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奪われた居場所
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アトリー伯爵家の朝は早い。日の出とともに起床し、冷たい水で顔を洗うのが、私――セリーヌ・アトリーの日課だ。
十歳のあの日。
「セリーヌ、お前がこの家を継ぐのだ。カトリーヌは侯爵家へ行く。お前は家を守る『盾』になれ」
お父様にそう告げられた時から、私の子供時代は終わった。
二歳年上のカトリーヌお姉様が、刺繍の腕を競い、流行のドレスに身を包んでお茶会に興じている間、私は薄暗い書庫に籠もった。
領地の土壌改良、年貢の計算、複雑な魔導契約……。どれも華やかな貴族令嬢には似つかわしくない、泥臭い学びばかりだ。けれど私は、それを苦痛だと思ったことはなかった。
「セリーヌ、またこんな時間まで……。昼食は? 少しは休んだらどうだ」
午後の執務室に温かなミルクを運んでくれるのは、私の婚約者、子爵家三男のクロード様だった。
彼は私の「努力」を馬鹿にしない、唯一の理解者だった。
「ありがとう、クロード様。でも、この帳簿を片付けないと、明日の視察に響くわ」
「君は本当に頑張り屋さんだ。アトリー領がこれほど豊かなのは、君の細やかな気配りのおかげだよ。僕が婿入りしたら、君の負担を半分背負えるように精進するからね」
その言葉が、どれほど嬉しかったか。
二人で歩いた領地のあぜ道。名もなき草花を指差して、「ここは来年、果樹園にしましょう」と語り合う時間。彼と過ごすひと時だけが、私が「跡継ぎ」という重責を忘れて、一人の少女に戻れる唯一の救いだった。
お姉様はいつも、そんな私たちを見て「セリーヌはクロード様と仲良しでいいわね。私、ジェラルド様とは事務的なお手紙ばかりなの。羨ましいわ」と、ふんわり微笑んでいた。
お姉様、貴女は知っていますか?
私が手に入れたこの「幸せ」は、貴女が捨てた「義務」を、私がすべて拾い集めて磨き上げた結果だということを……。
カトリーヌお姉様の婚約破棄から、二日が経った。伯爵邸内は、悲劇のヒロインとなった姉様を中心に回っている。
「セリーヌ、今日の視察は同行するよ。君を一人で行かせるわけにはいかない」
今朝のクロード様は、いつも通り私にそう言ってくれた。
私は彼を信じていた。私たちが五年かけて積み上げてきた絆は、姉様の「涙」程度で揺らぐほど脆いものではないと。
「ええ、お願いします。クロード様」
馬車へ向かおうとしたその時、背後からカトリーヌお姉様の、鈴を転がすような声がした。
「……クロード様、セリーヌ。お出かけなの?」
振り返ると、そこには昨夜 泣き腫らした瞳を少し伏せ、はかなげな水色のドレスを纏った姉様が立っていた。その姿は、庇護欲を掻き立てるほどに脆く、美しい。
「はい。領地の視察へ」
「そう……。いいわね、二人でお仕事なんて。……私、一人でいると、どうしてもジェラルド様とのことを思い出してしまって……胸が苦しくなるの」
姉様は、震える指先で自分の胸元を押さえた。悪気のない、純粋な不安の吐露。
それを見たクロード様の瞳に、一瞬だけ、私に向けたことのないような強い「同情」が宿るのを、私は見逃さなかった。
「カトリーヌ様……」
「いいのよ、気にしないで。私は一人で、お部屋でお花でも見て過ごすわ。……ちょっと、寂しいけれど」
姉様が寂しげに微笑み、背を向ける。その細い肩が、微かに震えていた。
その時、食堂から出てきた両親が、私たちを呼び止めた。
「クロード殿、少し話がある。……セリーヌ、お前は一人で視察に行きなさい」
父様の冷たい声に、私は足を止めた。
クロード様の表情が、戸惑いから、何か別の感情へと変わり始める。
私は、姉様の華やかな人生を裏側から補修し、彼女が放り出した責任を肩代わりするためだけの予備の歯車だったのだ。
