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第4話 新しい契約を、ふたりで
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「アーロン様をお見かけしたという者がいます。王都に戻っていらっしゃったのかと。現在、屋敷の使用人が捜索に当たっております」
「そうなのよ。アーロンが帰ってきたらお祝いをしましょう。それから爵位の手続きをして夫を子爵から解放してあげるの。新婚旅行はどこがいい?」
……自身は解放されるだろう、と思っていたグラディスはこみ上げる何かに震える腕を押さえた。
ぐちゃぐちゃの論理展開に彼女は気付いていない――というより、彼女の中では筋が通っているのだろう。けれど、何より嫌だったのは。
「ヴィンセント様のお気持ちはどうなりますか?」
「今まで通りに戻るだけよ」
何故今まで気づけなかったのだろう――グラディスは子爵夫人の美しい睫毛に彩られた目に映るものが、彼女の空想であると知った。
そして同時に、ヴィンセントではなく、自分の気持ちも。
アーロンにどんな事情があろうが、裏切ったことを、全てを押しつけて消えたことを――状況を受け入れたとして、怒っていいのだ。
帰って来ることを、お祝いする気にはなれない。
そして今はもう、アーロンの前にあの夜着で立つことはできない。エスコートされた時の細くしなやかな指にときめきは感じない。
「元には戻りません」
「グラディスさん?」
「元には戻りません――人の気持ちも、苦しんだ記憶も」
見据えて言えば、ふと、子爵夫人は正気に戻ったように目を伏せる。
「……そうよ。でも直視して生きられる強い人間ばかりではないの」
子爵夫人は弱い方なのですか。
そう尋ねようとしたときに、けたたましく扉がノックされたかと思うと従僕が飛び込んできた。執事が諫める間もなく、銀のトレイが差し出され、報告がなされる。
「アーロン様からお手紙が届きました」
「アーロンが!」
トレイに飛びついた子爵夫人は手紙を開き、素早く目を通した。
「――今夜、アーロンが帰ってくるわ!」
***
「ただいま戻りました。子爵。子爵夫人にはご機嫌麗しゅう」
シルクハットが上がる。腰を折り、ライトブラウンの柔らそうな毛がふわりと風に揺れた。燕尾服の尻尾が芝居がかったように広がり収まると、アーロンは手のひらで隣の男性を示した。
「アーロン、今まで何をしてたの!」
3時間も玄関ホールで待機して、扉が開くなり駆け寄った子爵夫人は、ようやくそこで見知らぬ男性に気付いたようだった。
そして、固まる。
呼ばれてグラディスとヴィンセント、エディ――それに遅れてやってきた子爵もまた息を呑んだ。
「諸般の事情で皆さんに事前にご説明できなかったことをお詫びいたします。ですが、彼を見ていただければ一目瞭然ではないかと」
「……帰って!」
子爵夫人は叫びながら、その男性に掴みかかろうとする。その腕を咄嗟にエディが取って後ろに引き戻そうとする。
「落ち着いて母さん。兄さんのことです、深い事情があるのでしょう」
「これが落ち着いていられますか!」
「……入ってもらいなさい」
黙っていた子爵が口を開く。相手は夫人でなく控えていた従僕たちだ。滅多に話さない寡黙な子爵の、落ち着いた低音には諦念と共に覚悟があった。
「あなた」
「誰かアイリーンに別室でブランデー入りの紅茶を飲ませてくれ。それから、応接間に全員分のお茶の用意を」
強引に連れられていく子爵夫人をグラディスは息を呑んで見送っていると、大丈夫だ、と耳打ちされた。
横目で見ると、ヴィンセントが頷いている。彼は父親の子爵に向き直る。
「ここまでの事態になる前に、手を打てなかったのでしょうか」
「打てなかったから僕がする羽目になった。さあ行こう」
沈黙を守る子爵の代わりに答えたアーロンがまとめるように促す。そう、彼は今まで子爵家の中では旗を振っていた。変わらない。
態度がまるで変わっていないことにグラディスは少し傷付きつつ、同時に、自分は変わってしまったと思った。
「アーロン兄さん」
ヴィンセントに呼び止められたアーロンは来客をエディに任せて子爵の後を追わせると、半身で振り返った。微笑を浮かべる彼に対して、ヴィンセントの表情はひどく硬く、目には怒りがあった。
