。
レアが階段の陰で小さく頷く気配がする。「蜂蜜、一滴、増やす?」
「いらない。濃くする」
「了解」
空の端に、雲が一枚、白くちぎれた。
冬が深まるほど、春は嘘のように遠い。
それでも、花は約束ではなく準備で咲く。
準備は、今日の手の温度でしかできない。
孤児たちの祈りは、泣き声で押し出す湯気みたいに、薄く、確かに天井へ上っていく。
紅茶の香りはしない――それでも、鼻の奥が一度だけ温かくなったのは、記憶が体の内側で火を起こしたからだ。
「俺が壊した世界に、花は咲かぬのか」
もう一度、彼は言う。
今度は問いではなく、作業の宣言として。
土をほぐし、火を残し、湯を守り、言葉を削り、必要なだけを必要なときに渡す。
彼女が戻ってくるとき、香りが迷わないように。
彼は夜を背に、城の静脈をひとつずつ確かめるように歩いた。
沈黙の魔王。
花の咲かない庭。
――準備は、始まっている。
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