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後編ークリスマス演習編ー
第二十五話
しおりを挟む扉を開けると、思ったよりもずっと狭い部屋にアーサーの背中が見えた。てっきり一人は教官か現役の士官がいてくれるものだと思っていたから、思わず一瞬固まってしまった。
「……お疲れ様です」
「遅いぞ」
振り向いたアーサーが、ぶっきらぼうな口調で言う。確かに少し遠回りしてきたとはいえ、約束の時間に遅れたわけではないのに。
「……すみません」
ほんとうに二人っきりですか、なんて聞くわけにもいかず、リースはアーサーの隣の椅子のなるべく端に腰を下ろした。
「ここでは主に、艦橋と他艦との通信を記録・転送する。暗号文書の解読や受信ログの整理も担当範囲だ。担当の士官は午前は別の区画に指導へ行っているから、課題をもらっている。退屈だが、間違えるなよ。小さな誤記で一艦が沈むこともある」
リースはそれに小さく返事をして、机の上に並んだ暗号表と記録用紙を手に取った。
アーサーはそれきり何も言わず、ひたすらに与えられた課題をこなしているようだった。どうしてよりにもよってこんな地味で退屈な部署に配属したのだろう。艦橋とは言わなくても--せめて機関区や整備区なら、広くてうるさくて気が紛れるのに。
彼が端末を操作する音と無機質な機械音だけが、硬く部屋に響く。そのリズムがまるで心拍のように一定で、余計に沈黙を際立たせる。確かにこういう作業は授業でもやった。でも、もっと指導してくれてもいいのではないだろうか。わざわざ、自分でこんな組み合わせにしたのなら。
--やはり、昨日の機関室でのことだろうか。
意味なんて感じたくないのに、あの冷たい目がなんとなくひっかかって忘れられない。アーサーがそんなことを気にするとも思えないし、もしもそうでも、何を言われる筋合いもないはずだ。そう思いたいのに、このありえない采配を前に、そんな希望的観測も崩れ落ちつつある。
リースは小さく息をつくと、恐る恐る口を開いた。ネイサンとのことを誤解されたままでいるのも、それはそれで何となく嫌ではあるし。そう内心誰にでもなく言い訳をしながら、小さく息を吸い込む。
「あの……」
「何だ」
短く返事をしながらも、キーボードから顔を上げる気配もない。リースも自分のキーボードに目を落として、小さく言った。
「……昨日……すみませんでした」
「……何のことだ」
--よく考えずに無茶をしてしまって。
そう言おうと口を開いた時、隣で椅子の脚が擦れる音がした。
「お前があの問題児のアルファと、課題も投げ出して抱き合っていたことか?」
「な……っ」
あまりに予想外の言葉に、思わず顔を上げる。アーサーはいつの間にかキーボードから目を離して、冷たい目でリースを見つめていた。
失敗した。瞬時にそう思った。なんとかこの話題を、できるだけ早く終わらさねばならないと。
「あれは、助けてもらっただけで!僕が無茶をしたから、それをケイン候補生にも謝りたくて。そ、それより課題を……」
上擦る声でそう捲し立て、慌てて課題を指さした。だがアーサーは再び自分の手元に視線を落とすと、何かを躊躇うかのように両手を擦り合わせた。沈黙が落ちる。リースは課題を突き出した両手の行き場をなくしたまま、これ以上ないほどに焦っていた。どうしたって二人きりだ。逃げ場もない。こんな空気にするつもりじゃなかった。
「……悪かった」
そして静かに落ちたそのあまりに予想外の言葉に、息をのんだ。一体なんに対しての謝罪だろうか。嫌な予感がして、鼓動が速くなる。
「……この前、お前にとって酷いことを言ったと思う。すまなかった」
「え……」
今、その話をされるなんて。アーサーは視線を逸らしたまま、机の端で指を弄んでている。逞しく腱の浮き出たそれがそんな風に迷っているところを見たことがなかったから、リースは酷く動揺した。
胸の奥がくすぐったく、痛いような感覚に満たされていく。やがて弄ばれていた指がピタリと止まって、目が合う。あの日と同じ、どこか熱を孕んだ目。
--やめてくれよ。