けれど、この時の私はまだ、その予備さえも奪われようとしていることに気づいていなかった。
__________
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十歳のあの日。
「セリーヌ、お前がこの家を継ぐのだ。カトリーヌは侯爵家へ行く。お前は家を守る『盾』になれ」
お父様にそう告げられた時から、私の子供時代は終わった。
二歳年上のカトリーヌお姉様が、刺繍の腕を競い、流行のドレスに身を包んでお茶会に興じている間、私は薄暗い書庫に籠もった。
領地の土壌改良、年貢の計算、複雑な魔導契約……。どれも華やかな貴族令嬢には似つかわしくない、泥臭い学びばかりだ。けれど私は、それを苦痛だと思ったことはなかった。
「セリーヌ、またこんな時間まで……。昼食は? 少しは休んだらどうだ」
午後の執務室に温かなミルクを運んでくれるのは、私の婚約者、子爵家三男のクロード様だった。
彼は私の「努力」を馬鹿にしない、唯一の理解者だった。
「ありがとう、クロード様。でも、この帳簿を片付けないと、明日の視察に響くわ」
「君は本当に頑張り屋さんだ。アトリー領がこれほど豊かなのは、君の細やかな気配りのおかげだよ。僕が婿入りしたら、君の負担を半分背負えるように精進するからね」
その言葉が、どれほど嬉しかったか。
二人で歩いた領地のあぜ道。名もなき草花を指差して、「ここは来年、果樹園にしましょう」と語り合う時間。彼と過ごすひと時だけが、私が「跡継ぎ」という重責を忘れて、一人の少女に戻れる唯一の救いだった。
お姉様はいつも、そんな私たちを見て「セリーヌはクロード様と仲良しでいいわね。私、ジェラルド様とは事務的なお手紙ばかりなの。羨ましいわ」と、ふんわり微笑んでいた。
お姉様、貴女は知っていますか?
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「セリーヌ、今日の視察は同行するよ。君を一人で行かせるわけにはいかない」
今朝のクロード様は、いつも通り私にそう言ってくれた。
私は彼を信じていた。私たちが五年かけて積み上げてきた絆は、姉様の「涙」程度で揺らぐほど脆いものではないと。
「ええ、お願いします。クロード様」
馬車へ向かおうとしたその時、背後からカトリーヌお姉様の、鈴を転がすような声がした。
「……クロード様、セリーヌ。お出かけなの?」
振り返ると、そこには昨夜 泣き腫らした瞳を少し伏せ、はかなげな水色のドレスを纏った姉様が立っていた。その姿は、庇護欲を掻き立てるほどに脆く、美しい。
「はい。領地の視察へ」
「そう……。いいわね、二人でお仕事なんて。……私、一人でいると、どうしてもジェラルド様とのことを思い出してしまって……胸が苦しくなるの」
姉様は、震える指先で自分の胸元を押さえた。悪気のない、純粋な不安の吐露。
それを見たクロード様の瞳に、一瞬だけ、私に向けたことのないような強い「同情」が宿るのを、私は見逃さなかった。
「カトリーヌ様……」
「いいのよ、気にしないで。私は一人で、お部屋でお花でも見て過ごすわ。……ちょっと、寂しいけれど」
姉様が寂しげに微笑み、背を向ける。その細い肩が、微かに震えていた。
その時、食堂から出てきた両親が、私たちを呼び止めた。
「クロード殿、少し話がある。……セリーヌ、お前は一人で視察に行きなさい」
父様の冷たい声に、私は足を止めた。
クロード様の表情が、戸惑いから、何か別の感情へと変わり始める。
私は、姉様の華やかな人生を裏側から補修し、彼女が放り出した責任を肩代わりするためだけの予備の歯車だったのだ。
けれど、この時の私はまだ、その予備さえも奪われようとしていることに気づいていなかった。
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