旦那様と僕

三冬月マヨ

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やがて

【十八】旦那様と覚悟

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「何ですか、これはっ!?」

 自宅へ帰って来て早々に、茶の間で俺は雪緒ゆきおに怒られていた。
 卓袱台の上には、今朝食べた物の残りがそのままで、若干の異臭を放っていた。

「…いや、今朝の物だが…」

「朝の物でも、ぐんぐん気温が上がる中で、閉めっきりでお昼近くまで放置していましたら、どうなりますかは火を見るよりも明らかでしょう!?」

「…すまん…」

 座布団の上で小さくなる俺なのだが、雪緒は容赦が無い。

「みくちゃん様がお作りになられたのですよね!? 何とお詫びしたら良いのか…っ…!!」

 食べ残しの皿を手に台所へと向かった雪緒だが。

「ふわああああっ!? お味噌汁!? 昨夜のですか!? 白い糸を引いていますっ!! 何故、僅かでも窓を開けて置かなかったのですかーっ!!」

 そこから、また、悲痛な叫び声が聞こえて来た。
 勢い良く流れる水音も聞こえる。

「…雪緒。片付けは後で良いから、話を、だな…」

 雪緒が居る台所へと向けて声を上げれば。

「この様な悪臭の中で、お話が出来ますでしょうか!? 片手でも、窓や縁側の戸は開けられますよね!?」

 頭に角でも生やしていそうな、にべも無い返事が来るだけだ。

「…はい…」

 俺…怪我人だよな…多分…きっと…恐らくは…。

 取り付く島も無い、とは、この事だろうか。
 俺は、家中の窓や戸を開ける為に立ち上がった。

 …すっかりと、元鞘と云うか、何だかんだで世話焼きの五月蝿い雪緒に戻ったな…。
 …だが、安心する。
 ここが。
 これが。
 俺達の在るべき姿で、居るべき場所なのだと。

 今朝まで、散々悩んでいたのが馬鹿みたいに思う。
 しくしくと痛む胃を押さえながら、司令の家迄の道程を歩いた。
 雪緒が帰りたくないと、俺の顔なぞ二度と見たくないと、そう言われたらどうしよう、とか。
 門扉の前で、幾度も行ったり来たりしたとか、玄関の戸を叩こうとしては、上げた手を幾度も下ろしたりした事とか。
 そうこうしてたら戸が開き、雪緒が俺を見るなり目を見開いて、草履を脱ぎ捨てて、部屋に閉じ籠もるとか。
 きちんと草履を揃える雪緒が、脱ぎっ放しで、だ。
 それ程に、俺の顔を見たくないのかと。
 もう、胃に穴が空くかと思った。
 我ながら、らしく無いと思うが。
 難しく考え過ぎだとか、百聞は一見に如かずだとか言われたが。
 だが、実際に雪緒に会って話すまで、どうしようも無く不安だった。
 情け無い事この上ないが。
 せいがそれを見て微妙な顔をしていたが『…おいら、あっちに行くから…。…もう…泣かすなよ…』と、小声で俺に告げ、何処かの部屋へと入って行った。
 今思えば、司令の部屋だったから、何とも言えない顔をしていたのだろう。
 だが、あの時に、それを教えられていたとしたら、俺は雪緒と話す事等出来なかったかも知れん。
 そこは感謝しかないが。
 だが、あれらを全部あの親父に聞かれていたのかと思うと、声を上げて街中を走り回りたくなる。いや、実際にやりはしないが。そうだな、仕事に復帰したら隊員達を鍛える事にしよう。
 戸を挟んで雪緒に語り掛けたのは良いが。
 結局は。
 そのままでと、言い出したのにも関わらず、顔が見えないのが不安で。
 話を聞いてくれているのは解ったが、やはり顔を見たくて。

