蘇り令嬢の幸せな結婚

よしゆき

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 セルマは良家に産まれた令嬢だ。そして彼女にはシーラという名の妹がいる。シーラはセルマの一つ年下の妹だ。
 セルマは真面目でしっかり者だった。そして妹は甘え上手な愛嬌たっぷりの少女だった。
 最初は両親も姉妹を平等に可愛がってくれていた。けれど徐々に、妹の方を特別に可愛がるようになっていった。
 シーラが欲しがる物は何でも買い与え、彼女の望む事も何でも叶えた。どんな我が儘を言っても言う通りになる。そう刷り込まれたシーラはどんどん我が儘を助長させていった。
 反対に、セルマは蔑ろにされていった。
 最初はそれでも気にしていなかったセルマだが、妹は姉のものに手を出すようになっていったのだ。 同じ色の服は着たくないと妹に言われ、セルマは自分で自由に服の色を選べなくなった。
 姉と同じぬいぐるみは嫌だと言われ、セルマは可愛い小動物のぬいぐるみを持てなくなった。
 自分は長い髪が好きだけど、同じは嫌だから姉は髪を短くしてと言われた。そしてセルマはずっと伸ばしていた長い髪を肩までバッサリ切った。
 悲しかったのは、両親が止めてくれなかった事だ。妹の我が儘を当然の事として受け入れて、セルマの気持ちなど一切聞いてくれなかった。
 そしてセルマもセルマで、既に諦めていた。服も、ぬいぐるみも髪型も、誕生日のケーキも本もアクセサリーも何もかも、自分の望むものを選べなくても。仕方のない事だと思い込み自分を納得させていた。
 そんなセルマの唯一の楽しみは、学校で古代魔法について調べる事だった。
 今でも引き継がれている魔法は多くあるが、今は使われていない、使えなくなってしまった古代魔法も存在する。
 どうして使えなくなってしまったのか、どうしたらまた使えるようになるのか。
 それを知りたい。
 セルマは学校を卒業したら古代魔法の研究をしたいと思っていた。だから今から出来る限りの知識を得ようと、放課後は毎日図書室に籠って古代魔法について書かれた専門書を読み、勉強していた。
 この時間がセルマにとって自分が望み自分で選んだ自分だけの生きがいだった。
 授業を終えたセルマはまっすぐ図書室に向かい、本棚から抜き出した数冊の本を持って奥の隅の席に座る。
 図書室は利用者が少なく、とても静かで集中できるのだ。いつも最終下校時間になるまでセルマはここで一人本を読む。
 しかし、今日はいつもと違った。

「君、古代魔法に興味があるの?」

 集中していたセルマは、その声が自分に向けられたものなのだとすぐには気づかなかった。
 ふと読んでいた本に影がさし、そこですぐ近くにある人の気配に気づく。顔を上げれば、同じ学校の男子生徒が机を挟んだ正面に立っている。
 セルマは彼を知っていた。学年は同じだが、クラスは違う。今まで話した事はない。けれど彼は有名人だった。家柄も良く成績優秀でスポーツ万能で、魔法にも秀でている。女子生徒の間ではまるで王子様のようだと囁かれるほどに整った容姿。
 廊下に貼り出されるテストの順位でも常に一位のところに書かれているので名前も覚えてしまった。
 マルクス・ダールグレン、それが彼の名だ。
 どうして彼がここにいて、自分に声をかけてきたのだろう。

「ごめんなさい、今、何て言いましたか? 集中していて、ちゃんと聞いていなくて……」
「ああ、こちらこそごめんね。突然声をかけて邪魔してしまって……。古代魔法に興味があるの? って訊いたんだ」

 利用者が少ないとはいえ、ここは図書室だ。二人は声量を抑えて言葉を交わす。

「ええ、はい。古代魔法に興味があって、色々本を読んで調べているんです」

 そう答えれば、彼はパッと顔を輝かせた。

「ほんと? 俺も古代魔法に興味があるんだ。昔は使えていた魔法がどうして使えなくなってしまったのか、その原因が何なのか。今使ってる魔法も、何百年後かには使えなくなるのかとか……そういうのが気になってて」

