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第五章:公女の戦い
閑話:公国宰相は夢を見ない
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――ヴァルド・レヴァンティス
夜半。
公都の政庁塔、その最上階の執務室に、銀燭だけが淡い光を落としている。
山のように積まれた資料――帝国属州の徴税報告、南部連邦との接続回廊案、学院卒業予定者の適性評価。
ヴァルド・レヴァンティスは一枚ずつ目を走らせ、インクで細かな注釈を挟んでは無言で次の束へと手を伸ばした。
扉の向こうは深い闇。
衛兵も眠ったこの時間帯、彼だけが“国家”という幻の灯を守っている。
それは本人にとって、もはや苦ではなかった。――感情の空白に、ただ職務を流し込むだけの作業。
生家。
公国屈指の名門、レヴァンティス侯爵家。その長子として生まれた瞬間、役割と責務は決まっていた。
*貴族は領民を導き、国に殉ずる。己の意志は余白に封じよ*――祖父の石のような声が、いまだに耳の奥で反響する。
十歳で政務学、十三で武芸、十五で帝都大学に留学。
だが帝都で目にしたのは、賄賂と虚栄と、底知れぬ退廃だった。
人は正義を語りながら裏切り、崇高を唱えながら私腹を肥やす。
――そんな世界で、自分の“心”など、早い段階で死んでいた。
空白で十分だ。忠誠は演技で足りる。
唯一、揺らぎを覚えたのは、友と呼べた先輩官僚が粛清されたときだ。
〈改革〉を提言した罪。
理想を掲げた者は、必ず理想で殺される。
それを目の当たりにした日から、ヴァルドは「夢想」を自ら禁じた。
――そして現在。
扉の向こうで、乾いた足音が止まった。
「起きているのか、ヴァルド」
かすれた声。
振り返ると、加賀谷零が袖をまくったまま立っていた。
先日の演説の熱をまだ残したままの瞳。だが、その奥に潜む疲労は隠し切れていない。
「ご就寝の時間はとうに過ぎております。お体が――」
「寝ろと言いたいなら代わりに書類を片付けてくれ。……俺は不器用でね」
冗談めかした声。だがその手は震えていた。
ヴァルドは席を立ち、棚から蒸留酒を取り出す。琥珀の液体がグラスに満ちるまで、主と一歩の距離も詰めない。
「……一杯、どうぞ」
加賀谷は受け取り、窓辺に寄りかかった。
夜霧にかすむヴェステラの灯が、琥珀の表面で滲む。
「演説、“柄じゃない”って顔してただろ?」
「ええ、少々。“人を煽るのは得意じゃない”と仰っていたのに、実際は誰より雄弁でしたね」
「……必要だからやっただけさ」
そう言って飲み干すと、加賀谷は静かに笑った。
理想という劇を演じ切った男の笑み。それは称賛でも自嘲でもない、“ただ在る”だけの表情だった。
胸の内が、わずかに熱を帯びる。
ヴァルドは自覚する――これは“羨望”に似ている、と。
なぜこの男は、あれほど純粋な熱を保てる?
なぜ理想を語りながら、現実に背を向けない?
空白しか持たぬ自分の中に、かつてない感情が芽吹く。
それは敬意でも、友情でも、恋情でもない。
ただ一つ、“追随したい”という渇望。
「お前は変わらないな、ヴァルド。驚くほど顔色を崩さない」
「空っぽなだけです。喜びも悲しみも、政務からは邪魔者ですので」
「空っぽか……いいや、違う」
加賀谷は空になったグラスを小さく鳴らし、ヴァルドをまっすぐに見据えた。
「空っぽの器は、どんな水も受け止められる。俺にはない強さだ」
心臓がわずかに跳ねる。
――認められた。空洞を、欠落を、価値として。
「俺には“綺麗事を嘘で固める覚悟”が要る。役者だよ。……だが、舞台を支える裏方がいなけりゃ、芝居は崩れる」
「ヴァルド、お前はその支柱だ。嘘を嘘として支えてくれる、唯一無二の柱」
ヴァルド・レヴァンティスは初めて理解した。
空白が、役割に変わる瞬間を。
「……ならば、その柱に見合う重荷を、どうかお授けください」
わずかに震える声。己の胸の奥が動いたことを悟りながら、ヴァルドは静かに頭を下げた。
加賀谷は苦笑し、小さく肩をすくめる。
「堅苦しいな。頼みごとをする顔じゃないだろ、それ」
「生来こういう性分でして」
「まあいい。学院の件──優秀な芽は全部拾い上げてほしい。俺一人じゃ手が回らない」
ヴァルドは目を細め、微かに笑う。
「承りました。若木を見定め、貴方の構想に耐えうる幹へと育てます。次の舞台を担う役者として」
「ああ。――ただし覚悟しておけよ。民には優しく、幹部には厳しくいく。本気で働いてもらう」
「重々、承知しております」
軽口に軽口で返しながらも、二人の目には同じ灯が揺れていた。
その一言に、高ぶる熱が膨らむ。
空洞だったはずの胸に、確かな火が灯る音がした。
忠誠は演技でも、虚構でもいい。
だが、その虚構を真実に変える脚本家がいるなら――この生は捧げるに値する。
ヴァルドは静かに微笑んだ。
夢を見ない男が、初めて“未来”という夢を選んだ夜だった。
◆あとがき◆
毎日 夜21時に5話ずつ更新予定です!
更新の励みになりますので、
いいね&お気に入り登録していただけると本当にうれしいです!
