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第17話 風が運ぶ声
しおりを挟む冬の底は、音が薄い。
黒曜の壁に触れる指先が、石の無表情をそのまま拾い上げるだけで、何も返してこない朝が続いた。台所では湯がわくが、湯気は天井の梁で迷ってすぐ消える。庭は凍り、雪は夜の形をそのまま写して朝に渡す。
それでも――準備は、続けていた。
ガルドは無骨な手で球根の寝床を増やし、レアは羽で霜を払い、孤児たちは小さな掌で土の上に息を吹きかけた。カインは夜ごと庭に降り、土に手を当てる。命令でも祈りでもない、ただの報告の形で「咲け」と言い、土が返事をしないことにうなずき続けた。
その日、風は東から来た。
乾いたはずの空気に、わずかな甘さが混じる。雪雲は遠く、空は硝子を磨いたみたいに澄んでいる。庭の隅――秋にセリーヌが子どもたちと埋めた小さな列の、真ん中あたり。
そこに、ひとつの花が咲いた。
色は、薄い。
白に近い淡い黄色。花弁は冷たい空気を怖がるようにきゅっと閉じかけて、でも、やめないで開く。土の冷たさを押し返すみたいに、茎が最小限だけ立ち上がる。
誰が最初に気づいたのか、あとで話すたびに違った。レアは「羽の先に触れた空気の厚さでわかった」と言い、ガルドは「足下の土の力が一瞬、変わった」と言い、孤児たちは口々に「におい」「光」「音」と言った。
カインは――音で目を上げた。
花弁から、声がしたのだ。
柔らかくて、薄い。湯気がことばになったみたいな声。
“カイン、紅茶が冷めちゃいますよ”
時間は音を失い、世界が一瞬、白に戻る。
彼の喉は驚くほど素直に反応し、痛むくらい早く息を吸い、止めた。胸の奥で何かが崩れ、同時に立ち上がる。涙は、命令に従わない部下のように勝手に滲み出して、頬の上をまっすぐ落ちた。
涙は似合わない、と彼女は言った。
似合わないからこそ、今は正しい。
「……セリーヌ」
名前が、鍵穴に触れた。
花の上に、光の粒がひとつ落ちる。
やがて二つ、三つ。
庭の空気が微細に震え、冬の光に混ざって、砂糖を溶かすみたいな速度で粒が集まり始める。子どもたちが固く息を止め、レアが羽音を小さく抑え、ガルドは剣の柄から指を離す。
粒は花の上で渦を作らない。渦は派手すぎる。
ただ、積層する。
やわらかな層が、薄紙を重ねるみたいに重なって、誰かの輪郭の意図だけが先に立ち上がる。
カインは膝を折った。
土の冷たさが布越しに骨へ上がる。花に指を伸ばしそうになって、止める。触れたいものに触れない術を、彼は学んでいた。触れずに伝える温度の置き方を、彼女に教わっていた。
“カイン、紅茶が”
声はもう一度だけ重なり、今度は風がそれをつかんで、踊り場へ、窓へ、台所へ、城の細い静脈へと運んだ。
香りが、遅れて追いつく。蜂蜜を一滴だけとかした午後の残り香。錯覚だ、と言い切れば楽だが、そう言った瞬間に世界の半分を捨てることになる。
光の粒が、形に寄る。
指、手首、肘。肩。
胸のあたりで、一瞬だけ、粒がためらう。――そこは、欠片がいったりきたりした場所だから。
ためらいは、彼女の癖だ。ためらったあとで、ちゃんと選ぶ。
粒が決断して、薄い膜の上に落ちる。輪郭がやわらぎ、色が戻る。
髪。
まつげ。
微笑む前の唇の線。
そして、彼の名前を呼ぶための、喉。
「……カイン」
どうして、初めてみたいに震えるのだろう。
何度も呼ばれた。何度も呼んだ。
でも、今、冬を割って届いたその二音は、世界の継ぎ目をすこしだけ縫い直す音を持っていた。
彼は立ち上がる。動作に迷いはない。迷いがない代わりに、ゆっくりだ。静かに近づいて、掌を胸の前に止める。触れない。
触れなくても、伝わる。
「遅い」
言葉は短く、しかし、彼の中の長い時間を抱えている。
セリーヌは笑った。冬の庭で咲く花びらの縁のように、薄く、確かに。「ごめん。……迷子になった」
