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第二十三章 失楽園
第479話 エッちゃんと、メーちゃん
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「エッちゃん……?」
ぺた、ぺた、と。メタノールは床を這うように、両手で探る。指先がようやく触れたのは、折れた白杖だった。ぽきりと中ほどで曲がり、もはや道具としての役目を果たさない。
ほんの数分前。飼育室から出て廊下を進み出した矢先だった。
突如、轟音。
ガラスが砕ける音と共に、何かにぶつけられ、激しく床に倒れ込んだ。
耳が、足元が、世界そのものが、ぐらりと揺れた。
「エッちゃん、どこ? ガラスの割れる音が聞こえたよ? 怪我してない?」
強い衝撃だった。音の大きさと振動からして、大砲が撃ち込まれたかのような。
そうでなくとも、ガラスが割れた時点でここは危険地帯と化している筈だ。メタノールはエタノールに何かあったらと、不安げな声で必死に名を呼び続ける。
返事はない。
あるのは、鼻先に届いた、血の臭い。
「エッちゃん。ねぇ、エッちゃん。血の臭いがするよ? やっぱり、怪我をしたんだね。待ってて、人を呼んで……あれ、どうして? 反応しない」
腕時計型電子機器を指で押したり、音声機能で操作しようとしても、それは動かない。
「どうして……今、壊れるの……?」
喉の奥で嗚咽がこもる。
その時だった。
「……大丈夫だよぉ、メーちゃん」
掠れた、細い声。
そのたった一言が、どれほどの安堵をもたらしただろう。メタノールの顔がぱっと明るくなる。
「よかった……! エッちゃん、よかった……! どこ? 怪我したの?」
「ちょっと、ガラスで腕を切っちゃっただけだよぉ」
「でも、血が……」
「オレの血に近付くとメーちゃん、中毒になっちゃうでしょ? ガラス片散らばってて危ないし、ここはオレが片すから、下に降りてて……?」
その声は、普段ののんびりした調子のままだ。
でも、どこかおかしい。妙に、力がない。
「ボ、ボクだって、ガラスの片付けできるよ。血の中毒だって、よっぽどじゃなきゃ……っ」
ふと、言葉が詰まる。
「よっぽど」なら、どうなる?
……まさか。
まさか、大量出血しているのでは。
「エッちゃん、どこ? 今、どんな状況なの?」
「……メーちゃん」
「ねぇ、何が降ってきたの? 教えて、教えてエッちゃん……!」
「メー、ちゃ……」
「兄貴っ!!」
消え入りそうなエタノールの声に被せるように、大きな声が後ろから響いた。
メタノールの弟、ホルムアルデヒドの声だ。彼は一つ上の階、4階にある資料室で一日の大半を過ごしている。異常事態を察して、急いで来てくれたのだろう。荒い呼吸音も聞こえる。
「無事か、兄貴! よかった……!」
「ホルム、ホルム! エッちゃんが、多分大怪我しているんだ! ねぇ、助けて! 助けて、ホルム!」
「……、兄貴……」
「ホルム」
もう一人、固い声が聞こえた。よくホルムアルデヒドと同じく、資料室の管理を任されているペンタクロロフェノールの声。
彼は規則正しい足音を立ててメタノールの側に近付き、抱き上げると、真後ろに居たらしい、ホルムアルデヒドへ押し付けた。
「メタノールと外、出るんだゾ」
次いで淡々と、この場を去るように伝えてくる。
「待って、エッちゃんは」
「兄貴」
「メーちゃんはどうなっているの? ねぇ、ホルム。ペンタクロロ」
「行こう。……後でちゃんと、話すから……」
「やだ……! ねぇ、何で教えてくれないの! 何も言わないの! 待って、エッちゃん! エッちゃん……っ!!」
メタノールはホルムアルデヒドの腕の中で暴れ、叫ぶ。光を失った瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
それでもホルムは彼を離さず、振り返らず。ただ静かに、けれども急ぐように、階段の奥へと消えていく。
そして。
背中が見えなくなるまで見届けた後、ペンタクロロフェノールはゆっくりと振り返り、再びエタノールへと視線を戻した。