今後も読みやすく、テンポよく、そして楽しい。
そんな物語を目指して更新していきますので、引き続きよろしくお願いいたします!
夜半。
公都の政庁塔、その最上階の執務室に、銀燭だけが淡い光を落としている。
山のように積まれた資料――帝国属州の徴税報告、南部連邦との接続回廊案、学院卒業予定者の適性評価。
ヴァルド・レヴァンティスは一枚ずつ目を走らせ、インクで細かな注釈を挟んでは無言で次の束へと手を伸ばした。
扉の向こうは深い闇。
衛兵も眠ったこの時間帯、彼だけが“国家”という幻の灯を守っている。
それは本人にとって、もはや苦ではなかった。――感情の空白に、ただ職務を流し込むだけの作業。
生家。
公国屈指の名門、レヴァンティス侯爵家。その長子として生まれた瞬間、役割と責務は決まっていた。
*貴族は領民を導き、国に殉ずる。己の意志は余白に封じよ*――祖父の石のような声が、いまだに耳の奥で反響する。
十歳で政務学、十三で武芸、十五で帝都大学に留学。
だが帝都で目にしたのは、賄賂と虚栄と、底知れぬ退廃だった。
人は正義を語りながら裏切り、崇高を唱えながら私腹を肥やす。
――そんな世界で、自分の“心”など、早い段階で死んでいた。
空白で十分だ。忠誠は演技で足りる。
唯一、揺らぎを覚えたのは、友と呼べた先輩官僚が粛清されたときだ。
〈改革〉を提言した罪。
理想を掲げた者は、必ず理想で殺される。
それを目の当たりにした日から、ヴァルドは「夢想」を自ら禁じた。
――そして現在。
扉の向こうで、乾いた足音が止まった。
「起きているのか、ヴァルド」
かすれた声。
振り返ると、加賀谷零が袖をまくったまま立っていた。
先日の演説の熱をまだ残したままの瞳。だが、その奥に潜む疲労は隠し切れていない。
「ご就寝の時間はとうに過ぎております。お体が――」
「寝ろと言いたいなら代わりに書類を片付けてくれ。……俺は不器用でね」
冗談めかした声。だがその手は震えていた。
ヴァルドは席を立ち、棚から蒸留酒を取り出す。琥珀の液体がグラスに満ちるまで、主と一歩の距離も詰めない。
「……一杯、どうぞ」
加賀谷は受け取り、窓辺に寄りかかった。
夜霧にかすむヴェステラの灯が、琥珀の表面で滲む。
「演説、“柄じゃない”って顔してただろ?」
「ええ、少々。“人を煽るのは得意じゃない”と仰っていたのに、実際は誰より雄弁でしたね」
「……必要だからやっただけさ」
そう言って飲み干すと、加賀谷は静かに笑った。
理想という劇を演じ切った男の笑み。それは称賛でも自嘲でもない、“ただ在る”だけの表情だった。
胸の内が、わずかに熱を帯びる。
ヴァルドは自覚する――これは“羨望”に似ている、と。
なぜこの男は、あれほど純粋な熱を保てる?
なぜ理想を語りながら、現実に背を向けない?
空白しか持たぬ自分の中に、かつてない感情が芽吹く。
それは敬意でも、友情でも、恋情でもない。
ただ一つ、“追随したい”という渇望。
「お前は変わらないな、ヴァルド。驚くほど顔色を崩さない」
「空っぽなだけです。喜びも悲しみも、政務からは邪魔者ですので」
「空っぽか……いいや、違う」
加賀谷は空になったグラスを小さく鳴らし、ヴァルドをまっすぐに見据えた。
「空っぽの器は、どんな水も受け止められる。俺にはない強さだ」
心臓がわずかに跳ねる。
――認められた。空洞を、欠落を、価値として。
「俺には“綺麗事を嘘で固める覚悟”が要る。役者だよ。……だが、舞台を支える裏方がいなけりゃ、芝居は崩れる」
「ヴァルド、お前はその支柱だ。嘘を嘘として支えてくれる、唯一無二の柱」
ヴァルド・レヴァンティスは初めて理解した。
空白が、役割に変わる瞬間を。
「……ならば、その柱に見合う重荷を、どうかお授けください」
わずかに震える声。己の胸の奥が動いたことを悟りながら、ヴァルドは静かに頭を下げた。
加賀谷は苦笑し、小さく肩をすくめる。
「堅苦しいな。頼みごとをする顔じゃないだろ、それ」
「生来こういう性分でして」
「まあいい。学院の件──優秀な芽は全部拾い上げてほしい。俺一人じゃ手が回らない」
ヴァルドは目を細め、微かに笑う。
「承りました。若木を見定め、貴方の構想に耐えうる幹へと育てます。次の舞台を担う役者として」
「ああ。――ただし覚悟しておけよ。民には優しく、幹部には厳しくいく。本気で働いてもらう」
「重々、承知しております」
軽口に軽口で返しながらも、二人の目には同じ灯が揺れていた。
その一言に、高ぶる熱が膨らむ。
空洞だったはずの胸に、確かな火が灯る音がした。
忠誠は演技でも、虚構でもいい。
だが、その虚構を真実に変える脚本家がいるなら――この生は捧げるに値する。
ヴァルドは静かに微笑んだ。
夢を見ない男が、初めて“未来”という夢を選んだ夜だった。
◆あとがき◆
毎日 夜21時に5話ずつ更新予定です!
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