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第二話 魔術師の偏食事情
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エレナが北の塔に来てから、三日が経過した。
塔の掃除は地下一階から三階、そして屋上に至るまですべて完了し、窓ガラスは本来の透明度を取り戻していた。
生活環境は劇的に改善されたものの、エレナには一つ、頭の痛い問題があった。
「……クローデル様。なぜ、人参とブロッコリーだけが、綺麗にお皿の縁に残されているのでしょうか」
昼食の片付けに訪れたエレナは、執務机の上の皿を見て静かに問いかけた。メインのチキンソテーは跡形もなく消えているが、付け合わせの温野菜だけが、まるで結界でも張られたかのように手つかずで残っている。
羊皮紙にペンを走らせていたシルヴィスは、顔も上げずに答えた。
「俺は草食動物じゃない。緑やオレンジの物体を摂取する必要性を感じん」
「人間には野菜が必要です。ビタミン不足は思考力の低下を招きますよ」
「俺は魔力で肉体を強化している。ゆえに問題ない」
とんでもない屁理屈だった。この国の最高戦力である天才魔術師は、食生活に関しては五歳児並みのわがままさを発揮していたのだ。
エレナは小さく溜息をつき、皿を下げた。
(正面から説得しても無駄ですね。ならば、搦手で攻めるしかありません)
エレナの瞳に、再び狩人の光が宿る。夕食のメニューは決まった。
***
夕刻。研究に没頭していたシルヴィスの鼻腔を、またしても暴力的な香りが襲撃した。数種類のハーブと、肉の脂が溶け出したスープの濃厚な香り。
ぐう、と腹が鳴る。この三日で、シルヴィスの胃袋はすっかりエレナの料理に支配されつつあった。
観念して、彼は二階のリビングへと降りていく。
「夕食のご用意ができております」
テーブルの中央には、湯気を立てる大きな土鍋が鎮座していた。
しかし、シルヴィスは鍋の中身――ポトフを見て眉をひそめた。大きくカットされた厚切りベーコンやソーセージは魅力的だが、それ以上に、丸ごとの玉ねぎ、太切りの人参、キャベツがゴロゴロと入っている。
「……おい。昼に言ったはずだぞ。俺は野菜が――」
「どうぞ、まずはスープとベーコンだけでも」
エレナはシルヴィスの抗議をさらりと流し、深皿にたっぷりとよそった。琥珀色に透き通ったスープ。その中に、煮崩れる寸前の野菜たちが浸っている。
シルヴィスは不満げに鼻を鳴らしながらも、スプーンを手に取った。まずはスープを一口。
「……ん」
美味い。野菜の甘みと肉の旨味が極限まで濃縮されている。身体の芯まで染み渡るような、優しい味だ。
次に、大きくカットされたベーコンを口にする。燻製の香りと脂の甘みが弾ける。スプーンが止まらなくなる。そして、勢いに乗ったまま、スープと一緒に掬い上げてしまった人参を、無意識に口へ運んだ。
(――しまった)
気付いた時には遅かった。口の中に入ってしまったそれを、吐き出すわけにもいかない。
シルヴィスは覚悟を決めて噛み締めた。だが、予想していた青臭さや硬さは、そこにはなかった。
「……甘い?」
舌の上で、人参がほろりと崩れた。じっくりと弱火で煮込まれた野菜は、コンソメの旨味をたっぷりと吸い込み、まるで果物のような甘みを放っていたのだ。
キャベツも同様だ。トロトロに柔らかくなっており、繊維を感じさせない。嫌いなはずの野菜が、ベーコンの塩気と絡み合い、極上の馳走へと変わっている。
「この人参は、一度バターでグラッセしてから煮込んであります。玉ねぎも、飴色になるまで炒めたものをスープのベースに加えつつ、具材としての玉ねぎは形が崩れないギリギリを見極めました」
いつの間にか、エレナが水の入ったグラスを置きながら解説していた。
シルヴィスは何も言えずに、ただ無心でスプーンを動かし続けた。野菜を食べているという感覚がない。ただただ、美味いものを食べているという幸福感だけがある。
気付けば、土鍋の中身は半分以上減っていた。
満腹になり、シルヴィスはふぅ、と息を吐いた。身体がポカポカと温かい。
「……余計な小細工をしおって」
憎まれ口を叩きながらも、その表情には明らかな満足感があった。
エレナは空になった皿を下げながら、僅かに口元を緩めた。
「お気に召したようで何よりです。明日の朝は、野菜を擦り下ろした特製ポタージュにいたしますね」
「……勝手にしろ」
拒絶の言葉はなかった。
こうして、魔術師シルヴィスの野菜嫌いという防壁は、エレナのポトフによって静かに、しかし確実に崩された。
