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第三章
(二)
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「困ったことになりましたな」
氏勝がそう言うと、お亀もさすがに責任を感じているのか、しおらしい顔で頷いた。まさかおのれの軽率な行動が、かような事態に発展するとは思ってもみなかったのであろう。かような事態、とは言うまでもなく、甲斐二十五万石への移封のことだ。
甲斐はかつては言うまでもなく、武田家の領地である。されどその武田家が滅亡すると徳川の領地となり、関東移封ののちは徳川の押さえとして、豊臣方の重臣が代わる代わる送り込まれてきていた。関が原の合戦の直前には、太閤秀吉の姻戚である浅野弾正長政が治めていた。しかしその浅野も戦後紀州へと移り、代わって入府したのが他でもない、五郎太丸の後見人である平岩主計頭親吉である。武田の旧臣である四人の奉行衆(三枝土佐守、石原四郎右衛門尉、小田切大隅守、跡部九郎右衛門尉)との分割統治という形を取り、禄高そのものは甲府郡代六万三千石に過ぎなかったが、奉行はいずれも配下の甲斐衆であり、親吉こそが事実上の甲斐の国主といえた。本拠である甲府城もまた、親吉自身が築いたものだ。つまり此度の処遇は、その親吉から領地を奪い取ったような格好になるのである。
「されど主計どのはお気を悪くすることなく、どうせおのれが死したのちは五郎太に譲るつもりであったのだから、と言ってくださっているようですが……」
「平岩さまはできたお方ですからな。されど、配下の皆さまはどう思いましょうか。よりにもよって五郎太丸さまに、主が顔を潰されたと考えてもおかしくはありませぬ」
禄高そのものは六万三千石と変わらぬままでも、家康の譜代として五郎太丸を後見する立場から、ただの家臣となってしまうのだ。それでも嫡男であれば話もわかるが、五郎太丸が家督を継ぐ可能性はほとんどない。つまり徳川家における序列としても、大幅に格下げされてしまうことになる。親吉自身は納得していても、家中の者たちは堪ったものではなかろう。
「今後の我らの振る舞い次第で、平岩さまのご家中の心は、完全に五郎太丸さまから離れます」
家康も親吉も、なお軒昂といえどそれなりの齢である。五郎太丸を守り支えてゆくなら、ふたりが死したのちのことも考えなければならない。そのとき家中の者たちの心が離れてしまっていては、我らが主は孤立無援の状態に置かれることになる。
「どうすればよいと思いますか、信濃守?」
「……まあ、今からでも平岩さまの顔を立てる形を考えることですな」
「顔を立てるというと……いったい何を?」
「何もしないことです。甲斐のことはこれまで通り、平岩さまにお任せしましょう。我らが甲斐の領主となるはあくまでも形ばかりということにして、決して口出しはしない。すべて、これまでと何も変わらぬまま……」
「五郎太に傀儡となれと言うのですか」
「どの道まだ元服もしていない五郎太丸さまが、政務を執るのはご無理にございましょう。今はまず、駿府にて学ばれることです。そして今後も何かあれば、必ず平岩さまにご意見を伺ってゆくことといたしましょう。後見人として、決して蔑ろにしてはなりませぬ」
「……はい」氏勝の言葉に、お亀もまた素直に頷いた。
「それと此度のことは、すべて某の考えでしたことといたします。お方さまもこのことは、今後いっさい触れぬようお願いいたします」
不満の矛先が五郎太丸やお亀に向かうくらいなら、みな傅役である氏勝の専横によるものとしてしまったほうがいい。そうやって泥を被るのもまた、傅役の務めである。
「すまぬの、信濃守」
「これは貸しにしておきますので」
「わかっております。これにて、先の貸しは帳消しですね」
氏勝は相変わらずの不愛想な顔で、じろりとお亀を睨んだ。
「何をおっしゃいますか。あれは某の名を勝手に使ったことですでに帳消しになっております。ゆえ、これは新しい貸しでございます」
むう、とお亀は頬を膨らませた。どうやらこの期に及んでまだ誤魔化そうとしていたらしい。まったく油断も隙もない。
「今後はこのようなことはなきように願います。某を利用するのは構いませんが、そのときは必ず相談してくだされ」
