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本編
第一話 ゴミ屋敷の住人と黄金色のオムレツ
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その部屋の主である男、シルヴィス・クローデルが目を覚ました時、最初に感じたのは違和感だった。
普段なら、鼻を刺す古い紙とインクの匂いが充満しているはずの寝室に、どこか爽やかな風が流れている。そして何より、腹の虫が暴動を起こしそうなほど、香ばしく食欲をそそる匂いが漂っていた。
「……なんだ?」
シルヴィスは重い瞼をこじ開け、愛用の薄汚れた毛布を跳ね除けた。寝癖だらけの銀髪をかきむしりながら、執務室兼書斎へと続く扉を開ける。
ボサボサの髪の隙間から覗くのは、病的なまでに白い肌と、不機嫌そうに細められた氷雪のような蒼い瞳。その顔立ちは、彫刻のように整っているだけに、荒んだ生活による隈や痩せ具合が痛々しいほど際立っていた。
「――おはようございます、クローデル様」
そこには、凛とした声が待ち構えていた。
シルヴィスは目を疑った。床が見える。昨日まで魔術書の雪崩が起きていた床が、木目をさらけ出して輝いているのだ。さらに窓は開け放たれ、春の日差しが室内に降り注いでいる。
そして部屋の中央には、エプロンをつけた一人の女が、湯気を立てる皿を手に立っていた。
「誰だ、お前は」
シルヴィスは不機嫌さを隠そうともせず、低く唸った。
これまで送り込まれてきた世話係の一人だろうが、勝手に俺のテリトリーを荒らす奴は許さない。
「本日より本塔のメイドに着任いたしました、エレナ・フォスターと申します」
女――エレナは、シルヴィスの殺気立った視線を受けても眉一つ動かさず、完璧なカーテシーを披露した。
「以後、お見知り置きを」
「帰れ。俺は世話係など必要としていない。特に、人の物を勝手に動かすような奴はな」
シルヴィスは扉を指差した。だが、エレナは動かない。それどころか、淡々とした口調で返してくる。
「物を動かしたわけではありません。床に散乱していた『明らかにゴミと判断できるもの』を処分し、分類不能な書物を一時的に棚へ退避させただけです。研究に必要な資料が床に埋もれていては、効率が低下しますので」
「なっ……」
「それに、顔色が優れませんね。目の下の隈、肌の乾燥、痩せこけた頬。明らかに栄養不足です。まずは食事を摂っていただきます」
エレナは強引に話を進め、手に持っていた皿を、執務机の上に置いた。
カチャリ、と小気味よい音が響く。
「な……誰が食うか、そんな……」
拒絶しようとしたシルヴィスの言葉は、鼻腔をくすぐる暴力的なまでの良い匂いにかき消された。
皿の上に乗っていたのは、何の変哲もないオムレツ。だが、その見た目は芸術的ですらあった。
滑らかな曲線を描く黄金色の表面は、一切の焦げ目なく焼き上げられ、バターの芳醇な香りを纏っている。ナイフを入れるまでもなく、その中身が半熟のとろとろであることを予感させた。
ぐぅぅぅぅぅ――。
シルヴィスの腹が、裏切り者のように盛大な音を立てた。静寂が部屋を支配するなか、エレナは表情を変えず、ただ椅子を引いた。
「どうぞ。温かいうちに」
シルヴィスは敗北した。本能には抗えない。彼はふらふらと机に近づき、椅子にドカッと座り込んだ。
「……毒見は、済んでいるんだろうな」
「私が作りましたので。毒など盛る理由がありません」
シルヴィスはスプーンを握り、オムレツの端を掬った。スプーンの先が、抵抗なく黄金の山に沈む。中から溢れ出したのは、鮮やかな黄色の卵液と、細かく刻まれたハムとチーズ。それを口へと運ぶ。
「――っ」
口に入れた瞬間、シルヴィスの目が大きく見開かれた。
ふわふわとした食感と共に、濃厚な卵の甘みとバターのコクが口いっぱいに広がる。チーズの塩気が絶妙なアクセントになり、噛む必要すらないほど柔らかく喉を通り抜けていく。
研究に没頭するあまり、干し肉や固いパンばかり齧っていたシルヴィスの胃袋に、それはあまりにも優しく、そして強烈な衝撃だった。
(なんだこれは……本当に、ただの卵か?)
