『生きた骨董品』と婚約破棄されたので、世界最高の魔導ドレスでざまぁします。私を捨てた元婚約者が後悔しても、隣には天才公爵様がいますので!

aozora

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 雲海を裂いて進む魔導飛空艇の窓から見えるのは、果てしない純白と、どこまでも続く紺碧の空だけだった。

 王都アストラリスの喧騒も、ギルドの老獪な商人たちの顔も、今はもう遥か彼方だ。

 特等船室の静寂の中、セラフィナは深く、長い息を吐いた。

 ベルフォート公爵による経済封鎖という絶体絶命の報せを聞いた時の、心臓を氷の指で掴まれたような感覚が、ようやく和らいでいく。

「窓の外ばかり見ている。王都に、まだ何か心残りでも?」

 対面のソファに腰掛けていたセバスチャン・モランが、静かに声をかけてきた。

 彼の深い藍色の瞳は、心配の色を隠そうともしていない。

「少し、考え事をしていただけですわ、モラン公爵」

「セバスチャンと呼んでくれ。君と私は、ただの支援者と事業主ではない。同じ未来を見つめる、パートナーだろう?」

 彼の言葉には、揺るぎない確信が込められていた。

 セラフィナは小さく頷き、カップに残っていた温かいハーブティーを一口飲む。

 花の香りが、張り詰めていた神経を優しく解きほぐしていく。

「……セバスチャン様。そのお言葉、心に沁みます。本当に、ありがとうございます。あなたという光がなければ、私はとうに王都の闇に呑まれていたことでしょう」

「礼には、我々が勝利を掴んだ時に、君の笑顔で応えてくれ。今はまだ序章に過ぎない。ベルフォート公爵は、我々を盤上の駒と侮っているだろう。その傲慢さこそが、我々の最大の武器になる」

 セバスチャンの声は冷静だったが、その奥には燃えるような闘志が秘められていた。

 彼はテーブルに広げられた地図――彼の領地であるモラン公爵領の精密な魔導地図――を指し示す。

「君のアトリエ『アウラ』の技術と、私の領地の生産基盤を直結させる。ギルドを完全に迂回した、独自のサプライチェーンだ。絹を生む魔蚕の育成から、特殊な鉱石の採掘、そして最終製品の加工と流通まで、全てを我々の管理下に置く」

 壮大な計画だった。

 それは単なる経済封鎖への対抗策ではない。

 王都のギルドが何世紀にもわたって築き上げてきた支配構造そのものに対する、正面からの挑戦状だ。

「ええ。計画の骨子は理解しています。ですが、問題は……速度です」

 セラフィナは真剣な眼差しで彼を見つめ返した。

「この巨大な機構を一つの生命体のように動かすには、全てを統括する神経網……すなわち、極めて緻密な統合管理システムが不可欠です。その設計は、従来の手法では数ヶ月…いえ、下手をすれば年単位の時間を要します。ベルフォート公爵が、それまで待ってくれるはずがありません」

