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婚約破棄編
6.後ろ髪は掴ませない
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開きっぱなしになっている扉の向こうに立っている初老の男性は、ピンと背筋を伸ばしていて佇まいに一分の乱れもありません。
身に纏っている燕尾服の上襟には、金色のピンバッジがつけられています。それもラピスフィール公爵家の。
家紋の入った金のピンバッジをつけることが許されるのは、使用人たちの中で家令一人。
ですが、この方はアーモンド伯爵家の家令ではありません。となると──
「あっ!」
リーファが目を丸くしてぽかんと開いた口を両手で隠しています。
タイミング的にも、オウル様の婚約だったリーファのこの反応を見ても、間違いないでしょう。
「ラピスフィール公爵家の方ですね。お待ちしておりました。申し訳ありません、お見苦しいところを──」
「見苦しいとは私たちのことか!?」
「お父様、少し静かにしていて下さい」
この家令がいつからそこに立っていたかはわかりませんが、少なくとも先程までの言い争いの一端は目撃されてしまっているでしょう。
お世話になる初日の、それも出だしからそんな姿を見られてしまい、何とも気まずい心地です。
ですが、家令は気にした様子もなく、僅かに皺の出来た目を細め、会釈をして名乗りました。
「お初にお目にかかります。ジゼル様。わたくしはラピスフィール公爵家で家令を務めております。クライン・ハワードと申します。オウル様の命により、お迎えに上がりました。お荷物をお運び致しますので、入室の許可をいただけますか?」
「勿論です。どうぞ。それにしても驚きました。まさか、家令が直々にお越しになるとは」
「オウル様にくれぐれもご負担をお掛けしないようにと仰せつかりましたので。運ぶのはこの鞄や箱類でよろしいでしょうか?」
「はい。家具の類いは持って行きませんので、纏めてあるものだけを。よろしくお願いいたします」
「私の屋敷で何を勝手なことをやっているんだ!」
ハワードが連れてきたラピスフィール公爵家の使用人たちに指示を出し、まるで統率のとれた軍隊のように各々が目配せを交わし、同じ荷物に手を伸ばすことなく荷を持ち上げます。
そこへお父様の怒号が矢のように飛びました。
アーモンド伯爵家の邸内である以上、他家の使用人であってもその言葉を無視することは出来ません。
荷をどうするべきか、指示を待っている彼らの指揮官であるハワードに私は気にする必要はありませんと伝えました。
「構いません。運び出して下さい」
「承知致しました。荷を馬車へ。丁重に運びなさい」
家令からの指示に、ラピスフィール公爵家使用人たちは時間が動き出したように動き始め、荷を持って一列に扉から出ていきます。
「こらぁ! ふざけるな! 今すぐ止めろ! 荷を戻せ!」
「お父様、動線を塞がないで下さい。皆様のご迷惑になるでしょう」
納得がいかずにお父様が止めさせようとしますが、ラピスフィール公爵家の使用人たちは器用にお父様を避けて次々に部屋から出ていきます。
見事な身のこなしに感心していると、今度はこちらへお父様の怒声が飛んできました。
「ジゼル! 今すぐお前から出ていくのは止めるから荷を戻せと伝えろ!」
「お断りします。理由がありませんから」
すでに荷物が運び出され、後は我が身のみ。
これ以上、この話に付き合う必要もないと、事務的に断っていると、ギリギリと歯を擦り合わせていたお父様が何かを思い付いたように口角を吊り上げました。
「ふんっ、ジゼル、分かっているのか? これは立派な窃盗だぞ?」
「──一体何を仰っているんです?」
私物を移動させることが窃盗に当たるなら、世の人々は引っ越し出来ません。お父様の頭の中でどんなロジックが展開されたかは存じませんが、明らかに菜にかを勘違いされていますね……。
「お前の持つものはアーモンド伯爵家の──つまり、私の財で購入したものだ。人も、財も、物も、権利は当主に帰属する! つまり、それらを私の許可なく持ち出すことは立派な窃盗罪だ! よって、それらを持ち出すことは許さん。お前とて罪人にはなりたくないだろう? だったら──」
「ええ、そのつもりですよ?」
「──は?」
そんなぽかんとした顔をされましても……。
やはり、勘違いされていたようですね。
確かに家の財で購入したものは当主に帰属します。それがアーモンド伯爵家の財産であるならば。
「私が持っていくのは個人で行っていた取引で築いた個人財産で買ったものと、友人や知人に私へ贈られたものだけです。それらの所有権は私にあります。家具や伯爵家の財産で購入した装飾品等はそのままにしてありますので、売るなり処分するなりご自由にして下さい」
念のために所有権がアーモンド伯爵家にあるものは全て弾いておきましたが、正解だったようですね。
想定外の返答だったようで、お父様は茫然となさってますけど、このうちにここから発たせていただきましょう。
「それでは、お父様、お母様、今までお世話になりました。リーファ、ロウ様と共にアーモンド伯爵家をよろしくお願いいたします。さようなら」
「では、参りましょうか。ジゼル様」
「はい」
ハワードに付き添われ、馬車へ乗り込むべく育った部屋から出ていきます。
流石にずっと寝起きしていた場所から旅立つことには少しの感傷が湧いてきますが、振り返ってはいけませんね。
けれど、最後に一度だけ──
「こら! ジゼル! 待たんか!」
「ジゼル! 今ならまだ許してあげるから考え直しなさい!」
「お姉様!」
──うん。振り返りません!