 説明する彼の瞳は生き生きしていた。彼はハッと我に返り、恥じ入るように頬を赤く染めた。

「あ、ごめんね……。今まで身近に古代魔法に興味がある人がいなかったから……自分と同じように調べている人がいて、嬉しくて」

 はにかむ彼に、セルマも小さく唇に笑みを乗せる。

「ええ。私も、はじめて会いました。だから、嬉しいです」

 顔を見合せ、微笑み合う。
 それが二人の出会いだった。
 それから、セルマは放課後に彼と一緒に過ごすようになった。約束しているわけではないが、放課後になると彼も図書室に来るようになったのだ。
 それぞれ古代魔法の本を読み、途中で気になった部分やわからないところがあれば相手に尋ねる。互いに自分の意見や考えを言い合い、知識を共有し理解を深めていく。
 真面目で基礎的なものの見方しかできないセルマにとって、彼の大胆で独創的な考え方はとても新鮮で驚かされる事が多い。
 そんな捉え方もあるのだと感心させられ、けれどおかしいと思った事はちゃんと指摘する。
 一人で専門書を読み込む時間も有意義で楽しかった。
 でもそれ以上に、マルクスと過ごす時間は刺激的で心が弾む。

「ダールグレンさん、少しいいですか? この部分なんですけど……」

 本を差し出しながら彼に声をかける。するとマルクスはじっとセルマを見つめてこう言った。

「……思っていたんだけど、どうして俺に敬語なの?」
「え……?」
「俺達、同学年なんだから敬語を使う必要なんてないよ」

 指摘されて、セルマは気づいた。自分は彼を自分と対等だと思っていないのだ。
 彼は生徒達が憧れるような完璧な存在なのだ。自分とは住む世界が違う。心のどこかでそんな風に感じていた。

「もっと普通に話してよ」
「は、はい…………うん」
「あと呼び方も。マルクスって呼んでよ」
「えっ……」
「俺もセルマって呼ぶから」

 ね? と有無を言わせぬ雰囲気で微笑まれ、勢いに押される形でセルマは頷いた。
 名前で呼び合うようになると、一気に距離が縮まった感覚がした。
 もちろん、実際に距離が近づくような事はない。彼とは放課後の数時間、古代魔法について話し合うだけの関係だ。
 それだけの関係を特別なものだと勘違いしてはいけない。
 わかっているのに、セルマの心はどんどん彼に惹かれていった。
 ちゃんと弁えているから大丈夫だと自分に言い聞かせ、マルクスとの関係を続けた。彼と過ごす時間が何よりも大切で尊いものになっていた。
 彼と特別な関係になれなくてもいい。ただ彼と二人きりのこのひとときが、少しでも長く続いてくれれば。それだけで十分だ。
 決して多くは望まなかった。それなのに、それすらもセルマは奪われた。

「お姉ちゃん!」

 放課後の図書室。いつものようにセルマとマルクスが同じ机で本を読んでいたら、妹が現れた。

「シーラ……?」

 セルマは呆然と妹を見た。彼女はニコニコと微笑んでいる。
 同じ学校に通ってはいるが、校内で彼女に声をかけられた事など今までなかった。廊下ですれ違っても、視線すら合わなかった。
 その妹が。これまで一度も図書室で姿を見た事もなかった彼女が、わざわざここへやって来て自分に声をかけてきた。
 嫌な予感に胸がざわめく。

「何読んでるの、お姉ちゃん?」
「え……ぁ……古代魔法の……本を……」

 二人のやり取りに、マルクスが本から顔を上げる。
 マルクスがシーラを見た。すると彼女は花が綻ぶように可愛らしい笑みを浮かべた。

「あ、うるさくしてごめんなさい……。私、セルマの妹のシーラっていいます」
「俺は、セルマと同学年のマルクス」
「ええっと、マルクス先輩も古代魔法の勉強を?」
「ああ。そうだよ」
「そうなんですね! 私も古代魔法に興味があるんです! よければ私も混ぜてもらえませんか?」

