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第20話 追放された聖女、今日も魔王の隣で
しおりを挟む朝は、窓の石枠が先に明るくなるところから始まる。
黒曜の城の厚い壁でも、光はじわじわと侵入経路を見つけてくる。細い筋が床を撫で、棚の皿の縁が薄く白む。火床の灰は夜の名残を抱いたまま、息をひとつ吐くみたいに崩れて音を立てた。
台所に最初に現れるのは、今は私ではない。
不器用な背中――魔王カインが、無言のまま水を上げ、鉄の薬缶の底を火の最短距離に置く。火は彼に従順だ。けれど彼は火に命令しない。温度を測る。待ちを数える。私が隣で“待ちの長さ”をいつも少し長めにするのを覚えて、わざと一呼吸だけ足す。
私は扉のところで少しだけ見て、ふふ、と笑いを喉の奥で丸めてから入る。
「おはようございます」
「起きたか」
「起きました。――火、いい温度」
「知っている」
短いやり取り。カインは袋の口をほどき、茶葉を掬う。掬う量は、昨日より指先ひと粒ぶん軽い。彼の中の“渋みの手前で止める”という技術が、毎朝少しずつ更新されているのが嬉しい。
湯を落とす音が、台所いっぱいに広がる。
ゆっくり、細く、真ん中から。湯気が立つ。朝の湯気は夜より背が高い。窓から差し込む光の梯子に合わせて、まっすぐ上へ伸びていく。
「蜂蜜は」
「一滴」
「許可する」
彼は眉ひとつ動かさず、小瓶を傾ける。瓶の底に残った甘さは、ぎりぎり“滴”という形で落ちて、琥珀の表面に円を描いた。滴が沈む瞬間の光は、朝だけやけに神さびて見える。
二つの欠けたカップが、欠けを向かい合わせに置かれる。
私は両手で包み、最初の湯気だけを吸い込む。喉に落ちる前、匂いだけで胸骨の内側が温度を取り戻す。
「……ちょっと苦いですね」
言った瞬間、彼の銀の目が細くなる。
「お前が甘すぎるからだ」
「強がり」
「事実だ」
吐き出す言葉の角はいつも硬いのに、内側では蜂蜜が溶けている。私は笑いを堪えきれず、肩で音を作った。台所の梁が嬉しそうにきしむ。
子どもたちの足音が廊下に溜まり、遠慮の塊は扉の影で膨らむ。
「味見は一人一口」
合図を出すと、わっと花が咲くみたいに小さな手が伸びてくる。角の短い少年はいつもより背を伸ばし、翼の少女ノアは湯気だけ嗅いで満足そうに笑う。
「朝は渋くてもいいんだよ」
私は言いながら、彼らの手の冷たさを指先で確かめる。冷えは熱のための器だ。泣き腫らした痕はもう薄い。昨夜の祈りは短くてよかった。
「主様、鍛冶場に伝言。昼までに刃を三本」
ガルドが戸口で短く告げ、すぐ踵を返す。
「レア、後で庭」
「了解。霜が降りたけど、根は生きてる」
羽が一度だけ空気を撫でる。台所の微気圧が少し変わり、湯気の背が揺れる。朝は忙しい。忙しいのに、湯気の高さだけは誰も邪魔をしない。ここはそういう場所になった。
私は椅子に腰を下ろし、カップを持ち直した。
苦みは控えめ、渋みが輪郭を作り、蜂蜜が底で合図を送ってくる。――“今日もやることがある”という合図だ。
「ねえ、カイン」
「何だ」
「今日の段取り、教えて」
「朝に湯。子に粥。鍛冶場と庭。昼に視察。夕に風。夜に短い祈り。――茶は、朝と、迷いの前」
「合格」
「上からだ」
「主様だから」
この冗談を何度重ねても、少しだけ別の味がする。昨日より今日の笑いの位置が奥で、明日の笑いはきっと手前に転がる。そういう差異が、生きてる証拠になる。
「ところで」
カインがわずかに身を屈め、私のカップの欠けを親指で示した。「ここ」
「え?」
「お前はいつも、この欠けを口に当てない」
「削れが唇にひっかかるから」
「知っている。だから、置く向きを変えた」
朝日の角度で、銀の瞳の奥がやけに静かに見える。
「……優しい」
「段取りだ」
「優しい段取り」
彼は否定しなかった。否定しないことが、肯定より強い告白になることを、彼はもう知っている。
食器の音、薪の爆ぜる音、子ども達の囁き声――台所が世界の縮図みたいに音を重ねる。私はその真ん中で、胸の鍵を確かめた。鈴は鳴る。名を呼ばれたら応える準備が、いつも骨の内側で整っている。
「庭、行く?」
レアの声に頷いて、外套を羽織る。
朝の庭は、冬と春が綱引きをしている場所だ。黒い土の上に薄い霜、そこへ私たちが秋に埋めた球根の寝息。ひとつ、ふたつ、三つ――黄色い芽が見える。最初に咲いた小さな花は今日も肩をすぼめ、風を気にしているふりをする。
「よく寝たね」
しゃがんで囁くと、子どもたちもしゃがんで真似をする。囁きは土の中まで届く。祈りの言葉より先に届く。
「主様」
庭の端で待っていたガルドが、土の塊を手で砕きながら低く言う。「王都からの使いは、今日も来ない」
「来なくていい」
「でも、来る日もある」
「来る日には、茶を濃くする」
「了解」
彼は肩をすくめて鍛冶場へ戻る。レアは花の背を羽で撫で、私へ片目を細めた。「今日のあなた、少し“甘い匂い”が強い」
