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夢を掴み、失恋する
ランプ一つの灯りしかない薄闇の中、机の輪郭やベッドの影がぼんやりと浮かび上がる部屋にフィリオン様がいる光景は、いまだに違和感を感じる。
貴族の彼と、平民の俺。生まれも立場も違いすぎて、同じ世界に立っているとは思えなかった。
彼の屋敷で働く家令になるなど、遠い空に浮かぶ夢でしかなく、口にすることさえためらい、ずっと自分の中だけで大切に育ててきたものだった。
この部屋の机もベッドも、フィリオン様の部屋と比べたらさぞちっぽけなものだろう。
俺と彼とでは埋めようのない大きな大きな距離があったはずで、あの日遅刻してあの場で出会っていなければ、一生交わることのない道だった。
それがこんな最高の形で交わることになり、未来の約束まで取り付けたことに深い感動で視界が滲む。
しかし夢を叶えることがゴールではなく、ここからがスタートなのだからしっかりしなければ。浮かれている場合じゃない。
彼から正式に家令になることを認められたのなら、それに相応しい家令になれるよう、これからさらに必死に勉強するのだ。
「ふふ、瞳が潤んでいるね。紺色の瞳は今の冬の夜のようで美しい。毎日この色を見つめられる日々が待ち遠しいよ」
「…っ!お、俺も、早くフィリオン様の家令に相応しい人間になれるよう、精一杯頑張ります!」
「頼もしいね。でもあまり頑張りすぎないように。ロランはたびたび寝不足になるほど勉強しているようだから心配だ」
「いえ、足りないくらいです…あの、フィリオン様」
「どうしたんだい?」
彼の家令になる約束を取り付けた今、気持ちが少し大きくなっている。そのせいか、今までは失礼だと思って聞けなかった、彼の様々なことについて聞きたいという欲が芽生える。
今一番聞きたいのは、年越しパーティーのことだ。ヒューゴ・ファレルから聞いたことが真実なのかどうか、確かめたい。
言い淀む俺の言葉を優しく引き出すように、彼の掌が俺の頭を撫でる。その体温に勇気をもらい、思いきって口を開いた。
「あ、あの!今年の年越しパーティーに参加される理由がフィリオン様の婚約者を探すためだというのは、本当ですか!?」
勢いよく口から言葉が飛び出た瞬間、俺の頭を撫でていた彼の手がピタリと止まった。空気が変わったのを肌で感じる。
夜が静かに俺たちを取り巻いていたのに、一瞬にして形を変え、重さを含んだように感じた。
「……それは、誰から聞いたんだい?」
喉の奥から絞り出すような、低く沈んだ声。抑え込まれた怒りが音に混じり、空気を重く震わせる。
叫ぶわけでも、声を荒げるわけでもない。それなのに、その一言だけで、部屋の温度が一気に下がった。本当の怒りとは、こうして静かに滲み出るものなのだと、思い知らされる。
いつでも誰にでも優しい彼の初めて聞く怒りを含んだ声に大きく動揺し、鼓動は嫌な音をたて始めた。
「あ、あのっ…し、失礼致しました…!変なことを聞いてしまって…」
「答えになっていないよ。誰から聞いたんだ、と聞いているんだ。怒らないから言ってごらん?まぁ、予想はついているけど信じたくなくてね―――君が、私の忠告を無視したなんて」
声は穏やかさを取り戻した。けれど、その静けさの奥に、確かな怒りが沈んでいるのがはっきりと分かる。
責める言葉は選ばれ、音量も抑えられている。それでも、一つ一つの言葉が重く、逃げ場なく胸に届いた。優しい人だからこそ、その静かな怒りは何よりも強く心に伝わってくる。
「ヒューゴ・ファレルから聞いたのだろう?その情報を知り得る人間は限られているからね。君の耳に入る可能性があるとしたらあいつしかいない。彼といつ会ったんだい?何を聞かされたんだい?」
「ぅ、あ、も、申し訳ありません…本当に…」
「ロラン、私は君に正直に話してほしいだけなんだよ。将来私の家令になってくれるんだろう?家令が主人に隠し事をしたり嘘をつくなんてあり得ないと思わないかい?」
「お、おっしゃる通りでございます」
「ならば、話してくれるね?」