――エタノールの下半身は、投げ込まれた大岩状の『珊瑚』の塊に押し潰され、周囲に血と肉片を撒き散らしていた。
この出血量――幾ら再生能力を持つウミヘビといえど、もはや失血死は免れない。
寧ろ『珊瑚』の塊が潰れるように覆いかぶさっている事で、無理やり血流を塞ぎ、即死を遅らせている状態にすぎない。
ペンタクロロフェノールは、一歩、彼に近づいた。
するとエタノールは虚ろな目へ向け、か細い声で問う。
「……メーちゃん、だいじょぶ……?」
「あぁ、無傷だったゾ。エタノールのお陰で」
「そ、っかぁ……」
それを聞いて、エタノールは力無く笑った。
廊下に向かって豪速球で飛んでくる『珊瑚』の塊を見た瞬間、反射的にメタノールを突き飛ばしたのだが、それが功をなしたようで、心底安堵した。
「オレ、ね。前に、メーちゃん助けられ、なくって……。目、見えなく、させちゃって……」
そのまま彼はぽつぽつと、呟く。まるで懺悔をするかのように。
ずっとずっと、自分を責めていた。国連へ貸し出されたメタノールが遠征先で中毒になった時、ボロボロの姿のままアバトンへ戻ってきた時から、ずっと。
彼の隣で戦えない弱い自分に、彼の解毒を任されているのにそれさえも叶えられない力のない自分に。
メタノールは「これはエタノールの所為ではない」と言ってくれていて、実際メタノールは自身の未熟さが招いた結果だと考えていただろうが、それでもエタノールは、自分が許せなかった。
「でも、今度は、助けられたんだぁ。……嬉しい、なぁ」
こうなる前に、メタノールに屈託のない笑みを浮かばせてくれた新米クスシへ、素直に礼の一つぐらい言えばよかったかな。なんて、僅かな後悔を抱きながら――静かに穏やかに、エタノールは、沈黙した。
それを見届けたペンタクロロフェノールは、エタノールの血を浴びながら未だ朽ちていない『珊瑚』を睨み付ける。
割れたガラスの散る床には、じわじわと這い広がる『珊瑚』の赤い菌糸が、血管のように絡みついている。
菌床が、出来上がってきている。
それを見たペンタクロロフェノールの瞳に宿ったのは、怒りではなく、
殺意だった。
ぺた、ぺた、と。メタノールは床を這うように、両手で探る。指先がようやく触れたのは、折れた白杖だった。ぽきりと中ほどで曲がり、もはや道具としての役目を果たさない。
ほんの数分前。飼育室から出て廊下を進み出した矢先だった。
突如、轟音。
ガラスが砕ける音と共に、何かにぶつけられ、激しく床に倒れ込んだ。
耳が、足元が、世界そのものが、ぐらりと揺れた。
「エッちゃん、どこ? ガラスの割れる音が聞こえたよ? 怪我してない?」
強い衝撃だった。音の大きさと振動からして、大砲が撃ち込まれたかのような。
そうでなくとも、ガラスが割れた時点でここは危険地帯と化している筈だ。メタノールはエタノールに何かあったらと、不安げな声で必死に名を呼び続ける。
返事はない。
あるのは、鼻先に届いた、血の臭い。
「エッちゃん。ねぇ、エッちゃん。血の臭いがするよ? やっぱり、怪我をしたんだね。待ってて、人を呼んで……あれ、どうして? 反応しない」
腕時計型電子機器を指で押したり、音声機能で操作しようとしても、それは動かない。
「どうして……今、壊れるの……?」
喉の奥で嗚咽がこもる。
その時だった。
「……大丈夫だよぉ、メーちゃん」
掠れた、細い声。
そのたった一言が、どれほどの安堵をもたらしただろう。メタノールの顔がぱっと明るくなる。
「よかった……! エッちゃん、よかった……! どこ? 怪我したの?」
「ちょっと、ガラスで腕を切っちゃっただけだよぉ」
「でも、血が……」
「オレの血に近付くとメーちゃん、中毒になっちゃうでしょ? ガラス片散らばってて危ないし、ここはオレが片すから、下に降りてて……?」
その声は、普段ののんびりした調子のままだ。
でも、どこかおかしい。妙に、力がない。
「ボ、ボクだって、ガラスの片付けできるよ。血の中毒だって、よっぽどじゃなきゃ……っ」
ふと、言葉が詰まる。
「よっぽど」なら、どうなる?
