旦那様と僕

三冬月マヨ

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やがて

【十七】旦那様と仲直り

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 ふわあああああああ!?
 ぼ、僕は何て無礼な事を!!

 閉めた戸に背中を預けて、僕はずりずりとお尻を床へと付けてしまいました。

 旦那様にお会いしたかったのは、間違いありません。
 ありませんが、いきなり目の前に居るだなんて思わないじゃないですか!
 せい様と歩きながら、旦那様にどうお話をしましょうかと、これからもお屋敷に居ても良いのかと、また、叶わなかった場合の身の振り方とか、それらをどう順序立てて話せば良いのかと、その様な段取りを決めようと思っていましたのにっ!!
 これは不意打ちです、反則です!!
 心臓がばくばく言っています!
 壊れるかも知れません!

「…雪緒ゆきお…」

「ひゃいっ!?」

 戸を挟んだ背後から声を掛けられて、僕の肩も声もひっくり返ってしまいました。
 慌てて両手で口を押さえましたが、今更です。

「…俺の顔なぞ…声も聞きたくは無いと思うが…そのままで良いから、話を聞いてくれないか…」

 ふえっ!?
 それは旦那様の方なのでは!?
 僕の事等呆れてしまい、話すのも嫌なのでは?
 あの様にして、飛び出して来てしまった僕です。
 きっと、お腹に据え兼ねて居る筈です。
 どの様な引導を渡されるのでしょうか?
 聞くのが怖い気もしますが。
 ですが、お聞きしなければなりません。
 旦那様のお話をお聞きして、それから、僕の気持ちをお伝えして。
 どの様な結果になったとしても、真摯に受け止めましょう。

「…昨日は…すまん…」

 ふえ?
 何故、旦那様が?
 謝るのは僕の方ですのに?

「…帰って来てくれないか?」

 …帰る…?
 お屋敷に戻っても良いのですか?
 これからも、お屋敷に居て良いのですか?

「…その…お前が居ない家は…静かで…寂しいんだ…」

 …静かで…寂しい…?
 …それは…僕が…旦那様のお布団で眠った時と同じ…と云う事でしょうか…?

「…飯も…味がしなくて…不味い…」

 …お味が?
 何処かお加減が宜しくないのでしょうか?

「…お前の作った飯が食いたい…」

 …僕の…?
 何処も凝った物のない、何の変哲もない物ですが…。
 それを…また食べて下さるのですか…?

「…ああ、いや…その…」

 どうされたのでしょう?
 何か話し難い事なのでしょうか?
 大丈夫ですよ。
 何を言われても受け入れる覚悟はあります。
 落ち込みましたり、泣いてしまったりはするかも知れませんが。
 どうぞ、遠慮なく仰って下さい。

「…その、な…。…今更と云うか…」

 はい。
 何が今更なのでしょう?

「その…あの日…お前をあそこから連れ出したのは俺で…」

 はい、そうです。
 今なら解ります。
 僕がどれだけ劣悪な環境に居たのか。
 その中から、旦那様は僕を救い出して下さったのです。
 おにぎりを差し出した僕の手を取って下さって、そのまま離さずに居てくれました。
 あの時は、何故、旦那様が怒っているのか解りませんでした。
 だって、僕はそこしかありませんでしたから。
 そう云う環境しか知りませんでしたから。
 僕にとっては、それが普通で当たり前でしたから。

「…だから、俺には、お前を幸せにする責任があると…義務だと…そう思って来た…」

 いいえ。
 その様なお心遣いは不要です。
 あの日、旦那様が僕の手を取って下さらなかったのなら、僕はここには居ませんし、誰かを好きだと云う気持ちも知らないままに死んで行ったのでしょう。
 泣いたり、笑ったり、怒ったり、僕にも、本当に色々な感情がある事を知りました。
 ですから、僕は本当に幸せ者です。
 それを知る事が出来た僕は、本当に贅沢者です。
 それらを教えて下さったのが、旦那様で本当に良かったです。

「…人並みの生活を送って、人並みの恋愛をして、人並みの幸せを掴んで欲しい…誰からも後ろ指を指される事の無い人生を歩んで欲しいと…」

 いいえ。
 いいえ。
 僕は、このままで十分です。
 今が、一番幸せなのです。
 旦那様がお傍に居て、僕の作った物を食べて下さるだけ、ただそれだけでも嬉しいのです。
 お前はもっと食べろと、怒って下さったりしてくれるのも嬉しいのです。