後ろ髪を掴もうとしてくる声に、これは立ち止まっても振り返っても出発が遅れるだけと察します。
背後から飛んでくる三者三様の言葉に、私の代わりにハワードが対応をしてくれました。
目配せで「どうぞ、お早く」と促されたので、お言葉に甘えて、私は可能な限りの早歩きで廊下を進んで屋敷の外へ向かい、門前に停まっていたラピスフィール公爵家の馬車へ乗り込みました。
柔らかな座席に座り、ようやく一息つきます。
馬車の車窓からはアーモンド伯爵家が正面から窺えました。
──ずっと、ここに骨を埋めるものと思っておりましたが、人生何があるかわかりませんね。
今のところ、アーモンド伯爵家は財もありますし、貴族の中でも安定していると言えます。
とはいえ、小さな変化が大きな波紋を呼ぶこともよくある話。
娘を過剰に甘やかす両親、散財癖のあるリーファ、リーファとの婚約に浮かれたままのロウ様。
色々と懸念すべき点は残っているのですよね……。
この屋敷の中心にいるのが気紛れなリーファであり、誰もそれを諌めない以上、不安の種が絶つことはないでしょう。それは気掛かりではあるのですが──
「……今更考えても仕方ないことですね」
どうしたって私はこの屋敷から出ていく身。
実家に思い入れがないわけではありませんが、これから私に出来ることは祈るだけです。
後のことはアーモンド伯爵家の皆様に託しましょう。
ハワードが戻ってきて、馬車がラピスフィール公爵家へ向かって走り出します。
車輪の音に耳を傾けながら、私はラピスフィール公爵家へ到着した時の挨拶を考えるのでした。
身に纏っている燕尾服の上襟には、金色のピンバッジがつけられています。それもラピスフィール公爵家の。
家紋の入った金のピンバッジをつけることが許されるのは、使用人たちの中で家令一人。
ですが、この方はアーモンド伯爵家の家令ではありません。となると──
「あっ!」
リーファが目を丸くしてぽかんと開いた口を両手で隠しています。
タイミング的にも、オウル様の婚約だったリーファのこの反応を見ても、間違いないでしょう。
「ラピスフィール公爵家の方ですね。お待ちしておりました。申し訳ありません、お見苦しいところを──」
「見苦しいとは私たちのことか!?」
「お父様、少し静かにしていて下さい」
この家令がいつからそこに立っていたかはわかりませんが、少なくとも先程までの言い争いの一端は目撃されてしまっているでしょう。
お世話になる初日の、それも出だしからそんな姿を見られてしまい、何とも気まずい心地です。
ですが、家令は気にした様子もなく、僅かに皺の出来た目を細め、会釈をして名乗りました。
「お初にお目にかかります。ジゼル様。わたくしはラピスフィール公爵家で家令を務めております。クライン・ハワードと申します。オウル様の命により、お迎えに上がりました。お荷物をお運び致しますので、入室の許可をいただけますか?」
「勿論です。どうぞ。それにしても驚きました。まさか、家令が直々にお越しになるとは」
「オウル様にくれぐれもご負担をお掛けしないようにと仰せつかりましたので。運ぶのはこの鞄や箱類でよろしいでしょうか?」
「はい。家具の類いは持って行きませんので、纏めてあるものだけを。よろしくお願いいたします」
「私の屋敷で何を勝手なことをやっているんだ!」
ハワードが連れてきたラピスフィール公爵家の使用人たちに指示を出し、まるで統率のとれた軍隊のように各々が目配せを交わし、同じ荷物に手を伸ばすことなく荷を持ち上げます。
そこへお父様の怒号が矢のように飛びました。
アーモンド伯爵家の邸内である以上、他家の使用人であってもその言葉を無視することは出来ません。
荷をどうするべきか、指示を待っている彼らの指揮官であるハワードに私は気にする必要はありませんと伝えました。
「構いません。運び出して下さい」
「承知致しました。荷を馬車へ。丁重に運びなさい」
家令からの指示に、ラピスフィール公爵家使用人たちは時間が動き出したように動き始め、荷を持って一列に扉から出ていきます。
「こらぁ! ふざけるな! 今すぐ止めろ! 荷を戻せ!」
「お父様、動線を塞がないで下さい。皆様のご迷惑になるでしょう」
