旦那様と僕

三冬月マヨ

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はじまって

【始】旦那様との始まり

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 月の無い夜でした。

 僕が今お世話になっているお家には、水道がありません。
 山間の小さな村ですから、仕方が無いのでしょう。
 庭にあります井戸からお水を汲み上げ、脇に置いた桶へと入れます。その桶の中には、夕餉で使用しました器が入っています。
 今からこれらを洗うのですが、春とは云え、やはり夜で、それも汲んだばかりのお水となりますと、指先にあるあかぎれに程良く沁みて、何とも言えない痛みが走ります。
 ですが、我慢です。文句は言えません。お仕事なのですから。
 手にした手拭いを濡らし、器を水に浸けながら汚れを丁寧に落として行きます。少しでも残っていましたら、家人の皆様の機嫌を損ねてしまいますから、気を付けなければいけません。こんな月の無い夜は駄目ですね。雨戸の隙間から僅かに漏れる灯りだけが頼りです。
 そんな事を思っていましたら。

『どおんどおん!!』

 と、お腹に響く銅鑼の音が鳴り響きました。
 さほど満腹では無いお腹に、とても響きます。
 これは、妖が現れた時等に使われる合図です。
 高く組まれた櫓に設置されている物で、この村に駐屯して下さっている、お役人様が鳴らしているのです。
 途端に辺りが騒がしくなりました。
 これが鳴らされましたら、村民の皆は避難所とされています村長様のお屋敷へ避難しなければなりません。 
 僕がお世話になっている家人の方々が、わらわらと表へと出て来まして、こちらには目もくれずに走って行きました。
 洗い物を途中で放る訳には行きません。
 これを片付けてからでないと、明日の朝餉の席にてお叱りを受けてしまいます。
 その様な手間を掛けさせる訳には行きません。
 僕なんかの為に、その様な時間を割かせてはいけないのです。
 大丈夫です。
 妖を退治するのが、お役人様のお努めだと耳にしております。
 とてもお強い方ばかりだと聞いています。
 ですから、村の中にまでは入り込んでは来ないでしょう。
 僕は一心に器を磨き続けました。
 指先の感覚が朧気になって来た頃でしょうか。

『ハー…ハー…』

 何やら後ろから荒い息遣いが聞こえて来ました。
 野犬か何かでしょうか?
 何やら生臭い様な臭いもいたします。
 さて、どうしましょう?
 下手に動いたら飛び掛かって来るかも知れません。
 野生の生き物には、手を出さないのが鉄則だそうです。
 そうなりますと、ここは動かずに居るのが正解なのでしょうか?

『…ハー…ハー…ヒト…ウマソウ…』

 ぽたりと、頭の上に生温い何かが落ちました。
 何でしょう?
 もしかして、今のは涎なのでしょうか?
 でしたら、かなり大きな野犬と言えます。
 屈んでいる僕の頭の上に、お口があると云う事ですよね?
 おや?
 ですが、犬は言葉を発しない筈です。
 もしかして、もしかしましたら。

「ぅわっ!?」

 考えておりましたら、背中を押されたのでしょうか?
 うつ伏せに倒されまして、桶に胸を突っ込む形となってしまいました。
 ああ、着物が濡れてしまいました。風邪を引かなければ良いのですが。
 ばきっと嫌な音が聞こえました。
 器に罅が入ったのかも知れません。
 桶も壊れてしまったのでしょうか。
 地面に黒い染みが広がって行きます。
 起き上がろうと藻掻いてみますが、とても強い力で押さえつけられていまして、びくともしません。
 同年代の方々と比べると、僕はとても小さいと言われています。
 力が強い訳でもなければ、丸々と肥えている訳でもありません。声変わりも未だしていませんし。
 困りました。
 僕を押さえ付けているこれが、野犬ではなく妖ならば、僕は食べられてしまいます。
 妖は、人間を食べると言われています。
 僕は実際に見た事はありませんが。
 ああ、事実なのでしたら、僕は今から身を持ってそれを実感するのですね。
 痛いのでしょうか。痛いのでしょうね。普段の躾よりも痛いのでしょう。
 頭からばりばりといかれるのでしょうか? お腹でしょうか? それとも腕? 足?

