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第三章
(一)
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城下の雑木林からであろう、遠く蝉の声が聞こえてくる。されどその響きさえ、まるでじっとりと湿っているようにさえ感じられた。氏勝は額に浮いた汗を軽く掌で拭うと、上段の間へと続く廊下を進んでいった。
慶長七年(一六〇二年)、六月。五郎太丸が家康よりこの武蔵国忍城十万石を拝領して、はじめての夏が来ていた。氏勝も命じられた通り、甲斐での諸事の引継ぎを終えると、年明けにはこの地へと居を移した。与えられた城下の屋敷には、お松をはじめ家人たちもみな越してきている。お松は姉とまた同じ地に住まえることがよほど嬉しかったようで、道中ではみずから荷物のひとつを担いで進むほど浮き浮きとした様子であった。
されどこうして夏を迎えてみて、この地の問題にあらためて直面していた。それは暑さである。
利根川と荒川に挟まれた扇状地に建ち、おのずと堆積して出来た自然の堤を利用した城ではあるが、三方を山に囲まれているせいか風が通らない。その上周囲は沼が点在する湿地帯のため、たえず空気はじっとりとした水気を帯びている。それが夏の陽光に熱せられるためか、他の土地では経験したこともなかったような蒸し暑さに見舞われていた。これにはお松も参っているようで、屋敷に帰るたびにどうにかならぬかと不平を零されている。
参っているのはお亀の方も同様のようで、このところはあまり食も喉を通らぬらしい。そんな中五郎太丸はひとり、父親の我慢強さを受け継いだのか、ぐずることもなく堪えていた。それでも顔を見れば、辛そうなのは明らかだ。
「これは叔父上……よくいらしてくださいました」
上段の間に入ると、氏勝に気付いた小伝次正信が立ち上がった。氏勝はそのままでよいと手で制し、五郎太丸の前に進み出て膝をつく。
「殿。ご気分はいかがでございましょうか」
そう尋ねると、五郎太丸は表情を和らげて大丈夫とばかりに頷いた。しかしその額には玉の汗が浮かび、たえず頬を伝い落ちてゆく。
「ご無理はなさいますな。思うことがあれば、何でも我らにお申し付けくだされ」
「わかった。かたじけなくおもう」
まだいくぶんはたどたどしくも、五郎太丸ははっきりと答えてきた。おそらく齢三つにして、周囲に手を掛けさせまいと我慢することが身に着いてしまってしまっているのだろう。氏勝の目には、その健気さはむしろ痛々しくも見えた。
城主の居室であるこの上段の間にも、やはりむっとするような熱気と湿気が充満している。少しでも涼を取ろうと小窓もすべて開け放っているようだが、風などまったく入って来ない。
「竹腰どのはいかがか。辛くはござらぬか?」
「いえ……我もこのくらい、どうということも……」
そう言いつつも、この正信とて我慢しているのがわかる。こうして城に上がり高禄も与えられているが、その父助九郎は一介の足軽であった。本来ならかような場に居られるはずもないと思っているのだろう。この者も、不平を言いたくとも言えぬのだ。
「さようですか。某はもう、暑くて堪りませぬ」
氏勝は遠慮なくそう言って、懐から扇子を取り出した。そうして大袈裟にぱたぱたと扇ぎはじめる。
「特にこの湿気には参りますな。かような土地であると知っていましたら、傅役など引き受けませなんだ」
「お……叔父上?」
正信がぎょっとしたように氏勝を見た。おそらく戯れであろうと察してはいるのだが、この叔父が例によってにこりともしないので真意が探れないのだった。
「……竹腰どの」と、氏勝は振り返らずに言った。「思うところがあるなら遠慮なく申されよ。さもなければ、殿も不平を零せぬ」
正信ははっと気付いたように目を見開き、それから照れたように笑った。氏勝はそちらに小さく頷きかけると、手にしていた扇子を五郎太丸に手渡す。
