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やがて
【十八】旦那様と覚悟
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「何ですか、これはっ!?」
自宅へ帰って来て早々に、茶の間で俺は雪緒に怒られていた。
卓袱台の上には、今朝食べた物の残りがそのままで、若干の異臭を放っていた。
「…いや、今朝の物だが…」
「朝の物でも、ぐんぐん気温が上がる中で、閉めっきりでお昼近くまで放置していましたら、どうなりますかは火を見るよりも明らかでしょう!?」
「…すまん…」
座布団の上で小さくなる俺なのだが、雪緒は容赦が無い。
「みくちゃん様がお作りになられたのですよね!? 何とお詫びしたら良いのか…っ…!!」
食べ残しの皿を手に台所へと向かった雪緒だが。
「ふわああああっ!? お味噌汁!? 昨夜のですか!? 白い糸を引いていますっ!! 何故、僅かでも窓を開けて置かなかったのですかーっ!!」
そこから、また、悲痛な叫び声が聞こえて来た。
勢い良く流れる水音も聞こえる。
「…雪緒。片付けは後で良いから、話を、だな…」
雪緒が居る台所へと向けて声を上げれば。
「この様な悪臭の中で、お話が出来ますでしょうか!? 片手でも、窓や縁側の戸は開けられますよね!?」
頭に角でも生やしていそうな、にべも無い返事が来るだけだ。
「…はい…」
俺…怪我人だよな…多分…きっと…恐らくは…。
取り付く島も無い、とは、この事だろうか。
俺は、家中の窓や戸を開ける為に立ち上がった。
…すっかりと、元鞘と云うか、何だかんだで世話焼きの五月蝿い雪緒に戻ったな…。
…だが、安心する。
ここが。
これが。
俺達の在るべき姿で、居るべき場所なのだと。
今朝まで、散々悩んでいたのが馬鹿みたいに思う。
しくしくと痛む胃を押さえながら、司令の家迄の道程を歩いた。
雪緒が帰りたくないと、俺の顔なぞ二度と見たくないと、そう言われたらどうしよう、とか。
門扉の前で、幾度も行ったり来たりしたとか、玄関の戸を叩こうとしては、上げた手を幾度も下ろしたりした事とか。
そうこうしてたら戸が開き、雪緒が俺を見るなり目を見開いて、草履を脱ぎ捨てて、部屋に閉じ籠もるとか。
きちんと草履を揃える雪緒が、脱ぎっ放しで、だ。
それ程に、俺の顔を見たくないのかと。
もう、胃に穴が空くかと思った。
我ながら、らしく無いと思うが。
難しく考え過ぎだとか、百聞は一見に如かずだとか言われたが。
だが、実際に雪緒に会って話すまで、どうしようも無く不安だった。
情け無い事この上ないが。
星がそれを見て微妙な顔をしていたが『…おいら、あっちに行くから…。…もう…泣かすなよ…』と、小声で俺に告げ、何処かの部屋へと入って行った。
今思えば、司令の部屋だったから、何とも言えない顔をしていたのだろう。
だが、あの時に、それを教えられていたとしたら、俺は雪緒と話す事等出来なかったかも知れん。
そこは感謝しかないが。
だが、あれらを全部あの親父に聞かれていたのかと思うと、声を上げて街中を走り回りたくなる。いや、実際にやりはしないが。そうだな、仕事に復帰したら隊員達を鍛える事にしよう。
戸を挟んで雪緒に語り掛けたのは良いが。
結局は。
そのままでと、言い出したのにも関わらず、顔が見えないのが不安で。
話を聞いてくれているのは解ったが、やはり顔を見たくて。
『顔を見せてくれないか』
と、言いたかった筈なのに、実際に出た言葉は。
『鼻を摘まませろ』
何を言っているのだと慌てたが、戸が開いた瞬間に勝手に手が動いて、その鼻を摘まんでいた。
その瞬間、だらしなく眉を下げる雪緒を見て、酷く安堵した。
気付けば、胃の痛みは何処かへと消えていて、知らず強張っていた身体からは力が抜けて行くのが解った。
そして、自分でも信じられないぐらいに、素直に、その言葉が出たのに。
一世一代の告白と言っても過言では無いのに。
だと云うのに。
雪緒は訳が解らないと云う様に首を傾げてくれた。
…勘弁してくれ…と、思わず遠い目をしてしまったのも致し方無いだろう。
結局は雪緒に解り易い言葉で伝えれば、また逃げ出そうとする始末と来たもんだ。
本当に、一筋縄では行かない。
更には、物の怪だと言い出した。
いや、もう、お前の方が物の怪だろう。
一筋処か、何本の縄が必要なんだ、全く。
そうして、やっと捕まえたと思えば、鞠子の心配をして来た。
ああ、そう云えば相楽が言っていたなと『それか』と口にすれば、目を剥いて怒って来た。
いや、もう、想いを伝えるだけで、これ程の労力を使うとは思わなかった。
司令が代弁してくれたが、あの状況で雪緒の頭に入ったのかは、正直微妙だ。
だから、俺の口からもう一度言わねばなるまい。
婚姻は結んだが、それは互いの利害が一致した結果で、鞠子との間には何も無い事。…弟だと思われていた事を…。
「空気の入れ換えありがとうございました。こちらをどうぞ」
コトリと音を立てて、肘をついていた卓袱台に麦茶が置かれた。
「あ、いや。あのな、話を…」
「その前に、お布団を干して来ますね。今日も良い天気ですから、今から干してもふかふかになります」
「あ、ああ、そうだな」
おい、焦らしているのか?