「鍵を置いていけと言った」
「置いていったよ。ほら」
彼女は自分の胸を指で軽く叩いた。そこに、微かな鈴のような響きがある気がした。
子どもたちが歓声を上げかけて、庭の空気が壊れないように口を押さえた。レアは涙を両手で受け止めるみたいに翼を前に重ね、ガルドは人に見られない角度で空を仰ぐ。
「……寒くないか」
「寒い。でも、帰ってきた匂いがする」
「匂い?」
「土と、火と、あなたの“悪くない”」
彼はうなずいた。
言葉が少なくても、伝わる。
セリーヌは歩き出そうとして、小さくよろめいた。光の粒がまだ彼女の足元で仕事をしていて、骨と温度の間を丁寧に縫い合わせている。
カインは半歩、前へ。支える前に、彼女が自分の重心を探すのを待つ。待つのは難しい。けれど、今はそれが正しい。
「紅茶、ね」
「冷めている」
「想像で温める」
「想像は薄い」
「薄いから、今はちょうどいい」
庭の花びらが一枚、風にほどける。
ほどけた薄片が空へ上がり、そこに残っていた光の欠片を一粒、連れていった。空の高いところで、白が一瞬、やわらぐ。
セリーヌは花に膝をつき、指の腹で土を撫でた。
「ありがとう。……ここまで連れてきてくれて」
花は答えない。けれど、花の沈黙はうれしい。沈黙の種類が違う。拒む沈黙ではなく、受け取る沈黙。
彼女は立ち上がり、まっすぐカインを見た。「帰ろう」
「城は変わっていない」
「変わって見えるでしょう?」
「お前がいれば、そうだ」
「……ずるい」
ずるいと言いながら、彼女の目尻はうれしさで濡れた。
城に戻る道すがら、孤児たちが少しずつ距離を詰める。触れない約束を覚えているのか、指先が空中で止まる。セリーヌは笑って、空気を撫でるみたいに手を振る。
「おねえさん」「セリーヌ」「ほんとに?」
ほんと。
ほんとの重さは、軽い。
レアが横に並び、羽の先で彼女の袖口を整えた。「帰還、おめでとう」
「ただいま」
「遅刻」
「罰は?」
「一週間、砂糖抜き」
「鬼」
「悪魔」
ふたりのやり取りに、ガルドが鼻を鳴らした。「主様、夜番の配置、変更します」
「必要なだけにしろ」
「……はい」
台所は、帰る場所の匂いがした。
火床の熱がゆっくり広がり、濡れた薪の一番弱い部分だけがちりちりと鳴る。棚の一番奥――セリーヌがよく手を伸ばしていた位置には、レアがこっそり入れ替えておいた茶葉がある。蜂蜜は残り少ないが、一滴はまだ出せる。
セリーヌは椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置いて呼吸を整えた。光の縫合は終わり、代わりに身体中の小さな疲労が順番に顔を出してくる。
カインは火を整え、ポットを温め、水を上げる。
手つきは不器用ではない。誰かの見様見真似には見えないくらい、彼の動作には彼自身のリズムが宿っている。待ちの長さも、湯の落とし方も、セリーヌのやり方と違う。違いがうれしい。違いは生きている印だ。
「今日は、濃くしすぎないで」
「薄くすると怒る」
「薄い日があっていい。今日は薄い日」
「……了解」
湯気が立つ。
湯気は、帰還ののろし。
セリーヌは目を閉じて、それを吸い込む。喉に落ちる前の温度を味わい、胸骨の内側で小さくうなずく。
彼はふたつのカップに琥珀を注ぎ、欠けの位置を覚えている通りに置く。
「蜂蜜は」
「一滴」
「許可する」
「主様の許可は重い」
最初の一口は、彼女が。
次の一口は、彼が。
ふたりの喉が交互に上下し、火の音と風の筋と重なって、台所に新しい心拍が生まれる。
セリーヌはカップを置き、長い息を吐いた。息は白くならない。室内の温度が、帰ってきたことを教えてくれる。
「……泣いた?」
「泣いていない」
「じゃあ、濡れてるのは霧?」
「湯気」
「うん。湯気なら、すぐ消える」
「消えるものは、怖くない」