「わ・か・り・ま・し・た」と、なおも不満げに、一音ずつ区切りながら答えてくる。まあ良い、少しは済まないと思ってくれているようであるし、今はこれ以上言わずにおこう。
「ただ気にはなりまするな。此度の処遇、どうもこれまでの大殿のなさりようとは違います」
「違う、とは?」
「これまでの大殿であれば、平岩さまほどの忠臣にかようなことはなされなかった、ということです」
徳川内府家康という人物はこれまで、我が子や身内には冷たく、その代わりのように臣下の者を手厚く遇する男と言われてきた。かつて信長の命によって嫡男三郎信康を切腹させた際は、傅役の親吉が代わりに己の首を差し出すよう申し出ても、頑として聞き入れなかったほどだ。むろん必要とあれば手駒として家臣に危険を強いることもあったが、役目を果たした者には十分以上の恩賞を与えてきた。
それこそが三河武士の固い結束を育んできた原動力とも言えるのだが、その家康にしては此度のやりようはおかしい。主計頭親吉は家康にとってただの家臣ではなく、今川の人質時代から苦楽を共にしてきた同志とも言える存在なのだ。いくら五郎太丸のためとはいえ、その忠臣の顔を潰すようなことは、これまでの家康であれば決してしなかったはずだ。
奥の間をあとにすると、氏勝はまっすぐ五郎太丸のいる上段の間へと急いだ。正信らもすでに、此度の移封のことは知っているであろう。ならば今後のことについて、いくつかよく言い聞かせておかねばならないこともあった。
そうして城の中庭に面した回り廊下を進んでいると、前から来た女御衆のひとりとすれ違った。すると不意に、耳元で囁きかけてくる声が聞こえた。
「迂闊でございましたな、山下さま」
はっとして振り返ると、そこにはつい今すれ違ったばかりの女御の姿がなかった。代わって、真上に何かの気配を感じた。氏勝は咄嗟に腰の大刀を抜くと、おのれの頭上に向けて斬撃を放つ。されど手応えはなく、中庭に黒い影が音もなく降り立つのが見えた。
「刀が不得手というのはまことであったのですね。内匠さまの斬撃と比べれば、羽虫が止まるようにございますよ」
そこにいたのは、慥かに今すれ違った女御に違いなかった。されどその声は、やや高いものの明らかに男のものだ。それも、どこかで聞いた覚えもある。
「何奴だ?」
「嫌ですねぇ……この声をお忘れでございますか?」
含笑い混じりのその声に、氏勝はようやく思い出した。「……藤七か」
「へえ」と、籐七は女の姿のままで頷いた。「お久しゅうございます、山下さま」
氏勝は刀を収めると、中庭に向かって一歩踏み出した。そうして声を落として尋ねる。
「かようなところで何をしておる」
「何を……と、言われましても」
籐七は声音を女のものに戻し、揶揄うように艶かしく身をくねらせながら歩み寄ってきた。その仕草を見る限りは、どこから見ても女子でしかない。小柄な体躯も、こうして化けるには便利なのであろう。
「あたしは元より、ただの流しでございます。というより、忍びとは皆そういうもの。ゆえ、お役目のありそうなところへ推参したまでのこと」
「別に今さら、おぬしに頼みたいことなどない。そのまま藪さまのお役に立っておればよかろう」
「その内匠さまでございますが」と、籐七は笑みを消して言った。「中村家を出られましてございます」
氏勝は驚いて、その顔をまじまじと見返した。
「藪さまが……なんと。いったい何があったのだ?」
「形の上では出奔となっておりますが、じっさいのところは追い出されたと言ってもいいでしょう。今の中村家は、すっかり内膳の思うがままゆえ」
式部少輔一氏の死後、中村家は嫡男の一学一忠が家督を継ぎ、幕府より松平姓を与えられて出雲伯耆十七万石へと加増転封された。されど一忠はまだ齢十二に過ぎず、ほとんど傅役の横田内膳村詮が実権を握ることとなったという。
「内膳のやりようは酷いものです。重要な役どころはすべて一族で固めて、領内に重税を敷き、その多くを私しているとも聞きます。その横暴ぶりに耐えかねて、古くからの臣は次々と去って行きました。内匠さまは最後まで残って食い下がろうとしていたようですが、内膳はおろか若殿にも煙たがられたようで」
今後は我らは若殿を支え、益々盛り立てて行かねばならぬ。小山で最後に会ったときの、そう言った背中を思い出す。されどその決意も、ただひとりではどうにもならぬということか。
