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踏んだり蹴ったり
しおりを挟む俺は寒さで目を覚ました。布団にくるまったまま、首をねじ曲げて窓の外を見ると、濃い紺色の空が広がっていた。時計の針は午前5時半を指していた。
どんなに衝撃的なことがあっても世界には平等に朝がやって来る。それが億劫に思えるほど、瞼が重い。
何時に眠りについたのかは分からない。しかし頭に薄い霧がかかったような感覚は、確実に寝不足を訴えている。
思考は輪郭を失い、意識はどこか遠く、現実だけが少し遅れて届く。瞬きをするたび眠気が重くのしかかり、気を抜けば意識が沈みそうになる。
はっきりしないままの頭で、このままもう一度眠りたいと思ったはずなのに、体は正反対の行動を起こした。
寝惚けた頭で俺はベッドから起き上がり、ピートを起こさないようにそっと寝巻きから普段着へと着替える。
厚手のマントをしっかりと羽織り、手には長兄のお嫁さんが編んでくれたニットの手袋をはめる。
泥棒にでもなった気分で忍び足を使い、部屋から冷えきった廊下へと出る。限りなく音を出さないよう注意しながら扉を閉めて鍵をかけると、張りつめていた神経が緩んだ。
まだ眠りから覚めない寮の廊下は当たり前だが人気はなく、ひっそりとしている。部屋の中よりも冷えた空気は体の内側から凍えるような寒さで、こんな極寒の中、外に出ようとしている自分の愚かさを恨んだ。
なぜ突然、まだ眠りにつける時間を置き去りにしてでも外に出ようと思ったのか、自分でも分からない。ただ、無性に外を歩きたい気分だった。
歩いているうちに、昨夜止まってしまった思考が動き出すと思ったのかもしれない。衝撃を寒さで和らげようと思ったのかもしれない。
今の俺は、頭と体と心がバラバラの状態にある。それを統一したかったのかもしれない。
寮の外に出て、まだ夜の名残を抱えた冬の朝の中をひとり歩く。星も月もまだ存在を主張している。吐く息は白く、足元の空気はきんと張りつめていた。
学園は眠ったままで、聞こえるのは自分の足音と、遠くで鳴くかすかな鳥の声だけ。非常灯の下を通るたび、影が長く伸びては消える。
凍えるほど静かなこの時間だけが、俺を正直な姿に戻そうとしているようだった。
フィリオン様がいつか女性と結婚することなど、彼に恋をしたときから分かっていた。それなのにどうして俺はこんなにもショックを受けているのか。歩きながらその答えを探している俺を、白い月がどこまでも追ってくる。
マントに顔の半分まで埋めながら無心で歩く俺の足は、自然とフクロウのチロがいる場所へと向かっていた。
しかしこの時間では石壁の外には出られない。鉄柵の前にいる門番が通してはくれないだろう。
俺は石壁に沿うように歩き続けた。膨大な土地の学園内をぐるりと囲む石壁を歩いているうちに、紺色の空は様相を変えていく。星は一つ、また一つと空の中に溶け込み、闇はゆっくりと薄れていく。
やがて東の端がわずかに白み、夜と朝の境界が曖昧になる。冷たい空気の中で、光だけが先に目を覚ましたようだった。
気づけば空は眠りを終えた色をまとい、鮮やかな朝へと名を変えていく。その頃には、俺の中で疑問の答えが形になっていた。
分かっていたはずなのに、とうに覚悟など出来ていたはずなのに、"フィリオン様の婚約者"の何があんなにも俺にショックを与えたのか。
それは、"彼自身が選んだ婚約者"だと突き付けられたからだ。
彼の父親が望む条件すべてを満たした女性を、彼自身が探しだし、彼のそばへと呼び寄せる。その事実が俺には受け入れられないのだ。
フィリオン様が選んだ公爵家のご令嬢なのだから、きっと素晴らしい知能と素敵な容姿をお持ちなのだろう。
その女性を彼の父親があてがい、彼女と結婚するよう命じていたのなら、俺の受け取り方も違っただろう。
仕方がないことだと、いずれそうなると分かっていたことだと、うまく呑み込めたはずだ。でもそうじゃない。
この人を妻にしたい、彼がそう思ったのかもしれないという事実がひどく重く胸にのしかかっている。体の奥を、雑巾を絞るようにひねられているみたいだ。
「フィリオン様…好きです…」
胸の痛みをどうにかしてみたくて、ぽろりと溢れた誰に聞かせるでもない言葉。好きって口に出すだけで、気持ちが何倍にも膨らんだ気がして後悔する。余計に痛みが増しただけだった。
冷たい空気にさらされ続けた足は、感覚が鈍くなり、やがて痛みを訴え始める。一歩踏み出すたび、ブーツの中で疲労がじわじわと広がっていくのがわかった。
それでも立ち止まれず、白い息を吐きながら前へ進む。凍えた朝の静けさの中で、足の痛みだけが確かに自分が生きている証のように響いていた。
そろそろ光に導かれて寮が目覚める頃だ。俺は石壁のそばから離れ、寮の方向へと靴先を向ける。
冬の朝の寒さは俺の体の芯、奥深くまで凍えさせた。早く暖炉の熱で温まらなければ、間違いなく風邪をひく気がする。
くしゅん、とくしゃみが漏れ、ずびっと鼻をすする。それは予感を確かなものにしようとしていた。
寮の前まで戻ってくる頃には凍えた足先はじんじんと激しく痛みを訴え、ふくらはぎは重さを増していた。
部屋がある3階までの階段を痛む足で上る。この時間帯は太い紐を引っ張ることで動く箱には乗れない。紐を動かす人がまだ起きていないから。
基礎学年のうちは1階だった寮部屋も4年になってからは3階へと変わった。階段を上り下りする動作のことだけを考えると、1階のままが良かったなと思わずにはいられない。
部屋の前に着き、鍵を開けようとマントのポケットに手を差し込んで金属の感触を探す。しかしあるはずの冷たさがいくら手を動かしてもやって来ず、焦りがじわじわと押し寄せてくる。
ポケットの裏地を外に出してひっくり返しみても、あるはずのないズボンのポケットの中まで探してみても、部屋の鍵はどこにも見つからない。
鍵をどこかで落とした、と察したとき、サーッと顔から血の気が引いていくのがよく分かった。寝不足、寒さ、疲労の上に絶望が重なる。目覚めてからの自分の突拍子もない行動を、心底恨むしかなかった。
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