旦那様と僕

三冬月マヨ

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はじまって

【一】旦那様は怒りん坊

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『これは私達だけの秘密よ? あの人に知られたら拗ねてしまうから』

 そう唇に指を一本あてて、奥様は悪戯っぽく笑いました。

 そんな風に、いつも、いつでも終始穏やかに笑っていた奥様が亡くなられてしまいました。
 肺炎だそうです。
 元々、お身体が丈夫では無くて、子供を望むのは難しいと言われていたそうです。
 そして、この冬が格別に厳しかったせいもあるのでしょう。
 春もまだ遠く、梅の花を見る前に他界してしまわれました。
 奥様が亡くなられてから、もう間もなく二ヶ月半が過ぎようとしています。

「アレは実家へ返せば良いだろう?」

 低く野暮ったい声が聞こえて来ました。
 今日はお客様がお見えになられるとの事で、僕はその為のお茶とお茶受けを、お盆に乗せて客間まで運んで来た処です。
 あれとは僕の事でしょうか?
 どうしましょう?
 このまま障子を開けてお茶を出しても良いのでしょうか?

雪緒ゆきおの親は両親ともに、他界しています。今更親族の方達も、雪緒が帰って来た処で迷惑でしょう。雪緒は、私の養子にします。鞠子まりこの望みでもありますから」

 その声とは別に、淀みの無い静かな声が聞こえて来ました。
はい。雪緒とは僕の事です。僕の親は僕が小さい頃に病で亡くなりました。恥ずかしながら貧しくて、お医者さんに掛かる事が出来なかったのです。
 親を亡くした僕は親族を転々として来ました。
 十三の時に縁がありまして、この高梨家へと奉公に来ました。この春で三年になります。早いものです。
 それにしても、養子とは?
 ああ、お茶が冷めてしまいます。

「失礼します。お茶をお持ちしました」

「ああ、入れ」

 旦那様から許可が下りたので、僕は廊下に正座してお盆を置いて、両手で静かに障子を開けて、お辞儀をします。
 そうして、室内に入りまして、また今度は柔らかな畳の上に正座して、両手で障子を閉めました。
 この一連の動作は、奥様から教えられました。
 教養などない僕に、根気良く教えてくれました。
 上手く出来たら、ご褒美にちょこれいとをくれました。
 知っていますか?
 ちょこれいとは、甘くて美味しいのです。
 口の中に入れると、蕩けてしまうのです。
 お茶受けにある、この羊羹も甘いのですが、しつこくて僕は苦手です。

「雪緒、こちらへ」

 お茶とお茶受けを出して、下がろうとした僕を旦那様が引き止めました。
 旦那様の命令ですから、何だろうと思いながらも、その斜め後ろに座りました。もちろん正座です。
 そんな僕に、旦那様は眉を少し上げました。
 すっと、右手の人差し指が旦那様の右隣にある座布団へと向けられましたが、僕はぶんぶんと首を振りました。
 旦那様のお隣は、奥様の席です。
 僕のような奉公人が座れる場所では、ありません。
 旦那様は軽く息を吐いた後に、お客様の方へと顔を向け口を開きました。
 お客様は近年になり流行り出した、すうつと云う物を着ていました。
 色は灰色ですね。
 因みに僕も旦那様も着物です。
 あ、旦那様は仕事の時はすうつですね。支給品だと言っていました。

「家族ならば、この雪緒が居ますから。これから先、家族を増やす予定はありません」

 静かですが、とても強い声です。
 それよりも家族って?
 そう云えば、先程も養子がどうとか?
 何でしょう?
 何の話をされていたのでしょうか?
 頭の悪い僕には、何が何やら解りません。
 理解不能です。
 お前はまだ三十二で若いとか、お前の容姿ならまだまだ行けるとか、お前の嫁にぴったりの娘が居るとか、お客様が口にされていますが、旦那様は必要無いの一点張りです。
 ううん…これはもしかしてもしかしなくても、縁談のお話しなのでしょうか?
 そんな席に僕が居て良いのでしょうか?
 ですが、旦那様に呼び止められましたし…うんうんと心の中で唸って居たら。

「私が死んだ時の見舞金が欲しいのでしょう?」

 お茶を一口飲んでから、お口の端を上げて旦那様が言いました。
 その言葉にお客様は、お顔を真っ赤にして立ち上がり、帰ると一言言って乱暴に障子を開けて出て行ってしまわれました。

「あ!」

 お見送りをと、慌てて立ち上がろうとした僕の手を、旦那様が大きな手で掴んで来て止めます。

「塩を撒け」

 ええと?
 それはお客様にして良い物なのでしょうか?
 確か、葬儀限定では?