「ごめん、子爵夫人のことがある。もう少しだけ時間をくれないかな」
申し訳なさそうに眉を上げると、アーロンは応接間へと歩き出す。グラディスはそれを静かな足取りで追った。視線が背中を追いかけてくる。
全員揃った応接間に最後に入ってきたのは、侍女に支えられた子爵夫人だ。扇状に並べられた椅子の先にはアーロンと来客の青年が立っていた。
背丈は長身のアーロンと同じくらい、年齢も同じくらい。撫で付けられた髪の色も眉の形も目の色も、ヴィンセント――いや、バセット子爵にそっくりだ。
「この人は今をときめく劇団「セーラス」のスター、ピーター。大盛況の『嘘つきな羊飼いと三匹の狼』の主役でもある」
「それがどうしたというのです……!」
観客席から子爵夫人が悲鳴にも似た声を上げる。肘掛けにもたれかかるようにして、額を押さえていた。
「――僕はこの人と一緒になりたいんだ」
「……ひっ……!」
彼がピーターの腰を抱き、言い終えるか否かのところで、悲鳴を上がる。気を失って傾いた体を、慌てて侍女が重そうに支えた。恐怖を顔に浮かべたままの母親を一瞥したアーロンは、そのまま冷たい視線を子爵に送った。
「許していただけますか?」
「……全て……分かっているのか」
冷たく静かなアーロンの声音に対し、低く厳かな子爵の声は熱い。
「男同士の道ならぬ恋を叶える――美しいでしょう?」
「駄目だ」
子爵は重い声で、間髪入れずに否定する。
「どうして駄目なのでしょう? 当主は僕じゃなくても良い、迷惑を考えて商売の手伝いなら誠心誠意いたしましょう。それに、隣国は男性同士でも家族になれると言うではありませんか」
「そいつだけは駄目だ」
グラディスは言葉の意味を考える。子爵が浮気をしていて、女性に密かに男子を産ませていた……でも、それでは全ての意味が通らない。
答えが出ないままにしていると、ピーターが口を開いた。朗々たる声がまるで歌のように節を付けて部屋に響く。
「……幼馴染みに恋をした一人の青年は、次期領主になることが決まっていた。身分も性別も、許されぬ道ならぬ恋。気の迷いと彼の姉と情を交わしたが、満たされることはない……」
「ですからどちらかを、身分を満たす没落貴族の娘を、金で買った。恋人の姉には金を渡して育てさせた。
……いいですよ、僕だけなら別にね。偏見も、時代の影響もあったでしょう。貴族の義務を果たすための苦痛の決断なら、僕自身はその選択を恨んでません――子爵夫人に、ちゃんと隠し通してくれてさえいたらね」
「アーロン」
「子爵夫人が僕に執着したのも、領地にいることを嫌がったのも、子爵に似たヴィンセントに当たりが強いのも――子爵夫人がこうなったのは、あなたのせいですよ、バセット子爵」
冷え冷えとした声がアーロンから放たれるのを、グラディスは初めて聞いた。
ヴィンセントもエディも同様だったらしく、目を見開いたまま三人を見つめている。
――やがて低く地を這うような呻きを発して、子爵が立ち上がり、よろけながら部屋を出て行く。
それを合図に男性使用人は子爵に、子爵夫人は侍女とメイドが連れて行ってしまった。
沈黙が満ちた部屋で、それを破ったのはヴィンセントだった。立ち上がり、正面の二人を見比べる。
「……本当にこいつと……義兄弟……と、結婚するつもりなのか」
「アーロン、だからやり過ぎだと言ったんだよ」
ピーターが体を離し、やれやれといった風に肩をすくめると、アーロンは苦笑した。
「結婚はしないけど、演技はするかもしれない。悪かったね、計画は秘密に……それに真面目な彼女を巻き込みたくなかったんだ。二人とも仲良くやってくれていて良かった――っ!?」
「……許さないからな。先に謝るべきだろう。グラディスと俺に」
一歩、ヴィンセントが近づくとアーロンの襟元を掴んだ。
「どういうつもりだったんだ。もう挙式は済んでるんだぞ」
「うん、二人にも苦労をかけたね。ただ……このタイミングしかなかったんだ。ずっとピーターを探して説得していたから」
「せめて大事な女性に、理由を話しておくくらいはできたんじゃないのか? ずっと兄さんのことを待っていたんだぞ」
「本当? グラディス」
掴まれたまま落ち着き払っているアーロンに問われ、はっとしたグラディスは歩みを進めた。ヴィンセントの手首をそっと取った。
「私の代わりに怒って下さって、ありがとうございます」
「グラディス……」