「……………そう、思っていたんだがな…」

 …ん…?
 長い長い溜め息が聞こえた気がしました。
 どうされたのでしょう?
 今は…そうでは無いと云う事なのでしょうか?
 僕は、これ以上無い程の幸せを戴きましたよ?
 旦那様はそうでは無かったと云う事でしょうか?
 僕と居た事で、不都合があったのでしょうか?
 それでしたら、やはり僕はお屋敷へ戻るべきでは…。

「…お前が…出て行ってから気付いた…。…養子にしてから…ずっと、お前には親だとか、子だとか言って来たが…それは、ただ俺が…自分に言い聞かせていただけで…その…」

 どう云う事でしょうか?
 僕を養子と迎えた事を後悔されているのでしょうか?
 ああ、養子になりたく無かったと、僕が口走ってしまったから…。
 旦那様を傷付けてしまったから…。
 あんなにも僕の事を考えて、心を砕いて下さった旦那様に、恩を仇で返す様な事を言ってしまったから…。

「…その…っ…! …っ…ええいっ、まどろっこしいっ! 雪緒!」

「はひっ!?」

 いきなり強い口調で名前を呼ばれてしまい、また、声がひっくり返ってしまいました。
 な、何でしょう!?
 先程までの静かな、何処か沈んだ様なお声は何処へ消えてしまったのでしょうか?
 いえ、この方が旦那様らしくて良いのですが。

「出て来いっ! 鼻を摘まませろっ!!」

 ふわっ!?
 何でしょうか!?
 鼻を摘ままないと、禁断症状が出るとかありましたでしょうか!?
 暴れたりとかされるのでしょうか?
 それはいけません!

「はっ、はははははいっ、ただいまっ!! ふが…」

 えみちゃん様のお屋敷で、その様な事はさせられません。ですから、僕は戸を開けたのですが、そうしましたら、いきなり鼻を摘ままれました。凄い早業です。これは見習うべきなのでしょうか?

「…ん…。やはり落ち着くな…」

 安心した様に笑う旦那様を見まして、僕の身体から力が抜けて行く気がしましたが。

「…そうでふか…」

 …旦那様は落ち着かれましても、僕は落ち着かないのですけどね…。
 だって、もう鼻を摘まんで下さらないかもと思っていましたから…。
 嬉しくて、嬉しくて、鼻がむずむずします。

「…あの、な…?」

「…ふぁい…?」

 僕の鼻を摘まんだままの旦那様が目を細めて、薄く笑います。
 それは、とても優しく、温かくて。
 小さく心臓が跳ねた気がしました。

「…自分でも信じられないが、どうやら俺はお前に惚れているらしい」

 真っ直ぐと僕を見詰めて、優しく穏やかに旦那様は言いましたが。

「…ふえ…?」

 掘れる?
 掘れるとは?
 僕に何か掘る様な部分とかありましたでしょうか?
 耳も鼻もほじる…ですし…。

「…ああ…うん…そうだな…お前は、そうだよな…」

 思わず首を傾げましたら、旦那様は一瞬遠くを見ます様なお顔をされた後に、思い切り脱力をされてしまった様で、力無く僕の鼻を摘まんでいた手が離れて行き、その手で旦那様は顔を押さえてしまいました。

「…だから…その…。…お前が…その…お前が俺を好いている様に、俺もお前の事を好いている…」

 その手の下から見える旦那様のお顔は、何処か赤く見えますが。

「ふえええっ!? うぐっ!?」

 余りにも余りの事に、僕は踵を返してお部屋の中へと逃げ込もうとしたのですが、襟首を掴まれて止められてしまいました。

「って、だからっ、何故逃げるっ!!」

「な、何故、未だお伝えしてませんのに、僕の気持ちが解ったのですか!? 旦那様は心が読める物の怪だったのですか!?」

 三年、いえ、もう三年半近くになりますか? 
 それだけの間、お傍に居ましたのに全然知りませんでした。
 でも、それでも、僕が旦那様をお慕いする気持ちは変わりませんが。
 それよりも、少々苦しいので襟から手を離して欲しいです。

「何故そうなるっ!! 言っておくが、お前のそれは他の皆も知っているからな!?」

「ふえええええええっ!?」

 そんな、そんな!?
 他の皆様も物の怪だったのですか!?
 ですから、奥様の笑顔は時々底が知れなくて、天野様のお身体もお声も大きくて、相楽さがら様は狸さんで、みくちゃん様は…あやかしでしたね? …おや?