幼き主君はそれを手に取り、しばらく不思議そうに眺めていたが、やがて先ほどの氏勝を真似ておのれを扇ごうとする。それでもまだ慣れていないのか、うまく風を起こすことができないようだった。
「殿、お貸しください」
正信が五郎太丸に近付き、その手から扇子を受け取った。そうしてやんわりと、主に向かって風を送りはじめる。淀んでいた空気にさざ波が立ち、五郎太丸は心地よさげに微笑みを浮かべた。
氏勝は満足して頷き、言った。「それでよいのです。この蒸し暑さは尋常ならず、素直になるがよろしいかと」
と、氏勝は小窓の向こうに目をやった。それはまあ……と、正信も観念したようにため息をつく。
「暑さもですが、何よりこの湿気が堪りませぬ。外は見渡す限り沼地でございますからね」
あたりに沼が点在しているというより、沼の中に城が浮かんでいると形容したほうがいいくらいだ。浮城とはよく言ったものだ。
「ここはかつて北条方の成田家が居城としていたのだが、太閤の小田原征伐の際、あの石田治部に水攻めに遭ったという。さもありなん、という土地柄ですな」
「それは聞いております……されど成田家は五万の石田方に囲まれながらも、小田原落城までこの城を守り切ったのでしたか」
正信が氏勝の言葉を受けて続けた。なるほど、よく学んでいるようだ。されどそれは城が堅かったというより、石田治部が戦下手であったためと言うべきか。いざ中に入ってみれば、なるほど堅い城なのかもしれないが、綻びはところどころにある。おそらく攻め手が太閤秀吉であったなら、あるいは内府家康であったなら、その半分の兵で容易く落とせていたであろう。
「守るには良いのかもしれぬが……住むとなると大変ですな。内府さまの元、平穏となった世においては、そちらのほうが大事でしょうに」
正信は城攻めの話に興味があるようで、もう少し成田家の話をしたかったのかもしれない。ゆえに少々名残惜しげではあったが、すぐに「……そうですね」と相槌を打った。
「叔父上が我らほどの頃、かようなときはどうしていたのでございましょう」
「そうですな……たとえば、川で水浴びでもしていましたかな。何しろ山育ちなもので」
正信はその言葉に、「水浴びでございますか」と嬉しそうに笑った。この若武者もここに来るまでは、そのように奔放に過ごしていたはずだ。
「城下の集落の者たちに教えを乞うて、手掴みで魚を捕まえたりもしたものです。みなからは、筋が良いと言われておりました」
「楽しそうですね……叔父上にもそのような頃があったのですか」
とはいえ、今この五郎太丸を連れてさようなことはできない。あの頃も若殿はさすがに許されず、川面を見下ろす曲輪の上から恨めしげに見ていたものだった。氏勝たちも気が咎めて、獲った魚を皆で焼いて、若殿に届けに行ったのを覚えている。
「そうですな……されど川では無理でも、行水くらいなら良いのではござらぬか?」
そうして氏勝はふたりを連れて城の中庭に出ると、大きな盥に井戸水を張った。そして褌ひとつではしゃぎながら水を浴びるふたりを、微笑ましげに見つめていた。もっともその顔は相変わらず、傍からは笑っているようには見えなかったが。
やがてお亀の方付きの女御衆がそれを目に止め、大騒ぎになった。
「こ……これは五郎太丸さま。いったい何をなさっているのですか!」
「行水でござる」氏勝はこともなげに答える。「何か問題でもござろうか?」
「ござろうか!」と、五郎太丸が裸で氏勝の真似をする。それでも女たちは揃って卒倒しそうな顔色で、なおも口々に金切り声を上げた。
「問題どころの話ではございませぬ……ああ、五郎太丸さま、さような格好で……!」
されどそこへ、にこやかな笑みを浮かべたままお亀の方が現れた。そうして楽しげな息子ふたりを見て、眩しいものでも見るように目を細める。
「良いではないですか」と、お亀は女御衆に首を振って言った。「楽しいか、五郎太、小伝次?」
「はい、母上」と答えた正信に、少し遅れて五郎太丸が真似をする。それを聞いてお亀も満足そうに頷いた。
