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後編ークリスマス演習編ー
第二十三話
しおりを挟む就寝時刻三十分前の甲板は、その海風の冷たさも相まって人っ子一人いなかった。薄着で出てきてしまったから、素肌に海風が突き刺さって凍えるように寒い。それなのに、 心はじんじんと暖かかった。
ジュリアンはぐるりと甲板を見渡すと、「あれ、忘れ物、僕の勘違いだったみたいだ」と笑った。月明かりに照らされたその笑顔があまりにも眩しくて、どうしてか急に涙腺が緩んでしまった。
「ちょ、なんで泣くんだよ。ごめん、嫌だったか?」
ジュリアンが焦ったように駆け寄ってくる。リースはぶんぶんと大きく首を振り、掠れた声で言った。
「違うよ。嬉しくて……」
ジュリアンは一瞬きょとんとしたあと、どこか照れたように笑った。
「なんだよ、びっくりするだろ」
その声が柔らかく海風に溶けていく。慰めるでも茶化すでもなく、ただ隣に立って同じ景色を見ているだけ――それだけのことが、奇跡のようにさえ感じられたのだ。
「ちょっと寒すぎるな。風が当たらないところまで戻ろう」
どうにか涙が止まった頃、ジュリアンはそう言って再びリースの手を取った。知らなかった。こんなに頼りになる手がすぐ側にあったなんて。ずっとここにあったはずなのに、気付けなかった。
「……ごめん、僕、これまで君に……」
どうせ分かり合えないと最初から諦めて、彼の優しさをずっと無視していた。ベータだから、普通の恋愛をしているから。そんな風に勝手に線を引いていたのは、自分の方だった。
船内への入口まで戻ると、だいぶ風が和らいで暖かかった。ジュリアンは手を解き、壁にもたれかかって呆れたように言った。
「なんだよ、別に謝ることじゃないだろ」
「ううん、本当に……嬉しかった」
沢山言いたいことがあるのに、胸がいっぱいで言葉がつかえて出てこない。その沈黙の間、ジュリアンは静かに空を見上げていた。凍てつく空に星が散り、まるで吐息の音まで吸い込んでしまいそうな静けさ。ジュリアンは一つ息をつくと、独り言のように言った。
「……まあ、そうだな。でも、色んなことを噂で知る寂しさってのはあるよな」
「……そうだよね。本当……ごめん」
ジュリアンはそれに「だから、謝るなって」と笑った。いつもと同じはずのその笑顔に胸が詰まる。これまでどんな気持ちで、リースの肩を叩いてくれていたのだろう。
ジュリアンは壁に背を預けたまま、ふとリースの方を見た。その瞳の奥に、一瞬だけ真剣な光が宿る。
「……じゃあ、一個だけ聞いていいか?」
リースは小さく頷いて、少しばかり緊張しながら彼の次の言葉を待った。
「リースは……なんで海に出たいの?」
一際強く風が吹いて、波が船に当たって砕ける音がした。その数秒後、船が大きく揺れる。
「それは……」
手をぎゅっと握りしめる。
誰にも本心では--話してこなかったこと。
やっぱり少しの怖さはあった。でも、今は何より彼に誠実でありたいと思った。リースは凍える唇をゆっくりと開いて、父のことを簡単に話した。ジュリアンは時折頷きながら、何も言わずに最後まで話を聞いてくれた。
「それでさ……」
一通り話し終わったあと、少し間を置いてそう言うと、ジュリアンはどこか心配そうに目を細めた。夜風が吹き抜けて、彼の金髪がちらりと光を返す。ただ静かに次の言葉を待つその表情に、リースの胸がじんと熱くなった。
だから、彼のことを、話してみたい--なんて、思ってしまったのだ。
「ケイン候補生が……お父さんのこと、知ってるっぽいんだ」
そう言いながら、無意識に両手を握りしめる。潮風が指の間をすり抜けていくその感覚だけで、そわそわと落ち着かない。アーサーのことを考えるだけでいつもそういう気持ちになるのに、こんな風に人に話すのはなおさらだ。ほんのわずかな沈黙の間がやけに長く感じられて、リースは思わずもう一度口を開こうとした。
「ええ?なんで。会ったことがあるのか?」
だが、ジュリアンの方がわずかに早かった。リースはそれに安堵して肩の力を抜くと、静かに答えた。
「僕は全然覚えてないんだけど……そうみたい」
「なんだ……思ってたより複雑そうだな」
ジュリアンはそう言うと、顎に手をやって口を少し尖らせた。これは何かを考えている時の彼の癖だ。その沈黙に耐えられず、今度は先に口を開いた。
「いや、あの……別にね?僕たちがなんかあるとかじゃ……ないから」
よっぽど変な顔をしていたのだろうか。ジュリアンはリースの顔を見るや否や、苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「ふーん?でも君は本当に顔によく出るからな。今日の朝の整列の時だって……」
「あっ……朝?整列?」
まさかあの一瞬、アーサーのことを見ていたことさえもジュリアンは気付いていたのだろうか。推理小説オタクの洞察力、恐るべし。リースはますます恥ずかしくなって、慌てて手を振った。
「いやっ、あれは別に……」
「へー?……まあ、それはまた今度でいいや」
ジュリアンはどこか楽しそうに笑うと、腕時計に目をやった。そして「わ!」と大きな声をあげた。何事かと思って彼の時計を覗き込むと、いつの間にか点呼の時間が三分後に迫っていた。
「まずい、そろそろ点呼だ!寮長に叱られるぞ」
「ほんとだ!早く戻らないと」
慌てて走り出した二人の靴音が、静まり返った甲板に小気味よく響く。すれ違う風がまだ少し冷たかったけれど、不思議と寒くは感じなかった。
「ありがとね、ジュリアン」
前を走る背中に向かってそう言うと、彼がふっと笑った気配がした。
「ああ、戻ったらあいつらにも謝らせてやらないとな」
さっきと同じ船のはずなのに、どこか世界が柔らかく感じる。
--僕、ここにいていいんだ。
風の音、波の音、誰かの話し声。世界を形作る音その一つひとつが、優しくなったような気がしてらならない夜だった。
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