「でも誰かの代わりに、もうならないでください。私は私で怒りますから。ヴィンセント様はどうか、ご自身のために」
ゆっくり力が抜けて、手がアーロンから離れていく。グラディスは安心しつつも手をどこか名残惜しく離す。
「事情は知りたかったですし、帰ってきていただければ、嬉しいと思いましたが……結婚の意味では、どちらでも構いませんでした。お義母様が再度、アーロン様と私を結婚させるとは思っていませんでしたから」
目を瞠るヴィンセントに、誤解させたなら申し訳ありません、とグラディスは頭を下げてから顔を上げ、アーロンを真正面から見返す。
「そんなことになってたの?」
「……でも、もしアーロン様が望まれてももう叶いませんが」
「……そうなんだ。それは少し残念かな」
いいのかグラディス、と横からヴィンセントが目で問う。彼女はいいのですとゆるゆると首を振ってから、にこやかに笑った。
それはもう、にこやかに。
「事情が何であれ、アーロン様が婚約という、私との契約を破られたからです。取引の対象として信用できません」
***
「アーロン様がお戻りになり、私たちの契約は終了しました。ここからは契約外のため、報酬をお支払いします。ご一緒に視察はいかがですか?」
翌日、グラディスは寝込んでいる子爵夫妻を差し置いて、ヴィンセントを外に連れ出した。
ウィンドウショッピングをして、美術館を巡る。最後にレストランで夕食を取り、寝室に戻る。
急遽掛け替えさせた室内の布物をチェックする。色はアーロンが“好きそうな”色でなく、羊の毛色そのものだった。
「今日は如何でしたか」
「……夫婦ごっこで遊びに行くのは初めてだったから、……変な感じがしたな。まあ、久しぶりの休みって感じで悪くなかった。グラディスは……?」
伺うような視線に彼女は同様ですと頷き、彼女は本題を切り出した。
「二人で交わした契約は完了しましたが、結婚は別ですよね」
「そうだな」
「これから私、違約金を払ってでもこの結婚を解消するつもりなのですが、異論はないでしょうか」
「……ああ、それで約束通り、……形だけは元に戻るな」
「アーロン様には、責任を取って次の子爵になっていただくつもりです。……というより、子爵も、お義母様がそうなさるのを止められないでしょう」
ヴィンセントとピーターが父親似である、となれば余計にそうなる。
ヴィンセントの彷徨う瞳に不安がちらつくのを見て取るが、これから続ける台詞を考えれば不安はグラディスも同様だ。
今までのどんな商談よりも緊張していた。喉を鳴らし、言葉を継ぐ。
「そこで、次の契約のお話をしましょう。――この家は、ヴィンセント様にとって毒です」
「……」
「とはいえ、簡単にはお捨てになれないでしょう。両家の繋がりだって必要です。だから――私の婿になりませんか」
目が合った。意外そうだ、とグラディスは読み取る。
でも驚きと言うほどではない。不快ではなさそうなのは幸いだ――でも、それ以上のものが欲しい、と思うと何故か胸が少し苦しくなる。
あの時アーロンの前には夜着で立てないと思ったとき、この人の前では講義も寝転ぶことも嫌ではないことを知ってしまった。
「契約書は?」
「……それはまだこれから、今度は、きちんと話し合ってすり合わせをしてからにしようと思っています」
顔を見られぬように立ち上がる。ぬるめのお茶を淹れ、昼に買ってきたメレンゲやチョコレートを新しい小皿に乗せる。ヴィンセントは見た目に似合わず甘党なのだ。
「……あの……驚かないのですか」
「似たようなことを考えていたからな。その雇用契約書の草案を見てくれるか。作り方は、お前に教えてもらったから」
「え?」
背後に気配を感じて振り向けば、今度はグラディスが驚く方だった。
薄い紙一枚に書かれたそれを受け取れば、簡潔な条件が書かれているばかりだった。
お互いの生活とか、仕事とか、病気の時のことだとか。
結婚式を二人だけでやり直すとか。
「ちょっと待ってください、これ……」
「永年契約のつもりなんだが、不都合があるか」
「……ない……です」
綿で包むような優しい声に、グラディスは語尾が小さくなっていく。契約書を前にしてはあるまじき事態で、冷静さを欠いていく自覚がある。
どこかふわふわとして、熱くなる頬を紙で隠そうとして――頭上から陰が落ちる。顔を上げる。優しく笑う目が合って、もっと欲しいと思ってしまう。
それからゆっくり、頬にあの結婚式では触れなかったものが、触れた。
