旦那様と僕

三冬月マヨ

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向日葵―奇跡の時間―

向日葵の想い【二】

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 すっと、その手が伸びて来ました。
 あっ、と思う間もなく、その長い指が雪緒ゆきお君の鼻を摘まんでしまったのです。

 ◇

 お風呂から上がって、茶の間へと来た雪緒君に、小腹が空いたでしょう? と、ゆかり様から戴いたチョコレートを渡したら、片手で持てる物なのにその小さな手で大切に壊れ物を扱う様に、両手で包みました。
 そして、小さな口で一口、また一口と時間を掛けて啄んで行くさまは、小さな栗鼠りすの様でとても愛らしく、可愛くて、頭を撫でたい衝動に駆られたのだけれど、折檻の事が気になってしまい、腕を上げたら怖がられてしまうかも知れないと、我慢をしていましたら、正面に座る紫様の手が伸びて来まして、あれよあれよと云う間に雪緒君の鼻を摘まんでしまったのです。

 …ずるいですわ…。

「…ふが…?」

 チョコレートに齧りついたまま、雪緒君が軽く首を傾げます。その仕草がまた、とても愛らしくて、こんな子によく折檻等出来た物だと、腸が煮えくり返っていましたが…雪緒君の鼻を摘まむ紫様の目を見ましたら、それは静かに凪いで行きました。

 …何て…優しく…柔らかい目なのかしら…。
 紫様の目は何時も暖かいのですけれど…何時もとは違う気がしますわ…。
 
 如何程の時間も経ってはいないと思いますが、雪緒君の手にあるチョコレートが溶けて来ています。

 ああ、呆けている場合ではありませんね。雪緒君の可愛らしい手が汚れてしまいます。
 手を拭こうとしたら、雪緒君に止められてしまいました。それは無意識なのでしょうけれど、他人からの厚意に慣れていない事が伝わって来て、胸が苦しくなりました。それは紫様も同じで…苦し気に歪められた顔を隠す為に、両手を使い顔を覆ってしまいました。
 こんなに幼いのに…。これは当たり前の事なのに…。それを知らないなんて…。…どれだけの悪意の中で生きて来たと云うの…? 何故、誰も手を差し伸べなかったの…? それ程に、余裕が無かったと云うの…?
 少しでも。ほんの少しだけでも、人の厚意に、温もりに触れて欲しくて。
 チョコレートの入った箱を雪緒君にあげたら、小さいけれど、本当に僅かだけれど、雪緒君は目を細めて笑顔を見せてくれたの。

 ◇

「坊ちゃん! 何をなさっているのですか!?」

 夕餉の後、食後のお茶を楽しんでいたら廊下から、お妙さんの慌てた声が聞こえて来ました。

「良い。俺が行く」

 腰を浮かせ掛けた私を制して紫様が立ち上がり、廊下と部屋を隔てる障子を開けます。

「は…?」

「…え…?」

 紫様と私の呆けた声が茶の間に響きました。だって、開けられた障子の向こうには、きっちりと膝を揃えて正座をする雪緒君が居たのですから。

「旦那様~、奥様~、助けて下さいませ~」

 廊下に正座をする雪緒君の傍らで、お妙さんが困り果てた様に情けない声を出して、私達を呼びます。

「…その、だな…何をしているんだ…?」

 軽く頭を振った後で、紫様が膝を曲げて、雪緒君へと目線を合わせる様にして静かに問い掛けます。

「はい。何時でもご用事が聞けます様に、こちらにて待機していますので、どうぞ何なりとお申し付け下さい」

「ああ~」

 丁寧に三つ指をついて頭を下げる雪緒君に、お妙さんは両手で顔を覆い、紫様は膝に両手を置いてがっくりと肩を落としています。私も、思わず両手で口を覆ってしまいました。

「あのな…もう、今日はやる事は無いから、お前は部屋で休め」

「はい。ですが、旦那様も奥様もまだお休みになられませんのに、奉公人の僕が先に休む訳には行きません。こちらでお二人がお休みになられるまで待機しています」

 頭を下げたままの雪緒君に、紫様が項を掻きながら言いますが、雪緒君は頑なに動こうとはしません。
 
 …これが…親族達のして来た"躾"の結果なの…? 子供なのに…同じ人間なのに…。

 私も立ち上がり、雪緒君の傍まで歩いて行き、紫様の隣に腰を下ろします。

「…雪緒君。これまでは、そうだったのかも知れないけれど、ここではそう云うのは無しにして? 今日は疲れたでしょうから、早くに寝て良いのよ?」

 そうよ。だって、雪緒君は…。

「ああ、そうだ。だから、もう寝ろ、な?」

「お二人がそう仰るのでしたら」

 紫様の言葉に、雪緒君が返事をして立ち上がります。そして、雪緒君の為に用意した方とは逆の方へと歩いて行きます。

「は? 雪緒? お前の部屋は向こうだ」 

「雪緒君? そっちは玄関…」

「雪緒坊っちゃん?」

「あの様に綺麗なお部屋は僕には分不相応です。お庭にあります、物置小屋で十分です。お先に失礼する無礼をお許し下さい。それでは、お休みなさいませ」

 その行動に戸惑いの声を上げれば、雪緒君はそれがさも当たり前の事だと云う様に、無表情のままで私達に頭を下げました。

「…っ…! えぇい!!」

「紫様!?」

「旦那様!?」

 雪緒君の余りにも余りな言葉に、紫様が立ち去ろうとする雪緒君の身体を抱き上げて、肩へと担いでしまいました。

「あの、天野様もそうでしたが、担いで戴けなくとも僕は自分で歩けますので降ろして下さいませんでしょうか?」

 私とお妙さんは大慌てでしたのですが…雪緒君のその言葉に頭を抱えてしまいました。
 …降ろしたら…物置小屋へと歩いて行くのでしょう…?

「雪緒を部屋へ連れて行く。お妙さん、すまんが明日、物置小屋に鍵を付けてくれないか?」

「はっ! ええ、勿論でございますとも!」

 こくこくと頷くお妙さんに、紫様は一つ頷くと、雪緒君を担いだまま廊下を歩いて行きました。

「…奥様…」

「…ええ…」

 少ししてから、お妙さんが申し訳無さそうな声で私を呼びます。

「…雪緒坊ちゃん…養子に迎えるのですよね…?」

「…ええ…」

 それは雪緒君がお風呂に入っている間に話していた事でした。
 家族の温もりを知らない雪緒君にそれを教えてあげたいと…与えてあげたいと、紫様が言ったのです。ですから、私やお妙さんにも、その様に接して欲しいと頭を下げて来たのですが…これは…。

「…僭越ながら…今の状態では…難しいかと…」

「…ええ…雪緒君が…言葉は悪いのだけれど…その…奴隷根性が無くなるまで…自然と笑える様になるまでは…無理よね…」

 ここが、安心の出来る場所だと、笑顔で居て良い場所なのだと…雪緒君が自然と思える様になるまでは…――――――――。
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