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しおりを挟むセルマは目を覚ました。
視界に映る世界は青く、キラキラと輝いている。
自分が水の中にいると気付き、ギョッとした。パニックに陥り、手足を掻いて水面に上がろうともがく。しかし身に付けている衣服が水を吸い込んで思うように動けない。
焦りと恐怖に頭が真っ白になりかけた時、ふと気づいた。全然苦しくない。水の中にいるはずなのに、息が苦しくないのだ。というか、普通に呼吸ができている。
そもそも、どうして自分は水の中にいるのだろう。
とりあえず、時間をかけてどうにか水面へと辿り着く。水の中から体を引き上げた。
「ここは……」
辺りを見回す。周りには木しかない。そして自分がいたのは湖だ。森にある湖の底に自分は沈んでいたのだ。
そこで思い出した。妹にされた事を。自分の身に何が起きたのかを。
崖から突き落とされて、怪我を負って血を流し、そして湖に沈められた。
自分は確実に死んでいる。
それなのに、自分は今、どうしてここにいるのだろう。
「まさか……死んでない……?」
いや、まさかだ。あの状態で生きていられるわけがない。では、自分は既に死んでいて、ここは死後の世界なのか。
「幽霊になった……わけではないわよね……」
自分の体を見下ろす。自分で見る限り、生身の人間の体で、幽体には見えない。
「…………これ、何……?」
捲れたスカートから覗く脚に異様なものが見えてハッと息を呑む。
何かが貼り付いているのかと思った。でも違う。肌と一体化している。
「これって……鱗……?」
脚のところどころに鱗が生えている。もしやと思って袖を捲ってみれば、案の定腕にもちらほらと鱗が生えていた。
どうして自分の体にこんなものが。
そして今更気づいた。自分の髪が伸びている。肩くらいの長さしかなかった髪の毛が、胸下まで伸びているのだ。
「ど、どうして……」
自分の身に何が起こっているというのだろう。
そもそも自分が死んでいるのかすらわからない。
生きているはずがない。でも、死んでいるとも思えない。
あんなに血が流れていたのに。崖から落ちた時についた怪我が一つも残っていない。痛みも感じない。
奇跡的に生きていた、なんて楽観的に考えられないほど異常な状態だ。
自分は一体、どうなってしまったのだ。
妹に殺されたなんて夢だったのか。そして今も夢を見ているのか。
でも、あの激しい痛みと水の中で息ができなくなっていく苦しみが夢だったとは到底思えない。
「…………マルクス……」
助けを求めるように、無意識に彼の名前を呟いていた。
彼に会いたい。わけがわからないこの状況で、無性に彼に会いたくなった。
でも、全身びしょ濡れで、こんな酷い格好では誰にも会えない。
セルマは何気なく太陽の光が当たる湖を覗き込んだ。自分の姿を確認するために。
「ヒッ……!?」
そして弾かれるように後ろに仰け反った。
まるでおぞましいものを見たかのように。
自分の目に映ったものが信じられない。見間違えだ。見間違えであってほしい。
「っ…………」
怖い。でも、確かめなくてはならない。自分が今、どんな姿でいるのかを。
スカートのポケットに手鏡が入っているのを思い出し、震える手でそれを取り出す。
ゆっくり、ゆっくりと、自分の顔を鏡に映す。
そして。
「いやぁっ……!?」
思わず鏡を投げ捨てた。
ガクガク震える自分の体を抱き締める。
セルマの瞳は、白目と黒目が反転していた。
「なに……何でっ……」
水の中で呼吸ができて、体のところどころに鱗が生えていて、そして目が白黒反転している。
こんなの、人間じゃない。
まるで化け物ではないか。
「どうして……こんな……っ」
全て夢だと思いたい。何もかも、悪い夢であったらどんなに良かったか。
しかし、絶望にうちひしがれていても現実は何も変わらない。とにかく冷静にならなくては。
ドクドクと激しく脈打つ心臓を落ち着けたくて、胸を手で押さえる。
そして疑問が浮かぶ。
どうして自分の心臓は動いているのだろう。
いや、こうして意識もあって体も動いているという事は心臓が動いていなくてはおかしいのだけれど。
でも、自分は確かに死んだ。湖の中で息絶えた。