契約書の草案の最後には、こう書いてあった。
――この婚姻の間は、お互いのみを誠実に愛することを誓います。
「そうなのよ。アーロンが帰ってきたらお祝いをしましょう。それから爵位の手続きをして夫を子爵から解放してあげるの。新婚旅行はどこがいい?」
……自身は解放されるだろう、と思っていたグラディスはこみ上げる何かに震える腕を押さえた。
ぐちゃぐちゃの論理展開に彼女は気付いていない――というより、彼女の中では筋が通っているのだろう。けれど、何より嫌だったのは。
「ヴィンセント様のお気持ちはどうなりますか?」
「今まで通りに戻るだけよ」
何故今まで気づけなかったのだろう――グラディスは子爵夫人の美しい睫毛に彩られた目に映るものが、彼女の空想であると知った。
そして同時に、ヴィンセントではなく、自分の気持ちも。
アーロンにどんな事情があろうが、裏切ったことを、全てを押しつけて消えたことを――状況を受け入れたとして、怒っていいのだ。
帰って来ることを、お祝いする気にはなれない。
そして今はもう、アーロンの前にあの夜着で立つことはできない。エスコートされた時の細くしなやかな指にときめきは感じない。
「元には戻りません」
「グラディスさん?」
「元には戻りません――人の気持ちも、苦しんだ記憶も」
見据えて言えば、ふと、子爵夫人は正気に戻ったように目を伏せる。
「……そうよ。でも直視して生きられる強い人間ばかりではないの」
子爵夫人は弱い方なのですか。
そう尋ねようとしたときに、けたたましく扉がノックされたかと思うと従僕が飛び込んできた。執事が諫める間もなく、銀のトレイが差し出され、報告がなされる。
「アーロン様からお手紙が届きました」
「アーロンが!」
トレイに飛びついた子爵夫人は手紙を開き、素早く目を通した。
「――今夜、アーロンが帰ってくるわ!」
***
「ただいま戻りました。子爵。子爵夫人にはご機嫌麗しゅう」
シルクハットが上がる。腰を折り、ライトブラウンの柔らそうな毛がふわりと風に揺れた。燕尾服の尻尾が芝居がかったように広がり収まると、アーロンは手のひらで隣の男性を示した。
「アーロン、今まで何をしてたの!」
3時間も玄関ホールで待機して、扉が開くなり駆け寄った子爵夫人は、ようやくそこで見知らぬ男性に気付いたようだった。
そして、固まる。
呼ばれてグラディスとヴィンセント、エディ――それに遅れてやってきた子爵もまた息を呑んだ。
「諸般の事情で皆さんに事前にご説明できなかったことをお詫びいたします。ですが、彼を見ていただければ一目瞭然ではないかと」
「……帰って!」
子爵夫人は叫びながら、その男性に掴みかかろうとする。その腕を咄嗟にエディが取って後ろに引き戻そうとする。
「落ち着いて母さん。兄さんのことです、深い事情があるのでしょう」
「これが落ち着いていられますか!」
「……入ってもらいなさい」
黙っていた子爵が口を開く。相手は夫人でなく控えていた従僕たちだ。滅多に話さない寡黙な子爵の、落ち着いた低音には諦念と共に覚悟があった。
「あなた」
「誰かアイリーンに別室でブランデー入りの紅茶を飲ませてくれ。それから、応接間に全員分のお茶の用意を」
強引に連れられていく子爵夫人をグラディスは息を呑んで見送っていると、大丈夫だ、と耳打ちされた。
横目で見ると、ヴィンセントが頷いている。彼は父親の子爵に向き直る。
「ここまでの事態になる前に、手を打てなかったのでしょうか」
「打てなかったから僕がする羽目になった。さあ行こう」
沈黙を守る子爵の代わりに答えたアーロンがまとめるように促す。そう、彼は今まで子爵家の中では旗を振っていた。変わらない。
態度がまるで変わっていないことにグラディスは少し傷付きつつ、同時に、自分は変わってしまったと思った。
「アーロン兄さん」
ヴィンセントに呼び止められたアーロンは来客をエディに任せて子爵の後を追わせると、半身で振り返った。微笑を浮かべる彼に対して、ヴィンセントの表情はひどく硬く、目には怒りがあった。
「ごめん、子爵夫人のことがある。もう少しだけ時間をくれないかな」
申し訳なさそうに眉を上げると、アーロンは応接間へと歩き出す。グラディスはそれを静かな足取りで追った。視線が背中を追いかけてくる。
全員揃った応接間に最後に入ってきたのは、侍女に支えられた子爵夫人だ。扇状に並べられた椅子の先にはアーロンと来客の青年が立っていた。