 そう言ってシーラはマルクスの隣の席に座る。

「マルクス先輩が読んでいる本、私にも見せてください」

 本を覗き込むようにしてシーラはマルクスに身を寄せる。
 言われなくてもわかった。妹の目的はマルクスなのだと。シーラは頻りに彼に声をかけ、とびきりの笑顔を振り撒いている。
 また奪われてしまうのか。
 その不安は的中し、妹は毎日図書室にやって来るようになった。マルクスと二人の時間は、彼と妹との三人の時間になってしまった。
 放課後の図書室に三人で集まるようになってから数日後、家の中でシーラはセルマに言った。

「ねぇ、少しは空気読んでよ」

 突然そう言われ、セルマは戸惑った。

「え……どういう、意味……?」
「だからぁ、私をマルクス先輩と二人きりにさせてよって事!」
「っ……え?」
「わかるでしょ? 私達、今いい感じなの。それなのにお姉ちゃんがいたら邪魔なのよ。それくらいわかってよ」

 苛立たしげに言われる。
「いい感じ」? そうなのだろうか。そうなのかもしれない。
 自分が疎くて気づかなかっただけで、マルクスもシーラと二人きりになりたいと思っているのかもしれない。
 翌日、放課後になってもセルマは図書室へは行かなかった。昼休みに本を借りて、それを自分の教室で読む事にした。
 誰もいなくなった教室で、自分の席につき、本を捲る。
 別に、マルクスと恋仲になりたいなんて思っていなかった。自分の気持ちを伝えるつもりもなかった。
 だから、いいのだ。彼と出会う前に戻っただけだ。
 それなのに、胸が痛くて、息が苦しい。
 二人だけのあの時間は、もう二度と手に入らない。
 そう思うと悲しくて、寂しくて、泣いてしまいそうだった。
 ただ、ほんの少しの時間彼と一緒に過ごせるだけで良かったのに。それすらも望んではいけなかったのか。望んでしまったからこんなに辛いのだ。
 でも、彼と出会わない方が良かったなんて思えない。あの時彼に声をかけてもらえて良かったと、心から思っている。
 彼との思い出だけは奪われない。彼と過ごした時間は確かにあって、それはちゃんと自分の中に残っている。
 だから、それでいい。
 今頃マルクスとシーラは何を話しているのだろう。マルクスは今、シーラだけを見て、彼女だけに微笑んで、彼女の事だけを考えているのだろうか。
 想像すると泣きたくなるのに、彼の事が頭から離れない。

「っ…………」

 涙が溢れそうになって、慌てて拭う。
 こんな状態では集中なんてできない。今日はもう家に帰ってしまおう。
 そう考えて立ち上がった時、教室のドアが開いた。

「セルマ……!」
「マルクス……?」

 現れたマルクスはセルマに駆け寄ってくる。

「よかった。ここにいたんだね」

 セルマの正面に立ち、彼はホッとしたように表情を緩めた。そんな彼を呆然と見上げる。

「どうして、ここに……?」
「どうして、は俺のセリフだよ。どうして図書室に来ないの?」
「それは……だって……シーラは? 彼女は図書室に来なかった?」
「来たよ」

 シーラの事などどうでもいいというようにさらりと言う。

「ねえセルマ、どうして図書室に来なかったの?」

 彼の表情は穏やかだ。それなのに、彼のまっすぐな視線に何故か責められているような感じがした。
 そんなわけない。だって、別に約束をしていたわけではない。だから、セルマが図書室に行かなくたって彼が怒るわけがない。彼がセルマを責める理由などないはずだ。

「俺と一緒に勉強するの、嫌だった? セルマは一人の方が良かった……?」
「そんなっ……そんなわけない……」

 大きくかぶりを振って否定する。嫌なわけがない。寧ろ、ずっと彼と一緒に勉強していたいとそう思っていた。
 でも、そう思っているのは自分だけで、彼は違う。
 セルマは目を伏せ、口を開く。

「……マルクスは…………」
「うん?」
「マルクスは、シーラと二人きりになりたいと、思って……」
「え……?」
「あの、私、ごめんなさい、鈍くて……今まで、気が利かなくて……もっと早く、こうするべきだったのに……」
「何を言ってるの? どうしてそんな事を言うの?」