まさか、逃げてる訳ではあるまい?
屈託の無い笑顔を浮かべて、茶の間から出て行く雪緒の背中を見送って、暫しして。
「…っ…! 待て…っ…!!」
拙い!
あれを見られたら末代までの恥だっ!!
俺は慌てて立ち上がり、雪緒の後を追うが、それは既に後の祭りだ。
「…旦那様…これは…?」
雪緒より遅れて自分の部屋へと入れば、雪緒は畳に座り込んでいて、それを手に俺を見上げて来た。
「…………………昨夜…眠れなくて、な…」
口を押さえて、僅かに目を泳がせて、俺はそう言った。
片手では布団を敷くのに苦労するだろうと、司令が布団を敷いてくれたのは良いが、いざ眠ろうとすると眠れずに。
静かなのは何時もの事なのに。
妙にそれが気になって。
目を閉じれば、浮かぶのは雪緒の泣き顔ばかりで。
酔った司令から、星が作った茶碗蒸しを食べたし、夜も軽く食べたし、風呂にも入ったと聞かされたが。
だが、それでも。
どうしようも無く胸がざわついて落ち着かず。
気が付けば、雪緒の部屋に戻したそれを手にしていた。
今、雪緒の手の中にある青い箱を。
雪緒の心が、想いが、詰まった箱を。
きらきらでぽかぽかの箱を。
それを枕元に置いて目を閉じれば、穏やかに笑う雪緒の姿が浮かんだ。
そして、そのまま、その笑顔に誘われる様に眠りについた。
「…旦那様も…同じだったのですか…」
俺の言葉に、ふわりふわりと蒲公英の綿毛が舞う様に雪緒が笑う。
「…同じ…?」
その笑顔に、俺の鼓動が跳ねた。
口を押さえていた手を離して、胸元を掴む。
「…僕も…あの日…。…旦那様が病院で過ごされた夜…何故か落ち着かなくて…。…今、思えば寂しかったのだと思います…。…一人で眠れなくて…それで、その…奥様に申し訳無いと思いつつも…ここで…旦那様のお部屋で…このお布団で…その…眠りました…」
「な…っ…!」
頬を赤く染め、伏し目がちに語られたその言葉に。
その瞬間に、目まぐるしく身体に走ったこの熱は何だ?
