追放された聖女、今では魔王の隣でティータイムを楽しんでいます

タマ マコト

文字の大きさ
18 / 20

第18話 君が淹れた紅茶の味

しおりを挟む


 記憶の欠け目は、朝の白に似ていた。
 窓辺に薄く広がる光のように、“ない”という事実が静かに居座る。痛くはない。けれど、寂しい。寂しさは、指の間からこぼれる砂みたいに、ふとした時に音を立てる。

 目覚めたとき、私は自分の手の甲を眺めていた。皮膚の薄さ、傷の配列、火に当たりすぎた日の乾き。全部、知っているのに、いくつかの出来事が抜け落ちている。誰かの笑い声の高さ、泣き顔の順番、塔の踊り場で言った言葉の重さ――その辺りが霧に包まれている。

 「――大丈夫?」

 レアの羽が枕元でさわり、と鳴った。
 「大丈夫。どこも痛くないのに、頭の中だけ、冬って感じ」
 羽の先が笑う。「冬は悪くない。空気が澄む」
 「澄みすぎると、音が遠いの」

 彼女は小さく頷き、「台所、来る?」と聞いた。
 「行く」
 足を床に下ろすと冷たさが骨に触れ、そこから逆に生きている感じが上ってくる。私は外套を羽織り、廊下を歩いた。石の目地、灯りの揺れ、遠くの鍛冶の音――一つひとつは馴染み深いのに、並べ方を忘れたパズルみたいだ。

 台所の扉を押す。
 火はもう起きていた。鍋のふちに小さな泡、香草が弾ける軽い音。棚の一番奥に置いた茶葉の袋――手が自然に伸びる。袋の縫い目を右の親指で触れて、それから左へ。指が覚えている。覚えているのに、心が一歩遅れて追いつく。

 カインがいた。
 いつも通り、という顔で、いつも通りじゃない目。私を見る前から気配で測って、それで足音を半歩ずらす人。
 「起きたか」
 「……はい」
 声が自分のものに戻る感覚が、一拍遅れて胸に届く。

 私は袋の紐をほどいた。
 ふわり、と香りが立つ。乾いた果肉みたいな甘さと、焦げの手前で止めた木の渋さ。香りに触れた瞬間、喉の奥がきゅっとなる。
 ――知っている。
 体が先に頷いた。心が遅れて涙を作った。

 「どうしてだろう」
 目頭が熱い。泣くと決めたわけじゃないのに、涙は人の意思より働き者だ。
 カインが火を弱める。火の音が一段落ちる。
 私は慌てて袖で目を押さえた。「ごめん、なんでもないの。ただ、この匂い、胸の内側が……」
 言葉がほどけて、こぼれる。「この味、どうしてか、胸が温かくなるんです」

 沈黙。火のはぜる音だけが、台所の天井に丸い色を投げる。
 カインは少しの間、私の涙の速度を見つめ、それからふっと目を細めた。
 「それはお前が淹れた茶だからだ」

 短い言葉が、蓋になった。
 心の中で煮えそうになっていたものが、ふつふつと落ち着く。
 「……私が」
 「お前の手の温度で、棚の奥の順番で、待ちの長さで。茶は、お前の記憶の形をしている」
 レアが背で笑いを噛んで、「名言」と小声。ガルドが通りがかりに「主様の台詞帳に書いとけ」と呟いて去る。言葉が流れ、台所が呼吸を思い出す。

 私は深呼吸をして、ポットを温めた。
 湯の底で泡が増え、白い息が生まれる。茶葉をひとつまみ――指が勝手に慣れた量を掴む。重さは親指の腹と人差し指の根元で測る。落とす。湯を注ぐ。音の高さで、今日の“待ち”を決める。
 待っている間、記憶の欠け目が少しだけ色づく。台所で笑っていた誰か、鍋の向こうで羽をばたつかせていた誰か、小さな角の子が「味見」を口実に何度も匙を伸ばして怒られた場面――その具体が、ひとつ、ひとつ、戻ってくる。たぶん全部は戻らない。それでも、帰ってくる分はある。