二口目からは、もう止まらなかった。無言でスプーンを動かし続ける。温かいものが胃に落ちるたび、凍りついていた思考回路が熱を持ち、指先に血が巡っていくのが分かった。
気付けば、皿は空になっていた。
「……お代わりは?」
エレナの声に、シルヴィスはハッと我に返る。夢中で貪り食ってしまった。天才魔術師としての威厳も何もあったものではない。
彼は咳払いをし、口元の汚れをナプキンで拭った。
「……いらん。まあ、悪くはなかった」
「それは何よりです。では、食後のハーブティーを淹れますね」
素っ気ない称賛にも、エレナは満足げに頷き、手際よくポットにお湯を注ぎ始めた。
その無駄のない動きを眺めながら、シルヴィスは満たされた腹をさする。追い出すつもりだったが、この食事を一度きりで失うのは惜しい気がした。あくまで、合理的な判断として。
「……おい」
「はい」
「掃除と飯だけだ。研究には一切口を出すな。それと、俺が集中している時は空気になること。それが守れるなら、置いてやらなくもない」
尊大な物言いだが、それが彼なりの精一杯の譲歩であることを、エレナは見抜いていた。
彼女は湯気の立つティーカップを彼の前に置き、静かに微笑んだ。
「かしこまりました、クローデル様。空気のように気配を消し、かつ完璧にサポートさせていただきます」
普段なら、鼻を刺す古い紙とインクの匂いが充満しているはずの寝室に、どこか爽やかな風が流れている。そして何より、腹の虫が暴動を起こしそうなほど、香ばしく食欲をそそる匂いが漂っていた。
「……なんだ?」
シルヴィスは重い瞼をこじ開け、愛用の薄汚れた毛布を跳ね除けた。寝癖だらけの銀髪をかきむしりながら、執務室兼書斎へと続く扉を開ける。
ボサボサの髪の隙間から覗くのは、病的なまでに白い肌と、不機嫌そうに細められた氷雪のような蒼い瞳。その顔立ちは、彫刻のように整っているだけに、荒んだ生活による隈や痩せ具合が痛々しいほど際立っていた。
「――おはようございます、クローデル様」
そこには、凛とした声が待ち構えていた。
シルヴィスは目を疑った。床が見える。昨日まで魔術書の雪崩が起きていた床が、木目をさらけ出して輝いているのだ。さらに窓は開け放たれ、春の日差しが室内に降り注いでいる。
そして部屋の中央には、エプロンをつけた一人の女が、湯気を立てる皿を手に立っていた。
「誰だ、お前は」
シルヴィスは不機嫌さを隠そうともせず、低く唸った。
これまで送り込まれてきた世話係の一人だろうが、勝手に俺のテリトリーを荒らす奴は許さない。
「本日より本塔のメイドに着任いたしました、エレナ・フォスターと申します」
女――エレナは、シルヴィスの殺気立った視線を受けても眉一つ動かさず、完璧なカーテシーを披露した。
「以後、お見知り置きを」
「帰れ。俺は世話係など必要としていない。特に、人の物を勝手に動かすような奴はな」
シルヴィスは扉を指差した。だが、エレナは動かない。それどころか、淡々とした口調で返してくる。
「物を動かしたわけではありません。床に散乱していた『明らかにゴミと判断できるもの』を処分し、分類不能な書物を一時的に棚へ退避させただけです。研究に必要な資料が床に埋もれていては、効率が低下しますので」
「なっ……」
「それに、顔色が優れませんね。目の下の隈、肌の乾燥、痩せこけた頬。明らかに栄養不足です。まずは食事を摂っていただきます」
エレナは強引に話を進め、手に持っていた皿を、執務机の上に置いた。
カチャリ、と小気味よい音が響く。
「な……誰が食うか、そんな……」
拒絶しようとしたシルヴィスの言葉は、鼻腔をくすぐる暴力的なまでの良い匂いにかき消された。
皿の上に乗っていたのは、何の変哲もないオムレツ。だが、その見た目は芸術的ですらあった。
滑らかな曲線を描く黄金色の表面は、一切の焦げ目なく焼き上げられ、バターの芳醇な香りを纏っている。ナイフを入れるまでもなく、その中身が半熟のとろとろであることを予感させた。
ぐぅぅぅぅぅ――。
シルヴィスの腹が、裏切り者のように盛大な音を立てた。静寂が部屋を支配するなか、エレナは表情を変えず、ただ椅子を引いた。
「どうぞ。温かいうちに」
シルヴィスは敗北した。本能には抗えない。彼はふらふらと机に近づき、椅子にドカッと座り込んだ。
「……毒見は、済んでいるんだろうな」
「私が作りましたので。毒など盛る理由がありません」
シルヴィスはスプーンを握り、オムレツの端を掬った。スプーンの先が、抵抗なく黄金の山に沈む。中から溢れ出したのは、鮮やかな黄色の卵液と、細かく刻まれたハムとチーズ。それを口へと運ぶ。
「――っ」
口に入れた瞬間、シルヴィスの目が大きく見開かれた。
ふわふわとした食感と共に、濃厚な卵の甘みとバターのコクが口いっぱいに広がる。チーズの塩気が絶妙なアクセントになり、噛む必要すらないほど柔らかく喉を通り抜けていく。
研究に没頭するあまり、干し肉や固いパンばかり齧っていたシルヴィスの胃袋に、それはあまりにも優しく、そして強烈な衝撃だった。
(なんだこれは……本当に、ただの卵か?)
二口目からは、もう止まらなかった。無言でスプーンを動かし続ける。温かいものが胃に落ちるたび、凍りついていた思考回路が熱を持ち、指先に血が巡っていくのが分かった。
気付けば、皿は空になっていた。
「……お代わりは?」
エレナの声に、シルヴィスはハッと我に返る。夢中で貪り食ってしまった。天才魔術師としての威厳も何もあったものではない。
彼は咳払いをし、口元の汚れをナプキンで拭った。
「……いらん。まあ、悪くはなかった」
「それは何よりです。では、食後のハーブティーを淹れますね」
素っ気ない称賛にも、エレナは満足げに頷き、手際よくポットにお湯を注ぎ始めた。
その無駄のない動きを眺めながら、シルヴィスは満たされた腹をさする。追い出すつもりだったが、この食事を一度きりで失うのは惜しい気がした。あくまで、合理的な判断として。
「……おい」
「はい」
「掃除と飯だけだ。研究には一切口を出すな。それと、俺が集中している時は空気になること。それが守れるなら、置いてやらなくもない」
尊大な物言いだが、それが彼なりの精一杯の譲歩であることを、エレナは見抜いていた。
彼女は湯気の立つティーカップを彼の前に置き、静かに微笑んだ。
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