尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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第二章

(七)

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 会所の板張りの床は、まるで氷のように冷たかった。その上まだ雪の残る道を歩いてきたため、足はほとんど感覚すらなくなっている。されど、それを手で覆って温めることも今は許されない。だからこうしてじっと蹲踞したまま、主が現れるのを待っているしかなかった。
 やがて襖が開き、女御衆たちが列を作って入って来る。そして最後のひとりの腕には、白川布でくるまれた赤子が抱かれていた。そしてかの女は赤子を上座の脇に寝かせると、足音を立てずにそっと戻ってゆく。
「では、皆の者。もっと近う寄って、夜叉熊の顔を見るがいい。これにて、内ケ島も安泰よ」
 上座の男が、いかにも嬉しげに顔をほころばせながら言った。そうしておのれも、父に促されて立ち上がる。
「おう、萬壽丸まんじゅまる(氏勝の幼名)か。ここにおるものの中では、おぬしが最も齢も近かろう。弟と思うて、可愛がってやってくれぬか」
「そんな……とんでもございません」と、傍らで父が恐縮しながら首を振る。「山下の家は、内ケ島あってにございます。弟だなどと……」
 そんな父をちらと見たのち、一歩前に進んで赤子を覗き込む。手は五歳のおのれよりもさらに小さく、まるで精妙な細工物のようであった。されど身を包んだ白川布をしっかりと掴み、離そうとしない。早くも利かん気の強さを見せているようだ。
「よいか……萬壽よ。このお方が、そなたの主となるのだ」
 父が囁くように言った。赤子に吸い寄せられるように目を離せぬまま、その声をぼんやりと聞いている。
「ゆめ、忘れるでない。このお方を守り、支えるためだけにそなたはおる。そなたは、そのためだけに生まれてきたのだぞ」
 何ゆえであろう。その赤子を見ていると、不思議とその言葉にも得心してしまう。自然と首が動き、「……はい」と頷いてしまう。そうだ、おのれの命はそのためにあるのだと。
 