「って、駄目です! いけません!!」

 そうです。
 皆様が物の怪でしたとか、妖でしたとかはどうでも良いのです。

「何がだ!?」

「旦那様には奥様がいらっしゃいますのにっ!! 僕は旦那様に想いを寄せてはいけなかったのです!! 旦那様も、僕を…その、嬉しいのですがっ! そう想っては駄目なのですっ!!」

 そうです。道理に反します。
 旦那様に、その様な不義理をさせる訳には行きません。

「…ああ…それか…」

 それですのに、旦那様は何処か肩の力が抜けた様な声で言ったのです。
 その拍子に、僕の襟を掴む手も離れて行きました。

 それ?

「お言葉ですが! それとは何ですか!? 奥様に失礼です!」

 僕は失礼だとは思いながらも、くるりと振り返り、旦那様の胸に指を突き付けて言いました。

「ああ、いや、すまん! それと言ったのは、俺と鞠子まりこが夫婦だと云う事で…って、おい、睨むな! あのな、その何と言えば良いのか…」

「うん。ゆかり君と鞠子君は、言葉は悪いが偽装結婚と云う物でね。二人の間に恋慕は無いし、夫婦の営みも無い。だから、雪緒君が心配する事は何も無い。安心すると良いよ」

 慌てます旦那様の声を遮る様に、重低音の声が背後から聞こえました。

「…ふぇ…?」

「…は…?」

「…いや…そんな"何で居るの?"って目で見ないで欲しいな。ここ、私の部屋だからね?」

 そろそろと振り返りましたら、そこにはべっどの上に身体を起こして、苦笑しますえみちゃん様のお姿がありました。

「うん。それでね? 仲直りしたのならね? 君達の家へ帰ったら? これ以上のイチャイチャは流石にね? 朝から胸焼けしそうだしね?」

「ふわああああああああっ!? お世話になりましたのに、僕は何と云う事を!?」

 頭を掻きながら言いますえみちゃん様のお言葉に、僕は慌てふためきました。
 どうしましょう!?
 あまりの事態に、顔が熱を持って来ました。

「いっ、イチャついてなぞ…っ…! こ、この度の御礼は後日改めて…っ…! か、帰るぞ、雪緒!」

 旦那様も、お顔を赤くされています。
 ああ、これはお怒りですね。
 旦那様に恥を掻かせてしまいました。

「は、はひっ!! え、えみちゃん様、色々とありがとうございました。後日改めてお礼に…、あ、せい様にもお礼を…っ…!」

 旦那様に手を引かれて、えみちゃん様のお部屋から出ましたら、りびんぐの戸から星様がお顔だけを覗かせて居ました。

「んー? 帰るのか? 仲直り出来て良かったな! またな!」

 僕達を見まして、安心した様な、それでいて何処か寂しそうな笑顔を浮かべました後に、白い歯を見せて笑いながら、ひょこっと全身を現しまして『便所!』と、手を振りながら厠へとばたばたと飛び込んで行きました。

「あ。僕達が話し込んでいたせいで、行きにくかったのでしょうか? 申し訳無い事をしてしまいました…」

 しょんぼりとした僕の頭に、繋いでいた手が離され、それがぽんと置かれました。
 そして、くしゃくしゃと撫でられます。

「…お前が気にする必要は無い。後で謝れば良い。今はとにかく帰るぞ、俺達の家へ。帰ってゆっくり話そう」

「…はい…」

 先程までの騒がしさが嘘の様に、旦那様のお声は静かで優しく穏やかで。
 頭を撫でて貰いました事もあり、僕は胸がくすぐったくて。
 何故か、顔も熱くて。
 ですが、やはり嬉しくて。
 再び伸びて来た大きな手に引かれて、僕達は旦那様の…いえ、僕達のお屋敷へと帰ったのでした。
 道中は無言でしたが、それが辛いとか、その様な事は無くて。
 ぽかぽかと。
 きらきらと。
 ただ、その様な不思議とした空気に包まれている気がしました。
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