「あの家ももう終わりでございましょう。領内の仕置きもまるで追い着かず、一揆も絶えないと聞きます。今はそれを、松江の堀尾出雲が助勢を仰いで鎮めているようですが、果たしていつまで持つことやら」
「……さようか」
と、氏勝はつぶやくように答えた。その声が思いの外沈痛に響いたことに、おのれでも驚いていた。偶々成り行きで身を置いただけの家でも、その凋落ぶりを嘆くだけの愛着はあったらしい。
「傅役の専横が、国を傾けることもあるようで。山下さまもどうか心されたく」
「わかっておる……して藪さまは今、どうしておられる」
「……さて」と、籐七は首を傾げてみせた。「されどあれだけのお方です。いくらでも再仕官先はあるでしょう。伯耆におられた頃も、細川家より誘いの文が来ていたようでございますし」
慥かに武勇に調略にと名高き将、藪内匠正照である。欲しがる大名はいくらでもあろう。氏勝ごときが案ずるまでもないのかもしれない。
「で……おぬしはそれを、我に知らせに参ったのか?」
「いえいえ」籐七は首を振る。「それはあくまでも挨拶代わり。手土産は他にあり申す」
「手土産とな?」
「はい。此度の五郎太丸さまの甲斐入りについて。これすべて、中納言めの謀にございます」
不意に聞き捨てならぬ言葉をぶつけられては、氏勝も食い付くしかなかった。
「中納言(家康三男・秀忠)さまだと。それはいったいどういうことだ」
「はい。山下さまが出された国替え願い、内府も当初は捨て置く方針でございました。されどそれを中納言が聞き付け、独断で主計頭に伝えたようにございます。そうと聞けば主計頭が、おのが領地を差し出すしかなくなるのを承知の上で。狙いは言わずともわかりましょう?」
むう、と氏勝も唸るばかりであった。もちろん籐七の言う通り、その狙いも想像がつかないわけでもない。
家康の三男である中納言秀忠は、長男信康亡き今は徳川家の嫡男である。されど関ヶ原の戦の際、中山道を五万の兵を率いて進軍しながら、信州上田城で真田安房守の軍勢に足止めされ、決戦に出遅れるという失態を演じた。家康にはひどく叱責され、家中での信も大きく失ったと言っていい。
対して二男の結城宰相秀康が会津の殿を務め上げ、四男中将忠吉も手傷を負いながらも島津の将を討ち取る武功を挙げている。その中で、はたしておのれが後継者として徳川の家督を継げるのかという不安を覚えはじめていてもおかしくはない。一方秀康や忠吉もまだ諦めてはいないようで、水面下では激しい鍔迫り合いが繰り広げられているとも聞く。まさか幼い五郎太丸もまた、その標的となっているとでもいうのか。
「されど五郎太丸さまは、まだ元服も済ませておられぬではないか。中納言さまの脅威になるとも思われぬであろうに」
「さて、それもどうだか。内府家康、齢五十を過ぎてなお軒昂。まだまだ十年、二十年と生きるやもしれませぬ。その頃には五郎太丸さまも、また長福丸さまも立派な若武者でございましょう」
長福丸とは、五郎太丸が生まれた翌年に側室お万の方が産んだ、家康にとっては十番目の男子のことだ。(のちの紀州大納言頼宣である)この子の誕生も家康は大層喜んだといわれ、生まれてすぐに常陸水戸城が与えられ、またおのれの右腕でもある安藤帯刀を傅役に付けている。
「ゆえ、此度のことを好機と見て、我らと平岩さまの間に亀裂を入れようとしたというのか。我らの力を削ぐために?」
「中納言秀忠……父親に比べれば凡庸ではありますが、決して暗愚ではありませぬよ。侮るなかれ」
「そのくらいはわかっておる。わかっておるが……」
いくら秀忠が不安だといえ、そんな先のことまで見越して五郎太丸を潰しにかかるものであろうか。決してないとは頭ではわかっていても、氏勝はまだ半信半疑であった。
「どうも山下さまは、どこかひとつ抜けていらっしゃいますな。謀はあまりお好きではありませぬか?」
「……まあの」と、氏勝は素直に答えた。「好きの嫌いのと言っていられぬことも承知しておるが」
「では、この藤七をお使いくだされ。お役に立つこと間違いなしでございます。頼りない山下さまの目となり耳となり、この世の裏側を案内して差し上げましょう」
まるで押し売りだった。果たしてどこまで信じてよいものやら。されどもしこの男の言うことがまことであるならば、五郎太丸の身を守り支えてゆくには徳川家の中にも気を配らねばならないのかもしれない。これまでおのれはあまりに無防備に過ぎた。
