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大理石の渡り廊下を歩いていると、ビリーたちの楽しげな声が耳に入ってきた。中庭からだ。
普段ならそのまま横切るところだが、先日の件についてユーリアスはまだビリーたちに礼を伝えられていなかった。数多くいるビリーたち一人一人に礼を言うのは難しいが、数名集まっているところで礼を伝えればより多くのビリーにも伝わるかもしれない。
ユーリアスはビリーたちの集まる噴水前に進行方向を変えた。輪を囲むようにしている彼女たちに声をかける前に、「あら、ユーリアス様じゃない」とビリーの一人がこちらに気がついた。他のビリーも、「ユーリアス様も来て来て」とユーリアスに向かって手招きする。ビリーたちのこういった距離の近さにようやく慣れてきたのも、最近のことだ。
「どうかしたのか?」
近寄ると、ユーリアスが通れるようにビリーたちが道を開ける。輪を割った先、彼女たちの中心にいたのは、ビリーの腕に抱きかかえられた子猫だった。
黄金の毛色に黒のまだら模様が散りばめられている。小さな頭に似合わない大きな耳とくりくりした黒い目、ひくひくと動く髭と小さくて細い手足は、ユーリアスにとって初めて見る種類の猫だった。
ユーリアスはこう見えて動物が好きだ。いや、大好きなのだ。中でも猫は別格で、好きすぎてノアメットにいた頃は飼うことができなかった。やがて寿命がきたときに、悲しくて見送ることができないと思ったからだ。
おかげで猫好きであることは、ノアメットの国民はもちろんのこと家族でさえ知らない。猫が弱点になるほど好きだなんて弱々しい面は、誰にも見せられないと思っていた。
不意打ちに目の前に現れたもふもふの天使に、腰が砕けそうになる。しかも子猫を抱いていたビリーが、「ユーリアス様も触ってみない?」なんて言ってこちらに小さな生き物を渡してくる。
「いや、遠慮するよ」
抱っこしたら連れて帰りたくなるから断ったのだが、ビリーは「可愛いわよ」と構わずユーリアスの手に柔らかい毛玉を乗せてきた。
手に温もりを感じた一瞬にして、ユーリアスの胸にギュンと雷が落ちた。顔や仕草が可愛すぎるのはもちろん、花の香りのような甘くていい匂いがする。ダメだ。もうすでに連れて帰りたい。お世話をしたい。
こちらに渡してきたビリーによると、この子猫は城の門前で傷を負って倒れていたところを彼女たちの一人が保護したという。野犬か鳥にやられたのか、傷が治った今でも前脚の骨は曲がったままだそうだ。
「ご飯をあげたり遊んであげてたりしたら、すっかりここの暮らしを気に入っちゃってね」
「このまま城で飼うことはできないのか?」
ユーリアスは反射的に訊いた。
「ここで飼うっていうのもねぇ」ビリー同士で顔を見合わせる。
ビリーたちいわく、この子猫はフェロモキャットというシャムスバハル原産の猫種らしく、成猫になるにつれて多くの人々が出入りする城で飼うには向かない性質が出てくるのだと教えてくれた。
子猫の可愛さに見惚れて詳細までは聞き取れなかったが、子猫や城の人々の命に関わることではないということだけはわかった。
城では飼えないのか……。盛り上がった気持ちに水をかけられたようだった。子猫の傷は治っているが、変形した前脚は恐らく一生治ることはないだろう。この脚で狩りができるのだろうか。城の外で、外敵に襲われたときに身を守ることができるのだろうか。あらゆる心配が胸に募っていく。
結局その日は解決案を見出すことができず、ユーリアスは仕方なくビリーに子猫を返した。
夫であるアディムに相談してみようか。その夜、ユーリアスは夕食時にアディムに子猫を自分が世話してもいいか尋ねてみようとした。だが、いざアディムを前に口を開こうとすると、なんて声をかけたらいいのかわからなくなる。
今夜のメニューはシャムスバハルの伝統料理であるカルージャだ。スパイスをふんだんに使った鶏肉の煮込み料理で、トウモロコシと小麦粉を練って作った柔らかいパンにつけて食べる。スープに浸したパンを口に運びながら、ユーリアスは斜め前に座って料理を頬張る夫にチラチラと目をやった。
アディムの前に置かれた料理は、あと数口で皿の底が見えそうなぐらいに減っている。子猫の件を相談したいと思いつつ、タイミングを見計らっているうちに時間だけが経過していく。
「食が進んでいないな。口に合わないか?」