『顔を見せてくれないか』

 と、言いたかった筈なのに、実際に出た言葉は。

『鼻を摘まませろ』

 何を言っているのだと慌てたが、戸が開いた瞬間に勝手に手が動いて、その鼻を摘まんでいた。
 その瞬間、だらしなく眉を下げる雪緒を見て、酷く安堵した。
 気付けば、胃の痛みは何処かへと消えていて、知らず強張っていた身体からは力が抜けて行くのが解った。
 そして、自分でも信じられないぐらいに、素直に、その言葉が出たのに。
 一世一代の告白と言っても過言では無いのに。
 だと云うのに。
 雪緒は訳が解らないと云う様に首を傾げてくれた。
 …勘弁してくれ…と、思わず遠い目をしてしまったのも致し方無いだろう。
 結局は雪緒に解り易い言葉で伝えれば、また逃げ出そうとする始末と来たもんだ。
 本当に、一筋縄では行かない。
 更には、物の怪だと言い出した。
 いや、もう、お前の方が物の怪だろう。
 一筋処か、何本の縄が必要なんだ、全く。
 そうして、やっと捕まえたと思えば、鞠子まりこの心配をして来た。
 ああ、そう云えば相楽さがらが言っていたなと『それか』と口にすれば、目を剥いて怒って来た。
 いや、もう、想いを伝えるだけで、これ程の労力を使うとは思わなかった。
 司令が代弁してくれたが、あの状況で雪緒の頭に入ったのかは、正直微妙だ。
 だから、俺の口からもう一度言わねばなるまい。
 婚姻は結んだが、それは互いの利害が一致した結果で、鞠子との間には何も無い事。…弟だと思われていた事を…。

「空気の入れ換えありがとうございました。こちらをどうぞ」

 コトリと音を立てて、肘をついていた卓袱台に麦茶が置かれた。

「あ、いや。あのな、話を…」

「その前に、お布団を干して来ますね。今日も良い天気ですから、今から干してもふかふかになります」

「あ、ああ、そうだな」

 おい、焦らしているのか?
 まさか、逃げてる訳ではあるまい?

 屈託の無い笑顔を浮かべて、茶の間から出て行く雪緒の背中を見送って、暫しして。

「…っ…! 待て…っ…!!」

 拙い!
 あれを見られたら末代までの恥だっ!!

 俺は慌てて立ち上がり、雪緒の後を追うが、それは既に後の祭りだ。

「…旦那様…これは…?」

 雪緒より遅れて自分の部屋へと入れば、雪緒は畳に座り込んでいて、それを手に俺を見上げて来た。

「…………………昨夜…眠れなくて、な…」

 口を押さえて、僅かに目を泳がせて、俺はそう言った。

 片手では布団を敷くのに苦労するだろうと、司令が布団を敷いてくれたのは良いが、いざ眠ろうとすると眠れずに。
 静かなのは何時もの事なのに。
 妙にそれが気になって。
 目を閉じれば、浮かぶのは雪緒の泣き顔ばかりで。
 酔った司令から、星が作った茶碗蒸しを食べたし、夜も軽く食べたし、風呂にも入ったと聞かされたが。
 だが、それでも。
 どうしようも無く胸がざわついて落ち着かず。
 気が付けば、雪緒の部屋に戻したそれを手にしていた。
 今、雪緒の手の中にある青い箱を。
 雪緒の心が、想いが、詰まった箱を。
 きらきらでぽかぽかの箱を。
 それを枕元に置いて目を閉じれば、穏やかに笑う雪緒の姿が浮かんだ。
 そして、そのまま、その笑顔に誘われる様に眠りについた。

「…旦那様も…同じだったのですか…」

 俺の言葉に、ふわりふわりと蒲公英の綿毛が舞う様に雪緒が笑う。

「…同じ…?」

 その笑顔に、俺の鼓動が跳ねた。
 口を押さえていた手を離して、胸元を掴む。

「…僕も…あの日…。…旦那様が病院で過ごされた夜…何故か落ち着かなくて…。…今、思えば寂しかったのだと思います…。…一人で眠れなくて…それで、その…奥様に申し訳無いと思いつつも…ここで…旦那様のお部屋で…このお布団で…その…眠りました…」

「な…っ…!」

 頬を赤く染め、伏し目がちに語られたその言葉に。
 その瞬間に、目まぐるしく身体に走ったこの熱は何だ?
 正座したその上に箱を乗せて、静かにそっとそれを撫でる雪緒の手を取りたいと思った。

「旦那様!?」

 しかし、今、それをしたらどうしようもなく荒々しい物になってしまうだろう。
 雪緒の方へと伸ばし掛けた手を、無理矢理に口元へと持って行ったせいで、パンッと云う痛々しい音が部屋に響いた。
 それに雪緒が目を丸くして、俺を見上げて来た。