「せああああああああーっ!!」

 等と考えていましたら、とても気合いの入った声が聞こえて来ました。
 低い男性の声です。耳がびりびりします。
 と、同時に僕の背中が軽くなりました。
 今の声に驚いて妖が退いてくれたのでしょう。良かったです。

「あれ?」

 僕は首を傾げました。
 背中が軽くなったと思いましたら、身体が浮きました。
 ぽたぽたと着物に吸いきれなかったお水が落ちて行くのが見えます。

「大丈夫か、坊主!! おい、高梨! そっちへ行った! 後は頼んだぞ! 俺は子供を保護した!」

 僕を片手で小脇に抱えた男性が気を遣う言葉を掛けた後、肩にある黒い四角い何かに話し掛けています。
 確か無線だとか呼ばれている物でしたでしょうか?
 距離の離れた相手と会話が出来る物と記憶しています。

「あの、ありがとうございます。僕は怪我がありませんので降ろして頂けませんでしょうか? 割れた桶の修繕と器の…」

「おいおーい。礼は良いとして、何の心配をしてるんだ? とにかく、未だ妖は村の中に居る。退避の合図が聞こえなかったのか? 家族は?」

 僕に質問を投げ掛けながら、更には僕を小脇に抱えたままで、男性は足早に歩を進めます。

「家人の方々は、合図後に間もなく避難されました。僕は洗い物の途中でしたので、放る訳には行かないと思いまして、片付けてから避難をと…」

「はあ? 家人って…坊主は使用人の子供なのか? ってか、こんな子供を残して行くなよな!」

「ああ、いえ。僕は使用人の子供では無くて、このお家に奉公に…」

「はああ!? 言っちゃ悪いがこんな村の、こんな家に!? そんなに金がある様には見えないぞ!?」

「あ、はい。お給金はありませんが、寝る場所はありますよ?」

「いやいやいや、おかしいからっ!! こんなガリガリでっ!! あばら骨が浮いてるだろ! 飯食わせて貰ってるのか!?」

 そう言いながら、男性は僕を抱えているお腹の辺りに力を籠めました。

「はい。味見はしております」

「そりゃ食べたとは言わねえっ!! とにかく、避難場所へ行ったら、その家人やらと話をしないとなっ!!」

「いえ。お世話になっておりま…」

「もう坊主は話すな!! 頼むから話さないでくれ…っ!!」

 何故か僕を抱える男性の腕が震えていますし、声も震えている気がします。
 ともかくは話すなと請われてしまいましたので、僕は口を噤む事にしました。
 男性は短く刈り上げた髪をがしがしと掻きながら、苦虫を潰した様なお顔をされています。
 それにしても大きなお方です。太く逞しい腕は僕の太腿よりも太く見えます。
 と云うか、今更ながらに気付きましたが、この装いはお役人様のそれですよね?
 黒い色の、すうつと言いましたか? 首元まで襟がありまして苦しくないのかと心配になります。
 下は袴ではないのですね。ずぼんと言いましたか? とても動きやすそうです。足は足袋を硬くした様な…ええと…ぶうつでしたか? 黒い頑丈そうな物ですね。お腰にあるのは刀でしょうか? 歩く度に胸元が揺れています。とても逞しいお身体なのですね。羨ましいです。僕もこれぐらいの身体でしたら、水汲みももう少し早く出来るのかも知れませんね。
 あ。

「申し訳ございません。押し倒された時に桶の水に浸かってしまいまして、着物が濡れてしまいまして。お役人様のお身体まで濡れてしまいます。僕は自分で歩きますので、やはり降ろして頂け…」

「お願い! 喋らないでっ!! お兄さん泣いちゃうから!! あ、俺は天野。天野たけるな!!」

 どうしましょう。
 泣いてしまうと言われてしまいました。
 ですが、お名前を教えて頂きましたのに、それに答えない訳には行きません。
 ですので、僕は言いました。

「里山雪緒ゆきおです。空から降る雪に、鼻緒の緒です」

 そうしましたら、天野様は『雪緒…じゃあ、雪坊だな!』と、真っ白な歯を見せて笑って下さいました。
 この様な豪快な笑顔等、初めて見ました。
 天野様はお身体だけでなく、笑顔も大きいのですね。

 こうして僕は天野様に運ばれて避難所へと行きました。
 そこで、これからの僕の人生を変える事になる方と出逢うのですが、この時の僕は未だそれを知りませんでした。
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