……まさか。
まさか、大量出血しているのでは。
「エッちゃん、どこ? 今、どんな状況なの?」
「……メーちゃん」
「ねぇ、何が降ってきたの? 教えて、教えてエッちゃん……!」
「メー、ちゃ……」
「兄貴っ!!」
消え入りそうなエタノールの声に被せるように、大きな声が後ろから響いた。
メタノールの弟、ホルムアルデヒドの声だ。彼は一つ上の階、4階にある資料室で一日の大半を過ごしている。異常事態を察して、急いで来てくれたのだろう。荒い呼吸音も聞こえる。
「無事か、兄貴! よかった……!」
「ホルム、ホルム! エッちゃんが、多分大怪我しているんだ! ねぇ、助けて! 助けて、ホルム!」
「……、兄貴……」
「ホルム」
もう一人、固い声が聞こえた。よくホルムアルデヒドと同じく、資料室の管理を任されているペンタクロロフェノールの声。
彼は規則正しい足音を立ててメタノールの側に近付き、抱き上げると、真後ろに居たらしい、ホルムアルデヒドへ押し付けた。
「メタノールと外、出るんだゾ」
次いで淡々と、この場を去るように伝えてくる。
「待って、エッちゃんは」
「兄貴」
「メーちゃんはどうなっているの? ねぇ、ホルム。ペンタクロロ」
「行こう。……後でちゃんと、話すから……」
「やだ……! ねぇ、何で教えてくれないの! 何も言わないの! 待って、エッちゃん! エッちゃん……っ!!」
メタノールはホルムアルデヒドの腕の中で暴れ、叫ぶ。光を失った瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
それでもホルムは彼を離さず、振り返らず。ただ静かに、けれども急ぐように、階段の奥へと消えていく。
そして。
背中が見えなくなるまで見届けた後、ペンタクロロフェノールはゆっくりと振り返り、再びエタノールへと視線を戻した。
――エタノールの下半身は、投げ込まれた大岩状の『珊瑚』の塊に押し潰され、周囲に血と肉片を撒き散らしていた。
この出血量――幾ら再生能力を持つウミヘビといえど、もはや失血死は免れない。
寧ろ『珊瑚』の塊が潰れるように覆いかぶさっている事で、無理やり血流を塞ぎ、即死を遅らせている状態にすぎない。
ペンタクロロフェノールは、一歩、彼に近づいた。
するとエタノールは虚ろな目へ向け、か細い声で問う。
「……メーちゃん、だいじょぶ……?」
「あぁ、無傷だったゾ。エタノールのお陰で」
「そ、っかぁ……」
それを聞いて、エタノールは力無く笑った。
廊下に向かって豪速球で飛んでくる『珊瑚』の塊を見た瞬間、反射的にメタノールを突き飛ばしたのだが、それが功をなしたようで、心底安堵した。
「オレ、ね。前に、メーちゃん助けられ、なくって……。目、見えなく、させちゃって……」
そのまま彼はぽつぽつと、呟く。まるで懺悔をするかのように。
ずっとずっと、自分を責めていた。国連へ貸し出されたメタノールが遠征先で中毒になった時、ボロボロの姿のままアバトンへ戻ってきた時から、ずっと。
彼の隣で戦えない弱い自分に、彼の解毒を任されているのにそれさえも叶えられない力のない自分に。
メタノールは「これはエタノールの所為ではない」と言ってくれていて、実際メタノールは自身の未熟さが招いた結果だと考えていただろうが、それでもエタノールは、自分が許せなかった。
「でも、今度は、助けられたんだぁ。……嬉しい、なぁ」
こうなる前に、メタノールに屈託のない笑みを浮かばせてくれた新米クスシへ、素直に礼の一つぐらい言えばよかったかな。なんて、僅かな後悔を抱きながら――静かに穏やかに、エタノールは、沈黙した。
それを見届けたペンタクロロフェノールは、エタノールの血を浴びながら未だ朽ちていない『珊瑚』を睨み付ける。
割れたガラスの散る床には、じわじわと這い広がる『珊瑚』の赤い菌糸が、血管のように絡みついている。
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