それなのに、また心臓が動いている。
つまり自分は一度死んで、化け物として生き返ったのだ。
確かな事はわからないけれど、セルマはそう結論付けた。
死にたくないと強く思った。何度も何度も繰り返し願った。
でも、化け物の姿で生き返っても意味がない。こんな姿で生き長らえてどうすればいいのだ。
明らかに人間ではないこの姿を、誰にも見せられない。
マルクスにも会えない。
化け物の自分では、彼と結婚なんてできない。
傍にいる事なんて許されない。
自分は今、何の為に生きているのだ。
マルクスと結婚したくて、この先もずっと彼の傍にいたくて、だから死にたくないと願ったのだ。
これでは何の意味もない。
化け物になんてなりたくなかった。こんな姿になるくらいなら、あのまま死んでいた方が良かった。だって、マルクスに一目会う事すらできないのだから。
何でこんな事になってしまったのだろう。
妹に頼み事をされた時に、どうして疑わなかったのだ。少しでもおかしいと感じていたら、こんな事にはならなかったかもしれないのに。
マルクスと婚約して、浮かれていた。彼と結婚する未来を信じて疑っていなかった。
それがいけなかったのだろうか。
幸せに浸る事すらしてはいけなかったのだろうか。
あまりにも理不尽で、やるせなくて、辛くて、苦しくて、悲しくて。
「ぅっ……」
涙が溢れた。
マルクスに会いたい。会って、抱きついて、彼の腕の中で思い切り泣き喚きたい。
また彼と古代魔法について話し合いたい。他愛ない言葉を交わし、笑い合いたい。
彼に名前を呼んでほしい。抱き締めて、好きだと言ってほしい。
でも、それはもう二度とかなわない。
「ぃやっ……マルクス……マルクス……っ」
セルマは地面に伏せ、泣いた。
もうマルクスに会えない。それがただただ悲しかった。彼との約束を果たせなかった事が。
一人泣きじゃくっていると、遠くに人の足音や声が聞こえた。
セルマはギクリと体を強張らせる。
こんな姿を誰かに見られたら、自分はどうなるのだろう。
化け物と罵られ追いたてられ、殺されるかもしれない。
それとも捕まえられ、体を切り刻まれて調べ尽くされるかもしれない。
わからないが、セルマにとって決していい結果にはならないはずだ。
だから絶対に、誰にも見つかってはいけない。
セルマは息を殺し、音を立てないようそっと声のする方へ近づいた。
その途中で気づいたが、人間だった時よりもよく耳が聞こえる。そしてかなり視力も上がっている。なので離れた場所からでも向こうの様子を窺えた。
そこにいたのはマルクスだった。そしてセルマの両親と、妹もいる。
見つかるのが怖くて、声が聞こえるギリギリまでしか近づけなかった。うっすら聞こえる彼らの会話から、状況を把握する。
セルマが死んでから一日経過しているようだ。そしてセルマは森の中で行方不明になった、という事になっているらしい。
当たり前だけれどシーラは自分の罪を隠し、姉の安否を心配する妹としてそこにいる。
そしてマルクスは必死にセルマを捜している。何度も何度もセルマの名前を呼び、森の中を歩き回っていた。
できる事ならば、今すぐ彼の元へ駆け出していきたい。私はここにいるのだと、彼に伝えたい。
けれど、それはできない。セルマはただ、服が汚れるのも構わず草を掻き分けるようにして捜し続ける彼を見ている事しかできなかった。
セルマの両親と妹は早々に引き上げ、けれどマルクスはずっと森の中にいた。日が落ちて辺りが暗くなってから、付き添いの人に止められ、渋々帰っていった。
そして次の日もマルクスは朝早くからやって来た。彼は一人でセルマを捜し続けている。
次の日も次の日も、マルクスは毎日やって来た。
こんなに必死に捜してくれている。なのに、姿を見せる事はできない。それが悲しくて辛い。
彼に心配させて、迷惑をかけているというのに、でも、こうして捜してくれる事が嬉しくて堪らない。
彼が恋しくて、会いたくて、でも会えない事が苦しくて、叫び出したくなる。
自分の名前を呼ぶ彼の声を聞きながら、ただこうして遠くから見ている事しかできない。
でもきっと、彼もいつか諦める日が来るのだろう。捜しても、セルマは見つからない。いずれ見切りをつけなければならない。