アディムの様子を窺っていたせいで、食べるスピードがだいぶ遅くなっていたようだ。伏し目がちな男の目が、ギロッとこちらに注がれる。
「いや……すごく美味しいよ」
ユーリアスは男の目から逃げ、急いで口の中のものを飲み込んだ。急に飲み込んだためか喉に詰まり、苦しさから胸を叩く。
「明日は小国の皇太子が俺たちの結婚の祝いに見舞うらしい。ユーリアスにも顔を出してもらいたいんだが」
「もちろんだ。仮にも俺はアディムのつ――」
妻、と言いかけて、正体不明の恥ずかしさに襲われる。「お、俺の立場的に顔を出さないわけにはいかないだろう」と言い換えると、アディムは苦笑いした。
「『仮にも』……か。そうだな」
勘違いしてはいけない。自分は猫を飼うためにシャムスバハルに嫁いだわけではないのだ。あくまで祖国のため。シャムスバハルとノアメットの友好関係のためなのだ。何よりアディムは王子だ。公務だってある。こんな些細なことを相談している場合じゃない。
一人納得して食事のスピードを上げると、その様子を見ていたアディムが口を開いた。
「俺に何か言いたいことでもあるのか?」
「え?」
「食事中にチラチラ見てただろ」
どうやら気づかれていたらしい。だが、この話はアディムに相談するほどのことじゃないと納得したばかりだ。子猫の世話はビリーたちに任せよう。自分が何とかしようとしなくても、あの子猫は勝手に城に入ってくるだろうから。
「そうかな。勘違いじゃないか?」
そう答えると、アディムは小さくため息をついた。
「あっそ。でもまあ、不満とか言いたいこととか、そういうのがあるなら早く言えよ。おまえが言ったんだからな。ため込むと、後々こじれることになるって」
いつか自分が口にした言葉が、ブーメランのように返ってくる。
「も、もちろんだ」
ユーリアスは口ごもりつつ、急いで料理を口の中に詰めた。
アディムの言う通り、子猫を自分が世話したいなどという願望さえ言えないような状況が続けば、今後の夫婦関係に支障をきたすだろう。夫婦というものがどういうものなのか、ユーリアスはよくわからない。ただ、今の自分たちがなんでも話し合える夫婦関係と程遠いことはわかるのだった。
理由は先日、アディムの口から聞いた発言だ。
――ユーリアスは俺の初恋なんだからな。
あの夜から、ユーリアスはアディムの発言の真意についてずっと考えていた。
言葉のまま受け取れば、自分がアディムの初恋の相手だったということらしい。まったく気づかなかった。いつからなんだろう。ユーリアスが覚えているアディムとの最初の記憶なんて、自分が四歳、アディムはまだシャムスバハルの王妃の腕に抱かれた小さな赤ん坊だった頃にまで遡る。
弟のように思っていた。自分が鈍感なだけかもしれないが、向こうからの好意を感じたこともなかった。
「そういえば傷の具合は?」
急な話題転換にユーリアスは「え?」と顔を上げる。
「医者からもらった薬、毎晩塗ってるんだろ、自分で」
「あ、ああ。痛みは引いたから良くなってきたんじゃないかな」
初日の夜は図らずもアディムに塗ってもらうことになったが、ユーリアスは翌日の晩から自分で塗っている。翌日もアディムは「背中を向けろ」と言ってきたが断ったのだ。
アディムに薬を塗ってもらった前日の温もりを思い出すと、心が落ち着かなくなってしまうからだ。
アディムは片眉を上げ、疑いの目を向けてくる。
「ユーリアスは我慢する癖があるからな。ちょっと見せてみろ」
「えっ、いや、無り――」
先に食事を済ませた男が、四つん這いでこちらへと近づいてくる。布を巻き付けただけのような服の裾を、ペロッとめくりあげてくる。アディム含めシャムスバハルの人間は、もともと露出の多い民族服に常時身を包んでいるからなのか、自分の肌を晒すのはもちろん他人の肌を見るのにも抵抗がないらしい。
「ああ、確かにだいぶ良くなってるな」
自身の肌を見られていると思ったら、ドキドキと鼓動が早くなる。緊張で背筋が勝手に伸びる。
確認が終わったようだ。アディムが裾を離したタイミングで、慌てて服を下に引っ張り、肌を隠した。
「あと二、三日ってところか」
ほんのわずかな時間、肌を見られただけなのに、どうしてこんなにも胸が高鳴るんだろう。体の中が熱をもったみたいに熱い。うるさい心臓の音が相手に聞こえないよう、ユーリアスは心許なく胸に手を当てた。
「でも安心したわ。薬を塗る前は痛そうだったからな」