「それは良かったの……では、私もご一緒するとしましょうか」
さらにそう言って帯に手を掛けたところで、女御衆が群がって止めに入った。さすがに氏勝も立ち上がり、その輪の中に加わる。
奥の院にて平謝りする氏勝に、お亀はなおも笑っていた。
「本当に構わぬのですよ。五郎太も楽しそうであったではないですか。小伝次もあのような明るい顔、久しぶりに見ました」
おそらくまだ慣れぬ場で気を張っているであろう正信のことも思っての勧めだったので、お亀にそう言ってもらえると氏勝としても安堵するところであった。
「じっさい、ふたりともこの蒸し暑さは辛いことでしょう。私も京で暑さには慣れていましたが、それでも堪えます」
お亀とお松の故郷でもある京も、ここと同じように山に囲まれて風が通らぬ土地であった。夏の暑さが厳しいことも話に聞いている。
「おまけに、どうにも汚らしくていけません。何しろ城内にまで、蛙や蜥蜴が入り込んでくるのですよ。これでは病が蔓延してもおかしくないことでしょう」
病と口にしたところで、お亀の面差しにはっきりと暗い色が過ぎったのがはっきりと見て取れた。この女性はいかに五郎太丸が元気に育っていても、先の子である仙千代を喪った悲しみは癒えはしないのだろう。きっとこれからもずっと、その影を背負って生きてゆくのだ。それが、もう抱くこともできぬ子の慈しみかたであるかのように。
「心得ております」と、氏勝はお亀を力付けるように言った。「万一のこともなきよう、大殿も駿府から玄斎どのを遣わしてくださいました。些細なことも見逃さぬよう、よく申し付けてくださったようです」
岡部玄斎は、長年徳川家に仕えてきた医師である。特に薬研に長けているとのことで、自ら薬草の研究に取り組んでいる家康にとっても良き相談相手であるそうだ。
「もちろん我らも、五郎太丸さま御為に身命を尽くします。どうかお方さまも、心安んじられますよう」
「安んじて欲しいのであれば、せめてやんわりと笑うくらいはできぬのでしょうか、信濃。いつもそのような堅苦しい顔をされていては、その言もどこまで信じてよいことやら」
お亀が拗ねるように言った。慥かに相手を安堵させたいのであれば、無理にでもにっこりと笑いかけてやるだけでもずいぶん違うであろう。されどそれは、氏勝にとってはもっとも苦手なことであった。
「かたじけなく思えど、某のこの顔は生まれつきでございますゆえ」
「……はたしてどうやら」と、かの女性はなおも続ける。「閨の中ではそうでもない、とお松は申しておりましたが?」
氏勝は一瞬言葉に詰まり、視線を頼りなく泳がせる。この男のそんな顔を見るのも珍しかったのか、お亀はいいものを見たとばかりにほくそ笑んだ。
「……お松の戯れを、あまり真に受けませぬよう」
「戯れですか。まあ、そういうことにしておきましょう」
氏勝を揶揄って少しは気が晴れたのか、お亀の顔からは先ほどの翳りは消えていた。されど、まだ安堵はできぬようであった。
「ともあれ、そういうことでございます」
「と、申されますと?」
いったい何が「そういうこと」なのかわからぬまま、氏勝は訊き返した。
「ですからこの城のことでございます。私とて、あの子の為に最善を尽くしたいではありませんか。ゆえに大殿には、文にて国替えを願い出ておきました」
「……は?」
と、氏勝はまた言葉を失った。目の前の女性がいったい何を言ったのか、すぐには理解が追いつかなかったためだ。
「ですから、国替えを願い出たのでございます。駿府でも常陸でも結構、何なら西国でも構いませぬ。ここでさえなければ、どこでもよろしいのでと」
「本気でございますか?」
やっとのことで口にできた問いが、それだった。いくら五郎太丸が家康の覚え目出度いといえど、そんな我侭が通ると本気で考えているのか。我らはあくまで関東を守る緻密な戦略の一環として、この忍城を拝領しているのだ。それをただ「暑いから」というだけで放り出すことなど許されるわけがない。