そして彼がここに来る事もなくなる。
その日が来たら、もう一度死のう。
セルマはそう考えた。
彼が来なくなったら、死のう。
蘇った自分が死ねるのかはわからないけれど。心臓は動いている。もう一度鼓動を止めれば、今度こそ自分の命は終わるのではないか。
それは試してみなければわからないけれど。死ねなかったら死ねなかった時に考える事にする。
マルクスにも会えず、誰からも姿を隠し一人で生き続けるなんて辛すぎる。だから今度は、自分で自分を殺す。
セルマはそう心に決めて、その日を待った。
けれど、一ヶ月以上過ぎてもマルクスは捜し続けていた。雨の日にも、全身をびしょ濡れにしながら森の中を歩き回っていた。
マルクスは日に日にやつれていく。髪や服装は乱れ、身だしなみなど気にもとめていない。
綺麗に髪型を整えきっちりと制服を着こなしていた頃の彼は見る影もなく、無我夢中でただセルマを捜し続けている。
そこまでして捜してくれるのは嬉しいけれど、もう充分だと伝えたい。
これ以上疲弊していく彼を見ていられない。
もうセルマの事はきっぱり諦めてくれていい。自分の事は忘れて、幸せになってほしい。
しかしセルマの思いとは裏腹に、マルクスは諦める様子がない。彼はセルマが見つかるまで捜し続けるつもりだろうか。
このままでは、彼の方が死んでしまいそうだ。きっと睡眠も食事もまともにとっていないだろう。倒れるのも時間の問題で、あんな状態では病気になってしまう。
彼に諦めさせるのは簡単だ。
セルマが彼の前に姿を現せばいい。
この変わり果てた姿を見れば、彼の自分を思う気持ちなど一瞬で消えてなくなるだろう。
彼の為を思うなら、そうするのが一番だ。
わかってはいたが、勇気が出なかった。
彼に化け物と罵られ、嫌悪の目で見られるのが怖かった。死ぬ事よりもずっと怖い。
それでも、やらなければ本当に彼が体を壊してしまう。
幸いな事に、セルマを捜しているのはもうマルクス一人だけだ。他の人間に姿を見られる心配はない。セルマにとって彼に姿を見られるのが一番辛いのだけれど、諦めてもらうにはそれしかない。
今日は天気が良く、日が降り注ぎ森の中は明るい。セルマの姿もよく見えるだろう。
震える足を踏み出して、一歩一歩、少しずつ彼に近づいていく。
マルクスは服を汚し髪を振り乱しながら夢中でセルマを捜している。
そんな彼の背中に向かって声をかけた。
「マルクス……」
緊張と恐怖に、その声はか細く震えていた。けれど彼の耳にはしっかりと届いたようだ。
「セルマ……!?」
弾かれたようにマルクスが振り返る。
その瞬間、セルマは怖じ気づいた。踵を返し、その場から逃げ出す。
「セルマ!? 待って、セルマ……!!」
追いかけてくるマルクスの声が聞こえる。それでもセルマは怖くて足を止められなかった。
逃げる事に必死で焦っていたセルマは足を滑らせる。
「きゃっ……!?」
「セルマ……!!」
後ろに傾く体を、背後から伸ばされた腕に抱き止められる。ガッチリとマルクスの腕にとらわれたまま、二人はその場に座り込む。
「セルマっ……セルマ……っ」
強く強く抱き締められる。彼の声は安堵と歓喜に満ちていた。
マルクスはまだしっかりとセルマの姿を見ていないのだ。だから、こんな風に抱き締めてくれている。おぞましい化け物に変わり果てたのだと知れば、きっと指一本触れる事すら厭わしく思うだろう。
「やっと見つけた、セルマ……」
彼がどれだけ必死に自分を捜してくれていたのか、ずっと見ていたからわかっている。だからこそ、自分が見つかって彼が喜んでいる事もわかる。
彼に抱き締められている事が嬉しくて、でも、それ以上に辛かった。すぐに彼と別れる事になるとわかっていたから。
「離して、マルクス……」
「セルマ……?」
「私……私、もう人間じゃないの……。一度死んで、化け物として蘇ったの……」
「え……?」
抱き締める力が弱まって、マルクスの腕から抜け出す。そして彼と正面から向き合った。
マルクスの視線がセルマをまっすぐにとらえる。
髪が伸び、体のあちこちに鱗が生え、そして自分で見てもゾッとする、白黒反転した双眸。
マルクスの瞳に化け物となった自分の姿が映し出される。