その年の三月、徳川内府家康は朝廷より征夷大将軍の宣下を受けた。これにより江戸に幕府が開かれ、家康は名実ともに武士の頂点に立ち、日の本を統べることとなったのである。
氏勝がそう言うと、お亀もさすがに責任を感じているのか、しおらしい顔で頷いた。まさかおのれの軽率な行動が、かような事態に発展するとは思ってもみなかったのであろう。かような事態、とは言うまでもなく、甲斐二十五万石への移封のことだ。
甲斐はかつては言うまでもなく、武田家の領地である。されどその武田家が滅亡すると徳川の領地となり、関東移封ののちは徳川の押さえとして、豊臣方の重臣が代わる代わる送り込まれてきていた。関が原の合戦の直前には、太閤秀吉の姻戚である浅野弾正長政が治めていた。しかしその浅野も戦後紀州へと移り、代わって入府したのが他でもない、五郎太丸の後見人である平岩主計頭親吉である。武田の旧臣である四人の奉行衆(三枝土佐守、石原四郎右衛門尉、小田切大隅守、跡部九郎右衛門尉)との分割統治という形を取り、禄高そのものは甲府郡代六万三千石に過ぎなかったが、奉行はいずれも配下の甲斐衆であり、親吉こそが事実上の甲斐の国主といえた。本拠である甲府城もまた、親吉自身が築いたものだ。つまり此度の処遇は、その親吉から領地を奪い取ったような格好になるのである。
「されど主計どのはお気を悪くすることなく、どうせおのれが死したのちは五郎太に譲るつもりであったのだから、と言ってくださっているようですが……」
「平岩さまはできたお方ですからな。されど、配下の皆さまはどう思いましょうか。よりにもよって五郎太丸さまに、主が顔を潰されたと考えてもおかしくはありませぬ」
禄高そのものは六万三千石と変わらぬままでも、家康の譜代として五郎太丸を後見する立場から、ただの家臣となってしまうのだ。それでも嫡男であれば話もわかるが、五郎太丸が家督を継ぐ可能性はほとんどない。つまり徳川家における序列としても、大幅に格下げされてしまうことになる。親吉自身は納得していても、家中の者たちは堪ったものではなかろう。
「今後の我らの振る舞い次第で、平岩さまのご家中の心は、完全に五郎太丸さまから離れます」
家康も親吉も、なお軒昂といえどそれなりの齢である。五郎太丸を守り支えてゆくなら、ふたりが死したのちのことも考えなければならない。そのとき家中の者たちの心が離れてしまっていては、我らが主は孤立無援の状態に置かれることになる。
「どうすればよいと思いますか、信濃守?」
「……まあ、今からでも平岩さまの顔を立てる形を考えることですな」
「顔を立てるというと……いったい何を?」
「何もしないことです。甲斐のことはこれまで通り、平岩さまにお任せしましょう。我らが甲斐の領主となるはあくまでも形ばかりということにして、決して口出しはしない。すべて、これまでと何も変わらぬまま……」
「五郎太に傀儡となれと言うのですか」
「どの道まだ元服もしていない五郎太丸さまが、政務を執るのはご無理にございましょう。今はまず、駿府にて学ばれることです。そして今後も何かあれば、必ず平岩さまにご意見を伺ってゆくことといたしましょう。後見人として、決して蔑ろにしてはなりませぬ」
「……はい」氏勝の言葉に、お亀もまた素直に頷いた。
「それと此度のことは、すべて某の考えでしたことといたします。お方さまもこのことは、今後いっさい触れぬようお願いいたします」
不満の矛先が五郎太丸やお亀に向かうくらいなら、みな傅役である氏勝の専横によるものとしてしまったほうがいい。そうやって泥を被るのもまた、傅役の務めである。
「すまぬの、信濃守」
「これは貸しにしておきますので」
「わかっております。これにて、先の貸しは帳消しですね」
氏勝は相変わらずの不愛想な顔で、じろりとお亀を睨んだ。
「何をおっしゃいますか。あれは某の名を勝手に使ったことですでに帳消しになっております。ゆえ、これは新しい貸しでございます」
むう、とお亀は頬を膨らませた。どうやらこの期に及んでまだ誤魔化そうとしていたらしい。まったく油断も隙もない。
「今後はこのようなことはなきように願います。某を利用するのは構いませんが、そのときは必ず相談してくだされ」