 両肩を掴まれて、思わず目線を上げる。彼の表情にドキリとする。真剣で、とても苦しそうな。切なげな彼の双眸がまっすぐにこちらに向けられていた。

「俺は、セルマの妹と二人きりになりたいなんて思ってないよ」
「で、でも……シーラは…………シーラが……」
「俺が毎日図書室に行っていたのは、君に会いたかったからだよ、セルマ」
「っ…………」
「君と、古代魔法について話し合うのが楽しかったから。セルマの顔が見たくて、君の声が聞きたくて、もっともっと君と一緒の時間を過ごしたくて……君がいたから、毎日図書室に通っていたんだよ」

 セルマははく……と声もなく喘ぐように口を開閉する。顔が熱くて、頭がくらくらして、胸が締め付けられて、言葉が出てこない。

「好きだよ、セルマ。俺は、君の事が大好きなんだ」
「っ、っ……」

 こちらを見つめるマルクスの瞳は蕩けるように甘く、そして強い熱を帯びていた。
 何かを言おうとして、でもシーラの顔が脳裏を過った。
 全て妹に奪われてきた。今までそれを諦めてきた。別にそれでいいと思っていた。
 でも、彼だけは──。
 マルクスだけは、譲れない。誰にも渡したくない。
 だからセルマは震える声を絞り出した。

「私も……っ」

 そっと彼に手を伸ばす。

「マルクスが、好き……」

 伸ばした手を彼に握られた。

「ほんと、セルマ?」
「ええ……」

 じっと見つめられ、恥じらいながらも頷く。するとマルクスは弾けるように微笑んだ。

「ああ、セルマ……っ」
「きゃっ」

 突然ぎゅと抱き締められ、セルマは驚きと恥ずかしさに身を固くする。

「嬉しい、セルマ……っ。君も俺と同じ気持ちだったなんて……すごく嬉しいよ」

 マルクスは感嘆の声を漏らす。
 セルマも彼と同じように思っていた。まさか彼が自分を好きでいてくれたなんて。信じられなくて、でも嬉しくて堪らない。

「私も嬉しいわ、マルクス……」

 気持ちを伝えたくて、ぎこちなくも彼の背中に手を回す。すると更に強く抱き締められた。
 幸せだった。こんな奇跡のような事が起こるなんて、想像もしていなかった。
 それから二人は愛を育んでいった。放課後だけでなく沢山の時間を一緒に過ごした。いっぱい話して、笑い合って、思い出を増やしていった。
 そしてセルマは学校を卒業したら結婚しようとマルクスに言われ、それを受け入れた。
 ずっと一緒にいようと誓い合った。
 思えばこの時がセルマの幸せの絶頂だったのかもしれない。
 卒業を間近に控えたある日の事だった。セルマはシーラに連れられ森の中を歩いていた。
 シーラに頼まれたのだ。恋人からプレゼントされたハンカチを失くしてしまったので一緒に探してほしいと。
 マルクスと恋人になってから、シーラにはずっと無視されていた。
 けれどマルクスとの婚約を両親に報告する時、一緒に聞いていた彼女は笑顔で祝福してくれたのだ。 それを不思議に思っていたが、恋人ができたのなら納得だ。シーラは既にマルクスへの思いを諦め、新しい恋をはじめていたのだ。
 正直、彼女が今までのように我が儘を発揮して両親にセルマとマルクスの婚約を認めさせないようにするのではないかと心配していた。けれど、彼女にもう別に好きな人がいるのならば安心だ。
 密かに胸を撫で下ろし、妹の助けになるべく森の中で失くしたというハンカチをセルマは探す。
 シーラの話を疑わず、セルマは森の中で彼女と二人きりになる事に何の警戒心も抱いていなかった。
 だから、彼女に誘導されるままに足を進め、そしてあっさりと崖から突き落とされた。
 何が起きたのかわからないまま、セルマは下へ落ちていく。ガツン、ガツンとあちこち体をぶつけながら、ただ落ちていく。
 強い衝撃と共に漸く体が止まった。同時に、激しい痛みが全身を襲う。
 地面に転がったまま、起き上がる事もできない。声も出せない。
 ぬるりと生温い感触が指に触れた。これは自分の血だと、セルマはぼんやり理解する。
 落ちる時、岩肌に強く頭をぶつけた。きっとその傷から血が出ているのだ。
 ドクドクと血が流れていく。赤色が地面に広がっていく。
 このままでは死んでしまうと思った。助けを呼ばなくては。でも、指一本動かせない、声も出せないこの状況でそんな事不可能だ。
 助けてもらえなければ、確実に死ぬ。
 徐々に冷えていく体に、ゾッとした。
 駄目だ。嫌だ。死にたくない。
 だって、約束した。学校を卒業したらマルクスと結婚するのだ。ずっと一緒にいると、そう言ったのに。
 嫌だ。こんなところで。彼に知られる事なく、一人で命を落とすなんて。