 頃合い。
 私は息を合わせ、カップへ琥珀を注いだ。湯気が立ちのぼる。甘さが鼻に触れ、その甘さに、遠い鐘の音が薄く混じる。
 「……どうぞ」
 彼の前に置く。欠けの位置を彼の指に合わせる。小さな合図。
 カインはカップを持ち上げ、横顔のまま一口飲んだ。喉が動く。彼の喉の動きはいつも一定で、怒りや不安を飲み込むときだけ一拍遅れる。今は、遅れない。

 「悪くない」
 「合格?」
「上からだ」
 「主様だから」

 私は自分のカップを両手で包み、湯気だけを先に吸った。
 どうしてだろう。
 渋みの縁に触れた瞬間、胸骨の裏がじん、と温かくなる。味は、私を知っている。私のした選び方を、そのまま舌の上に置いてくる。塩梅、という言葉はスープだけのものじゃない。生きる加減、という意味ではこちらのほうがずっと近い。

 「思い出す?」
 レアが羽の影から覗く。
 「少しずつ。……全部じゃなくていい。戻ってくるものと、もう別の誰かになっているものと、両方がある気がする」
 「別の誰か?」
 「昨日の私、ってやつ。昨日の私が誰かは、もう今日の私とは別人だから」

 ガルドが鼻で笑う。「哲学禁止」
 「鍋がすねる」
 「すねさせておけば味が出る」
 言い合う声に、台所の梁が嬉しそうにきしむ。孤児たちの足音が戸口に溜まり、しかし遠慮して入ってこない。私は手招きをした。
 「味見は一人一口」
 歓声。列。レアが「順番!」と羽を広げ、ガルドが「並べ」と顎で指す。子どもたちの頬は冬の赤で、目の奥に残った泣き腫れが薄らぎつつある。
 丸いカップを両手で持つ小さな指。湯気を恐る恐る吸う鼻。舌にのせる前の誓いの顔。
 「あったかい」
 「甘いにおい。……砂糖入ってないのに」
 「泣きそう」
 「泣いていいよ」
 泣く子と笑う子が隣り合い、湯気の輪の中で肩が触れる。その触れ方が、冬の正しい答えだ。

 私の記憶は、彼らを順番通りには思い出せない。けれど、名前を呼ぶ時だけ、呼び方の高さを間違えない。鼓膜が、先に覚えている。
 台所の片隅、カインが黙ってこちらを見ていた。視線は熱を持たないふりをするけれど、銀の奥では焦げる寸前の金色がきらりと光る。
 私はカップを持ち直し、彼の方へ半歩だけ近づく。
 「ねえ」
 「何だ」
 「私、忘れてるけど……あなたの“悪くない”、聴いたことある」
 「そうだろう」
 「どうして?」
 「毎日言っていた」
 「毎日?」
 「時々は日に二度」

 笑う。涙が笑いに混ざって、味が少し塩っぽくなる。
 「忘れてても、いい?」
 「いい。忘れることで、残ることがある」
 「何が残るの?」
 「手つき、待ちの長さ、湯気の吸い方」
 「具体的」
 「俺は抽象が嫌いだ」

 午前の光は薄く、廊下の先に小さな銀の尻尾を作っている。私は立ち上がり、外套の裾を指でつまんだ。
 「庭、行ってもいい?」
 「風が冷たい」
 「冷たい匂いが、思い出を呼ぶ時がある」
 カインはうなずき、外套を私の肩に掛けた。外套は大きくて、重くて、落ち着く。重さはときどき優しさの別名だ。

 庭は、まだ冬の顔だった。
 花壇の端の土は硬く、ガルドがつけた掘り返しの跡が筋になって残っている。その真ん中、一本だけ、薄い黄色が息をしていた。あの日の花。風が弱いのに花弁が微かに震える。生きているものは、理由を持たずに揺れる。

 「ここから、声がした気がする」
 私はしゃがみ、花に眼線を合わせた。
 「した」
 「あなたに?」
 「俺に」
 「ずるい」
 「俺は魔王だ」
 「魔王、ずるい」
 くり返されるやり取りは、断面の違うパンのように同じで違う。今日の噛みごたえは、今日しかない。

