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第15話 祈りのあとで
しおりを挟む音が、ゆっくり戻ってきた。
最初は石の軋み、次に布の擦れる音、最後に、人の浅い呼吸。世界が白の底から浮上していく。崩れた天井の隙間から薄い冬空が覗き、細い風が粉塵を攫う。雪ではない光の粒が、壊れた梁の間を漂い、やがて消えた。
腕の中に、体温。
セリーヌだ。
肌は冷えているのに、中心だけが微かに熱い。抱き上げた時、骨の細さと、息の浅さが掌に伝わった。外套の内側にその体を寄せると、彼女の髪が焦げた布の匂いと混ざり合い、胸の奥で何かが音を立ててひび割れた。
「……泣かないで。あなたの涙は似合わない」
弱い声が喉を撫でた。
カインは自分の頬に触れる。濡れていない。けれど、その言葉は確かに今、彼のために用意された。泣く、という行為が似合わないのではない。似合わないほど、彼の涙は重く、落ちれば誰かを沈めるからだ。
銀の瞳に映る聖堂は、ほとんど骨組みだけになっている。祭壇は半分崩れ、天井に走った亀裂が空の薄青を薄切りにした。人々のざわめきは遠く、ここだけが別の時間に取り残されているみたいだった。
「喋るな」
「喋る。……これが、私の仕事」
「それは祈りだ」
「祈りは、仕事の一種だよ」
唇だけで笑おうとした彼女の顔に、細い影が揺れた。リリアが数歩離れたところで膝をついている。彼女の背から立ちのぼっていた光は灯に戻り、疲労の色に沈んでいる。神官たちは崩れた柱の陰で互いの体を支え、レアが羽で粉塵を払って咳き込む子どもの背を撫でていた。ガルドは崩れた梁をどけ、逃げ道を作りながら、こちらに視線を投げる。
「主様、止血は必要か」
「俺がやる」
言って、カインは膝で瓦礫を押しのけ、セリーヌの体を抱えたまま、胸元の留め具をほどく。外套の裏に隠してあった薄い布――彼女が城で子どもたちに巻いた包帯の余りを取り出し、手際はぎこちなく、それでも正確に、彼女の前腕の裂傷を巻く。
手が震える。怒りのせいではない。安堵が遅れてやって来て、筋肉の端に居場所を探している。
「痛いか」
「……ううん。あなたの手は、あったかい」
「寒い」
「じゃあ、抱きしめて」
命令に似たお願い。カインは躊躇わず従う。彼女の背に掌を、肩に腕を回す。骨の形が直接伝わってくるほど、彼女は薄い。彼女の耳元で、彼の呼吸が一定のリズムを刻む。リズムは城の塔で風が作る音と似ていて、セリーヌはその音を一つひとつ数えた。
「……戻ってきた」
「当たり前だ」
「うそ。ちょっと、不安だった」
「俺は命令は嫌いだが、約束は守る」
「じゃあ、次の約束……紅茶」
「淹れるなら、今はやめろ」
「わかってる。想像するだけ。蜂蜜、一滴」
言葉は薄い湯気みたいに二人の間を漂う。湯気はすぐ消える。けれど、消える前に確かに温める。
石の隙間風が鳴り、崩れた天井から光が細く降る。カインは空を見上げた。白い筋雲と、遠い鳥影。彼は空を見るのが得意ではない。広すぎる場所は、彼の中の孤独を無駄に増幅させるからだ。けれど今は違った。腕の中の体温が、空の冷たさに輪郭を与えている。
「……ごめん」
セリーヌが言った。謝罪は彼女の口に似合わない。だからこそ、よく似合った。
「何に対して」
「勝手に薄くなったこと」
「薄くなったのは、戻すためだ。怒らない」
「怒ってない?」
「怒っている」
「どっち」
「怒りは対象を見失うと、自分を切る。だから今は、怒らない方を選ぶ」
「選べるんだ」
「今は」
彼はリリアの方を見る。彼女は立ち上がろうとして、膝をついたまま、静かに首を振った。「平気。……私も、大丈夫になる。時間が要るけど」