「そんなことを願い出たところで、大殿も相手にしないでしょう。むしろ不興を買うだけでございますぞ」
「女子の私が言ったところでそうでしょうね。ですから、そなたの進言ということにしておきました」
いったい今日は何度絶句すればいいのか。氏勝はもう驚くのにも疲れて、大きく肩を落とした。
「大殿には、何と?」
「忍城は堅城と言われておりますが、とてもそうは思えない。小田原攻めのとき落ちなかったのは、単に石田治部が戦下手だっただけのこと。おそらく大殿であれば、半分の兵でも三日で落とせていたことでしょうと」
慥かにそれはおのれが考えていた通りのことだ。されどそれを、じっさいに口に出して言ったことはない。この女性はどうしてこう、妙なところだけ鋭いのか。
「ここはもう忍城は棄却して、関東の防衛線は再構築したほうがよい。信濃守はさように申しておりました……と。何か文句でもありますか?」
「大ありでございます」と、さすがに氏勝も憤慨する。「いったい何を考えておられるのか。勝手にも程がありまする!」
この氏勝が声を荒らげるのは余程のことなのだが、それでもお亀は平然としていた。
「忘れましたか。そなたは私にひとつ、借りがあるのですよ。それを使わせてもらったまで。これでようやく帳消しです」
「あのとき、礼を申すとも言っていたではありませぬか?」
「根に持っているとも伝えましたよ?」
どうやら何を言っても堪えないとわかって、氏勝はそれ以上文句を並べるのを止めた。すでに願い出てしまったものはもう仕方がない。あとはただ、このことが何か問題を引き起こさねばいいと願うだけだ。
「して、大殿より返答は?」
お亀はなおも楽しげに微笑んだまま、ゆっくりと首を振った。
「まだ何とも。もちろんこんな願い出がすぐに通るとは、私とて思っておりません。されど考慮はしてくれることでしょう。聞けば尾張の下野守(家康の四男・松平忠吉)さまも、はじめこの忍城を拝領したのち、すぐに清洲へと移られたとか。五郎太とてそうならぬとも限りません」
関ヶ原の大勝利以降、内府家康は朝廷へ征夷大将軍の宣下を働きかけるのと同時に、支配体制確立のために諸大名の大幅な国替えを行っている。西軍に付いていた毛利や上杉は、赦免されたものの所領を減じられ、また東軍に付いたものの豊臣恩顧の大名たちは、江戸から遠い九州や四国へと配置換えされた。そうして関東周辺は譜代の家臣たちで固め、隙なく江戸を守らせている。されどその再配置はまだ完了したとはいえず、家康も頭を悩ませているようであった。それを見て、まだ再考してもらえる余地ありと考えたのかもしれない。されど。
「いかに某の名を使ったところで、どうにもなりはしないと思いまする。どうぞこの件は、これきりにしていただきとうございます」
「では信濃、そなたはこのままで良いと申すのか。五郎太に何かあってからでは遅いのですよ?」
それとて、今すぐどうなるということでもない。とにかくあとひと月ふた月を凌げば、徐々に過ごし易くもなるはずである。それを我慢することも、ひとかどの武士になるために必要な過程かもしれない。何しろあの内府家康は、幼い頃から過酷な運命を耐えに耐えてきた男なのだ。この程度のことで騒いでいるようでは、その家康に顔向けもできぬであろう。
ただこのときはまだ、氏勝もさほど深刻には受け止めていなかった。どうせ家康とてまともに取り合うまい。国替えというのは、そんな単純なものではないのだと。
されど明けて慶長八年(一六〇三年)一月、耳を疑うような知らせが入った。江戸の家康より下知があり、五郎太丸は忍城を出て甲府に入り、甲斐二十五万石を拝領することになったのである。
慶長七年(一六〇二年)、六月。五郎太丸が家康よりこの武蔵国忍城十万石を拝領して、はじめての夏が来ていた。氏勝も命じられた通り、甲斐での諸事の引継ぎを終えると、年明けにはこの地へと居を移した。与えられた城下の屋敷には、お松をはじめ家人たちもみな越してきている。お松は姉とまた同じ地に住まえることがよほど嬉しかったようで、道中ではみずから荷物のひとつを担いで進むほど浮き浮きとした様子であった。