正座したその上に箱を乗せて、静かにそっとそれを撫でる雪緒の手を取りたいと思った。
「旦那様!?」
しかし、今、それをしたらどうしようもなく荒々しい物になってしまうだろう。
雪緒の方へと伸ばし掛けた手を、無理矢理に口元へと持って行ったせいで、パンッと云う痛々しい音が部屋に響いた。
それに雪緒が目を丸くして、俺を見上げて来た。
…参った…。
本当に、もう…。
「…降参だ…」
…もう、本当にどうしようもない。
「…ふえっ!? い、いきなり、ど、どうされたのですか!?」
その場に力無くへたり込んだ俺の元へと、雪緒が寄って来る。
「…ふが…?」
目の前まで来た、その鼻を俺はまた摘まむ。
「…あのな…」
…そう云えば、鼻を摘まんで騒ぐ様になったのは、何時からだったとか、そして、騒がなくなったのは何時からだったかと、そんな事を思いながら、俺は口を開く。
「…こう言ったら…また、お前の気を悪くするかも知れんが…。…お前は、まだ子供だ。年齢的な意味でも、身体的な意味でも…」
そう。
まだ、今は子供だ。
だが、子は成長するものだ。
やがて、大人へとなるものだ。
「…ふぁい…。それは、今回の事で良く解りました。ですから、僕はもっと、もっと沢山学ばなければなりません。働くと云う事も。お仕事をすると云う事の意味をもっと知らなければなりません」
鼻から手を離せば、雪緒は迷いの無い目と声で、そう言って来た。その答えに、俺の頬が緩む。
「…ああ、良い答えだ。だから、な? 俺に時間をくれ」
「…じかん…?」
首を傾げる雪緒の目を見ながら、俺は話す。
「こんな言い方は卑怯で狡いと思うが。だが、俺はお前を手放したく無い。ずっと俺の傍に居て欲しい…いや、俺がお前の傍に居たいんだ。お前に色々と教えてやるのは、俺だけで居たい。俺以外の誰かの為に泣いて欲しくない。俺以外の誰かに想いを寄せて欲しくない…我儘ですまんな…だが、それが俺の正直な思いだ」
「…旦那様…」
真っ直ぐと見詰める先の雪緒の丸い目が、揺らめき、涙が浮かぶ。
しかし、それは悲しいからでは無く、嬉しさ故だろう。
雪緒の小さな唇は緩やかに弧を描いている。
俺の言動や行動に、こうして一喜一憂する雪緒を愛しいと思うし、やはり守りたいと思う。
それは、親としてでは無く。
ただ、一人の男として。
俺が帰る場所に居てくれる。
俺が帰る場所を作ってくれる。
俺が帰る場所を守ってくれる。
この小さくも強い存在を。
この小さくも愛おしい存在を。
「…だが、今のお前をどうこうするのは、気が退けてな…。…だから、四年。四年待って欲しい」
十八で成人と認められるが、雪緒には未だ早いだろう。
「お前が成人するまで。その時に、また、俺の思いを告げるから…その時は頼むから、逃げてくれるなよ? あれは、本当に胃に悪いし、心臓にも悪い」
急ぐ事は無い。
お前はお前らしく、ゆっくりと成長して行けば良い。
その過程を俺は傍で見ていたい。
肩を竦めて苦笑すれば、雪緒は目を見開く。
「ふわっ!? もっ、申し訳ございませんっ!! 旦那様の御身を傷付けてしまうだなんて、その様なつもりは無くてっ、その、いきなり目の前に居ましたし、その後は、もう、驚いてしまいまして…っ…!! はわ、はわ、ど、どう致しましょう!?」
そうやって血相を変えて慌てふためくこいつが、どうしようも無く可愛く見えてしまうのだから、もう、相当末期なのだろう。
よくも今まで気付かずに居たものだ。
「…ふが…?」
だからなのかは知らんが。
無意識の内に手が伸びて、その可愛い鼻を摘まみ、雪緒を黙らせた後、鼻を掴んでいた手で顎を取り軽く上向かせて、その小さな唇に俺のそれを重ねた。
約束だと云う様に。
約束の代わりに。
「…まあ、その時は覚悟をしておけ」
軽く合わせた唇を離して、射抜く様に雪緒の目を見て言えば。
「…………せ…せっ、ぷん…ふわ…わわわわわわわわぁ……………………………」
茹で蛸の様に顔を赤くして、そのまま背中から畳の上にひっくり返ってしまった。
「って、雪緒!? これぐらいで倒れるな、おいっ!!」
これで良く、下の世話をするとか、触って欲しいとか言えたな!?
もしかして覚悟が必要なのは俺の方なのか!?
こいつに、これからの事を教えるのは、相当の根気が必要だな!?