その声は刃の名残を含みながらも、もう人の声だった。神官の一人が何か言いかけて、リリアの手のひらの一振りで黙る。彼女はセリーヌを見つめ、かすかに唇を噛んでから言った。
「あなたの欠片……返した。……ありがとう」
「ううん。……戻ってくれて、ありがとう」
「私、まだあなたを許してない」
「私も、私を許してない」
「……ずるい」
短い会話は、瓦礫の上を軽く跳ねて消えた。許しは、約束と同じく、湯気に似る。すぐには形にならない。けれど、温度は確かに置いていく。
ガルドが近づき、レアが羽を畳む。「主様、外に運ぶ? ここは天井がもたない」
カインは頷き、セリーヌを抱え直した。体を起こすと、彼女の喉が小さく鳴る。痛み。彼はすぐさま抱く腕の角度を変え、肋を避け、重さを分散させる。
「重い?」
「軽い。……だから、怖い」
「怖いの?」
「消えるものを抱くのは、常に怖い」
「消えないよ。名前、置いていったから」
「言え」
「セリーヌ。欠けあり、欠片あり」
「悪くない」
外へ出ると、王都の空は薄く洗われたみたいに澄んでいた。尖塔は傷を負いながらも立ち、崩れた屋根の間を、冬の光が縫うように走っている。遠くで子どもが泣き、どこかの家の戸が開き、スープの匂いが風に乗る。
広場の隅で、ノアがこちらを見つけて手を振った。彼女の翼はほとんど羽ばたいていないのに、空気だけが一瞬、軽くなる。セリーヌは微笑んで、頷きを返す。母親が深く頭を下げ、その後で泣き笑いを浮かべた。
「城へ戻る」
カインが短く言う。
レアが道を探し、ガルドが崩れた石の上に仮の橋をかける。リリアは神官たちに視線だけで指示を出し、手を合わせる仕草を一度だけした。祈りではない。挨拶の手だ。
城に向かう途中、カインの肩には粉塵が積もり、外套の裾は瓦礫で擦り切れていく。彼は気にしない。足取りは一定、視線は前を、時々、腕の中の彼女の呼吸の起伏を確かめるように落ちる。
「ねえ、空、見て」
「見ている」
「ちゃんと」
「……見ている」
「なら、良い」
彼は空をもう一度見る。薄い雲がひと筋、北へ流れている。彼はその線を目で追い、城の塔の方角を心の中で重ねた。塔の踊り場。欠けたカップ。午後の風。
そこに、戻る。
戻ることを前提に、今を刻む。
城門が開くと、内側の空気が別の匂いを含んで流れてきた。石の湿り、油、鍛冶場の鉄、そして台所から漏れるスープ。生きている匂いだ。
カインは真っ直ぐ台所へ向かった。鍋は既に火にかけられている。レアが先回りしてくれていたのだ。湯気がゆらめき、香草が一度だけ弾ける。
彼はセリーヌを高い作業台の端にそっと座らせ、椅子を引き寄せて寄りかからせる。彼女が目を細めると、火の色がその瞳に映り込んで、ほんの少しだけ温度が増した。
「紅茶は」
「……少しだけ」
「お前は薄い」
「でも、飲みたい」
彼は一拍だけ迷い、それから頷いた。
水。火。待ち。
彼はこれまで、彼女の所作を横目で見ていた。見ていないふりで、見ていた。今日は真っ直ぐ見て、真似をする。ポットを温め、茶葉の量を目で量り、湯を落とし、待つ時間に呼吸を合わせる。
待つ間、セリーヌは火の音を数え、カインは彼女の呼吸を数えた。数は同じにならない。だからこそ、合わせる理由がある。
「頃合い」
彼女が囁き、彼が注ぐ。
琥珀が二つのカップに分かれ、湯気が立つ。
セリーヌはカップを両手で包み、唇を寄せる――が、すぐには飲まない。湯気だけを吸って、目を閉じる。
彼女の喉が、微かな満足で震えた。彼も一口飲む。渋みは少し強い。彼の手は力を抜くのが下手だ。だが、その強さが今はありがたい。味が、彼の存在の形をそのまま残している。
「……悪くない?」
「悪くない」
