王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする

葉山あおい

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プロローグ 鉄の女と魔術師の塔

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 王宮の回廊に、その靴音が響くことはない。

 無音かつ迅速、そして正確無比。王宮で働くメイド――エレナ・フォスターの仕事ぶりを表すならば、その三語に尽きるだろう。

 磨き上げられた大理石の床に一点の曇りもなく、飾られた生花は最も美しい角度で光を受けている。すれ違う貴族たちには最敬礼をし、影のように控えながらも、王宮の秩序を完璧に維持する。

 勤続八年。二十三歳という若さながら、エレナはその仕事の完璧さゆえに、同僚たちから密かにこう呼ばれていた。

 ――鉄の女、と。

「エレナ。少しよろしいかしら」

 リネン室の在庫確認を終えた直後、背後から声をかけられた。

 振り返り、エレナはスカートの裾を掴んで優雅に一礼する。一筋の後れ毛もなく完璧にまとめ上げられた、色素の薄い亜麻色の髪。そして、感情を映さない硬質なエメラルドグリーンの瞳。整いすぎているがゆえに冷たさを感じさせるその美貌は、まさに精密な魔道具のようだった。

 エレナに声をかけたのは、王宮のメイドすべてを束ねるメイド長、マーサだった。白髪交じりの髪をきっちりと結い上げた老婦人は、どこか困ったような、それでいて期待を含んだ眼差しでエレナを見つめている。

「はい、マーサ様。なんでしょうか」

「貴女に、特別辞令が出ました」

 マーサは懐から一通の書状を取り出した。

 特別辞令。通常、メイドの配置転換は定例の会議で通達される。このように個別に呼び出されるのは、よほど特殊な業務か、あるいは、誰もが嫌がる貧乏くじか、どちらかだ。

「本日付で、貴女を『北の塔』の専属メイドに任命します」

「……北の塔、ですか」

 エレナの鉄仮面が、わずかに揺らいだ。

 北の塔。王宮の敷地内でありながら、森に囲まれたその場所は、ある一人の人物のために存在する。

 宮廷魔術師団長、シルヴィス・クローデル。若くして稀代の天才と称され、この国の魔術研究を一手に担う重要人物。だが同時に、彼の悪名は王宮の隅々まで轟いていた。

 極度の人嫌い。偏屈。そして、生活能力の壊滅的な欠如。過去に何十人もの侍女やメイドが彼の世話係として派遣されたが、最短で三時間、最長でも三日で泣いて逃げ帰ってきたという。

 「魔窟」。――それが、メイドたちの間で囁かれる北の塔の別名だった。

「ご存知の通り、あの方は気難しい方です。ですが、国の要であるあの方を、このまま放置するわけにはいきません。先日の健康診断でも『栄養失調寸前』との報告が上がっております」

 マーサは深い溜息をついた。

「掃除、洗濯、そして食事の管理。彼の生活全般を立て直し、心身ともに健康な状態で研究に没頭していただく。王国の安寧と発展のため、あの方には万全でいてもらわなければなりません。……エレナ、お願いできますか?」

 大袈裟な物言いだったが、あながち間違いでもないのだろう。

 エレナは書状を受け取り、静かに頷いた。

「かしこまりました。その任、謹んでお受けいたします」

「引き受けてくれますか! ああ、よかった。断られたらどうしようかと……」

「ただし」

 エレナは人差し指を立てた。

「塔における家事裁量の全権限と、必要経費の自由な使用を許可していただきたく存じます」

「ええ、ええ! もちろんですとも。予算は青天井と思ってくださって構いません」

 交渉成立だ。エレナにとって、相手が偏屈な魔術師だろうと、わがままな王族だろうと関係ない。与えられた場所を完璧に整え、管理する。それがプロのメイドというものだ。

 それに、とエレナは心の中で少しだけ口角を上げた。
 
 誰もが逃げ出すほどの魔窟。そこを徹底的に掃除し、更地のように綺麗にできるとしたら――それは、掃除好きの血が騒ぐというものだ。

 ***

 数時間後。必要最低限の荷物をまとめたエレナは、北の塔の前に立っていた。王宮の華やかさとは無縁の、つたが絡まる古びた石造りの塔。窓は分厚いカーテンで閉ざされ、昼間だというのに生気がない。

「……ここが、私の新しい職場」

 エレナは重厚な木の扉に手をかけ、ノッカーを三回鳴らした。
 
 返事はない。想定内だ。
 
 彼女は腰のベルトから、事前に預かっていたマスターキーを取り出し、鍵穴に差し込んだ。

 カチリ、と硬質な音が響く。

 扉を開けた瞬間、ムッとした澱んだ空気がエレナの頬を撫でた。

 埃と、インクと、焦げた何かと、カビの臭い。薄暗いエントランスには、乱雑に積み上げられた古書、脱ぎ捨てられたローブ、そしていつの時代のものか分からない食器や木箱の山が広がり、その隙間を黒い甲虫が這いまわっている。

「…………」

 普通の令嬢なら、悲鳴を上げて卒倒するかもしれない。だが、エレナ・フォスターは違った。彼女のエメラルドグリーンの瞳は、獲物を見つけた狩人のように鋭く輝いたのだ。

「やりがいが、ありますね」

 彼女は白手袋をキュッと締め直す。偏屈魔術師との対面はこれからだが、まずは挨拶代わりに、この惨状へ宣戦布告といこう。

 王宮のメイドと、引きこもり天才魔術師。二人の奇妙な共同生活は、こうして幕を開けた。
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