「まあ、良い。座れ」

 旦那様が僕の手を離さないので、塩を撒こうにも撒けませんので、大人しく座りました。
 僕が座ったのを見て、旦那様が身体の向きを変えて僕を正面から睨んで来ます。
 旦那様の目は、狐さんの様に細くて鋭いので、初対面の人には良く睨まれていると誤解されている様ですが、僕は初対面では無いですが、やはり睨まれていると思います。

『あの人は、本当は優しい人なのよ。ゆき君は解ってあげてね?』

 奥様の言葉を思い出します。
 はい、先程の出っ張りお腹の禿げ頭のお客様よりは迫力はあると思いますが、大丈夫です、多分。
 だって、旦那様は…。

「先刻までの会話で解ったと思うが、お前を養子に迎える。また、学び舎にも通わせる。明日、その手続きに行くから、心して置く様に。また、養子になるのだから、今夜から食事は共にする様に」

 はい。
 解りません。

「あの、旦那様。僕は奉公人です。その僕が、主人である旦那様と食卓を共にするなどあり得ません」

「お・ま・え・は~。話を聞いて無かったのか? 正式な手続きは明日だが、今からお前は俺の子供だ。息子だ。子供は親の言う事を聞く物だ」

「いた、痛いです、旦那様。鼻を摘ままないで下さい」

 旦那様の大きな手が伸びて来たなと思いましたら、鼻を摘ままれてしまいました。
 旦那様は何かありますと、こうして僕の鼻を摘んで来ます。
 強い力では無いのですが、その内にもげてしまうかも知れません。

「良いか。これは鞠子の願いでもあるんだ。お前が来て、もう三年だ。あのじじいが来なくても、元から、お前が家に来た春に、お前を養子にするつもりだったんだ。…それを見る前に鞠子は逝ってしまったが…鞠子への手向けだと思って、大人しく子供になれ」

「わか、解りました、解りましたから、鼻を離して下さい!」

 ばんばんと畳を叩きながら、少しばかり目尻に涙を浮かべながら言いましたら、やっと旦那様が鼻から手を離してくれました。

 そんな訳で、何が何やら解らない内に、僕は里山雪緒から高梨雪緒になりました。
 学び舎にも通う事になりまして、何だか大変な事になりました。
 家の事は、最低限の事だけをすれば良いと言われましたが、食事と洗濯と掃除と庭の掃除を、毎日の様にしていたのですけど…どうしましょう?
 ですが、学び舎に通っていますと、その時間が取れません。
 ですから。

「学び舎は辞めたいと思います」

 学び舎に通い始めた翌日に、そう口にしましたら、また鼻を摘ままれました。
 何故なのでしょう?
 何がいけなかったのでしょう?
 文字の読み書きは奥様が教えて下さいましたから、必要無いと思います。
 計算も、それなりに出来ると思いますし。
 指の数を超えたら難しいですが。
 この国の歴史とか、これまでに必要だと思った事はありませんし。
 と、鼻を摘ままれながら口にしましたら、盛大な溜め息を吐かれてしまいました。

「…あのな…お前にはもっと世界を知って欲しいんだ。学び舎で気の合う友達を作れ。本当はもっと早くに通わせたかったんだ。だが、鞠子の身体の事もあったから…鞠子の傍に居て欲しかったから…すまん…」

 何故、旦那様が頭を下げるのでしょうか?
 それよりも、鼻から手を離して欲しいです。

「お友達なら居ますよ? 魚屋さんの太郎様とか、八百屋さんのみね様とか、お豆腐屋さんの…」

「全部じじばばだっ!! 同年代の友達を作れ! 俺に何かあった時に、頼れる仲間を作れと言っているんだ!」

 指折り数えていましたら、旦那様に怒鳴られてしまいました。

「…旦那様…」

 しゅんと、僕は俯いてしまいました。と、同時に摘ままれたままの鼻が痛みましたが。
 旦那様のお仕事は危険な仕事だと、奥様からお聞きしましたし、僕自身も身に沁みて理解しているつもりです。
 僕達が暮らすこの世界にはあやかしと呼ばれる、危険な生き物が居ます。
 昼間は滅多に遭遇する事はありませんが、これが人里離れた場所や、または夜になると、その限りではありません。
 その妖を退治するのが、旦那様のお役目です。
 お給金は、べらぼうに高いとの話です。
 また、仕事中に妖のせいで亡くなってしまった場合、国から多額の見舞金が遺族に払われるとの事です。
 先日の丸いお客様も、それが目当てで来たと、後から旦那様から聞かされました。
 ん?
 遺族?
 身内?
 あれ?
 僕はこの間、養子になりました。
 あれ?

「大変です、旦那様!」

「何だ?」

 慌てる僕に、旦那様は軽く眉を寄せるだけです。

「ぼ、僕、旦那様が殉職されたら、遺族になってしまいます! 見舞金なんて僕は要りません! 僕を養子から外して下さい!!」

「こっの、唐変木が――――――――っ!!」

 精一杯訴えましたのに、旦那様は思い切り目を見開いたかと思うと、より一層僕の鼻を強く摘まんで、家が揺れるのではないかと云う程の大音量で叫びました。

「いたっ、痛いです――――――――っ!!」

 ああ、流石にこれは鼻がもげるかも知れません。
 もげたらどうなるのでしょうか?
 物の匂いとか嗅ぎ分けられるのでしょうか?
 お料理の味とかに影響が出てしまいますでしょうか?
 それは困りますね。どうしましょう。

『本当にゆき君はチョコレートが好きね。あのね? これはね、あの人がゆき君にって買って来てくれるのよ? 自分からだと恥ずかしいからって。ふふ、可愛いでしょう? でも、この話は秘密よ? あの人、照れ屋さんだから。だから、表向きは私の為。でも、本当はゆき君の為。これは私達だけの秘密よ? あの人に知られたら拗ねてしまうから』

 在りし日の奥様の言葉と笑顔が頭に浮かびます。
 浮かびますが…やっぱり旦那様は怒りん坊で迫力があります。
 でも、本当は…優しくて、少し寂しがり屋さんだと云う事を、僕は知っていますと言いたいのですが、ちょっと今は言いたくはないです、はい。
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