「そ、その節はすまなかった。もう二度とこんな迷惑はかけないようにするよ」
アディムがフッと笑った。
「迷惑なんて腐るほどかけていい」
「え?」
この男は何を言っているんだと思った。思わず相手を見ると、アディムの鋭い目に捕まった。
「その代わり、ユーリアスにはもう二度と、こんな傷作るような我慢なんてさせない」
男らしい言葉に胸がトクンと跳ねる。せっかく抑えようとしていた熱がぶり返す。
この気持ちはなんだ? じりじりと顔が熱くなっていく感覚に戸惑う。
自分がアディムの初恋だと知って、意識しているのだろうか。薬を塗ってもらったときの熱がまだ肌に残っているのだろうか。
あの夜から、ユーリアスはアディムの顔をまじまじと見ることができなくなっている。些細な日常会話もままならなくなっている。近くに来られると、針が刺さったかのように胸が痛くなる。そして喉の奥がきゅっと苦しくなるのだ。
「……体調が悪いから、今日は早く休むよ」
結局なんて返せばいいのかわからず、ユーリアスはそそくさと食事を終わらせ、中庭へと向かった。
夜の風に当たって、少し熱を冷まさなければと思った。
ユーリアスが自身の初恋だと告白したあとも、アディムは城の外ではユーリアスのことを妻として、また城の中では昔馴染みよろしく適度な距離感を保って接してくれている。
それなのに、自分はうまくアディムと話せなくなっている。変に意識してしまっている。きっとアディムも気づいているのだろう。言いたいことがあるなら言ってくれ、と催促してきたのも、おかしな態度をとっている自分へのけん制のような気がする。
中庭に出ると、噴水の縁石で子猫が丸まって寝ていた。人の気配に気づいたのか、大きな耳をピクッと動かして目を開けた。
「水の近くは涼しいかい?」
なるべく穏やかな声で話しかける。子猫はミャアと鳴き、差し出したユーリアスの指をクンクンと嗅いだ。ぺろりと指を舐められ、くすぐったさと愛おしさでつい笑顔になる。
「今さっき食事したばかりなんだけど、スープがついてるのかな。美味しい?」
子猫はユーリアスの問いかけにザラザラとした舌で応える。猫と触れ合っていると、心が穏やかになる。癒される。
この先の人生、アディムと夫婦としてやっていけるだろうか。
アディムはこちらのことを初恋の相手と言っていたが、自分のことを夫だと思わなくていいと言っていた。仮面夫婦でもいいと。
だがここ数日、本当にそれでいいのかと思い始めるようになっている。自分は本当にアディムとの仮面夫婦生活を望んでいるのだろうか。自分の気持ちがわからなかった。
そもそもアディムは自分を初恋の相手だとは言ったが、今も好きだとは言っていないのだ。
今回、シャムスバハルとノアメット間での結婚の話が出た。その際、アディムは初恋の相手だったユーリアスをたまたま思い出した。
数年経っていれば、アディムの中で思い出が美化された。だから自分を指名したんじゃないだろうか。
でも実際に会ったら、思っていた自分とは違った。確かに自分は、可愛げがなければ気の利いたことも言えない。即物的な言い方しかできないし、アディムは腐るほど迷惑をかけていいと言ってくれたが、人への頼り方だってわからない。そんな妻だ。
幻滅してもおかしくはない。
ズキッと胸が痛む。子猫によって綻んでいたユーリアスの口角が、無意識のうちに下がる。
アディムは子どもっぽいところもあるが、しっかりした男であることはこの数日でよく理解した。結婚したからには、自身の義務を果たそうとする気がする。ここに来たばかりの自分と同じように、国のために自分の気持ちを押し殺して……。
ショックだった。あくまでも想像の範囲でしかないのに、アディムの気持ちがもう自分にないのだと思ったらこみ上げてくるものがあった。胸が締め付けられる。焦りに似た感情に、心臓を鷲掴みされる。
「もしかして俺はアディムのことを……」
次の瞬間、ユーリアスの指を舐めていた子猫が頭を上げる。ミャオゥと高い声で鳴きながら、ユーリアスの手の中に撫でろと言わんばかりに頭を突っ込んでくる。
「わかった、わかったよ」
やっぱりアディムに子猫のことを話そう。今後どんな夫婦になっていくのか、イメージがついていないのだ。そんな中でこの気持ちを認めることはできない。ユーリアスは子猫の頭を撫でながら、そう思った。
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