「おい、起きろっ!!」
「…ふえぇ…ふええ…」
しかし、雪緒は俺の叫びに、ただ情け無い声を出すだけだった。
だから、俺はまた、心の中で言うのだ。
「助けてくれ、鞠子」
と。
『あらあら。頑張って下さいませね』
そうすれば、何処かからか、コロコロと笑う鞠子の声が聞こえた気がした。
自宅へ帰って来て早々に、茶の間で俺は雪緒に怒られていた。
卓袱台の上には、今朝食べた物の残りがそのままで、若干の異臭を放っていた。
「…いや、今朝の物だが…」
「朝の物でも、ぐんぐん気温が上がる中で、閉めっきりでお昼近くまで放置していましたら、どうなりますかは火を見るよりも明らかでしょう!?」
「…すまん…」
座布団の上で小さくなる俺なのだが、雪緒は容赦が無い。
「みくちゃん様がお作りになられたのですよね!? 何とお詫びしたら良いのか…っ…!!」
食べ残しの皿を手に台所へと向かった雪緒だが。
「ふわああああっ!? お味噌汁!? 昨夜のですか!? 白い糸を引いていますっ!! 何故、僅かでも窓を開けて置かなかったのですかーっ!!」
そこから、また、悲痛な叫び声が聞こえて来た。
勢い良く流れる水音も聞こえる。
「…雪緒。片付けは後で良いから、話を、だな…」
雪緒が居る台所へと向けて声を上げれば。
「この様な悪臭の中で、お話が出来ますでしょうか!? 片手でも、窓や縁側の戸は開けられますよね!?」
頭に角でも生やしていそうな、にべも無い返事が来るだけだ。
「…はい…」
俺…怪我人だよな…多分…きっと…恐らくは…。
取り付く島も無い、とは、この事だろうか。
俺は、家中の窓や戸を開ける為に立ち上がった。
…すっかりと、元鞘と云うか、何だかんだで世話焼きの五月蝿い雪緒に戻ったな…。
…だが、安心する。
ここが。
これが。
俺達の在るべき姿で、居るべき場所なのだと。
今朝まで、散々悩んでいたのが馬鹿みたいに思う。
しくしくと痛む胃を押さえながら、司令の家迄の道程を歩いた。
雪緒が帰りたくないと、俺の顔なぞ二度と見たくないと、そう言われたらどうしよう、とか。
門扉の前で、幾度も行ったり来たりしたとか、玄関の戸を叩こうとしては、上げた手を幾度も下ろしたりした事とか。
そうこうしてたら戸が開き、雪緒が俺を見るなり目を見開いて、草履を脱ぎ捨てて、部屋に閉じ籠もるとか。
きちんと草履を揃える雪緒が、脱ぎっ放しで、だ。
それ程に、俺の顔を見たくないのかと。
もう、胃に穴が空くかと思った。
我ながら、らしく無いと思うが。
難しく考え過ぎだとか、百聞は一見に如かずだとか言われたが。
だが、実際に雪緒に会って話すまで、どうしようも無く不安だった。
情け無い事この上ないが。
星がそれを見て微妙な顔をしていたが『…おいら、あっちに行くから…。…もう…泣かすなよ…』と、小声で俺に告げ、何処かの部屋へと入って行った。
今思えば、司令の部屋だったから、何とも言えない顔をしていたのだろう。
だが、あの時に、それを教えられていたとしたら、俺は雪緒と話す事等出来なかったかも知れん。
そこは感謝しかないが。
だが、あれらを全部あの親父に聞かれていたのかと思うと、声を上げて街中を走り回りたくなる。いや、実際にやりはしないが。そうだな、仕事に復帰したら隊員達を鍛える事にしよう。
戸を挟んで雪緒に語り掛けたのは良いが。
結局は。
そのままでと、言い出したのにも関わらず、顔が見えないのが不安で。
話を聞いてくれているのは解ったが、やはり顔を見たくて。
『顔を見せてくれないか』
と、言いたかった筈なのに、実際に出た言葉は。
『鼻を摘まませろ』
何を言っているのだと慌てたが、戸が開いた瞬間に勝手に手が動いて、その鼻を摘まんでいた。
その瞬間、だらしなく眉を下げる雪緒を見て、酷く安堵した。
気付けば、胃の痛みは何処かへと消えていて、知らず強張っていた身体からは力が抜けて行くのが解った。
そして、自分でも信じられないぐらいに、素直に、その言葉が出たのに。
一世一代の告白と言っても過言では無いのに。
だと云うのに。
雪緒は訳が解らないと云う様に首を傾げてくれた。
…勘弁してくれ…と、思わず遠い目をしてしまったのも致し方無いだろう。
結局は雪緒に解り易い言葉で伝えれば、また逃げ出そうとする始末と来たもんだ。
本当に、一筋縄では行かない。
更には、物の怪だと言い出した。
いや、もう、お前の方が物の怪だろう。
一筋処か、何本の縄が必要なんだ、全く。
そうして、やっと捕まえたと思えば、鞠子の心配をして来た。
ああ、そう云えば相楽が言っていたなと『それか』と口にすれば、目を剥いて怒って来た。
いや、もう、想いを伝えるだけで、これ程の労力を使うとは思わなかった。
司令が代弁してくれたが、あの状況で雪緒の頭に入ったのかは、正直微妙だ。
だから、俺の口からもう一度言わねばなるまい。
婚姻は結んだが、それは互いの利害が一致した結果で、鞠子との間には何も無い事。…弟だと思われていた事を…。
「空気の入れ換えありがとうございました。こちらをどうぞ」
コトリと音を立てて、肘をついていた卓袱台に麦茶が置かれた。
「あ、いや。あのな、話を…」
「その前に、お布団を干して来ますね。今日も良い天気ですから、今から干してもふかふかになります」
「あ、ああ、そうだな」
おい、焦らしているのか?