 …参った…。
 本当に、もう…。

「…降参だ…」

 …もう、本当にどうしようもない。

「…ふえっ!? い、いきなり、ど、どうされたのですか!?」

 その場に力無くへたり込んだ俺の元へと、雪緒が寄って来る。

「…ふが…?」

 目の前まで来た、その鼻を俺はまた摘まむ。

「…あのな…」

 …そう云えば、鼻を摘まんで騒ぐ様になったのは、何時からだったとか、そして、騒がなくなったのは何時からだったかと、そんな事を思いながら、俺は口を開く。

「…こう言ったら…また、お前の気を悪くするかも知れんが…。…お前は、まだ子供だ。年齢的な意味でも、身体的な意味でも…」

 そう。
 まだ、今は子供だ。
 だが、子は成長するものだ。
 やがて、大人へとなるものだ。

「…ふぁい…。それは、今回の事で良く解りました。ですから、僕はもっと、もっと沢山学ばなければなりません。働くと云う事も。お仕事をすると云う事の意味をもっと知らなければなりません」

 鼻から手を離せば、雪緒は迷いの無い目と声で、そう言って来た。その答えに、俺の頬が緩む。

「…ああ、良い答えだ。だから、な? 俺に時間をくれ」

「…じかん…?」

 首を傾げる雪緒の目を見ながら、俺は話す。

「こんな言い方は卑怯で狡いと思うが。だが、俺はお前を手放したく無い。ずっと俺の傍に居て欲しい…いや、俺がお前の傍に居たいんだ。お前に色々と教えてやるのは、俺だけで居たい。俺以外の誰かの為に泣いて欲しくない。俺以外の誰かに想いを寄せて欲しくない…我儘ですまんな…だが、それが俺の正直な思いだ」

「…旦那様…」

 真っ直ぐと見詰める先の雪緒の丸い目が、揺らめき、涙が浮かぶ。
 しかし、それは悲しいからでは無く、嬉しさ故だろう。
 雪緒の小さな唇は緩やかに弧を描いている。
 俺の言動や行動に、こうして一喜一憂する雪緒を愛しいと思うし、やはり守りたいと思う。
 それは、親としてでは無く。
 ただ、一人の男として。
 俺が帰る場所に居てくれる。
 俺が帰る場所を作ってくれる。
 俺が帰る場所を守ってくれる。
 この小さくも強い存在を。
 この小さくも愛おしい存在を。

「…だが、今のお前をどうこうするのは、気が退けてな…。…だから、四年。四年待って欲しい」

 十八で成人と認められるが、雪緒には未だ早いだろう。

「お前が成人するまで。その時に、また、俺の思いを告げるから…その時は頼むから、逃げてくれるなよ? あれは、本当に胃に悪いし、心臓にも悪い」

 急ぐ事は無い。
 お前はお前らしく、ゆっくりと成長して行けば良い。
 その過程を俺は傍で見ていたい。
 肩を竦めて苦笑すれば、雪緒は目を見開く。

「ふわっ!? もっ、申し訳ございませんっ!! 旦那様の御身を傷付けてしまうだなんて、その様なつもりは無くてっ、その、いきなり目の前に居ましたし、その後は、もう、驚いてしまいまして…っ…!! はわ、はわ、ど、どう致しましょう!?」

 そうやって血相を変えて慌てふためくこいつが、どうしようも無く可愛く見えてしまうのだから、もう、相当末期なのだろう。
 よくも今まで気付かずに居たものだ。

「…ふが…?」

 だからなのかは知らんが。
 無意識の内に手が伸びて、その可愛い鼻を摘まみ、雪緒を黙らせた後、鼻を掴んでいた手で顎を取り軽く上向かせて、その小さな唇に俺のそれを重ねた。
 約束だと云う様に。
 約束の代わりに。

「…まあ、その時は覚悟をしておけ」

 軽く合わせた唇を離して、射抜く様に雪緒の目を見て言えば。

「…………せ…せっ、ぷん…ふわ…わわわわわわわわぁ……………………………」

 茹で蛸の様に顔を赤くして、そのまま背中から畳の上にひっくり返ってしまった。

「って、雪緒!? これぐらいで倒れるな、おいっ!!」

 これで良く、下の世話をするとか、触って欲しいとか言えたな!?
 もしかして覚悟が必要なのは俺の方なのか!?
 こいつに、これからの事を教えるのは、相当の根気が必要だな!?

「おい、起きろっ!!」

「…ふえぇ…ふええ…」

 しかし、雪緒は俺の叫びに、ただ情け無い声を出すだけだった。
 だから、俺はまた、心の中で言うのだ。

「助けてくれ、鞠子」

 と。

『あらあら。頑張って下さいませね』

 そうすれば、何処かからか、コロコロと笑う鞠子の声が聞こえた気がした。
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