「やだ、まだ生きてるのね。ほんっと、図々しくてしぶといわね」

 シーラの声が聞こえた。

「言っとくけど、お姉ちゃんが悪いんだからね。私からマルクス先輩を取るから」

 言いながら、シーラはセルマの腕を掴み乱暴に体を引き摺る。腕が千切れるのではないかと思うくらい痛いのに、もう悲鳴を上げる事もできない。抵抗すらかなわないまま、彼女に地面を引き摺られていく。

「お姉ちゃんよりずっと、私の方がマルクス先輩とお似合いなのに。どうして私を差し置いてお姉ちゃんがマルクス先輩と付き合うのよっ……。それどころか婚約までするなんてっ……。冗談じゃないわよっ……私がマルクス先輩と結婚するって決めてたのにっ……何でお姉ちゃんなんかに取られなきゃならないのよっ……マルクス先輩もマルクス先輩よっ、私があんなにアプローチしてるのに、よりによってお姉ちゃんなんかを選ぶなんて……信じらんない、信じらんないっ……許さない、絶対許さないからっ……幸せになんてさせないっ……」

 シーラははあっはあっと息を荒げ、呪詛のように恨み言を口にしている。
 彼女は吹っ切れたのだと思っていた。でもそれは違った。寧ろセルマへの憎しみを募らせていた。
 恋人もいない。ハンカチを失くしたという話も嘘だったのだ。
 朦朧とする頭でその事実に気づいた。でも、今更気づいたところでもう遅い。

「でもね、簡単な事だったのよねっ……お姉ちゃんがいなくなればいいんだものっ……そうすれば、邪魔者は消えて、マルクス先輩は私のものになるっ……私がマルクス先輩と結婚できるのっ……だからね、お姉ちゃん、私の為に、死んでね……っ」
「っ……!?」

 放り投げるように体を引っ張られた。それからバチャンッという水音。そして自分の体が水の中に落ちていく。
 ここは森の中にある湖だ。妹はそこに自分を投げ捨てたのだ。
 苦しい。息ができない。けれどもう、もがく気力も残っていない。水は震えるほど冷たく、体が一気に冷えていく。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
 マルクス、マルクスに会いたい。
 彼の笑顔が見たい。彼の声が聞きたい。
 結婚しよう、そう言ってくれた時の彼の顔を思い出す。照れ臭そうに頬を染めて、でも瞳は真剣で、顔は緊張していた。
 セルマがそれを受け入れれば、彼は本当に嬉しそうに微笑んだ。幸せに満ちた彼の笑顔に、セルマも泣きたいくらい嬉しくなった。
 これからもずっと一緒にいようと、そう言って抱き締め合い、口づけを交わした。
 ずっと一緒にいると、言ったのに。結婚すると約束したのに。
 それなのに自分は、彼を置いて死ぬのか。約束を果たさず、彼を一人にして死ぬのか。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
 しかしセルマの意志とは反対に、体はどんどん死に向かっていく。
 それでもセルマはただひたすらに、意識が途切れるその瞬間まで、死にたくないと強く強く願い続けた。




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