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第14話 終焉の聖堂、二人の誓い
しおりを挟む聖堂は、最後の呼吸を数えている生き物みたいだった。
天井の肋骨は亀裂をいくつも抱え、冬の光がその隙間から細い注射針のように降り注いでいる。床石は祈りの重さで磨かれすぎ、滑る。壁にかかった古い織物は色を落とし、そこに織り込まれた天使の顔は、もはや天と地の区別を忘れていた。
祭壇の前で、リリアが膝をついていた。
背中から立ちのぼる光は刃ではなく、しかし、まだ灯には戻りきらない。焦げる匂いと乳白の温さが交互に押し寄せ、彼女の肩を小刻みに揺らす。神官たちは遠巻きに固まり、誰も触れない。触れれば、焼けるからだ。焼けなくても、言葉が反射して自分を刺すと知っているからだ。
「……セリーヌ」
最初に私の名を呼んだのは、リリアだった。乾いた喉に言葉が擦れる。そこへ私は、いつものように小さく頷きを返す。合図。恐れに名を与えない合図。
けれど今日は、合図だけでは足りないことを、私の骨が知っていた。
“戻し”の先。
封じられた記録の末尾にだけ、墨で小さく記された一行――
――「最後の手段。源泉、魂の欠片を自ら回収す。」
言葉は短いのに、重さがあった。床に置いた鉄の塊みたいに、足元から体温を奪う重さ。
「暴走は止まりかけている」カインが低く言った。銀の瞳は祭壇と私とを往復し、声の重心は意図的に低く保たれている。「ここで手を止めろ。あとは時間で馴染む」
「時間は、街を選ばない」私は祭壇脇の石へ指をかけ、わずかに身を預ける。「時間に任せている間に、また誰かが泣く。私たちはもう、間に合わないという言い訳を使い果たした」
「言い訳ではない。判断だ」
「じゃあ、私の判断も、受け取って」
私が一歩進むと、床の亀裂がつい、と鳴った。祈りの骨が軋む音。リリアが顔を上げる。瞳の底に映るのは、疲労と、安堵と、そして決意の影だ。
「……私の中に、あなたがいる」彼女はゆっくり言う。「それは、もう、否定しない。でもこの光は、今のままじゃ誰かをまた切る。怖いの。怖いから、刃で威嚇してしまう。刃を捨てるの、手伝って」
「そのために来た」
私は祭壇の前、リリアの真正面に膝をついた。冷たさが骨に触れ、気持ちが静まる。周りの神官たちがざわめき、カインが半歩近づいて止まる。距離を測るのが上手い人。彼は境界線に立ち、世界を両側から見ている。
「手順は?」カインが問う。「“戻し”の延長か」
「似ているけれど、違う。戻すのは温度じゃなく、“欠片”そのもの。薄皮一枚分、私の魂を、私のところへ戻す」
「代償は」
代償――その言葉に、喉が少しだけ狭くなる。
私は、嘘をつかない。
「私が薄くなる。場合によっては、消える」
聖堂の空気が一段冷えた気がした。神官たちの中に滲む“ほら見たことか”の気配を、私は見ない。見れば、心が小さくなる。今日は小さくなってはいけない。器の縁を大きく、静かに。
「行けば、お前は消える」
カインの声は低い怒りに濡れていた。火ではなく、氷に近い温度の怒り。熱くないのに、触れたところから確実に体温を奪う。
「消えないように、戻ってくる」
「確約ではない」
「確約できる未来は、たいてい嘘」
「なら、嘘をつけ。今だけでいい」
私の胸の奥で、笑いが生まれ、喉の上で震えて止まった。笑ってしまえば崩れる橋もある。私は代わりに、彼の方を見ず、声をまっすぐ前へ置く。
「でも、もう一度あなたと紅茶が飲みたい」
その一言は、祈りより真剣な約束だった。
湯気は合図。消える前に届く。だから、戻る。
カインは返事をしなかった。沈黙の中で外套が微かに鳴り、拳が握られる音が空気の厚みを変える。やがて、彼はひとつ息を吐き、言葉を落とした。
「……戻ってこい」
「うん」
「どのくらい薄くなってもいいが、名前は置いていけ」
