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第19話 満月の夜、最後の約束
しおりを挟む満ちた月は、塔の踊り場を白い皿に変える。
風が砂糖のように薄く、石の手触りをやさしくなぞり、黒曜の欄干には霜の前兆が細い縁取りを置いていく。夜番の呼吸は遠く、鍛冶場は眠り、台所の火は灰に埋もれて、まだ温い。城の音はすべて薄く、だからこそ、戻ってくる音だけが際立つ夜だ。
私は椅子を引き、膝で軽く支えてから腰を下ろした。欠けたカップが二つ、冷たい光の中で月と同じ色に沈む。湯はさっき上げたばかりで、湯気は踊り場の縁まで上がってから、空の白へほどけて消える。
胸の奥で、鈴がひとつ、遅れて鳴った。記憶の鍵だ。音は小さいのに、合図の仕事をしてくれる。
「冷える」
カインの声が、影の方角から降りた。銀の瞳は月を映しながらも、私の指の震えの回数を数えてしまう種類の目だ。外套が肩に載る。重さで、呼吸が落ち着く。
「ありがとう」
「礼は茶で返せ」
「もう淹れた」
「早い」
「待つのが嫌いなひとが、隣にいるから」
「待ち方は覚えつつある」
「なら、今日はゆっくり飲んで」
彼は欄干に肘を置き、私の横に立つ。立ち位置はいつも通りなのに、夜の色が違って見えた。満月の下では、影でさえやわらかい。
私はカップを持ち、湯気だけを吸う。味の手前にある匂いは、昔の教会の廊下の光と混ざって脳裏へ降りる。石灰の粉、磨かれた木、冬の朝の鐘――それらが滑って、別の景色へ繋がる。
「……思い出す」
「どこまで」
「扉の取っ手の冷たさ。あなたの『悪くない』の高さ。孤児たちの泣き顔の順番……あ、順番は、やっぱりごちゃごちゃ。でも、泣いていいよって言ったときの自分の声の温度は、確かに戻った」
「それで足りる」
「まだ足りないものもある」
「欠けは、作業を軽くする」
「ずるい理屈」
「俺は魔王だ」
「魔王、ずるい」
くすり、と笑う。笑いに月光が混ざり、湯気が少し甘くなる。
私は、ゆっくり一口、紅茶を喉へ落とした。渋みの端で止まる温度が、胸骨の内側をやさしく撫でる。そこに、夜の前半に読んだ古い祈祷書の一節が重なる――『祈りは戻る道の標』。言葉は紙から剥がれて、湯気に変わる。
「ねえ、カイン」
「何だ」
「私は、もう奇跡は起こせません」
言葉は自分の舌に驚くほど素直にのった。
“もう”――その二文字が、月の下で白く光る。祭壇の朝、あの白で何かを落とし、何かを拾った。奪われたのではなく、分け合い、そして戻した。奇跡は、確かにそこまでだ。
静かに、でもはっきり続ける。
「それでも、あなたの隣にいたい」
風が、言葉の縁を丸くする。
彼はすぐに答えなかった。答えない代わりに、掌を開き、閉じ、開いた。その手は火床の灰をかき寄せるときと同じ手で、世界の境い目へ触れるときと同じ手だ。
やがて、彼は私の指を取る。触れる前の距離を正確に測ってから、そっと。人を壊さない魔王の手つき。
「奇跡など要らぬ。お前がいれば、それでいい」
囁きは、風より低く、火より温い。
指先から、言葉の温度が骨へ入る。夢みたいに軽い言葉はたくさんあった。でも、今のこれは、重くて、薄い。薄いのに、沈む。沈んで、居場所を作る。
「……泣かないでって言ったのに」
「泣いていない」
「目、濡れてます」
「湯気」
「それ、二回目」
「三回目だ」
彼の口端がわずかに上がり、月の白が頬に薄い線を描く。笑いは短いが、十分だ。
私は握られた指を握り返す。握り返せるくらいには、思い出が戻ってきている。戻ってこない分は、今日の紅茶で埋める。
下の庭は凍って、あの一輪の花は葉をすぼめて眠っている。花は奇跡で咲いたわけじゃない。準備で咲いた。土の熱、手の温度、待ちの長さ。奇跡がなくても、咲いた。
踊り場の机に蜂蜜を置く。小瓶はほとんど空で、一滴がやっと出る。彼が眉をわずかに動かす。