されどこうして夏を迎えてみて、この地の問題にあらためて直面していた。それは暑さである。
利根川と荒川に挟まれた扇状地に建ち、おのずと堆積して出来た自然の堤を利用した城ではあるが、三方を山に囲まれているせいか風が通らない。その上周囲は沼が点在する湿地帯のため、たえず空気はじっとりとした水気を帯びている。それが夏の陽光に熱せられるためか、他の土地では経験したこともなかったような蒸し暑さに見舞われていた。これにはお松も参っているようで、屋敷に帰るたびにどうにかならぬかと不平を零されている。
参っているのはお亀の方も同様のようで、このところはあまり食も喉を通らぬらしい。そんな中五郎太丸はひとり、父親の我慢強さを受け継いだのか、ぐずることもなく堪えていた。それでも顔を見れば、辛そうなのは明らかだ。
「これは叔父上……よくいらしてくださいました」
上段の間に入ると、氏勝に気付いた小伝次正信が立ち上がった。氏勝はそのままでよいと手で制し、五郎太丸の前に進み出て膝をつく。
「殿。ご気分はいかがでございましょうか」
そう尋ねると、五郎太丸は表情を和らげて大丈夫とばかりに頷いた。しかしその額には玉の汗が浮かび、たえず頬を伝い落ちてゆく。
「ご無理はなさいますな。思うことがあれば、何でも我らにお申し付けくだされ」
「わかった。かたじけなくおもう」
まだいくぶんはたどたどしくも、五郎太丸ははっきりと答えてきた。おそらく齢三つにして、周囲に手を掛けさせまいと我慢することが身に着いてしまってしまっているのだろう。氏勝の目には、その健気さはむしろ痛々しくも見えた。
城主の居室であるこの上段の間にも、やはりむっとするような熱気と湿気が充満している。少しでも涼を取ろうと小窓もすべて開け放っているようだが、風などまったく入って来ない。
「竹腰どのはいかがか。辛くはござらぬか?」
「いえ……我もこのくらい、どうということも……」
そう言いつつも、この正信とて我慢しているのがわかる。こうして城に上がり高禄も与えられているが、その父助九郎は一介の足軽であった。本来ならかような場に居られるはずもないと思っているのだろう。この者も、不平を言いたくとも言えぬのだ。
「さようですか。某はもう、暑くて堪りませぬ」
氏勝は遠慮なくそう言って、懐から扇子を取り出した。そうして大袈裟にぱたぱたと扇ぎはじめる。
「特にこの湿気には参りますな。かような土地であると知っていましたら、傅役など引き受けませなんだ」
「お……叔父上?」
正信がぎょっとしたように氏勝を見た。おそらく戯れであろうと察してはいるのだが、この叔父が例によってにこりともしないので真意が探れないのだった。
「……竹腰どの」と、氏勝は振り返らずに言った。「思うところがあるなら遠慮なく申されよ。さもなければ、殿も不平を零せぬ」
正信ははっと気付いたように目を見開き、それから照れたように笑った。氏勝はそちらに小さく頷きかけると、手にしていた扇子を五郎太丸に手渡す。
幼き主君はそれを手に取り、しばらく不思議そうに眺めていたが、やがて先ほどの氏勝を真似ておのれを扇ごうとする。それでもまだ慣れていないのか、うまく風を起こすことができないようだった。
「殿、お貸しください」
正信が五郎太丸に近付き、その手から扇子を受け取った。そうしてやんわりと、主に向かって風を送りはじめる。淀んでいた空気にさざ波が立ち、五郎太丸は心地よさげに微笑みを浮かべた。
氏勝は満足して頷き、言った。「それでよいのです。この蒸し暑さは尋常ならず、素直になるがよろしいかと」
と、氏勝は小窓の向こうに目をやった。それはまあ……と、正信も観念したようにため息をつく。
「暑さもですが、何よりこの湿気が堪りませぬ。外は見渡す限り沼地でございますからね」