「消える前に、届くから」
言葉を投げ合うたび、城の壁が少しだけ音を取り戻す。廊下を走る小さな足音が近づき、すぐ遠ざかる。笑いが一度だけ戸口で跳ね、レアの「走らない」がその後を追いかける。
カインはセリーヌの額に視線を落とす。指を伸ばしそうになって、やめる。代わりに、火を弱める。
「痛むところは」
「大丈夫。……でも、少し、怖い」
「何が」
「また迷子になること」
彼は短くうなずく。湯気が彼の頬を撫でて消える。「鍵は置いていけ」
「置いてある。あなたの言葉の中に」
「俺の言葉は少ない」
「だから、覚えやすい」
沈黙は、怖くない。
この沈黙は、空いた席に湯気が立ち上がるまでの、短い待ち時間に似ている。
セリーヌは立ち上がり、まだ指の中に残る震えを誤魔化さずに、戸口の方へ向かった。庭へ。
カインも続く。
外気は冷たい。けれど、庭の真ん中、小さな花の上には別の温度がある。花弁の陰に、微かな朝露。陽の光が角度を変えるたび、露は小さな虹のふりをして消える。
「ここに、最初の声を置いたのね」
セリーヌは花に囁く。
「風に運んでもらった」
「風は、仕事が早い」
彼女は、小さな袋から粉末の香草を少し取り出し、花の根元の土に混ぜた。
「何だ」
「約束の味。春の味。……待つための味」
「待つのは嫌いだ」
「好きにならなくていい。できればいい」
彼は首を傾け、花を見る。
「俺が壊した世界に、花は咲かぬのか、と思っていた」
「壊すのは仕事のときがある。でも、壊しっぱなしは下手の仕事」
「直すのは、誰の仕事だ」
「ここにいる人たち。あなた。私。……この子も」
小さな花弁が、風もないのに一枚だけ震えた。
彼は、笑わない。笑わないが、声の端が柔らかくなる。「悪くない」
城の鳩時計が一度鳴り、遠くで鍛冶場の槌が音を打つ。日常が戻る音は、派手ではない。
孤児たちが列を作って庭に下り、ひとりずつ花の前で立ち止まる。泣かないように、と誰も言わないのに、泣く子は泣き、泣かない子は鼻をすすり、笑う子は笑った。
セリーヌはひとりひとりに目を合わせ、短い言葉を置く。「よく待った」「えらい」「今夜は塩をひとつまみ増やそう」
レアが羽を広げ、ガルドが腕を組んだまま「うるさい」と言って、口元の線を緩めた。
午後、塔の踊り場。
風は弱く、空は浅い青。
セリーヌは椅子に座り、カインは欄干に肘を置く。二つのカップから上がる湯気が、同じ高さでほどける。
「ねえ、カイン」
「何だ」
「もし、また迷子になったら」
彼は遮った。「戻ってこい」
「戻る。でも、見つけられなかったら」
「鍵は」
「置く」
「なら、見つける」
彼女は笑い、頷く。
「風に頼む?」
「頼らない。……だが、借りる」
「ずるい」
「俺は魔王だ」
「魔王、ずるい」
短いやり取りの間に、彼は彼女を見続けていた。生きている色。薄く戻った頬の温度。息の速度。
そして、心の中で一度だけ、誰にも聞こえない声で言う。
――帰れ。毎回、帰ってこい。湯気が消える前に。
風が、合図のように踊り場を抜けた。花の咲いた庭を撫で、塔の影をくぐり、城門の上を越えて、どこか遠くへ細く伸びていく。
その風の先に、いつかの冬の底に、彼らの準備が届くかもしれない。届かないかもしれない。
それでも、今日の湯気は、十分に温かい。
「紅茶、冷めちゃいますよ」
セリーヌが同じ台詞を、今度はここで言った。
カインはカップを持ち上げ、渋みのちょうどいい温度でそれを飲む。
「悪くない」
「合格」
彼らは同時に、同じくらい遅れて笑った。
風はそれを拾い上げ、庭の花に触れて、小さな花弁をもう一枚だけ震わせた。
冬はまだ続く。
けれど、風が運ぶ声は、もう迷わない。
次の一杯の温度を、誰もが知っているから。
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