契約書は婚姻届

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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第9話 婚約者ってなんですか?

3.元婚約者

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その日、朋香がおやつのチーズケーキを堪能していると、珍しく野々村の慌てた声が聞こえてきた。

「尚一郎様はお留守ですので!」

「別にいいじゃない、他人じゃないんだし。
……誰?」

リビングに現れた女性に、間抜けにも口に突っ込んだフォークをくわえたまま、ぱちくりと瞬きしてしまう。

「……お客様?」

一瞬、見つめ合ったふたりだが、女性の方が我に返るのは早かった。
つかつかと朋香の傍にやってくると、ソファーの背に手を突いて、上から高圧的に見下ろしてくる。

「ねえ、野々村。
この女、誰?
尚一郎の浮気相手?」

さらさらと長い黒髪が落ちてくる。
真っ赤なマニキュアにさらには自信を示すかのような真っ赤な口紅。

自分とは正反対なその女性は誰だか知らないが、無性に不快だった。

「あなたこそ誰ですか?
私は尚一郎さんの、つ、つ、つ、」

「つ?」

朋香の顎に手をかけて上を向かせると、挑発するようにニヤリと笑った女性に、朋香のなにかがぷつんと音を立てて切れた。

「私は尚一郎さんの妻ですが!」

「やっぱり尚一郎の浮気相手なんじゃない」

「は?」

急に興味を失ったかのように女性は朋香から離れると、野々村に持ってこさせたコーヒーを口に運んだ。
 
「だって、私は尚一郎の婚約者だもの」

「はぁっ!?」

真っ赤な唇を吊り上げ、勝ち誇ったように笑う女性に、朋香は勢いよくソファーから立ち上がっていた。

 
婚約者だという女性とリビングで膠着状態のまま、尚一郎の帰りを待つ。

そりゃ、大企業グループオシベの御曹司なのだから、婚約者のひとりやふたりいてもおかしくないだろう。
けれど、尚一郎は自分と結婚したのだ。
なのに、婚約者だとかいって押し掛けてこられて、気分がいいわけもない。

そのうち、ロッテがワンワンと楽しそうに吠えだして、尚一郎の帰りを知らせた。
詰め寄るように玄関に急いだ朋香だったが、女性の方が一足早かった。

「会いたかったわ、尚一郎!」

女性から首に抱きつかれ、濃厚な口付けを受けている尚一郎を、朋香がジト目で睨んだことに罪はないはずだ。

「ゆ、侑岐(ゆき)!?
いつ、日本に?
じゃなくて離れてくれないかい!」
 
女性を慌てて引き剥がしていた尚一郎だが、朋香の視線に気付いたのか、びくんと背中を震わせた。

「朋香、違うから」

「へー、なにがどう、違うんですか?」

冷ややかな朋香の声に、尚一郎はびくびくしている。
まとわりつく女性を困惑して引き剥がしながら。

「彼女は重広(しげひろ)侑岐っていって、CEOが決めた婚約者で。
……元。
元、婚約者だよ!」

「エー、私は婚約解消した覚えはないんだけどー」

「侑岐、離れてって!」

なれなれしい女性――侑岐に、迷惑そうな顔をしながらもきっぱりと拒絶しない尚一郎に、怒りがふつふつと沸き上がってくる。

「その方と結婚した方がよかったんじゃないですか」

「だから朋香、誤解だって」
 
誤解もなにも、朋香の目からは尚一郎が、侑岐にべたべたされてデレているようにしか見えない。

「尚一郎、式はどーするー?
達之助おじいさまが早く結婚しろってー」

「侑岐さんとお幸せに!」

「待って、朋香!」

とうとう怒りが爆発し、後先考えずに屋敷を飛び出した。
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