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店を辞めて、晴臣の元から逃げ出してから数か月の後、亜季は小さな男の子を一人で産んだ。
産科の医師に「父親は?」と尋ねられ、「わかりません……」と答えて、訝しげな視線を向けられる。
「本当に?」
「はい……」
そんなやり取りを経て、逃げた先の小さな町の小さな病院で亜季は初めて親子健康手帳をもらった。
窓の外では夏の終わりを告げるように蝉が大きな声で鳴いている。
青い空の明るい陽射しは窓の中には入ってこない、薄暗い診察室。
一人で産む初めての赤ちゃんに胸は不安でいっぱいだった。
産まないわけにはいかない。そんな負の感情ではなく、亜季はいけないことだとはわかっていたが、子どもは産みたいと心の底から望んでいた。
でも、どうしたらいいのかわからないことばかりだ。
「病院に来てくれてよかったよ。男性オメガの出産は帝王切開が多いから……」
「それは……」
「自然分娩……、女性のように産道を通って自然に赤ちゃんを産むことは男性オメガにはできない」
それを聞いて、オメガはつくづく不自然な存在なのだと亜季は思った。
「お金がかかるよ?」
「大丈夫……です」
お金は余るほどはなかったが、聞けば入院費用くらいは支払えそうだった。
身重の体で雇ってくれるような奇特なところはどこもなく、亜季は貯金を切り崩して生活した。
亜季は働いていた二年間、特に使う理由もなかったので稼いだ金額はすべて銀行に漫然と預けられていた。
騙されて働き始めたが、いい店だったのだろう──。
何も知らない、高校を卒業したばかりの世間知らずであった亜季にオーナーやナミは様々なことを教えてくれて、生活の基盤を整えてくれた。
あのとき、声をかけてきたのはハルではなく、もっと別のスカウトだったら、亜季はこのように突然店を辞めることも、当面生活ができるほどの蓄えを残すこともできなかったかもしれない。
道端の桜が散り始め、人々の出会いと別れの季節に生まれた男の子。
出生届の父親の欄は空欄で提出した。
まだ赤ちゃんなのに、切れ長の黒い瞳は晴臣に似ていた。くるくると自然に巻くくせっ毛は自分に似ている。
小さい手をぎゅっと握り締める。
望まれない子供だとしても希望を諦めず志してほしいという気持ちを込めて、志希と名付けた。
「あ……あぅう……」
「志希……」
赤ん坊のつぶらな瞳を愛おしそうに見つめ、抱きしめる。
可愛い赤ちゃん。自分の唯一の家族。
大切に育てようと、望まれていないなどとこの子が思わぬように、愛情をいっぱいに注ごうと亜季は誓った。
子供が産まれてから、貧しいながらも幸せだった。
お店で稼いだお金は病院の通院や出産費用で随分と使ってしまったが、しばらくは生活が出来た。でも、いつまでも働かないわけにはいかない。
それなのに、番のいない亜季は出産後、発情期がまたくるようになり仕事をするのもままならなかった。
少なくとも三、四日、長ければそれ以上の日を、発情期で疼く体を騙してやり過ごす。
抑制剤は亜季にはあまり効果がない。だが、それでもないよりはましだと買うものの、その費用も馬鹿にならなかった。
それに、仕事をしたいと亜季が望んでも高校を卒業しただけの、オメガのもと男娼にまともにつける仕事は少なかった。
そうでなくてもオメガを雇うところは少ないのだ。
かといって、もう男娼の仕事はしたくない。
それだけは絶対にしたくなかった。
子供のために──。
いや、それだけではなかったかもしれない。
(もう他のアルファに抱かれるのは……)
嫌だ。
でも、そのことは考えたくなかった。考えても詮ないことだったから。
出来る仕事を懸命に探した。何度も何度も断られ、亜季は心を削られた。
志希のためにも、食べていくためにも働かなくてはならない。
やっとのことで雇ってもらえたのはビルの清掃の仕事だった。