リースは心の中で叫んだ。その目で見つめられると、否応なく体がおかしくなるんだ。心臓が痛いほどに暴れて、体が熱い。頼むからやめて欲しい。どうして誰よりも正しく集中していなくてはならないはずのアーサーが、訓練中にそんな話をするんだ。
父。許嫁。家のこと。将来。色んな言葉が頭をよぎって、どうしようもなく不安な気持ちになる。
「だから……」
アーサーの顔が少しだけ近くなる。頼むから今、変なこと言わないで欲しい。それだけを願って、ぎゅっと目を閉じた。
「……もう、俺から逃げるな」
わずか数センチの距離で響いたその声に、椅子から転げ落ちそうになった。それを支えてくれようとでもしたのだろうか、手を伸ばしてきたアーサーの腕を反射的に避けようとしてしまったことで二人してバランスを崩し、作業台の上に押し倒されるような形になってしまった。
「……それで、ほかのアルファに近寄るな」
「……いまは……。今は訓練中ですよ」
訓練中に我を忘れるアーサーなんて見たくない。嘘でもいいから、海に対しては誠実であってほしい。そんなことを願ってしまうのは、独りよがりなのだろうか。
「お前が俺から逃げるからだろうが」
聞いたことがない声だった。怒気を孕んだ低い声。恐る恐る目を開くと、アーサーの瞳が間近にあった。灰色の光が冷たくきらめいて、底の方で何かが揺らいでいる。
困る。本当に、困るんだ。そんな意味ありげなことを言わないで欲しい。また余計なことを考えたくない。あの熱に、この鼓動に、これ以上意味なんて欲しくない。
「……困ります」
声が震える。喉がひりつく気配を止められなくて、両手の甲で目を覆った。船の上では、絶対に泣きたくないのに。
明日、やっと父に会えるのに。
「……僕は本気で海に行きたいんです。余計なこと考えたくないんです……」
この人といると、自分を見失いそうで怖い。自分で自分を制御できなくなっていくのが怖い。
「……ケイン候補生からしたら、沢山いるうちの一人なのかもしれないけど……僕はいちいち意味とか、将来のこととか……考えちゃうんです、だから……」
ここで泣いてたまるか。
「だから、もうパートナーとか……」
--やめにしたいです。
そう言いたかったのに、その言葉は喉につかえてなかなか出てこなかった。言ったら泣いてしまうと分かってしまった。
その隙だった。
空気が揺れた。襟を引かれた。
キスされる。
ちゃんと分かったのに、拒めなかった。
ガタンと作業台の揺れる音がして、何かが唇に触れた。一瞬だった。
自分でやっておいて、驚いたように目を大きくしたアーサーと目が合って、それが現実に起きたことなのだと理解した。机に貼り付けられたように、腰が抜けてしまったように動けなくなった。
「それは聞けない」
潤んだアーサーの瞳が揺れる。それに呼応するように、触れられた部分が熱くなる。
「……俺はお前を逃がさないし、どこにも行かせない」
違う、そんなことを言って欲しいんじゃない。一緒にいたって、絶対いい結果になんかならない。
分かっているのに、この強力な引力に逆らえない。体を支える腕に精一杯力を込めながら、アーサーを見つめ返す。強い語気の割に不安げに揺れるその瞳は、一体どんな過去を見てきたのだろう。
向き合わなければならない。リースは刹那目を閉じると、小さく息を吸い込んだ。
「……お父さんのこと」
ようやく絞り出した声は、情けなくかすれて震えてしまった。アーサーの目は リースを捕らえたまま、僅かに目を見開いた。
「教えて欲しいです。……あなたのこと、僕たちのこと……ちゃんと知りたい」
言い終えた瞬間、静寂が落ちた。艦の金属が微かに軋む音と、通信機の低い唸りだけが響く。その沈黙が、永遠のように感じられた。
「……明日、パーティーの夜に話そう」
静かに落ちるその声に、リースは息を飲んだまま、ただ頷くことしかできなかった。
明日。セントブレア海域での訓練のあと、パーティーも近くの会場で行われる。
アーサーに腕を引かれて、ようやく起き上がる。何事もなかったかのように制服を整えるアーサーを見ながら、足場が見えなくなっていくようなどうしようもない不安が、静かに胸に渦巻いていた。
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