 それが、彼女が直面している最後の、そして最大の壁だった。

 敵は待ってはくれない。

 彼らが体勢を立て直す前に、圧倒的な速度で革新を成し遂げる必要があった。

 セバスチャンは黙って彼女の話を聞いていたが、やがて口元に微かな笑みを浮かべた。

「そのための準備も、抜かりなく」

 彼は立ち上がると、船室の奥にある、壁と一体化した収納扉を開いた。

 そこには、飛空艇の中にあるとは思えないほど本格的な、小規模な魔導工房が設えられていた。

 各種の測定機器、精密な加工ツール、そして中央には、調整用の魔力供給装置が鎮座している。

「君が『S・ヴァレン』名義の論文で提唱していた、あの理論を実用化する時が来たようだ」

 セバスチャンの言葉に、セラフィナは息を呑んだ。

 論文で触れた、まだ構想段階の技術。

 術者の思考と魔導装置を直接接続し、思考の速度でエーテル織を設計する究極のインターフェース――。

「……ニューロ・リンク。思考接続」

「その通り。そして、それを実現するための鍵となる素材も手配済みだ」

 彼が作業台の上に置いたのは、ベルベットの布に包まれた小さな箱だった。

 セラフィナがゆっくりと蓋を開けると、中には人の親指ほどの大きさの、淡い虹色の光を放つ水晶が収められていた。

「嘘……でしょう? これほどの純度を持つ『霊晶(アニマ・クリスタル)』だなんて……。これ一つで、小さな貴族の領地が買えてしまいますわ…!」

 精神波動に極めて敏感に反応する、幻の鉱石。

 その希少性と価格は、同程度の大きさの宝石を遥かに凌駕する。

「物の価値は、誰が使うかで決まる。この石は、君の手に渡る日を待っていたのだろう。この輝きを真に解放できるのは、リリア王国広しといえど、君だけだ」

 セバスチャンは、まるで子供に新しい玩具を買い与えるかのように、あっさりと告げた。

 だが、その瞳の奥にある信頼の光は、何よりも雄弁に彼の期待を物語っていた。

 セラフィナは感応水晶をそっと指先でなぞる。

 ひんやりとした感触と共に、微かな魔力の共鳴が伝わってきた。

 これがあれば、できる。

 あの忌まわしい婚約破棄の日から、止まることなく走り続けてきた。

 屈辱をバネに、ただひたすらに前だけを見てきた。

 そして今、彼女の持てる全ての知識と技術を結集させる時が来たのだ。

「セバスチャン様……必ず、完成させてみせます。私たちの未来を切り拓く、最高の傑作を」

 彼女の瞳には、もはや迷いはなかった。

 そこにあるのは、創造主だけが知る、燃え盛る情熱の炎だった。

 それからの数日間、セラフィナは眠る時間も惜しんで飛空艇内の工房に籠った。

 侍女のクロエが心配して差し入れてくれる食事も、上の空で口に運ぶだけ。

 彼女の意識は完全に、ミクロの世界へとダイブしていた。

 感応水晶を核に、極細の魔銀線で回路を組み上げ、レンズ状に研磨した水晶と組み合わせる。

 それは、宝飾職人の繊細さと、魔導技術師の精密さを同時に要求される、神業のような作業だった。

 ふと、集中が途切れた瞬間、脳裏によぎるのは過去の記憶。

『セラフィナ、なぜお前はそう普通にできないのだ。そのように鉄と水晶ばかり弄っていて、どこの殿方がお前を望むと?』

『お前のその“趣味”とやらは、ヴァレンシア家の血を汚す毒だ。名門ベルフォート家に対して顔向けができぬ』

 父と母の冷たい声。

 才能を「危険な趣味」と断じ、押さえつけようとした日々。

 その記憶が、一瞬だけ彼女の指先を震わせる。

 その時、そっと彼女の肩に温かいショールがかけられた。

「無理はするな。君が倒れては元も子もない」

 いつの間にか、セバスチャンが背後に立っていた。

 彼は何も聞かず、ただ静かに、新しいハーブティーのカップを差し出す。

「……ありがとうございます」

「その指先から、迷いと……僅かな恐怖を感じる。君ほどの才能の持ち主が、一体何を恐れる? ……誰かに、その輝きを否定されたことがあるのか」

 唐突な問いに、セラフィナは顔を上げた。

 彼の瞳は、全てを見透かすように深く、そして優しかった。

「……ええ。淑女らしからぬ、と。ずっと言われ続けてきました」

「愚かな。ダイヤモンドの原石をただの石ころと断じるようなものだ。才能とは、性別や身分で測る物差しではない。天が世界を前進させるために与えた、稀有な贈り物だ。それを否定する者は、自らの目が節穴だと、世界に叫んでいるのと同じことだ」