背丈は長身のアーロンと同じくらい、年齢も同じくらい。撫で付けられた髪の色も眉の形も目の色も、ヴィンセント――いや、バセット子爵にそっくりだ。
「この人は今をときめく劇団「セーラス」のスター、ピーター。大盛況の『嘘つきな羊飼いと三匹の狼』の主役でもある」
「それがどうしたというのです……!」
観客席から子爵夫人が悲鳴にも似た声を上げる。肘掛けにもたれかかるようにして、額を押さえていた。
「――僕はこの人と一緒になりたいんだ」
「……ひっ……!」
彼がピーターの腰を抱き、言い終えるか否かのところで、悲鳴を上がる。気を失って傾いた体を、慌てて侍女が重そうに支えた。恐怖を顔に浮かべたままの母親を一瞥したアーロンは、そのまま冷たい視線を子爵に送った。
「許していただけますか?」
「……全て……分かっているのか」
冷たく静かなアーロンの声音に対し、低く厳かな子爵の声は熱い。
「男同士の道ならぬ恋を叶える――美しいでしょう?」
「駄目だ」
子爵は重い声で、間髪入れずに否定する。
「どうして駄目なのでしょう? 当主は僕じゃなくても良い、迷惑を考えて商売の手伝いなら誠心誠意いたしましょう。それに、隣国は男性同士でも家族になれると言うではありませんか」
「そいつだけは駄目だ」
グラディスは言葉の意味を考える。子爵が浮気をしていて、女性に密かに男子を産ませていた……でも、それでは全ての意味が通らない。
答えが出ないままにしていると、ピーターが口を開いた。朗々たる声がまるで歌のように節を付けて部屋に響く。
「……幼馴染みに恋をした一人の青年は、次期領主になることが決まっていた。身分も性別も、許されぬ道ならぬ恋。気の迷いと彼の姉と情を交わしたが、満たされることはない……」
「ですからどちらかを、身分を満たす没落貴族の娘を、金で買った。恋人の姉には金を渡して育てさせた。
……いいですよ、僕だけなら別にね。偏見も、時代の影響もあったでしょう。貴族の義務を果たすための苦痛の決断なら、僕自身はその選択を恨んでません――子爵夫人に、ちゃんと隠し通してくれてさえいたらね」
「アーロン」
「子爵夫人が僕に執着したのも、領地にいることを嫌がったのも、子爵に似たヴィンセントに当たりが強いのも――子爵夫人がこうなったのは、あなたのせいですよ、バセット子爵」
冷え冷えとした声がアーロンから放たれるのを、グラディスは初めて聞いた。
ヴィンセントもエディも同様だったらしく、目を見開いたまま三人を見つめている。
――やがて低く地を這うような呻きを発して、子爵が立ち上がり、よろけながら部屋を出て行く。
それを合図に男性使用人は子爵に、子爵夫人は侍女とメイドが連れて行ってしまった。
沈黙が満ちた部屋で、それを破ったのはヴィンセントだった。立ち上がり、正面の二人を見比べる。
「……本当にこいつと……義兄弟……と、結婚するつもりなのか」
「アーロン、だからやり過ぎだと言ったんだよ」
ピーターが体を離し、やれやれといった風に肩をすくめると、アーロンは苦笑した。
「結婚はしないけど、演技はするかもしれない。悪かったね、計画は秘密に……それに真面目な彼女を巻き込みたくなかったんだ。二人とも仲良くやってくれていて良かった――っ!?」
「……許さないからな。先に謝るべきだろう。グラディスと俺に」
一歩、ヴィンセントが近づくとアーロンの襟元を掴んだ。
「どういうつもりだったんだ。もう挙式は済んでるんだぞ」
「うん、二人にも苦労をかけたね。ただ……このタイミングしかなかったんだ。ずっとピーターを探して説得していたから」
「せめて大事な女性に、理由を話しておくくらいはできたんじゃないのか? ずっと兄さんのことを待っていたんだぞ」
「本当? グラディス」
掴まれたまま落ち着き払っているアーロンに問われ、はっとしたグラディスは歩みを進めた。ヴィンセントの手首をそっと取った。
「私の代わりに怒って下さって、ありがとうございます」
「グラディス……」
「でも誰かの代わりに、もうならないでください。私は私で怒りますから。ヴィンセント様はどうか、ご自身のために」
ゆっくり力が抜けて、手がアーロンから離れていく。グラディスは安心しつつも手をどこか名残惜しく離す。