まさか、逃げてる訳ではあるまい?
屈託の無い笑顔を浮かべて、茶の間から出て行く雪緒の背中を見送って、暫しして。
「…っ…! 待て…っ…!!」
拙い!
あれを見られたら末代までの恥だっ!!
俺は慌てて立ち上がり、雪緒の後を追うが、それは既に後の祭りだ。
「…旦那様…これは…?」
雪緒より遅れて自分の部屋へと入れば、雪緒は畳に座り込んでいて、それを手に俺を見上げて来た。
「…………………昨夜…眠れなくて、な…」
口を押さえて、僅かに目を泳がせて、俺はそう言った。
片手では布団を敷くのに苦労するだろうと、司令が布団を敷いてくれたのは良いが、いざ眠ろうとすると眠れずに。
静かなのは何時もの事なのに。
妙にそれが気になって。
目を閉じれば、浮かぶのは雪緒の泣き顔ばかりで。
酔った司令から、星が作った茶碗蒸しを食べたし、夜も軽く食べたし、風呂にも入ったと聞かされたが。
だが、それでも。
どうしようも無く胸がざわついて落ち着かず。
気が付けば、雪緒の部屋に戻したそれを手にしていた。
今、雪緒の手の中にある青い箱を。
雪緒の心が、想いが、詰まった箱を。
きらきらでぽかぽかの箱を。
それを枕元に置いて目を閉じれば、穏やかに笑う雪緒の姿が浮かんだ。
そして、そのまま、その笑顔に誘われる様に眠りについた。
「…旦那様も…同じだったのですか…」
俺の言葉に、ふわりふわりと蒲公英の綿毛が舞う様に雪緒が笑う。
「…同じ…?」
その笑顔に、俺の鼓動が跳ねた。
口を押さえていた手を離して、胸元を掴む。
「…僕も…あの日…。…旦那様が病院で過ごされた夜…何故か落ち着かなくて…。…今、思えば寂しかったのだと思います…。…一人で眠れなくて…それで、その…奥様に申し訳無いと思いつつも…ここで…旦那様のお部屋で…このお布団で…その…眠りました…」
「な…っ…!」
頬を赤く染め、伏し目がちに語られたその言葉に。
その瞬間に、目まぐるしく身体に走ったこの熱は何だ?