納得がいかずにお父様が止めさせようとしますが、ラピスフィール公爵家の使用人たちは器用にお父様を避けて次々に部屋から出ていきます。
見事な身のこなしに感心していると、今度はこちらへお父様の怒声が飛んできました。
「ジゼル! 今すぐお前から出ていくのは止めるから荷を戻せと伝えろ!」
「お断りします。理由がありませんから」
すでに荷物が運び出され、後は我が身のみ。
これ以上、この話に付き合う必要もないと、事務的に断っていると、ギリギリと歯を擦り合わせていたお父様が何かを思い付いたように口角を吊り上げました。
「ふんっ、ジゼル、分かっているのか? これは立派な窃盗だぞ?」
「──一体何を仰っているんです?」
私物を移動させることが窃盗に当たるなら、世の人々は引っ越し出来ません。お父様の頭の中でどんなロジックが展開されたかは存じませんが、明らかに菜にかを勘違いされていますね……。
「お前の持つものはアーモンド伯爵家の──つまり、私の財で購入したものだ。人も、財も、物も、権利は当主に帰属する! つまり、それらを私の許可なく持ち出すことは立派な窃盗罪だ! よって、それらを持ち出すことは許さん。お前とて罪人にはなりたくないだろう? だったら──」
「ええ、そのつもりですよ?」
「──は?」
そんなぽかんとした顔をされましても……。
やはり、勘違いされていたようですね。
確かに家の財で購入したものは当主に帰属します。それがアーモンド伯爵家の財産であるならば。
「私が持っていくのは個人で行っていた取引で築いた個人財産で買ったものと、友人や知人に私へ贈られたものだけです。それらの所有権は私にあります。家具や伯爵家の財産で購入した装飾品等はそのままにしてありますので、売るなり処分するなりご自由にして下さい」
念のために所有権がアーモンド伯爵家にあるものは全て弾いておきましたが、正解だったようですね。
想定外の返答だったようで、お父様は茫然となさってますけど、このうちにここから発たせていただきましょう。
「それでは、お父様、お母様、今までお世話になりました。リーファ、ロウ様と共にアーモンド伯爵家をよろしくお願いいたします。さようなら」
「では、参りましょうか。ジゼル様」
「はい」
ハワードに付き添われ、馬車へ乗り込むべく育った部屋から出ていきます。
流石にずっと寝起きしていた場所から旅立つことには少しの感傷が湧いてきますが、振り返ってはいけませんね。
けれど、最後に一度だけ──
「こら! ジゼル! 待たんか!」
「ジゼル! 今ならまだ許してあげるから考え直しなさい!」
「お姉様!」
──うん。振り返りません!
後ろ髪を掴もうとしてくる声に、これは立ち止まっても振り返っても出発が遅れるだけと察します。
背後から飛んでくる三者三様の言葉に、私の代わりにハワードが対応をしてくれました。
目配せで「どうぞ、お早く」と促されたので、お言葉に甘えて、私は可能な限りの早歩きで廊下を進んで屋敷の外へ向かい、門前に停まっていたラピスフィール公爵家の馬車へ乗り込みました。
柔らかな座席に座り、ようやく一息つきます。
馬車の車窓からはアーモンド伯爵家が正面から窺えました。
──ずっと、ここに骨を埋めるものと思っておりましたが、人生何があるかわかりませんね。
今のところ、アーモンド伯爵家は財もありますし、貴族の中でも安定していると言えます。
とはいえ、小さな変化が大きな波紋を呼ぶこともよくある話。
娘を過剰に甘やかす両親、散財癖のあるリーファ、リーファとの婚約に浮かれたままのロウ様。
色々と懸念すべき点は残っているのですよね……。
この屋敷の中心にいるのが気紛れなリーファであり、誰もそれを諌めない以上、不安の種が絶つことはないでしょう。それは気掛かりではあるのですが──
「……今更考えても仕方ないことですね」
どうしたって私はこの屋敷から出ていく身。
実家に思い入れがないわけではありませんが、これから私に出来ることは祈るだけです。
後のことはアーモンド伯爵家の皆様に託しましょう。
ハワードが戻ってきて、馬車がラピスフィール公爵家へ向かって走り出します。
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