 花の根元に、土の匂いと、乾いた香草の粉の匂いが混じっている。私は指先で少し掬い、鼻に近づけた。
 ――ここで、何かを約束した。
 曖昧なのに確か。胸の底がうずく。紙に書いた文字を読み上げる前、舌が言葉の硬さを量る、あの瞬間に似ている。
 「私、忘れてる」
 「知っている」
 「でも、ここで何かを……」
 「俺に『紅茶が冷める』と言った」
 頬が熱くなる。
 「……言いそう」
 「言っていた」
 笑いが二人の間に置かれ、風がそれを撫でた。

 午後、塔の踊り場。
 空は浅い色、風は細く、世界全体が“待ち”の姿勢を取っている。
 私は椅子に座り、カインは欄干に肘。欠けたカップが二つ。
 「もう一度、私に教えて」
 「何を」
「ここでの、一日の味」
 彼は少し考え、指を折った。
 「朝に湯を起こす。子に粥。火を弱める。庭に手。昼は鍛冶の槌で時を知る。夕方に風。夜に祈りを短く」
 「紅茶は?」
 「朝と、雨と、迷いの前」
 胸の奥で鈴が鳴る。名を呼ばれた鍵の音。
 「忙しいね」
 「お前が来てから忙しい」
 「嫌?」
 「……悪くない」

 私はカップを両手で包み、湯気を吸ってから、少しだけ喉へ落とした。
 記憶のない私は、この味を初めて飲むみたいに驚く。記憶のある私は、この味に再会するみたいに泣く。二人の私が重なって、ひとつの胸になって、温度を分け合う。
 「ねえ、カイン」
 「何だ」
 「私の“忘れ”が、あなたに迷惑をかける」
 「かけている」
 「怒る?」
 「選ぶ。怒りより、段取りを」
 「段取り」
 「鍋と同じだ。湯が沸く前に塩を入れるか、後か。覚えている誰かが、覚え直している誰かの横に立つ」
 「横に、立ってくれる?」
 「頼みなら、聞く」
 「お願い」
 「了解」

 沈黙。風。鳥の影。
 私の胸の鍵は、今日もうまく鳴る。鳴らせるのは、私だけじゃない。棚の奥の順番を知っている人、火の音で“待ち”を測れる人、湯気の高さで会話ができる人。
 私は記憶を全部、取り戻せないかもしれない。
 でも、今日の味は、私の手で作れる。
 それで十分だ。
 明日の味は、明日の私と作ればいい。
 そして、彼が「悪くない」と言うかどうかを聞けばいい。

 「ねえ」
 「また何だ」
 「あなたが淹れた紅茶も、好き」
 カインは目を細めた。「根拠は」
「渋いところで止めるのが上手い。……怖い味を、手前で止める」
 「褒めるな」
「じゃあ、またお願い。明日、あなたが淹れて。私が横で、湯気を吸うから」
 「命令でもない。……頼みなら、聞く」

 夕暮れが近づくにつれて、空の色が薄く糖衣をまとったみたいに変わる。風が少し甘い。庭の花は花弁を半分閉じ、それでも立っている。
 記憶の欠け目に、今日の紅茶の湯気がうっすら溜まっていく。消える前に、温める。温めたあとに、次を作る。
 それが、私の生き直し方だ。

 私は立ち上がり、踊り場の端で空を見上げた。
 「――明日の味、楽しみにしてる」
 「期待は面倒だ」
 「生きるのは、だいたい面倒です」
 彼は息を吐き、短く笑って、頷いた。
 「悪くない」

 その返事だけで、胸の内側がもう一度、温かくなる。
 君が淹れた紅茶の味。
 それは、私が淹れた紅茶の味と、同じ道で、違う景色を連れてやって来る。
 ふたつが並んで、冬の夜を渡る湯気になる。
 その湯気の高さを、私たちはもう知っている。
 忘れても、また、淹れればいい。
 ――いつでも、ここで。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

役立たずと追放された聖女は、第二の人生で薬師として静かに輝く

腐ったバナナ
ファンタジー
「お前は役立たずだ」 ――そう言われ、聖女カリナは宮廷から追放された。 癒やしの力は弱く、誰からも冷遇され続けた日々。 居場所を失った彼女は、静かな田舎の村へ向かう。 しかしそこで出会ったのは、病に苦しむ人々、薬草を必要とする生活、そして彼女をまっすぐ信じてくれる村人たちだった。 小さな治療を重ねるうちに、カリナは“ただの役立たず”ではなく「薬師」としての価値を見いだしていく。

