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第18話 君が淹れた紅茶の味
しおりを挟む記憶の欠け目は、朝の白に似ていた。
窓辺に薄く広がる光のように、“ない”という事実が静かに居座る。痛くはない。けれど、寂しい。寂しさは、指の間からこぼれる砂みたいに、ふとした時に音を立てる。
目覚めたとき、私は自分の手の甲を眺めていた。皮膚の薄さ、傷の配列、火に当たりすぎた日の乾き。全部、知っているのに、いくつかの出来事が抜け落ちている。誰かの笑い声の高さ、泣き顔の順番、塔の踊り場で言った言葉の重さ――その辺りが霧に包まれている。
「――大丈夫?」
レアの羽が枕元でさわり、と鳴った。
「大丈夫。どこも痛くないのに、頭の中だけ、冬って感じ」
羽の先が笑う。「冬は悪くない。空気が澄む」
「澄みすぎると、音が遠いの」
彼女は小さく頷き、「台所、来る?」と聞いた。
「行く」
足を床に下ろすと冷たさが骨に触れ、そこから逆に生きている感じが上ってくる。私は外套を羽織り、廊下を歩いた。石の目地、灯りの揺れ、遠くの鍛冶の音――一つひとつは馴染み深いのに、並べ方を忘れたパズルみたいだ。
台所の扉を押す。
火はもう起きていた。鍋のふちに小さな泡、香草が弾ける軽い音。棚の一番奥に置いた茶葉の袋――手が自然に伸びる。袋の縫い目を右の親指で触れて、それから左へ。指が覚えている。覚えているのに、心が一歩遅れて追いつく。
カインがいた。
いつも通り、という顔で、いつも通りじゃない目。私を見る前から気配で測って、それで足音を半歩ずらす人。
「起きたか」
「……はい」
声が自分のものに戻る感覚が、一拍遅れて胸に届く。
私は袋の紐をほどいた。
ふわり、と香りが立つ。乾いた果肉みたいな甘さと、焦げの手前で止めた木の渋さ。香りに触れた瞬間、喉の奥がきゅっとなる。
――知っている。
体が先に頷いた。心が遅れて涙を作った。
「どうしてだろう」
目頭が熱い。泣くと決めたわけじゃないのに、涙は人の意思より働き者だ。
カインが火を弱める。火の音が一段落ちる。
私は慌てて袖で目を押さえた。「ごめん、なんでもないの。ただ、この匂い、胸の内側が……」
言葉がほどけて、こぼれる。「この味、どうしてか、胸が温かくなるんです」
沈黙。火のはぜる音だけが、台所の天井に丸い色を投げる。
カインは少しの間、私の涙の速度を見つめ、それからふっと目を細めた。
「それはお前が淹れた茶だからだ」
短い言葉が、蓋になった。
心の中で煮えそうになっていたものが、ふつふつと落ち着く。
「……私が」
「お前の手の温度で、棚の奥の順番で、待ちの長さで。茶は、お前の記憶の形をしている」
レアが背で笑いを噛んで、「名言」と小声。ガルドが通りがかりに「主様の台詞帳に書いとけ」と呟いて去る。言葉が流れ、台所が呼吸を思い出す。
私は深呼吸をして、ポットを温めた。
湯の底で泡が増え、白い息が生まれる。茶葉をひとつまみ――指が勝手に慣れた量を掴む。重さは親指の腹と人差し指の根元で測る。落とす。湯を注ぐ。音の高さで、今日の“待ち”を決める。
待っている間、記憶の欠け目が少しだけ色づく。台所で笑っていた誰か、鍋の向こうで羽をばたつかせていた誰か、小さな角の子が「味見」を口実に何度も匙を伸ばして怒られた場面――その具体が、ひとつ、ひとつ、戻ってくる。たぶん全部は戻らない。それでも、帰ってくる分はある。
頃合い。