 彼の言葉は、セラフィナの心の奥深くに長年突き刺さっていた棘を、そっと抜き去ってくれるようだった。

 涙が滲みそうになるのを、ぐっと堪える。

 彼女はもう、独りではない。

 この人は、世界でただ一人、ありのままの自分を、その才能を、何よりも価値あるものだと信じてくれる。

 その事実が、彼女に最後の力を与えた。

 そして、飛空艇がモラン領の上空に差し掛かった日の朝。

 ついに、それは完成した。

 洗練された白銀のフレームに、虹色の感応水晶が埋め込まれた、片眼鏡(モノクル)型の魔導具。

 シンプルでありながら、比類なき力を秘めたその姿は、まさに機能美の極致だった。

「……『ニューロ・レンズ』」

 セラフィナは、自らの最高傑作の名を呟いた。

「試してみるか?」

 セバスチャンの促しに、彼女は頷く。

 ゆっくりとニューロ・レンズを右目に装着する。

 その瞬間、脳が焼き切れそうなほどの情報奔流が意識に流れ込んできた。

 常人であれば一秒と持たずに意識を刈り取られるであろう情報の洪水。

 だがセラフィナは、それを持ち前の強靭な精神力と『エーテル織演算』で鍛え上げた思考回路で冷静に捌き、自らの制御下に置いた。

 世界が、一変した。

 視界の隅に、半透明の幾何学的な紋様が浮かび上がる。

 それは魔力の流れを可視化したステータス表示。

 そして、彼女が意識を集中させると、目の前の空間に、淡い光の粒子が集まり始めた。

『サプライチェーンの物流管理システムを構築』

 彼女が頭の中でそう念じた瞬間、工房の空間に壮大な光景が広がった。

 光の糸が、まるで意思を持ったかのように宙を駆け巡る。

 それらは複雑に絡み合い、分岐し、結びつきながら、巨大で立体的な魔術回路――エーテル織のパターンを形成していく。

 鉱山から工房へ。工房から集積所へ。集積所から王都の隠し拠点へ。

 物資の流れ、在庫数、輸送経路の最適化。

 これまで何日もかけて方眼紙の上で計算していたはずの複雑なロジックが、彼女の思考の速度で、リアルタイムに、美しい光のアートとして編み上げられていく。

 セバスチャンは、ただ息を呑んでその光景を見つめていた。

 論文で読んだ理論を遥かに超える、圧倒的な現実。

 これは単なる技術革新ではない。魔法そのものの概念を覆す、革命の瞬間だった。

 (これは……術者の精神そのものを燃料とする諸刃の剣だ。彼女ほどの演算能力と精神的安定性がなければ、暴走して廃人になりかねない。まさに、セラフィナ・ド・ヴァレンシアのためだけに存在するような魔導具だ……)

 彼はセラフィナの横顔を見た。

 ニューロ・レンズから放たれる光が彼女の真剣な表情を照らし、その姿はまるで、星々を従える女神のように神々しかった。

 この時、セバスチャンの心にあったのは、もはや単なる才能への感嘆や、パートナーへの信頼ではなかった。

 この輝きを、何があっても守り抜きたい。

 この魂と、未来永劫、共にありたい。

 それは、彼の冷静な思考を焼き尽くすほどに熱く、そしてどうしようもなく純粋な、恋慕の情だった。

 わずか数時間後。

 セラフィナは、ニューロ・レンズを駆使して、サプライチェーン管理システムの基本設計だけでなく、モラン領の工房で使うための新型魔導織機の設計図まで、十数種類も完成させていた。

 革新のサイクルは、文字通り、劇的に加速したのだ。

 ◇

 その頃、王都アストラリスのベルフォート公爵邸では、対照的に弛緩した空気が流れていた。

「聞いたかい、僕の可愛いヴィヴィアン。あの地味な女、とうとう尻尾を巻いて王都から逃げ出したそうだ。モランとかいう田舎公爵も、僕の父上に睨まれては為す術もなかったわけだ。あんな女のくだらない道楽に大枚をはたいて、今頃さぞかし青い顔をしていることだろうね!」

 ジュリアン・ベルフォートは、上質なワイングラスを傾けながら、得意満面に言った。

 彼の向かいでは、恋人のヴィヴィアン・ルクレールが勝ち誇った笑みを浮かべている。

「ええ、ジュリアン様。当然の結果ですわ。公爵様のお力の前では、あの女の浅知恵など赤子の手遊びのようなもの。後ろ盾のない人間がいくら足掻こうと、私たち『本物』の貴族には永遠に届かないのです。ああ、これでようやく、耳障りな羽虫の音が聞こえなくなって、せいせいしますわ」