彼がどんな反応を示すのか。恐怖に悲鳴を上げるのか。嫌悪にセルマを突き飛ばすのか。セルマに背を向け逃げ出すのか。
セルマは覚悟を決めてその時を待った。
彼の手がこちらに伸ばされる。セルマは反射的にぎゅっと目を瞑り身を縮めた。
「セルマ……」
頬が温かなものに包まれる。ビックリして目を開ければ、こちらを見つめるマルクスと目が合った。恋い焦がれるような彼の瞳に、セルマは戸惑う。
彼の反応が思っていたのとまるで違って、どうしていいのかわからない。
「良かった、セルマ……。会いたかったよ」
頬に触れる彼の手は優しく慈しみに満ちている。嫌悪など微塵も感じられない。
「さあ、一緒に帰ろう」
当たり前のようにそう言われ、セルマは困惑する。
「何を、言ってるの……。帰れないわ……。私の事はもう忘れて……貴方一人で帰って……」
セルマの言葉に彼は悲しげに表情を歪めた。
「どうしてそんな事を言うの……? 俺の事、嫌いになってしまった? 君を守れなかった俺とは、結婚したくなくなってしまった……?」
「違う、そうじゃないわ。よく見て、私、化け物になったのよ」
「化け物なんかじゃないっ。セルマはセルマだよ。どんな姿になっても、俺の、俺だけのセルマだ」
マルクスに腕を掴まれる。
「帰ろう、セルマ。俺の、俺達の家に。まだ結婚してないけど、もう君の為の部屋は用意してあるんだ」
「む、無理よ……。こんな姿、誰かに見られたら……大問題になるわ。マルクスに、迷惑をかけたくないの」
「誰にも見られなければいいよ。ずっと部屋の中にいればいい。大丈夫、俺以外、誰もセルマには近づけないよ。俺が傍にいる。今度こそ君を守る」
「待って、だめ、だめよ……っ」
制止の声を上げるけれど聞き入れてもらえず、セルマは彼に抱き上げられた。
「森の外に馬車を停めてあるんだ。魔法で動く馬車で、他に人はいないから大丈夫」
「マルクス、待って、お願い、冷静になって……っ」
彼は今、きっと正常に物事を考えられない状態なのだ。精神的にも肉体的にも疲弊しきっていたところに、婚約者が変わり果てた姿で目の前に現れたのだから無理もない。
しかし、このまま彼の家に連れていかれては困る。めちゃくちゃに暴れて抵抗すれば逃げられるだろう。けれど、弱っている彼を相手にそんな真似はできなかった。
だからどうにか説得できないかと言葉をかけ続けたのだが、マルクスはセルマを馬車の中へ連れ込んでしまう。
「マルクス、ねえ、お願い、ちゃんと冷静に考えて……っ」
座席の上で、不意にきつく抱き締められた。二人の体が隙間なく密着する。
「マルクス、離して……。私、汚れているから……」
「嫌だ、離さない、離したくない」
「っ……」
彼の体は小さく震えていた。
「会いたかった……セルマ……。ずっとずっと、君に会いたかった……っ」
抱き締められていて顔は見えないけれど、彼が泣いているのはわかった。
セルマは何も言えなくなる。
彼に会いたくて会いたくて堪らなかったのはセルマも同じだ。再会できて嬉しいと、心から思っている。
「マルクス……」
「もう離さない……絶対に」
セルマだって彼の傍にいたい。でも、こんな体では無理だ。誰にも姿を見せられない、化け物と成り果ててしまった自分は彼の傍にいられない。いてはいけないのだ。
「マルクス……」
離れなければとわかっているのに、彼の腕を強く拒めない。抱き締め返す事も、突き放す事もできない。
彼の温もりを感じられる事が嬉しくて、彼と一緒にいられない事が悲しくて、セルマも涙を流した。
どうすればいいのかわからないまま、馬車はどんどん森から離れていった。
そして、マルクスの暮らす屋敷に着いてしまった。
マルクスは馬車に積んであった毛布でセルマの全身をくるんだ。毛布で覆ったセルマを抱き上げ、馬車を降りる。
セルマは毛布に視界を塞がれて何も見えない。
「お帰りなさいませ、マルクス様……」
聞こえてきた男性の声は使用人のものだろうか。僅かに戸惑いが滲んでいる。
「失礼ですが、そちらは……」
「セルマだよ。漸く見つかったんだ」
「それは……良かったです。では、すぐに病院の手配を……」
「必要ないよ。彼女はこのまま部屋に連れていく」
「は……いえ、しかし……」
使用人が困惑するのも無理はない。セルマは森で一ヶ月以上行方不明になっていたのだ。普通は病院へ運ぶだろう。