私は息を合わせ、カップへ琥珀を注いだ。湯気が立ちのぼる。甘さが鼻に触れ、その甘さに、遠い鐘の音が薄く混じる。
「……どうぞ」
彼の前に置く。欠けの位置を彼の指に合わせる。小さな合図。
カインはカップを持ち上げ、横顔のまま一口飲んだ。喉が動く。彼の喉の動きはいつも一定で、怒りや不安を飲み込むときだけ一拍遅れる。今は、遅れない。
「悪くない」
「合格?」
「上からだ」
「主様だから」
私は自分のカップを両手で包み、湯気だけを先に吸った。
どうしてだろう。
渋みの縁に触れた瞬間、胸骨の裏がじん、と温かくなる。味は、私を知っている。私のした選び方を、そのまま舌の上に置いてくる。塩梅、という言葉はスープだけのものじゃない。生きる加減、という意味ではこちらのほうがずっと近い。
「思い出す?」
レアが羽の影から覗く。
「少しずつ。……全部じゃなくていい。戻ってくるものと、もう別の誰かになっているものと、両方がある気がする」
「別の誰か?」
「昨日の私、ってやつ。昨日の私が誰かは、もう今日の私とは別人だから」
ガルドが鼻で笑う。「哲学禁止」
「鍋がすねる」
「すねさせておけば味が出る」
言い合う声に、台所の梁が嬉しそうにきしむ。孤児たちの足音が戸口に溜まり、しかし遠慮して入ってこない。私は手招きをした。
「味見は一人一口」
歓声。列。レアが「順番!」と羽を広げ、ガルドが「並べ」と顎で指す。子どもたちの頬は冬の赤で、目の奥に残った泣き腫れが薄らぎつつある。
丸いカップを両手で持つ小さな指。湯気を恐る恐る吸う鼻。舌にのせる前の誓いの顔。
「あったかい」
「甘いにおい。……砂糖入ってないのに」
「泣きそう」
「泣いていいよ」
泣く子と笑う子が隣り合い、湯気の輪の中で肩が触れる。その触れ方が、冬の正しい答えだ。
私の記憶は、彼らを順番通りには思い出せない。けれど、名前を呼ぶ時だけ、呼び方の高さを間違えない。鼓膜が、先に覚えている。
台所の片隅、カインが黙ってこちらを見ていた。視線は熱を持たないふりをするけれど、銀の奥では焦げる寸前の金色がきらりと光る。
私はカップを持ち直し、彼の方へ半歩だけ近づく。
「ねえ」
「何だ」
「私、忘れてるけど……あなたの“悪くない”、聴いたことある」
「そうだろう」
「どうして?」
「毎日言っていた」
「毎日?」
「時々は日に二度」
笑う。涙が笑いに混ざって、味が少し塩っぽくなる。
「忘れてても、いい?」
「いい。忘れることで、残ることがある」
「何が残るの?」
「手つき、待ちの長さ、湯気の吸い方」
「具体的」
「俺は抽象が嫌いだ」
午前の光は薄く、廊下の先に小さな銀の尻尾を作っている。私は立ち上がり、外套の裾を指でつまんだ。
「庭、行ってもいい?」
「風が冷たい」
「冷たい匂いが、思い出を呼ぶ時がある」
カインはうなずき、外套を私の肩に掛けた。外套は大きくて、重くて、落ち着く。重さはときどき優しさの別名だ。
庭は、まだ冬の顔だった。
花壇の端の土は硬く、ガルドがつけた掘り返しの跡が筋になって残っている。その真ん中、一本だけ、薄い黄色が息をしていた。あの日の花。風が弱いのに花弁が微かに震える。生きているものは、理由を持たずに揺れる。
「ここから、声がした気がする」
私はしゃがみ、花に眼線を合わせた。
「した」
「あなたに?」
「俺に」
「ずるい」
「俺は魔王だ」
「魔王、ずるい」
くり返されるやり取りは、断面の違うパンのように同じで違う。今日の噛みごたえは、今日しかない。