「私の?」
「俺が呼べるものを、必ず残せ」
「約束する。名前は、置いていく」
それは、二人だけの誓いのプロトコルだった。
名は刃にも鍵にもなる。帰る鍵だけは、決して手放さない。
私はリリアに向き直り、手を広げる。掌は空っぽ。触れない約束の手。
「始めよう。すこし痛い。でも、痛みは数えられる」
「うん」
彼女も掌を上げる。光が薄く浮き、乳白が指の間で呼吸する。
私は胸の奥で、封じられた記録の手順を一行ずつなぞる。
――源泉、縁をゆるめよ。
――受け手、膜を温めよ。
――欠片、呼ばれて戻る。
――呼び声は名ではない。温度だ。
私は自分の中の“私”に手を伸ばす。祈りの練習で形を覚え、台所で力を育て、霧の中で耐える術を得た“私”。
その一部が、リリアの中で刃を鈍らせる役に回っている。役割を終えたら、帰る時だ。
「返して、じゃない。戻っておいで」
私の声は、ひどく小さかった。けれど、世界にとっては充分だった。
胸骨の裏で何かが、こつ、と鳴る。
同時に、リリアの喉がゆっくり上下し、目尻に水が滲む。
「……きこえる」
「聞こえる?」
「うん。あなたの、足音みたいな声」
「じゃあ、そこを開けて」
「こわい」
「知ってる。私も、こわい」
恐れに名を与えない。ただ、温度で撫でる。
私は呼吸を三度重ね、四度目を深く。
世界が私と彼女の間で薄く、伸びる。
薄い膜の向こうで、細い光がくるりと回り、こちらへ顔を向ける。
――帰る家は、薪がある。
――欠けたカップがふたつ。
――冷たい日には、蜂蜜を一滴。
そんな、取るに足らない情報を、私は内側から送り続けた。儀式に必要なのは威厳ではなく、生活の密度だ。光は、日常を通路にする。
「いま」
私が囁く。
リリアが頷く。
ふたりの掌の間に、細い線が一本、立ち上がった。
光でも闇でもない。温度の線。
世界の真ん中に静脈を描くみたいに、それはまっすぐ延び、次の瞬間、彼女の胸と私の胸を一本の糸で結んだ。
痛みが来た。
刃ではない。裂けではない。
濡れた布を搾るとき、手のひらに走る鈍い痛み。
それが胸の奥で起きる。
私は歯を食いしばらず、ただ数えた。
――一。
――二。
――三。
呼吸に合わせて。
欠片が動く。
リリアの器の膜が、内側からなでられ、ふちが温まり、そのふちから、ひかりが、すこしだけ、はがれる。
「セリーヌ!」
カインの声が近くなった。彼が前に踏み出しかけて、止まる気配。私の誓いを思い出してくれたのだ。名前を呼べる距離を守るために、境界で踏みとどまっている。
私は彼の沈黙の重さを借り、さらに深く潜る。
欠片が、胸の内側に触れた。
懐かしい温度。紅茶の湯気の上に残っていた、あの微細な熱。
触れた瞬間、世界が少し色を取り戻す。
私が私であることの輪郭が、薄紙一枚ぶんだけ濃くなる。
「だめ!」
神官の誰かが叫び、祈りの言葉を投げる。
言葉は刃。
だが今は届かない。
床石が、ふたりの足もとで光を広げる。
古い聖堂が、最後の仕事として、通路の両側に灯りをともす。
「もう少し」
「うん……来てる、来てる」
リリアの肩が震え、涙が一筋、頬を伝う。
私の胸に入ってくる光は、きれいではなかった。
焦げの匂いが混じり、刃の粉が浮き、小石みたいにごつごつしている。
私はそれを、拒まない。
湯に沈め、塩をひとつまみ、香草を指で潰して混ぜ、台所のやり方で、ひとつずつほどいていく。
祈りは、生活の延長だ。
生活を知らない祈りは、刃になる。
「セリーヌ、足りないなら俺の――」
カインの声がそこで切れた。
彼は自分の提案がどんな矛盾を孕むか、一瞬で理解したのだろう。光に闇を差し出しても、温度は合わない。
代わりに彼は私の背後で、世界の騒音を抑える。外套が風を制し、霧が聖堂の隙間風をふさぎ、余計な冷えを追い払う。
彼が作る静けさの中で、欠片は迷わず進む。
「セリーヌ……」
リリアの声はもう刃の厚みを失っていた。