声色はひどく優しいのに、言葉の圧は強かった。一語一句が逃げ道を塞ぐように正確で、こちらの言い訳を許さない重みがある。
優しさに包まれたその言葉の圧が、忍び寄るように胸に迫ってきた。
逃げられない、そう感じた俺は正直にヒューゴ・ファレルとの昼間の会話を話した。とある部分をのぞいて。
緊張と恐れの表情を浮かべているであろう俺が辿々しく、言葉をつっかえながら話し終えると、彼はうっそりと微笑む。その種類の笑みは、初めて見るものだと思った。
「私の婚約者候補が学園内に見つからなければ私が留学するかもしれない、ねぇ…?それを純粋なロランは鵜呑みにしてしまったんだね」
「や、やっぱり俺はあの男に騙されていたんですか!?そんな事実はないのですか!?」
「いや、彼の推測は一理あるよ。確かに私は婚約者候補を探すために今年の年越しパーティーに出席する。それがお父様からの命令だから。条件に見合う人が見つからなければ留学させらる可能性も十分あり得るだろうね」
「そ、そんな…」
「でも安心して。そんなことには絶対にならない」
「…なぜですか?」
気分が沈みそうになる俺を引き上げるように、彼は垂れた目を細めて俺を見つめる。涙黒子が、わずかに揺れた。
「もう婚約者候補は決まっているんだ。彼女は近々、この学園に転入してくる」
「え……」
―――世界の音が一瞬、遠のいた。
胸の奥に落ちた衝撃が、遅れて全身に広がっていく。
笑おうとしたのに、うまく顔の筋肉が動かせない。
「お父様は最初から私を留学させるつもりでいたんだ。今の学園内に条件に合う女子生徒がいないことも最初から分かっていて、あの命令を出したんだよ。私は留学などしたくない。する必要がないと思っている。だから先手を打ったんだ」
衝撃を受けている自分に、衝撃を受けた。そして気付く。
俺はどこかで、伯爵家現当主の望む条件の女性がいなければ、フィリオン様は誰とも結婚しないと思い込んでいたのだと。いつか結婚するとしても、まだまだ先の話なのだと。
そう無意識に勝手に思い込み、恋心を捨てるつもりでいながら、心のどこかで安心していたのだ。
誰にでも優しい彼に、特別な人は、出来ないと。
「侯爵令息のダンスパートナーを承諾したのも一時的なものだ。パーティーで私は転入してくる彼女と踊ることになるだろう」
「……その女性は、身分の高いお方なのですね」
「隣国からやって来る公爵令嬢だ。身分も容姿も知能もお父様が文句をつけられないほどには申し分ないと思っている。彼女の家から正式に婚約の打診が年明けあたりに伯爵家に届く予定だ。そうすればお父様も留学の話は諦めるだろう」
「お、おめでとうございます…!」
「ありがとう。私が留学などしている間に君をほかの誰かの家令にされたらたまったものじゃないからね。私たちが離れることはないよ」
かろうじて祝言を述べられた自分を褒めたい。無理やり笑顔をつくる頬の筋肉が引き攣っている。
「君は私の家族になるも同然なのだから、彼女が転入してきたら真っ先に紹介するよ。長い年月を同じ屋敷で共に過ごすことになるのだからね」
オレンジ色のランプに照らされる麗しいご尊顔をぼんやりと見つめる。彼の声がぼやけて聞こえる。それでも俺はどうにか笑顔でやり過ごしたようだ。
気付けば、部屋にいたフィリオン様の姿はピートへと変わっていた。彼との別れ際、何か大事なことを言われた気がするのに記憶がぼんやりとしている。ピートとおやすみの挨拶をしたのかどうかも覚えていない。
背中に感じるベッドの感触だけが現実で、視線は虚ろに天井をなぞっている。
考えようとしても、思考は途中で途切れ、ただくすんだ天井だけが目に映った。
胸の奥に落ちた衝撃が、まだ形を持たないまま沈んでいる。瞬きすら忘れ、呆然としたまま夜だけが静かに過ぎていく。
一日の終わりに残った思考だけが冴えていて、天井を見つめながら、眠りに落ちる瞬間を待つ。
夢が叶ったはずの今日、俺は正しく失恋した。
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