あたりに沼が点在しているというより、沼の中に城が浮かんでいると形容したほうがいいくらいだ。浮城とはよく言ったものだ。
「ここはかつて北条方の成田家が居城としていたのだが、太閤の小田原征伐の際、あの石田治部に水攻めに遭ったという。さもありなん、という土地柄ですな」
「それは聞いております……されど成田家は五万の石田方に囲まれながらも、小田原落城までこの城を守り切ったのでしたか」
正信が氏勝の言葉を受けて続けた。なるほど、よく学んでいるようだ。されどそれは城が堅かったというより、石田治部が戦下手であったためと言うべきか。いざ中に入ってみれば、なるほど堅い城なのかもしれないが、綻びはところどころにある。おそらく攻め手が太閤秀吉であったなら、あるいは内府家康であったなら、その半分の兵で容易く落とせていたであろう。
「守るには良いのかもしれぬが……住むとなると大変ですな。内府さまの元、平穏となった世においては、そちらのほうが大事でしょうに」
正信は城攻めの話に興味があるようで、もう少し成田家の話をしたかったのかもしれない。ゆえに少々名残惜しげではあったが、すぐに「……そうですね」と相槌を打った。
「叔父上が我らほどの頃、かようなときはどうしていたのでございましょう」
「そうですな……たとえば、川で水浴びでもしていましたかな。何しろ山育ちなもので」
正信はその言葉に、「水浴びでございますか」と嬉しそうに笑った。この若武者もここに来るまでは、そのように奔放に過ごしていたはずだ。
「城下の集落の者たちに教えを乞うて、手掴みで魚を捕まえたりもしたものです。みなからは、筋が良いと言われておりました」
「楽しそうですね……叔父上にもそのような頃があったのですか」
とはいえ、今この五郎太丸を連れてさようなことはできない。あの頃も若殿はさすがに許されず、川面を見下ろす曲輪の上から恨めしげに見ていたものだった。氏勝たちも気が咎めて、獲った魚を皆で焼いて、若殿に届けに行ったのを覚えている。
「そうですな……されど川では無理でも、行水くらいなら良いのではござらぬか?」
そうして氏勝はふたりを連れて城の中庭に出ると、大きな盥に井戸水を張った。そして褌ひとつではしゃぎながら水を浴びるふたりを、微笑ましげに見つめていた。もっともその顔は相変わらず、傍からは笑っているようには見えなかったが。
やがてお亀の方付きの女御衆がそれを目に止め、大騒ぎになった。
「こ……これは五郎太丸さま。いったい何をなさっているのですか!」
「行水でござる」氏勝はこともなげに答える。「何か問題でもござろうか?」
「ござろうか!」と、五郎太丸が裸で氏勝の真似をする。それでも女たちは揃って卒倒しそうな顔色で、なおも口々に金切り声を上げた。
「問題どころの話ではございませぬ……ああ、五郎太丸さま、さような格好で……!」
されどそこへ、にこやかな笑みを浮かべたままお亀の方が現れた。そうして楽しげな息子ふたりを見て、眩しいものでも見るように目を細める。
「良いではないですか」と、お亀は女御衆に首を振って言った。「楽しいか、五郎太、小伝次?」
「はい、母上」と答えた正信に、少し遅れて五郎太丸が真似をする。それを聞いてお亀も満足そうに頷いた。
「それは良かったの……では、私もご一緒するとしましょうか」
さらにそう言って帯に手を掛けたところで、女御衆が群がって止めに入った。さすがに氏勝も立ち上がり、その輪の中に加わる。
奥の院にて平謝りする氏勝に、お亀はなおも笑っていた。
「本当に構わぬのですよ。五郎太も楽しそうであったではないですか。小伝次もあのような明るい顔、久しぶりに見ました」
おそらくまだ慣れぬ場で気を張っているであろう正信のことも思っての勧めだったので、お亀にそう言ってもらえると氏勝としても安堵するところであった。
「じっさい、ふたりともこの蒸し暑さは辛いことでしょう。私も京で暑さには慣れていましたが、それでも堪えます」