「足りない」
「分け合うには、十分」
蜂蜜を一滴、ふたりのカップのあいだで分ける。夜の甘さは目立たないが、渋みの底で合図を送るのに向いている。
ふたりでカップを持ち上げ、同じ高さで口へ運ぶ。月の輪郭が琥珀に揺れ、飲むたびに世界の端がわずかにやわらぐ。
沈黙が来る。沈黙は敵ではない。今夜の沈黙は、ふたりの間に敷かれた毛布だ。音を吸い、余計な冷えを遮り、未来の小さな会話のために場所を温める。
「……ひとつだけ、置いていきたい」
「何を」
「約束」
月が大きく、耳が遠くなる。約束は冬に弱い。固く結べば指が切れ、ゆるく結べば風でほどける。結び方を間違えると、誰かが寒くなる。
私は湯気の高さを見て、息を整える。
「忘れることがあっても、毎日、同じ時間に、同じ場所で、同じ温度の湯気を立てる。――それを、私の“最後の奇跡”の代わりにしたい」
言い終えた瞬間、胸が軽くなった。
奇跡は一度きりの派手なものじゃなくて、同じ手順を繰り返す根気のことだと、最近やっと思えるようになった。
カインは頷く。躊躇いはない。
「受け取る。俺の約束は、短い」
「聞かせて」
「明日も、ここで、お前と茶を飲む」
息を飲む。
短い。短いのに、深い。
彼の約束は、言葉の数ではなく、火の残し方で測られる。だから信じられる。
私は笑って、もう一度、彼の指を握る。指の節の堅さ、皮膚の薄さ、体温の居場所――全部、戻ってくる。
振り向けば、城下の屋根に落ちる月の銀が、薄い川みたいに町を縫っている。王都の尖塔にも、きっと同じ光。リリアは灯を守っているだろう。光の温度を、刃にしないように。
私は彼女の横顔を心の中に並べ、風へ渡した。「元気で」
風が一度だけ調子を変え、どこかへ細く走る。
「セリーヌ」
「はい」
「怖いときは、言え」
「今、少し、怖い」
「何が」
「幸せが、薄いガラスみたいで。触れ方を間違えると割れそうで」
「割れたら、掃く」
「掃ける?」
「床の目地を知っている」
笑う。
泣きそうな笑いは、月の下では許される。
私はカップを置き、立ち上がって欄干へ近づく。月は皿、世界は湯、風は匙。私たちは湯気を見る。消える前に届く。届いたあとで、次を作る。
「カイン」
「何だ」
「あなたの隣にいる未来は、奇跡じゃなくて、仕事だね」
「仕事は得意だ」
「サボらないで」
「命令は嫌いだ」
「お願い」
「頼みなら、聞く」
彼の声はいつにもまして低く、月明かりはその低さをやわらげる。
私は踊り場の端に、ささやかな儀式の仕上げを置く。欠けたカップを、欠けを向かい合わせに並べ、蜂蜜の瓶を二人のちょうど真ん中へ引き寄せた。
「これで、迷子になっても帰れる」
「鍵は」
「あなたの『悪くない』」
彼は鼻で笑い、月光をひと口飲むみたいに紅茶を飲んだ。
「悪くない」
その言葉が、今夜の鐘になった。城の骨に染み込み、庭の土に落ち、眠る子どもたちの夢の端を温める。
私は目を閉じ、記憶の欠け目に今夜の湯気をそっと流し込んだ。すべてを埋め尽くさない。隙間があれば、また新しい温度で満たせるから。
「最後の約束」
私は小さく言った。
「明日、また、ここで、あなたと紅茶を分け合う。明後日も。明々後日も。奇跡がなくても」
「受けた」
彼は短く、はっきり答えた。
月は高く、夜は深く、風は甘い。
私たちは二つのカップを手に、沈黙に寄りかかって、最後の約束を何度も反芻した。
指は離れ、でも、熱は残る。
湯気は消え、でも、香りは残る。
奇跡は遠く、でも、約束は近い。
満月の夜。
城の上で、二人は紅茶を分け合う。
それは、世界を救う物語ではない。
ただ、明日の温度を決めるための、静かな作業だ。
そしてその作業こそが、私たちに残された、最後で最強の奇跡なのだと――月の白の下、私はようやく、きちんと信じられた。
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