「じゃあ、合格」
「上からだ」
「主様だから」
彼は目だけで笑い、火を少し弱める。
セリーヌは椅子の背に寄りかかり、カップを抱えたまま、目を細める。まぶたの裏に、聖堂の白が残像として残っている。白は怖かった。静寂も怖かった。けれど、その中で聞いた二つの呼吸が、今も耳の奥で交互に鳴っている。あの音は、帰る鍵の鈴の音だ。
「カイン」
「何だ」
「生きてる?」
「お前が問うことか」
「うん。確認」
「生きてる。……お前は」
「生きてる。ちょっと薄いけど。大丈夫、濃くなる」
「どうやって」
「鍋と、紅茶と、あなたの“悪くない”」
「足りるのか」
「足りるまで、足す」
彼は頷き、二口目を飲む。喉が上下し、肩が少し落ちる。外の風が窓の隙間で鳴り、塔の上を一度撫でていく。
レアが台所の入口に現れ、羽で軽く挨拶をする。「二人とも、死なないのが仕事だから、続けて」
ガルドが鍋の蓋を少しだけ持ち上げ、匂いを確かめる。「塩、ひとつまみ足した」
「気が利く」
「不気味だと言え」
「言わない。今日は言わない」
小さな笑いが三つ、火の上で重なる。笑いは湯気に似ている。重ねれば、部屋の空気の層が一枚厚くなり、冬の風が入ってきても、すぐに奪われない。
セリーヌはカップを置き、深く息を吐いた。胸の奥の欠片は、もう痛まない。座る角度を変えると、肩にかかった外套がじんわり重く感じられた。
カインがそれを直してやる。彼の手が彼女の首筋の髪に触れ、ほんの一瞬、止まる。止まった理由は、誰にもわからない。けれど、その止まりが、今日を今日たらしめる。
「空は」
「晴れてる」
「見た?」
「見た」
「じゃあ、祈り終わり」
「祈りは仕事だろう」
「仕事、終わり。今は、ご褒美の時間」
「ご褒美?」
「生きて戻った紅茶」
彼はわずかに目を細め、頷く。
窓の外で鳥が短く鳴き、城のどこかで鐘が一度だけ音を立てる。崩れた神殿の代わりに、ここに別の鐘の音がある。それでいい。
セリーヌは掌を胸に当て、目を閉じる。名前を自分で呼ぶ。――セリーヌ。
返事がある。小さな返事だ。だけど、確かだ。
彼女は目を開け、目の前の男を見た。銀の瞳は、彼女の顔より、時々、彼女のカップの温度に興味があるふりをする。ふりは上手い。でも、今はしない。
「ありがとう」
「何に対して」
「抱きしめてくれて」
「……命令された」
「お願い」
「頼みなら、聞く」
短い言葉が、台所の石に柔らかく落ちる。
カインは空をもう一度見上げ、すぐに彼女の額へ目を戻す。額に触れるふりをして、触れない。触れない約束の手。けれど確かに、温度は渡る。
光が消えたあとで、残るのは、体温と言葉だ。
体温は孤独を曇らせ、言葉は刃に名前を与えない。
祈りのあとで、世界は大きく変わらない。明日も寒いし、尖塔の亀裂は簡単には塞がらない。布告の紙はまだどこかに貼られている。
それでも、台所には湯がわき、二つの欠けたカップが並ぶ。
今日のところは、それで十分だ。
「明日、塔の上で」
「風、冷たい」
「茶があれば、耐える」
「じゃあ、濃くする」
「蜂蜜は」
「一滴」
二人は同時に、同じ言葉を言い、同じくらい遅れて笑った。
笑いは薄く、けれど、確かで、祈りの残響よりも長持ちした。
火は穏やかに燃え、湯気が梁に触れ、台所の空気は冬を室内に入れすぎない角度で循環している。
祈りのあとで、彼らは、生きる段取りを少しだけ思い出した。
それは、世界に対する大きな誓いではない。
ただ、明日の一杯の温度を約束する、小さな誓い。
その小ささが、崩れた神殿よりも、今、確かなものだった。
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