「大丈夫だよ。ただ彼女は色々あって、今は誰にも会いたくないと思っているんだ」
「はあ……」
「だから、誰も部屋には近づかないでほしい。彼女の事は全て俺がするから、勝手に部屋に入るような事も絶対にしないでくれ」
「畏まりました……。ですがその……一度セルマ様のお声を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか……?」
使用人の彼はもしかしたら、マルクスが遺体を運んできたと思ったのかもしれない。全身を毛布で隠している状態では、そんな疑いを持っても仕方ないだろう。一ヶ月以上も行方不明だったのだ。見つかったとしても、生きてはいないと思われていただろう。
「セルマ、話せるかい?」
「はい……」
セルマの一言に、使用人が息を呑むのがわかった。
「じゃあもう部屋に行くから。早くセルマを休ませてあげたいんだ」
「は、はい。失礼致しました」
マルクスは屋敷に入り、セルマを部屋まで運ぶ。
しっかりとドアに鍵をかけてから、毛布が取り払われた。
広い部屋の中にはきちんと家具が揃えられ、綺麗に整えられていた。
「必要なものは一通り用意してあるけど、何か欲しいものがあったら遠慮なく言ってね」
「マルクス……」
抵抗できずここまでついてきてしまった。セルマは未だ、これからの事を悩んでいた。
「まずはお風呂に入ってゆっくり体を温めておいで」
促され、セルマは従った。一度一人になりたかった。部屋に備え付けの浴室に入る。
しかし一人になって考えても答えは出ない。
マルクスと一緒にはいられない。でも離れたくないという気持ちも確かにある。それに、自分がいなくなったらマルクスがどうなってしまうのかも不安だ。けれど、やはり彼の傍にいてはいけないとも思う。
思考は同じところをぐるぐる回り、離れたくないという気持ちと、離れなくてはという考えがいったりきたりを繰り返す。
長い時間をかけて風呂を使い、結局どうすべきか結論が出ないまま浴室を出た。
清潔な着替えが置いてある。女性ものの下着と寝巻きだ。恐らく部屋だけでなく衣服も前もって色々と用意していたのだろう。
部屋に戻れば、長い髪をマルクスが丁寧に拭いてくれる。
「ふふ……髪の短いセルマしか見た事がなかったから、何だか新鮮だね。長い髪もすごく似合ってるよ」
マルクスはうっとりとセルマを見つめている。
今のセルマを見て、どうして不気味だと思わないのだろう。
一気に髪が伸びて、鱗も生えていて、白目と黒目が反転している。目を逸らしたくなるような、見るに耐えない有り様なのに。
それなのに、彼は以前と何も変わらずセルマに接している。こんな姿になった自分を好きでいてくれるのは嬉しい。嬉しいけれど、彼がこの調子では離れがたくなってしまって困る。
「お腹は空いてない? 何か作ってもらおうか」
風呂を使い出てきたマルクスに尋ねられ、セルマは緩く首を横に振る。
「いいえ……。その……この姿になってから、空腹は感じないの……。多分、何も食べなくても平気なんだと思うわ……」
「それなら良かった……。君が空腹で辛い思いをせずに済んで、良かった」
マルクスは心から安堵したように微笑む。
食事を必要としないなんて、人間ではあり得ない。そんな変化を伝えても、彼はやはり動じない。包み込むように受け入れてしまう。
「私より、マルクスが何か食べた方がいいわ。こんなにやつれて……今まで、きちんと食事していなかったんでしょう……?」
「うん……。セルマが心配で、何も食べる気になれなくて……。倒れたら困るから、必要最低限の食事はしてたけど」
「お願い、ちゃんと食べて」
「わかったよ。でも今は、セルマと離れたくない。一緒に休もう」
彼の腕に包まれて、同じベッドに横になる。彼は決して離すまいと、セルマをしっかりと抱き締める。
彼の腕の中は酷く安心する。このままずっと、こうしていられたらいいのに。誰にも邪魔されず、彼とずっと二人きりでいられたら……どんなに幸せだろうか。
それが叶わないとわかっていながら、セルマは儚い夢を見る。
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