その代わりに、震える優しさが混ざる。
彼女は恐れと共に生きてきた。
私もそうだった。
恐れは名前を欲しがる。
今、私たちはそれに合図を重ね、名を与えずに通り過ぎている。
「帰るね」
「……うん。返す」
「違う。あなたから奪うんじゃない。あなたを軽くするだけ」
「軽く、なりたい」
「そのために、紅茶がある」
リリアが泣き笑いをした。
涙は光を歪め、歪んだ光はやわらかくなる。
欠片の最後の先端が、私の胸へ滑り込む。
瞬間、耳の奥で鐘の音が鳴った。
低く、深く、ひびの入った鐘。
聖堂のどこにそんな鐘が残っていたのか、私にはわからない。
けれど、その音は世界の骨を撫で、崩れかけていた梁をそっと押し上げた。
光が、私の中で居場所を見つける。
取り戻した、という単語は、この時だけ、正しく、美しかった。
私は息を吐く。
吐息が白くなり、すぐ消える。
消えるものは、怖くない。
消える前に、届いたから。
――戻った。
私が頷くのと、聖堂が応えるのは、ほとんど同時だった。
天井の亀裂が光を吐き、祭壇の上に透明な波が広がる。床石の目地から薄い光が立ち、古い織物に残った天使の顔がふっと笑ったように見えた。
世界が、静かになった。
静けさは、終わりの別名であり、はじまりの別名でもある。
「……生きてるか」
カインの声が、すぐ近くで落ちた。
私は振り向く。
彼の顔が、思ったより近い。銀の瞳に私が映り、焦げた外套の袖が私の肩の上で止まる。
「生きてる。名前は、ここ」
私は喉を押さえ、笑う。「セリーヌ。欠けあり、欠片あり」
「悪くない」
その返しに、胸があたたかくなる。
彼の掌が、空気ごと私を包む。触れない約束の手。けれど、確かに温度を渡す手。
「リリア」
私は振り返る。
彼女は床に手をつき、深く息をしていた。背から立ちのぼる光は刃ではなく、弱い灯。灯は頼りないけれど、寒さに抗う唯一の術だ。
彼女は顔を上げ、私とカインを見て、小さく頷いた。
「……ありがとう。あなたのせいよ、全部。でも、うん、今はそれで、いい」
「うん。全部私のせい。半分は、あなたの選択」
「もう半分は?」
「明日の紅茶」
彼女が噴き出す。涙と一緒に、笑いがこぼれる。
笑いは、聖堂の壁を軽く叩いて、すぐに天井へ上がった。
「さあ、帰ろう」
カインが言う。
帰る――その響きが、私の胸の奥で二度跳ねる。
私は頷き、立ち上がる。膝が少し震える。薄くなったのは事実だ。けれど、消えてはいない。名前は喉に、紅茶の温度は舌に、帰る鍵は胸にある。
その瞬間だった。
聖堂の奥――封印の間へつながる壁の向こうから、白い光が湧いた。
“暴走”ではない。
“帰還”でもない。
説明のつかない純粋な、光。
それは祈りの古層から浮かび上がるように広がり、瞬く間に祭壇を、私たちを、神官たちを、外で待つ人々を、王都の屋根と煙突を、雪の気配を、尖塔の亀裂を、すべてを包んだ。
視界が白に満ちる。
音が、ひとつずつ退場していく。
靴音、布の擦れる音、誰かの嗚咽、風の通り道、石の軋み、鐘の余韻。
最後に残ったのは、私の呼吸と、彼の呼吸。
その二つが交互に、あるいは同時に、白の中へ吸い込まれていく。
「セリーヌ」
「うん」
「戻ってこい」
「戻る。――紅茶、淹れる」
「濃く」
「蜂蜜、一滴」
光の中で、二人の誓いは、紙の上の文字みたいに薄く、しかし消えずに残った。
世界は静寂に沈み、静寂は、湯が沸く前の水面に似ていた。
まだ音にならない小さな泡が、底で生まれ、誰にも見えない約束を数え始める。
私は目を閉じ、胸の鍵に触れた。
――セリーヌ。
呼ばれれば、応える。
光がさらに深くなり、静けさが一段濃くなる。
そして私たちは、白の中で、次の一口の温度を、同じ想像で確かめ合った。
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