亜季は身を粉にして働いた。
産科の医師に「父親は?」と尋ねられ、「わかりません……」と答えて、訝しげな視線を向けられる。
「本当に?」
「はい……」
そんなやり取りを経て、逃げた先の小さな町の小さな病院で亜季は初めて親子健康手帳をもらった。
窓の外では夏の終わりを告げるように蝉が大きな声で鳴いている。
青い空の明るい陽射しは窓の中には入ってこない、薄暗い診察室。
一人で産む初めての赤ちゃんに胸は不安でいっぱいだった。
産まないわけにはいかない。そんな負の感情ではなく、亜季はいけないことだとはわかっていたが、子どもは産みたいと心の底から望んでいた。
でも、どうしたらいいのかわからないことばかりだ。
「病院に来てくれてよかったよ。男性オメガの出産は帝王切開が多いから……」
「それは……」
「自然分娩……、女性のように産道を通って自然に赤ちゃんを産むことは男性オメガにはできない」
それを聞いて、オメガはつくづく不自然な存在なのだと亜季は思った。
「お金がかかるよ?」
「大丈夫……です」
お金は余るほどはなかったが、聞けば入院費用くらいは支払えそうだった。
身重の体で雇ってくれるような奇特なところはどこもなく、亜季は貯金を切り崩して生活した。
亜季は働いていた二年間、特に使う理由もなかったので稼いだ金額はすべて銀行に漫然と預けられていた。
騙されて働き始めたが、いい店だったのだろう──。
何も知らない、高校を卒業したばかりの世間知らずであった亜季にオーナーやナミは様々なことを教えてくれて、生活の基盤を整えてくれた。
あのとき、声をかけてきたのはハルではなく、もっと別のスカウトだったら、亜季はこのように突然店を辞めることも、当面生活ができるほどの蓄えを残すこともできなかったかもしれない。
道端の桜が散り始め、人々の出会いと別れの季節に生まれた男の子。
出生届の父親の欄は空欄で提出した。
まだ赤ちゃんなのに、切れ長の黒い瞳は晴臣に似ていた。くるくると自然に巻くくせっ毛は自分に似ている。
小さい手をぎゅっと握り締める。
望まれない子供だとしても希望を諦めず志してほしいという気持ちを込めて、志希と名付けた。
「あ……あぅう……」
「志希……」
赤ん坊のつぶらな瞳を愛おしそうに見つめ、抱きしめる。
可愛い赤ちゃん。自分の唯一の家族。
大切に育てようと、望まれていないなどとこの子が思わぬように、愛情をいっぱいに注ごうと亜季は誓った。
子供が産まれてから、貧しいながらも幸せだった。
お店で稼いだお金は病院の通院や出産費用で随分と使ってしまったが、しばらくは生活が出来た。でも、いつまでも働かないわけにはいかない。
それなのに、番のいない亜季は出産後、発情期がまたくるようになり仕事をするのもままならなかった。
少なくとも三、四日、長ければそれ以上の日を、発情期で疼く体を騙してやり過ごす。
抑制剤は亜季にはあまり効果がない。だが、それでもないよりはましだと買うものの、その費用も馬鹿にならなかった。
それに、仕事をしたいと亜季が望んでも高校を卒業しただけの、オメガのもと男娼にまともにつける仕事は少なかった。
そうでなくてもオメガを雇うところは少ないのだ。
かといって、もう男娼の仕事はしたくない。
それだけは絶対にしたくなかった。
子供のために──。
いや、それだけではなかったかもしれない。
(もう他のアルファに抱かれるのは……)
嫌だ。
でも、そのことは考えたくなかった。考えても詮ないことだったから。
出来る仕事を懸命に探した。何度も何度も断られ、亜季は心を削られた。
志希のためにも、食べていくためにも働かなくてはならない。
やっとのことで雇ってもらえたのはビルの清掃の仕事だった。
亜季は身を粉にして働いた。
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