「事情は知りたかったですし、帰ってきていただければ、嬉しいと思いましたが……結婚の意味では、どちらでも構いませんでした。お義母様が再度、アーロン様と私を結婚させるとは思っていませんでしたから」
目を瞠るヴィンセントに、誤解させたなら申し訳ありません、とグラディスは頭を下げてから顔を上げ、アーロンを真正面から見返す。
「そんなことになってたの?」
「……でも、もしアーロン様が望まれてももう叶いませんが」
「……そうなんだ。それは少し残念かな」
いいのかグラディス、と横からヴィンセントが目で問う。彼女はいいのですとゆるゆると首を振ってから、にこやかに笑った。
それはもう、にこやかに。
「事情が何であれ、アーロン様が婚約という、私との契約を破られたからです。取引の対象として信用できません」
***
「アーロン様がお戻りになり、私たちの契約は終了しました。ここからは契約外のため、報酬をお支払いします。ご一緒に視察はいかがですか?」
翌日、グラディスは寝込んでいる子爵夫妻を差し置いて、ヴィンセントを外に連れ出した。
ウィンドウショッピングをして、美術館を巡る。最後にレストランで夕食を取り、寝室に戻る。
急遽掛け替えさせた室内の布物をチェックする。色はアーロンが“好きそうな”色でなく、羊の毛色そのものだった。
「今日は如何でしたか」
「……夫婦ごっこで遊びに行くのは初めてだったから、……変な感じがしたな。まあ、久しぶりの休みって感じで悪くなかった。グラディスは……?」
伺うような視線に彼女は同様ですと頷き、彼女は本題を切り出した。
「二人で交わした契約は完了しましたが、結婚は別ですよね」
「そうだな」
「これから私、違約金を払ってでもこの結婚を解消するつもりなのですが、異論はないでしょうか」
「……ああ、それで約束通り、……形だけは元に戻るな」
「アーロン様には、責任を取って次の子爵になっていただくつもりです。……というより、子爵も、お義母様がそうなさるのを止められないでしょう」
ヴィンセントとピーターが父親似である、となれば余計にそうなる。
ヴィンセントの彷徨う瞳に不安がちらつくのを見て取るが、これから続ける台詞を考えれば不安はグラディスも同様だ。
今までのどんな商談よりも緊張していた。喉を鳴らし、言葉を継ぐ。
「そこで、次の契約のお話をしましょう。――この家は、ヴィンセント様にとって毒です」
「……」
「とはいえ、簡単にはお捨てになれないでしょう。両家の繋がりだって必要です。だから――私の婿になりませんか」
目が合った。意外そうだ、とグラディスは読み取る。
でも驚きと言うほどではない。不快ではなさそうなのは幸いだ――でも、それ以上のものが欲しい、と思うと何故か胸が少し苦しくなる。
あの時アーロンの前には夜着で立てないと思ったとき、この人の前では講義も寝転ぶことも嫌ではないことを知ってしまった。
「契約書は?」
「……それはまだこれから、今度は、きちんと話し合ってすり合わせをしてからにしようと思っています」
顔を見られぬように立ち上がる。ぬるめのお茶を淹れ、昼に買ってきたメレンゲやチョコレートを新しい小皿に乗せる。ヴィンセントは見た目に似合わず甘党なのだ。
「……あの……驚かないのですか」
「似たようなことを考えていたからな。その雇用契約書の草案を見てくれるか。作り方は、お前に教えてもらったから」
「え?」
背後に気配を感じて振り向けば、今度はグラディスが驚く方だった。
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お互いの生活とか、仕事とか、病気の時のことだとか。
結婚式を二人だけでやり直すとか。
「ちょっと待ってください、これ……」
「永年契約のつもりなんだが、不都合があるか」
「……ない……です」
綿で包むような優しい声に、グラディスは語尾が小さくなっていく。契約書を前にしてはあるまじき事態で、冷静さを欠いていく自覚がある。
どこかふわふわとして、熱くなる頬を紙で隠そうとして――頭上から陰が落ちる。顔を上げる。優しく笑う目が合って、もっと欲しいと思ってしまう。
それからゆっくり、頬にあの結婚式では触れなかったものが、触れた。
契約書の草案の最後には、こう書いてあった。
――この婚姻の間は、お互いのみを誠実に愛することを誓います。
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