塔の掃除は地下一階から三階、そして屋上に至るまですべて完了し、窓ガラスは本来の透明度を取り戻していた。
生活環境は劇的に改善されたものの、エレナには一つ、頭の痛い問題があった。
「……クローデル様。なぜ、人参とブロッコリーだけが、綺麗にお皿の縁に残されているのでしょうか」
昼食の片付けに訪れたエレナは、執務机の上の皿を見て静かに問いかけた。メインのチキンソテーは跡形もなく消えているが、付け合わせの温野菜だけが、まるで結界でも張られたかのように手つかずで残っている。
羊皮紙にペンを走らせていたシルヴィスは、顔も上げずに答えた。
「俺は草食動物じゃない。緑やオレンジの物体を摂取する必要性を感じん」
「人間には野菜が必要です。ビタミン不足は思考力の低下を招きますよ」
「俺は魔力で肉体を強化している。ゆえに問題ない」
とんでもない屁理屈だった。この国の最高戦力である天才魔術師は、食生活に関しては五歳児並みのわがままさを発揮していたのだ。
エレナは小さく溜息をつき、皿を下げた。
(正面から説得しても無駄ですね。ならば、搦手で攻めるしかありません)
エレナの瞳に、再び狩人の光が宿る。夕食のメニューは決まった。
***
夕刻。研究に没頭していたシルヴィスの鼻腔を、またしても暴力的な香りが襲撃した。数種類のハーブと、肉の脂が溶け出したスープの濃厚な香り。
ぐう、と腹が鳴る。この三日で、シルヴィスの胃袋はすっかりエレナの料理に支配されつつあった。
観念して、彼は二階のリビングへと降りていく。
「夕食のご用意ができております」
テーブルの中央には、湯気を立てる大きな土鍋が鎮座していた。
しかし、シルヴィスは鍋の中身――ポトフを見て眉をひそめた。大きくカットされた厚切りベーコンやソーセージは魅力的だが、それ以上に、丸ごとの玉ねぎ、太切りの人参、キャベツがゴロゴロと入っている。
「……おい。昼に言ったはずだぞ。俺は野菜が――」
「どうぞ、まずはスープとベーコンだけでも」
エレナはシルヴィスの抗議をさらりと流し、深皿にたっぷりとよそった。琥珀色に透き通ったスープ。その中に、煮崩れる寸前の野菜たちが浸っている。
シルヴィスは不満げに鼻を鳴らしながらも、スプーンを手に取った。まずはスープを一口。
「……ん」
美味い。野菜の甘みと肉の旨味が極限まで濃縮されている。身体の芯まで染み渡るような、優しい味だ。
次に、大きくカットされたベーコンを口にする。燻製の香りと脂の甘みが弾ける。スプーンが止まらなくなる。そして、勢いに乗ったまま、スープと一緒に掬い上げてしまった人参を、無意識に口へ運んだ。
(――しまった)
気付いた時には遅かった。口の中に入ってしまったそれを、吐き出すわけにもいかない。
シルヴィスは覚悟を決めて噛み締めた。だが、予想していた青臭さや硬さは、そこにはなかった。
「……甘い?」
舌の上で、人参がほろりと崩れた。じっくりと弱火で煮込まれた野菜は、コンソメの旨味をたっぷりと吸い込み、まるで果物のような甘みを放っていたのだ。
キャベツも同様だ。トロトロに柔らかくなっており、繊維を感じさせない。嫌いなはずの野菜が、ベーコンの塩気と絡み合い、極上の馳走へと変わっている。
「この人参は、一度バターでグラッセしてから煮込んであります。玉ねぎも、飴色になるまで炒めたものをスープのベースに加えつつ、具材としての玉ねぎは形が崩れないギリギリを見極めました」
いつの間にか、エレナが水の入ったグラスを置きながら解説していた。
シルヴィスは何も言えずに、ただ無心でスプーンを動かし続けた。野菜を食べているという感覚がない。ただただ、美味いものを食べているという幸福感だけがある。
気付けば、土鍋の中身は半分以上減っていた。
満腹になり、シルヴィスはふぅ、と息を吐いた。身体がポカポカと温かい。
「……余計な小細工をしおって」
憎まれ口を叩きながらも、その表情には明らかな満足感があった。
エレナは空になった皿を下げながら、僅かに口元を緩めた。
「お気に召したようで何よりです。明日の朝は、野菜を擦り下ろした特製ポタージュにいたしますね」
「……勝手にしろ」
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こうして、魔術師シルヴィスの野菜嫌いという防壁は、エレナのポトフによって静かに、しかし確実に崩された。
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