お亀とお松の故郷でもある京も、ここと同じように山に囲まれて風が通らぬ土地であった。夏の暑さが厳しいことも話に聞いている。
「おまけに、どうにも汚らしくていけません。何しろ城内にまで、蛙や蜥蜴が入り込んでくるのですよ。これでは病が蔓延してもおかしくないことでしょう」
病と口にしたところで、お亀の面差しにはっきりと暗い色が過ぎったのがはっきりと見て取れた。この女性はいかに五郎太丸が元気に育っていても、先の子である仙千代を喪った悲しみは癒えはしないのだろう。きっとこれからもずっと、その影を背負って生きてゆくのだ。それが、もう抱くこともできぬ子の慈しみかたであるかのように。
「心得ております」と、氏勝はお亀を力付けるように言った。「万一のこともなきよう、大殿も駿府から玄斎どのを遣わしてくださいました。些細なことも見逃さぬよう、よく申し付けてくださったようです」
岡部玄斎は、長年徳川家に仕えてきた医師である。特に薬研に長けているとのことで、自ら薬草の研究に取り組んでいる家康にとっても良き相談相手であるそうだ。
「もちろん我らも、五郎太丸さま御為に身命を尽くします。どうかお方さまも、心安んじられますよう」
「安んじて欲しいのであれば、せめてやんわりと笑うくらいはできぬのでしょうか、信濃。いつもそのような堅苦しい顔をされていては、その言もどこまで信じてよいことやら」
お亀が拗ねるように言った。慥かに相手を安堵させたいのであれば、無理にでもにっこりと笑いかけてやるだけでもずいぶん違うであろう。されどそれは、氏勝にとってはもっとも苦手なことであった。
「かたじけなく思えど、某のこの顔は生まれつきでございますゆえ」
「……はたしてどうやら」と、かの女性はなおも続ける。「閨の中ではそうでもない、とお松は申しておりましたが?」
氏勝は一瞬言葉に詰まり、視線を頼りなく泳がせる。この男のそんな顔を見るのも珍しかったのか、お亀はいいものを見たとばかりにほくそ笑んだ。
「……お松の戯れを、あまり真に受けませぬよう」
「戯れですか。まあ、そういうことにしておきましょう」
氏勝を揶揄って少しは気が晴れたのか、お亀の顔からは先ほどの翳りは消えていた。されど、まだ安堵はできぬようであった。
「ともあれ、そういうことでございます」
「と、申されますと?」
いったい何が「そういうこと」なのかわからぬまま、氏勝は訊き返した。
「ですからこの城のことでございます。私とて、あの子の為に最善を尽くしたいではありませんか。ゆえに大殿には、文にて国替えを願い出ておきました」
「……は?」
と、氏勝はまた言葉を失った。目の前の女性がいったい何を言ったのか、すぐには理解が追いつかなかったためだ。
「ですから、国替えを願い出たのでございます。駿府でも常陸でも結構、何なら西国でも構いませぬ。ここでさえなければ、どこでもよろしいのでと」
「本気でございますか?」
やっとのことで口にできた問いが、それだった。いくら五郎太丸が家康の覚え目出度いといえど、そんな我侭が通ると本気で考えているのか。我らはあくまで関東を守る緻密な戦略の一環として、この忍城を拝領しているのだ。それをただ「暑いから」というだけで放り出すことなど許されるわけがない。
「そんなことを願い出たところで、大殿も相手にしないでしょう。むしろ不興を買うだけでございますぞ」
「女子の私が言ったところでそうでしょうね。ですから、そなたの進言ということにしておきました」
いったい今日は何度絶句すればいいのか。氏勝はもう驚くのにも疲れて、大きく肩を落とした。
「大殿には、何と?」
「忍城は堅城と言われておりますが、とてもそうは思えない。小田原攻めのとき落ちなかったのは、単に石田治部が戦下手だっただけのこと。おそらく大殿であれば、半分の兵でも三日で落とせていたことでしょうと」
慥かにそれはおのれが考えていた通りのことだ。されどそれを、じっさいに口に出して言ったことはない。この女性はどうしてこう、妙なところだけ鋭いのか。