「わ・か・り・ま・し・た」と、なおも不満げに、一音ずつ区切りながら答えてくる。まあ良い、少しは済まないと思ってくれているようであるし、今はこれ以上言わずにおこう。
「ただ気にはなりまするな。此度の処遇、どうもこれまでの大殿のなさりようとは違います」
「違う、とは?」
「これまでの大殿であれば、平岩さまほどの忠臣にかようなことはなされなかった、ということです」
徳川内府家康という人物はこれまで、我が子や身内には冷たく、その代わりのように臣下の者を手厚く遇する男と言われてきた。かつて信長の命によって嫡男三郎信康を切腹させた際は、傅役の親吉が代わりに己の首を差し出すよう申し出ても、頑として聞き入れなかったほどだ。むろん必要とあれば手駒として家臣に危険を強いることもあったが、役目を果たした者には十分以上の恩賞を与えてきた。
それこそが三河武士の固い結束を育んできた原動力とも言えるのだが、その家康にしては此度のやりようはおかしい。主計頭親吉は家康にとってただの家臣ではなく、今川の人質時代から苦楽を共にしてきた同志とも言える存在なのだ。いくら五郎太丸のためとはいえ、その忠臣の顔を潰すようなことは、これまでの家康であれば決してしなかったはずだ。
奥の間をあとにすると、氏勝はまっすぐ五郎太丸のいる上段の間へと急いだ。正信らもすでに、此度の移封のことは知っているであろう。ならば今後のことについて、いくつかよく言い聞かせておかねばならないこともあった。
そうして城の中庭に面した回り廊下を進んでいると、前から来た女御衆のひとりとすれ違った。すると不意に、耳元で囁きかけてくる声が聞こえた。
「迂闊でございましたな、山下さま」
はっとして振り返ると、そこにはつい今すれ違ったばかりの女御の姿がなかった。代わって、真上に何かの気配を感じた。氏勝は咄嗟に腰の大刀を抜くと、おのれの頭上に向けて斬撃を放つ。されど手応えはなく、中庭に黒い影が音もなく降り立つのが見えた。
「刀が不得手というのはまことであったのですね。内匠さまの斬撃と比べれば、羽虫が止まるようにございますよ」
そこにいたのは、慥かに今すれ違った女御に違いなかった。されどその声は、やや高いものの明らかに男のものだ。それも、どこかで聞いた覚えもある。
「何奴だ?」
「嫌ですねぇ……この声をお忘れでございますか?」
含笑い混じりのその声に、氏勝はようやく思い出した。「……藤七か」
「へえ」と、籐七は女の姿のままで頷いた。「お久しゅうございます、山下さま」
氏勝は刀を収めると、中庭に向かって一歩踏み出した。そうして声を落として尋ねる。
「かようなところで何をしておる」
「何を……と、言われましても」
籐七は声音を女のものに戻し、揶揄うように艶かしく身をくねらせながら歩み寄ってきた。その仕草を見る限りは、どこから見ても女子でしかない。小柄な体躯も、こうして化けるには便利なのであろう。
「あたしは元より、ただの流しでございます。というより、忍びとは皆そういうもの。ゆえ、お役目のありそうなところへ推参したまでのこと」
「別に今さら、おぬしに頼みたいことなどない。そのまま藪さまのお役に立っておればよかろう」
「その内匠さまでございますが」と、籐七は笑みを消して言った。「中村家を出られましてございます」
氏勝は驚いて、その顔をまじまじと見返した。
「藪さまが……なんと。いったい何があったのだ?」
「形の上では出奔となっておりますが、じっさいのところは追い出されたと言ってもいいでしょう。今の中村家は、すっかり内膳の思うがままゆえ」
式部少輔一氏の死後、中村家は嫡男の一学一忠が家督を継ぎ、幕府より松平姓を与えられて出雲伯耆十七万石へと加増転封された。されど一忠はまだ齢十二に過ぎず、ほとんど傅役の横田内膳村詮が実権を握ることとなったという。
「内膳のやりようは酷いものです。重要な役どころはすべて一族で固めて、領内に重税を敷き、その多くを私しているとも聞きます。その横暴ぶりに耐えかねて、古くからの臣は次々と去って行きました。内匠さまは最後まで残って食い下がろうとしていたようですが、内膳はおろか若殿にも煙たがられたようで」
今後は我らは若殿を支え、益々盛り立てて行かねばならぬ。小山で最後に会ったときの、そう言った背中を思い出す。されどその決意も、ただひとりではどうにもならぬということか。