花の根元に、土の匂いと、乾いた香草の粉の匂いが混じっている。私は指先で少し掬い、鼻に近づけた。
――ここで、何かを約束した。
曖昧なのに確か。胸の底がうずく。紙に書いた文字を読み上げる前、舌が言葉の硬さを量る、あの瞬間に似ている。
「私、忘れてる」
「知っている」
「でも、ここで何かを……」
「俺に『紅茶が冷める』と言った」
頬が熱くなる。
「……言いそう」
「言っていた」
笑いが二人の間に置かれ、風がそれを撫でた。
午後、塔の踊り場。
空は浅い色、風は細く、世界全体が“待ち”の姿勢を取っている。
私は椅子に座り、カインは欄干に肘。欠けたカップが二つ。
「もう一度、私に教えて」
「何を」
「ここでの、一日の味」
彼は少し考え、指を折った。
「朝に湯を起こす。子に粥。火を弱める。庭に手。昼は鍛冶の槌で時を知る。夕方に風。夜に祈りを短く」
「紅茶は?」
「朝と、雨と、迷いの前」
胸の奥で鈴が鳴る。名を呼ばれた鍵の音。
「忙しいね」
「お前が来てから忙しい」
「嫌?」
「……悪くない」
私はカップを両手で包み、湯気を吸ってから、少しだけ喉へ落とした。
記憶のない私は、この味を初めて飲むみたいに驚く。記憶のある私は、この味に再会するみたいに泣く。二人の私が重なって、ひとつの胸になって、温度を分け合う。
「ねえ、カイン」
「何だ」
「私の“忘れ”が、あなたに迷惑をかける」
「かけている」
「怒る?」
「選ぶ。怒りより、段取りを」
「段取り」
「鍋と同じだ。湯が沸く前に塩を入れるか、後か。覚えている誰かが、覚え直している誰かの横に立つ」
「横に、立ってくれる?」
「頼みなら、聞く」
「お願い」
「了解」
沈黙。風。鳥の影。
私の胸の鍵は、今日もうまく鳴る。鳴らせるのは、私だけじゃない。棚の奥の順番を知っている人、火の音で“待ち”を測れる人、湯気の高さで会話ができる人。
私は記憶を全部、取り戻せないかもしれない。
でも、今日の味は、私の手で作れる。
それで十分だ。
明日の味は、明日の私と作ればいい。
そして、彼が「悪くない」と言うかどうかを聞けばいい。
「ねえ」
「また何だ」
「あなたが淹れた紅茶も、好き」
カインは目を細めた。「根拠は」
「渋いところで止めるのが上手い。……怖い味を、手前で止める」
「褒めるな」
「じゃあ、またお願い。明日、あなたが淹れて。私が横で、湯気を吸うから」
「命令でもない。……頼みなら、聞く」
夕暮れが近づくにつれて、空の色が薄く糖衣をまとったみたいに変わる。風が少し甘い。庭の花は花弁を半分閉じ、それでも立っている。
記憶の欠け目に、今日の紅茶の湯気がうっすら溜まっていく。消える前に、温める。温めたあとに、次を作る。
それが、私の生き直し方だ。
私は立ち上がり、踊り場の端で空を見上げた。
「――明日の味、楽しみにしてる」
「期待は面倒だ」
「生きるのは、だいたい面倒です」
彼は息を吐き、短く笑って、頷いた。
「悪くない」
その返事だけで、胸の内側がもう一度、温かくなる。
君が淹れた紅茶の味。
それは、私が淹れた紅茶の味と、同じ道で、違う景色を連れてやって来る。
ふたつが並んで、冬の夜を渡る湯気になる。
その湯気の高さを、私たちはもう知っている。
忘れても、また、淹れればいい。
――いつでも、ここで。
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