「ここはもう忍城は棄却して、関東の防衛線は再構築したほうがよい。信濃守はさように申しておりました……と。何か文句でもありますか?」
「大ありでございます」と、さすがに氏勝も憤慨する。「いったい何を考えておられるのか。勝手にも程がありまする!」
この氏勝が声を荒らげるのは余程のことなのだが、それでもお亀は平然としていた。
「忘れましたか。そなたは私にひとつ、借りがあるのですよ。それを使わせてもらったまで。これでようやく帳消しです」
「あのとき、礼を申すとも言っていたではありませぬか?」
「根に持っているとも伝えましたよ?」
どうやら何を言っても堪えないとわかって、氏勝はそれ以上文句を並べるのを止めた。すでに願い出てしまったものはもう仕方がない。あとはただ、このことが何か問題を引き起こさねばいいと願うだけだ。
「して、大殿より返答は?」
お亀はなおも楽しげに微笑んだまま、ゆっくりと首を振った。
「まだ何とも。もちろんこんな願い出がすぐに通るとは、私とて思っておりません。されど考慮はしてくれることでしょう。聞けば尾張の下野守(家康の四男・松平忠吉)さまも、はじめこの忍城を拝領したのち、すぐに清洲へと移られたとか。五郎太とてそうならぬとも限りません」
関ヶ原の大勝利以降、内府家康は朝廷へ征夷大将軍の宣下を働きかけるのと同時に、支配体制確立のために諸大名の大幅な国替えを行っている。西軍に付いていた毛利や上杉は、赦免されたものの所領を減じられ、また東軍に付いたものの豊臣恩顧の大名たちは、江戸から遠い九州や四国へと配置換えされた。そうして関東周辺は譜代の家臣たちで固め、隙なく江戸を守らせている。されどその再配置はまだ完了したとはいえず、家康も頭を悩ませているようであった。それを見て、まだ再考してもらえる余地ありと考えたのかもしれない。されど。
「いかに某の名を使ったところで、どうにもなりはしないと思いまする。どうぞこの件は、これきりにしていただきとうございます」
「では信濃、そなたはこのままで良いと申すのか。五郎太に何かあってからでは遅いのですよ?」
それとて、今すぐどうなるということでもない。とにかくあとひと月ふた月を凌げば、徐々に過ごし易くもなるはずである。それを我慢することも、ひとかどの武士になるために必要な過程かもしれない。何しろあの内府家康は、幼い頃から過酷な運命を耐えに耐えてきた男なのだ。この程度のことで騒いでいるようでは、その家康に顔向けもできぬであろう。
ただこのときはまだ、氏勝もさほど深刻には受け止めていなかった。どうせ家康とてまともに取り合うまい。国替えというのは、そんな単純なものではないのだと。
されど明けて慶長八年(一六〇三年)一月、耳を疑うような知らせが入った。江戸の家康より下知があり、五郎太丸は忍城を出て甲府に入り、甲斐二十五万石を拝領することになったのである。
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「ま、まさか!?」
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日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
田や沼に龍は潜む
大澤伝兵衛
歴史・時代
徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。
名を田沼龍助という。
足軽出身である父に厳しく育てられ武芸や学問に幼少から励んでおり、美少女かと見間違う程の美貌から受ける印象に反して、恐ろしく無骨な男である。
世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。
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