「あの家ももう終わりでございましょう。領内の仕置きもまるで追い着かず、一揆も絶えないと聞きます。今はそれを、松江の堀尾出雲が助勢を仰いで鎮めているようですが、果たしていつまで持つことやら」
「……さようか」
と、氏勝はつぶやくように答えた。その声が思いの外沈痛に響いたことに、おのれでも驚いていた。偶々成り行きで身を置いただけの家でも、その凋落ぶりを嘆くだけの愛着はあったらしい。
「傅役の専横が、国を傾けることもあるようで。山下さまもどうか心されたく」
「わかっておる……して藪さまは今、どうしておられる」
「……さて」と、籐七は首を傾げてみせた。「されどあれだけのお方です。いくらでも再仕官先はあるでしょう。伯耆におられた頃も、細川家より誘いの文が来ていたようでございますし」
慥かに武勇に調略にと名高き将、藪内匠正照である。欲しがる大名はいくらでもあろう。氏勝ごときが案ずるまでもないのかもしれない。
「で……おぬしはそれを、我に知らせに参ったのか?」
「いえいえ」籐七は首を振る。「それはあくまでも挨拶代わり。手土産は他にあり申す」
「手土産とな?」
「はい。此度の五郎太丸さまの甲斐入りについて。これすべて、中納言めの謀にございます」
不意に聞き捨てならぬ言葉をぶつけられては、氏勝も食い付くしかなかった。
「中納言(家康三男・秀忠)さまだと。それはいったいどういうことだ」
「はい。山下さまが出された国替え願い、内府も当初は捨て置く方針でございました。されどそれを中納言が聞き付け、独断で主計頭に伝えたようにございます。そうと聞けば主計頭が、おのが領地を差し出すしかなくなるのを承知の上で。狙いは言わずともわかりましょう?」
むう、と氏勝も唸るばかりであった。もちろん籐七の言う通り、その狙いも想像がつかないわけでもない。
家康の三男である中納言秀忠は、長男信康亡き今は徳川家の嫡男である。されど関ヶ原の戦の際、中山道を五万の兵を率いて進軍しながら、信州上田城で真田安房守の軍勢に足止めされ、決戦に出遅れるという失態を演じた。家康にはひどく叱責され、家中での信も大きく失ったと言っていい。
対して二男の結城宰相秀康が会津の殿を務め上げ、四男中将忠吉も手傷を負いながらも島津の将を討ち取る武功を挙げている。その中で、はたしておのれが後継者として徳川の家督を継げるのかという不安を覚えはじめていてもおかしくはない。一方秀康や忠吉もまだ諦めてはいないようで、水面下では激しい鍔迫り合いが繰り広げられているとも聞く。まさか幼い五郎太丸もまた、その標的となっているとでもいうのか。
「されど五郎太丸さまは、まだ元服も済ませておられぬではないか。中納言さまの脅威になるとも思われぬであろうに」
「さて、それもどうだか。内府家康、齢五十を過ぎてなお軒昂。まだまだ十年、二十年と生きるやもしれませぬ。その頃には五郎太丸さまも、また長福丸さまも立派な若武者でございましょう」
長福丸とは、五郎太丸が生まれた翌年に側室お万の方が産んだ、家康にとっては十番目の男子のことだ。(のちの紀州大納言頼宣である)この子の誕生も家康は大層喜んだといわれ、生まれてすぐに常陸水戸城が与えられ、またおのれの右腕でもある安藤帯刀を傅役に付けている。
「ゆえ、此度のことを好機と見て、我らと平岩さまの間に亀裂を入れようとしたというのか。我らの力を削ぐために?」
「中納言秀忠……父親に比べれば凡庸ではありますが、決して暗愚ではありませぬよ。侮るなかれ」
「そのくらいはわかっておる。わかっておるが……」
いくら秀忠が不安だといえ、そんな先のことまで見越して五郎太丸を潰しにかかるものであろうか。決してないとは頭ではわかっていても、氏勝はまだ半信半疑であった。
「どうも山下さまは、どこかひとつ抜けていらっしゃいますな。謀はあまりお好きではありませぬか?」
「……まあの」と、氏勝は素直に答えた。「好きの嫌いのと言っていられぬことも承知しておるが」
「では、この藤七をお使いくだされ。お役に立つこと間違いなしでございます。頼りない山下さまの目となり耳となり、この世の裏側を案内して差し上げましょう」
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