「蜂蜜、一滴余計に嗅いだから」
「それ、うそ。……幸せの匂い」
彼女はからかい、私は笑って逃げる。逃げる速度も、冬の朝の段取りの一部だ。
昼前、城下の市場を見下ろすと、人の流れは細いけれど絶えてはいない。修繕屋の槌が規則正しく鳴り、新しい釘が朝日の中で光る。神殿の尖塔は遠い。けれど、そこに立つ灯は、刃ではなく、灯のままでいる。
リリアが選んだ“灯の温度”が、王都に静かな影を落とす。私は胸の中で彼女の名前を呼び、風に混ぜた。――元気で。
午後、塔の踊り場。
私は洗い立ての布を欄干に干し、カインは視線で空の変化を追う。雲の速度、鳥の高さ、風の筋。彼の目は戦場のものでもあるけれど、今は台所の火を見る目と似てきた。
「ねえ」
「何だ」
「今日の紅茶、もう一杯」
「朝に飲んだ」
「“迷いの前”」
彼はわずかに頷く。誰にも見せない迷いは、彼の中では“段取りの確認”に姿を変えている。そこへ茶が差し込む。
台所へ戻ると、外の光が柔らかく暖簾みたいに差し込んでいた。私は湯を上げ、彼はポットを温める。ふたりの手つきが交差して、待ちの時間がふたつに分割される。
「さっきより薄く」
「命令は嫌いだ」
「お願い」
「頼みなら、聞く」
私は笑って一歩下がる。彼の背は相変わらず真っ直ぐで、肩幅が冬の城を安心させる。彼が注ぐ湯の音は朝よりやわらかく、湯気も背を低くする。午後は、そんな湯気が似合う。
「どうぞ」
差し出されたカップから、薄い琥珀が揺れる。
「……ちょうどいい」
「悪くない」
「合格」
台所の空気が、静かに笑う。静かな笑いは、壁の石に染み込んで、夜にもう一度温かさを返す。孤児たちはその返りを枕の中で受け取り、泣かずに眠る練習を覚える。泣いても、すぐ眠れる練習も覚える。
夕方、花壇の影が長く伸びる。
私は小さな木箱を持ち出し、乾いたパンの端で香草を擦り込む。スープの香りは夕餉の合図だ。厨房の隅で子どもたちが列を作り、湯気の輪の中で順番に「今日のいいこと」をひとつずつ言う。
「新しい靴紐を結べた」
「羽の音が大きくできた」
「寒かったけど泣かなかった」
「泣いたけど、すぐ笑えた」
私は頷き、カインは端でその列を無言で見守る。彼の無言は、押し黙るための無言ではなく、場所を譲るための無言だ。誰かが自分で言葉を見つけられるように、沈黙を敷く。
夜――祈りは短く、火は浅く、風は細い。
踊り場に二つの椅子。欠けを向かい合わせたカップ。蜂蜜の瓶は、ひっくり返してももう出ない。
「明日は買ってくる」
「甘さは、なくてもいい日もある」
「お前が甘すぎるからだ」
「二回目」
「三回目だ」
短い冗談を、月のない夜にも置く。置いた言葉は、朝にまた使える。日々は使い回しが効いて、それが救いになる。
私はカップを持ち、彼の横顔を盗み見る。
魔王――世界が彼に押し付けた名前。聖女――世界が私に被せた冠。
どちらも、ここでは上着みたいに玄関で脱いでから入る。誰かの耐寒具にはなるけれど、ずっと着っぱなしでは息が詰まる。
「私、聖女でも罪人でもないよ」
ぽつり、と言った。カインはすぐには返さない。風が一度だけ踊り場を抜け、布の裾が揺れる。
「知っている」
「ただの一人の女として、ここにいたい」
彼は頷き、「段取りだ」と言ってから、同じ言葉の中に別の意味を混ぜる。「選択だ」
私は笑い、「合格」と呟いた。
窓辺の石枠が、夜の途中でまた少し明るくなる。東の空が色を思い出し、黒曜の壁がうっすらと朝の骨格を立ち上げる。
新しい朝。
火床の灰が息を吐き、薬缶が軽く鳴り、棚の奥の茶葉が最初のひと掴みを待つ。
カインが先に起き、私はその背中へ「おはよう」を落とす。
「おはよう」
「起きたか」
「起きました」
同じ台詞が、毎朝、別の味で口にのる。
湯が上がる。
彼が注ぎ、私は横で湯気を吸う。
「ちょっと苦いですね」
「お前が甘すぎるからだ」
静かな笑い声が響く。
子どもたちの足音が近づき、レアの羽が扉の隙間でふわりと波打ち、ガルドの咳払いが一度だけ空気を整える。台所は今日の世界の縮図になり、湯気は天井梁に細い線を描き、それから消える。消える前に、確かに温める。
私はカップを置き、胸の鍵に触れた。
鈴は鳴る。
呼ばれれば、応える。
呼ばれなくても、ここで湯を守る。
聖女でも罪人でもない、ただの一人の女として。
今日も彼女は、魔王の隣でティータイムを楽しんでいた。
それは世界を救う儀式ではなく、世界を生きる段取りだ。
そして段取りこそが、奇跡の代わりに積み重なって、花壇の土をゆっくり温めていく。
庭の小さな花は、光の角度に合わせて首を上げ、欠けたカップのふたつは、欠けを向かい合わせたまま、朝日の中で薄く輝いた。
私は息を吸い、湯気を吸い、笑いを吸って、またひとくち飲む。
――悪くない。
私たちの世界はその言葉で、今日の最初の音を鳴らした。
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