「まったくだ。変人に唆されて少しばかり調子に乗っていたようだが、現実の厳しさを思い知ったことだろう。これで社交界も、ようやく静かになる」

 彼らは、セラフィナがセバスチャンと共に飛空艇で王都を立ったことを、「敗走」だと信じて疑わなかった。

 自分たちの勝利を確信し、すっかり油断しきっていた。

 だが、その軽薄な会話は、重々しい足音によって遮られた。

「……まだ、そのような浮かれたことを言っているのか」

 書斎の扉を開けて現れたのは、当代のベルフォート公爵、アレクサンドル・デュマだった。

 その氷のような眼差しに、ジュリアンとヴィヴィアンの表情が凍り付く。

「ち、父上……。ですが、セラフィナは……」

「逃げたのではない。移動したのだ」

 公爵は、執事から受け取った一枚の報告書をテーブルに叩きつけた。

「あの小娘とモラン公爵は、最新鋭の魔導飛空艇で、モラン領に向かった。あれは敗走ではない。計算され尽くした、戦略的撤退だ」

 彼の言葉に、ジュリアンは顔色を失う。

「そ、そんな……。なぜ、辺境のモラン領などに……」

「まだ分からんのか、この能天気めが!」

 公爵の怒声が響き渡る。

「あの女狐は、我らの法もギルドの掟も及ばぬ無法地帯で、新たな王国を築くつもりなのだ。モランの無尽蔵の資源と、あの女の異端の技術……その二つが結びつけば、我らベルフォートの築いた秩序が根底から覆されることになる。分かるか? 我々の時代の終わりが始まるのだ」

 彼は部下に命じて、セラフィナの過去と、特に「S・ヴァレン」という謎の論文著者について徹底的に調査させていた。

 そして、二つの点と点が線で結ばれた時、ベルフォート公爵は、セラフィナという存在の真の恐ろしさを理解したのだ。

 あれは、ただのドレスデザイナーではない。

 旧来の魔術体系を根底から覆し、自らの瘴気反応炉事業――ベルフォート家の権力の源泉――を無価値なガラクタに変えかねない、破壊的な革新者だ。

「あの小娘は、もはや単なる邪魔者ではない。我が一族の、そしてこの王国の伝統そのものに対する、真の脅威だ」

 ベルフォート公爵は、窓の外に広がる王都の景色に目を向け、冷酷に言い放った。

「芽は、小さいうちに摘み取らねばならん」

 彼は影のように控えていた配下の工作員に向き直る。

「モラン領へ飛べ。手段は問わん。アトリエ『アウラ』を灰にし、あの小娘を……『事故』に見せかけて消せ。二度と我らの前に現れぬよう、跡形もなくな」

 非情な命令が、静かな書斎に響き渡った。

 ◇

 眼下に、雄大な緑の大地が広がり始めた。

 セラフィナたちの乗る飛空艇が、ついにセバスチャン・モランの領地へと到着したのだ。

 窓から見える風景は、煤けた煙突が林立する王都とは全く違っていた。

 飛空艇の換気口から流れ込む空気が、驚くほど清浄であることにセラフィナは気づいた。

 ベルフォート家の工場地区周辺で常に感じていた、あの微かな瘴気の淀みが一切ない。

 これが、クリーン・エーテル転換炉がもたらす恩恵なのだと、彼女は肌で理解した。

 豊かな森と清らかな川の流れ、その合間を縫うように点在する美しい街並み。

 そして、街の中心部には、ガラスと白い石で造られた、未来的なデザインの建築物が太陽の光を浴びて輝いている。

 自然と先進技術とが、見事に調和した風景。

 セラフィナは、完成したばかりのニューロ・レンズをそっと手に取った。

 その冷たく滑らかな感触が、彼女に新たな決意を促す。

 ここが、私の新しい戦場。

 ここから、私たちの未来が始まる。

「ようこそ、セラフィナ。私の故郷(くに)へ。そして……ここが、君と私が未来を創る場所だ」

 隣に立ったセバスチャンが、穏やかな声で言った。

 彼の視線は、彼女と同じように、眼下に広がる希望の大地へと注がれている。

 セラフィナは、力強く頷いた。

 彼女はまだ知らない。

 王都から放たれた、冷酷な暗殺者の影が、この希望に満ちた大地へと静かに忍び寄りつつあることを。

 だが、今の彼女の心にあったのは、未来への揺るぎない確信だけだった。

 この手にある光のレンズと、隣に立つ信頼できるパートナーと共に、どんな困難も乗り越えてみせる、と。

 堕ちた星屑が、自らの手で天穹を創り出すための戦いは、今、新たな幕を開けた。
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