正座したその上に箱を乗せて、静かにそっとそれを撫でる雪緒の手を取りたいと思った。
「旦那様!?」
しかし、今、それをしたらどうしようもなく荒々しい物になってしまうだろう。
雪緒の方へと伸ばし掛けた手を、無理矢理に口元へと持って行ったせいで、パンッと云う痛々しい音が部屋に響いた。
それに雪緒が目を丸くして、俺を見上げて来た。
…参った…。
本当に、もう…。
「…降参だ…」
…もう、本当にどうしようもない。
「…ふえっ!? い、いきなり、ど、どうされたのですか!?」
その場に力無くへたり込んだ俺の元へと、雪緒が寄って来る。
「…ふが…?」
目の前まで来た、その鼻を俺はまた摘まむ。
「…あのな…」
…そう云えば、鼻を摘まんで騒ぐ様になったのは、何時からだったとか、そして、騒がなくなったのは何時からだったかと、そんな事を思いながら、俺は口を開く。
「…こう言ったら…また、お前の気を悪くするかも知れんが…。…お前は、まだ子供だ。年齢的な意味でも、身体的な意味でも…」
そう。
まだ、今は子供だ。
だが、子は成長するものだ。
やがて、大人へとなるものだ。
「…ふぁい…。それは、今回の事で良く解りました。ですから、僕はもっと、もっと沢山学ばなければなりません。働くと云う事も。お仕事をすると云う事の意味をもっと知らなければなりません」
鼻から手を離せば、雪緒は迷いの無い目と声で、そう言って来た。その答えに、俺の頬が緩む。
「…ああ、良い答えだ。だから、な? 俺に時間をくれ」
「…じかん…?」
首を傾げる雪緒の目を見ながら、俺は話す。
「こんな言い方は卑怯で狡いと思うが。だが、俺はお前を手放したく無い。ずっと俺の傍に居て欲しい…いや、俺がお前の傍に居たいんだ。お前に色々と教えてやるのは、俺だけで居たい。俺以外の誰かの為に泣いて欲しくない。俺以外の誰かに想いを寄せて欲しくない…我儘ですまんな…だが、それが俺の正直な思いだ」
「…旦那様…」
真っ直ぐと見詰める先の雪緒の丸い目が、揺らめき、涙が浮かぶ。
しかし、それは悲しいからでは無く、嬉しさ故だろう。
雪緒の小さな唇は緩やかに弧を描いている。
俺の言動や行動に、こうして一喜一憂する雪緒を愛しいと思うし、やはり守りたいと思う。
それは、親としてでは無く。
ただ、一人の男として。
俺が帰る場所に居てくれる。
俺が帰る場所を作ってくれる。
俺が帰る場所を守ってくれる。
この小さくも強い存在を。
この小さくも愛おしい存在を。
「…だが、今のお前をどうこうするのは、気が退けてな…。…だから、四年。四年待って欲しい」
十八で成人と認められるが、雪緒には未だ早いだろう。
「お前が成人するまで。その時に、また、俺の思いを告げるから…その時は頼むから、逃げてくれるなよ? あれは、本当に胃に悪いし、心臓にも悪い」
急ぐ事は無い。
お前はお前らしく、ゆっくりと成長して行けば良い。
その過程を俺は傍で見ていたい。
肩を竦めて苦笑すれば、雪緒は目を見開く。
「ふわっ!? もっ、申し訳ございませんっ!! 旦那様の御身を傷付けてしまうだなんて、その様なつもりは無くてっ、その、いきなり目の前に居ましたし、その後は、もう、驚いてしまいまして…っ…!! はわ、はわ、ど、どう致しましょう!?」
そうやって血相を変えて慌てふためくこいつが、どうしようも無く可愛く見えてしまうのだから、もう、相当末期なのだろう。
よくも今まで気付かずに居たものだ。
「…ふが…?」
だからなのかは知らんが。
無意識の内に手が伸びて、その可愛い鼻を摘まみ、雪緒を黙らせた後、鼻を掴んでいた手で顎を取り軽く上向かせて、その小さな唇に俺のそれを重ねた。
約束だと云う様に。
約束の代わりに。
「…まあ、その時は覚悟をしておけ」
軽く合わせた唇を離して、射抜く様に雪緒の目を見て言えば。
「…………せ…せっ、ぷん…ふわ…わわわわわわわわぁ……………………………」
茹で蛸の様に顔を赤くして、そのまま背中から畳の上にひっくり返ってしまった。
「って、雪緒!? これぐらいで倒れるな、おいっ!!」
これで良く、下の世話をするとか、触って欲しいとか言えたな!?
もしかして覚悟が必要なのは俺の方なのか!?
こいつに、これからの事を教えるのは、相当の根気が必要だな!?
「おい、起きろっ!!」
「…ふえぇ…ふええ…」
しかし、雪緒は俺の叫びに、ただ情け無い声を出すだけだった。
だから、俺はまた、心の中で言うのだ。
「助けてくれ、鞠子」
と。
『あらあら。頑張って下さいませね』
そうすれば、何処かからか、コロコロと笑う鞠子の声が聞こえた気がした。
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それが、まさかの擬似恋人生活の始まりだった。
恋人ごっこなのに手をつないだり、映画を観に行ったり、肩を貸したり。
最初はただの遊びだったのに、直人はだんだん健が笑うと嬉しくて、泣くと苦しいと感じるようになっていく。
一方、健は「直人に本気になってはいけない」と自分に言い聞かせていたが、直人の優しさや真面目さに、次第に惹かれ始める。
擬似恋人から始まった関係は、本物の「好き」に変わるのか?
本気になったとき、ふたりはどう答えを出すのか――。
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