追放された令嬢、辺境の小国で自由に生きる

腐ったバナナ
ファンタジー
宮廷で「役立たず」と烙印を押され、突如として追放された令嬢リディア。 辺境の小国の荒れた城跡で、誰の干渉もない自由な生活を始める。 孤独で不安な日々から始まったが、村人や兵士たちとの触れ合いを通して信頼を築き、少しずつ自分の居場所を見つけていく。 やがて宮廷ではリディア不在の混乱が広がり、かつての元婚約者や取り巻き令嬢たちが焦る中、リディアは静かに、しかし確実に自身の価値と幸せを取り戻していく――。

【完結】人々に魔女と呼ばれていた私が実は聖女でした。聖女様治療して下さい?誰がんな事すっかバーカ!

隣のカキ
ファンタジー
私は魔法が使える。そのせいで故郷の村では魔女と迫害され、悲しい思いをたくさんした。でも、村を出てからは聖女となり活躍しています。私の唯一の味方であったお母さん。またすぐに会いに行きますからね。あと村人、テメぇらはブッ叩く。 ※三章からバトル多めです。

宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです

ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」 宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。 聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。 しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。 冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。

本物の聖女じゃないと追放されたので、隣国で竜の巫女をします。私は聖女の上位存在、神巫だったようですがそちらは大丈夫ですか?

今川幸乃
ファンタジー
ネクスタ王国の聖女だったシンシアは突然、バルク王子に「お前は本物の聖女じゃない」と言われ追放されてしまう。 バルクはアリエラという聖女の加護を受けた女を聖女にしたが、シンシアの加護である神巫(かんなぎ)は聖女の上位存在であった。 追放されたシンシアはたまたま隣国エルドラン王国で竜の巫女を探していたハリス王子にその力を見抜かれ、巫女候補として招かれる。そこでシンシアは神巫の力は神や竜など人外の存在の意志をほぼ全て理解するという恐るべきものだということを知るのだった。 シンシアがいなくなったバルクはアリエラとやりたい放題するが、すぐに神の怒りに触れてしまう。

婚約破棄されたら、実はわたし聖女でした~捨てられ令嬢は神殿に迎えられ、元婚約者は断罪される~

腐ったバナナ
ファンタジー
「地味で役立たずな令嬢」――そう婚約者に笑われ、社交パーティで公開婚約破棄されたエリス。 誰も味方はいない、絶望の夜。だがそのとき、神殿の大神官が告げた。「彼女こそ真の聖女だ」と――。 一夜にして立場は逆転。かつて自分を捨てた婚約者は社交界から孤立し、失態をさらす。 傷ついた心を抱えながらも、エリスは新たな力を手に、国を救う奇跡を起こし、人々の尊敬を勝ち取っていく。

【完結】婚約破棄された令嬢が冒険者になったら超レア職業:聖女でした!勧誘されまくって困っています

如月ぐるぐる
ファンタジー
公爵令嬢フランチェスカは、誕生日に婚約破棄された。 「王太子様、理由をお聞かせくださいませ」 理由はフランチェスカの先見(さきみ)の力だった。 どうやら王太子は先見の力を『魔の物』と契約したからだと思っている。 何とか信用を取り戻そうとするも、なんと王太子はフランチェスカの処刑を決定する。 両親にその報を受け、その日のうちに国を脱出する事になってしまった。 しかし当てもなく国を出たため、何をするかも決まっていない。 「丁度いいですわね、冒険者になる事としましょう」

剣の腕が強すぎて可愛げがないと婚約破棄された私は冒険者稼業を始めます。~えっ?国が滅びそうだから助けに戻れ?今さら言われてももう遅いですよ~

十六夜りん
ファンタジー
公爵家の令嬢シンシアは王子との婚約が決まっていた。式当日、王子が告げた結婚相手はシンシアではなく、彼女の幼馴染イザベラだった。 「シンシア、君の剣の腕は男よりも強すぎる。それは可愛げがない。それに比べ、イザベラは……」 怒り、軽蔑……。シンシアは王子に愛想がつくと、家と国を追われた彼女はその強すぎる剣の腕を生かし、冒険者として成り上がる。 一方、その頃。シンシアがいなくなった国では大量の死霊が発生し、滅亡の危機にひんして……。

処理中です...