 
 大坂城のとにかく長い廊下を進みながら、氏勝は今朝の夢のことを反芻していた。あれはそう、おのれが若殿とはじめて対面したときのものだ。今となっては記憶の彼方に霞んで、すぐには思い出すこともできないような光景。されど夢はひどく鮮明で、覚えているはずもないことまでやけに生々しく思い出させた。まだ雪の残る春の飛騨の寒さ、氷のように冷たい板床。上機嫌な主君・氏理うじまさの笑顔。はじめて目にする、赤子の小さな手。触れたらすぐに折れてしまいそうで、それでいてしっかりと身を包む布を掴む指先。すべてがまるで今この目で見て、この手で触れているかのようだった。
 いったい何ゆえ今頃、あのような夢を見たのか。もはや思い出しても痛みしか覚えない、たまらなく幸福な情景。そのお陰で、どうにも気分が苛立って仕方がなかった。こんな心持ちのままであの女性に会っては、またつまらぬ舌禍を引き起こしてしまいそうだ。
 だからといって、このまま引き返してしまうわけにもいかなかった。それでは何のために甲府から、わざわざ大坂まで出てきたのかもわからなくなる。
 慶長六年も半ばを過ぎた秋のことである。関が原の大戦から一年が経ち、誰もが今度こそ戦乱も終わりと信じはじめたのか、世も次第に落ち着きつつあった。その中で内府家康は着々と支配体制を固め、その総仕上げとして朝廷に対し、征夷大将軍の任命を迫っているという。もしもそれが実現すれば、足利幕府の崩壊から三十年を待って、日の本に再び源氏の棟梁が君臨することとなる。形骸化してほとんど力を持たなかった足利幕府とは違い、今度は正真正銘、誰もが認めざるを得ない天下人だ。いよいよこの国はひとつにまとまり、長の静謐を得るのであろうと思われた。
 氏勝もこの一年は、甲斐への移封に伴う諸事に奔走させられていた。それでもみな慣れた土地とあってか、比較的すんなりと進んではいた。主計頭の薫陶のお陰か、禄高に対する不満もそれほどは出なかったのは、裏方としてもありがたいことこの上ない。お松も新しい土地と屋敷に早くも慣れて、ずいぶんと寛いだ表情を見せるようになっていた。
 そんな折、氏勝のもとに大坂のお亀より文が届いた。そこにはすぐに大坂に来るようにとの旨が、丁寧ではあるが有無を言わせぬ調子で書かれていたが、肝心の宛所あてどころ(用件)が何も記されていなかった。嫌な予感は覚えたものの、さりとて断るわけにもいかない。氏勝はまたお松からの文を懐に携え、西への旅路に就いたのであった。
 そうして大坂城の西の丸御殿にて、氏勝は一年ぶりにお亀と対面した。淡く藤の柄が染め抜かれた、明るい萌黄色の片身替わりに身を包んだお亀は、ずいぶんと肌艶も良く表情も満ち足りているようだった。
「お変わりないようで何よりです、信濃守」
「お方さまも、お顔の色もよろしいようで。少しふくよかにもなられましたか?」
 ふくよかになった、というのはこの頃の女性に対して、決して悪口ではない。特に家康は、ふくよかで健康そうな女性を好んだとも言われている。
「五郎太丸さまもお元気とのこと、まことに喜ばしき限りにございます」
「やんちゃで手を焼いておりまする。いったい誰に似たのやら」
 そう言いつつも、お亀の表情はやはり明るかった。仙千代は生まれて間もない頃から生気がなく、長く生きられぬということが最初からわかっていたものだった。それだけに、手を焼くほどに元気というのが嬉しくてならないようだ。お亀だけでなく、城の女御衆の顔もみな朗らかに見える。
「して此度は五郎太丸さまのお目見えの儀に、某もお招きいただけたというわけでございますか」
「儀というほどの大袈裟なものではございません」と、お亀は上機嫌に首を振った。「ちょうど主計どのも大坂に来られている由、五郎太と傅の者たちとの顔合わせをしておこうと思っただけです。これから長い関わりになるわけですから、ちゃんと挨拶をさせておかねばと」
「されど、どうして某もその場に?」
 慥かに氏勝は、とうとう顔を合わせることもなかったが、先に亡くなった仙千代の傅のひとりには数えられていた。ただし五郎太丸については、まだ何も命じられていない。
「何を言っているのです」されどお亀は、にやにやと笑いながら答える。「そなたがいなくてははじまりませぬ。何しろそなたは、五郎太の傅役筆頭なのですから」
「……は?」と、氏勝は思わず妙な声を上げてしまった。「今、何と申されましたか?」
「ですから、そなたが傅役筆頭です。以前そう申したでしょう」
「いや……されどあれは、ただの戯れであったのでは……」
「あの子のことで、私が戯れなど申すわけがないではありませんか」
 どうやらお亀のほうは、笑ってはいても本気であるらしい。されど氏勝としてはその責任の重さに、ただ尻込みするばかりであった。
「我などにさようなお役目が務まるは思えませぬ。どうかお考え直し下され」
「そうはいいきません。大殿にももうお許しをいただいております。今さら断るなどとは言わせませんよ」
「されど某には、甲斐での務めもございます。いくらか落ち着いてきたとはいえ、移封に伴う諸事もまだまだ残っており、中途で投げ出すわけにも参りませぬ」
「わかっております。五郎太は大殿から武蔵おし城を拝領いたしましたので、年が明ければそちらに移ることになるでしょう。お役目に就くのはそれからで構いません」
「忍城……で、ございますか?」
 その城の名はもちろん知っている。以前過ごした厩橋からも近く、先日会津へと進軍する際に宿営地ともなった場所だ。江戸の北の守りの重要な拠点でもある。
「お松にも久しぶりに会えそうですね。楽しみにしていると伝えてくれますか?」
 それ以上の反駁は許さぬとばかりに、お亀はにっこりと笑ってわずかに首を傾けた。
 
 
 西の丸の会所には、平岩主計頭をはじめ二十人からなる者たちが整然と並び、これからおのが主となる幼君の登場を待っていた。その多くが若武者で、大役の緊張に顔を強張らせているように見える。中でも氏勝の隣に座っている正信はひときわ若く、まだほとんど童と言っていい。
「肩の力を抜きなされ、竹腰たけごしどの。何、此度はただの顔合わせにござる」
 小声でそう言ってやると、若者はまだ顔を引き攣らせながらも笑みを浮かべた。
「さ……さようですね。お気遣い有難うございます、叔父上」
 叔父などと呼ばれるのもまだ慣れないが、それでも小さく頷いてやった。この竹腰小伝次こでんじ正信まさのぶは、お亀の方が最初の夫・竹腰助九郎正時との間に産んだ子で、五郎太丸の異父兄にあたる。それゆえ齢十にしてすでに五千石を与えられ、小姓頭にも任じられていた。
 とはいえその若さで大役を与えられ、重圧もひとしおであろう。お亀の方からは、この正信の面倒もよく見るよう任されていた。されど齢のわりに所作も堂に入っており、聡明なところも見て取れる。それほど手が掛かるとも思えなかった。
 目を前に向けると、そこにひとりだけ壮年の武者が静かに佇んでいる。顔を合わせるのははじめてであったが、その名はよく知っていた。やはり家康の信任厚い重鎮、安藤帯刀直次たてわきなおつぐである。
 幼くして徳川に仕え、浅井・朝倉と戦った姉川の役にて戦功を挙げて以来、多くの戦に参じてきた猛将であった。さらに同時に政務にも通じ、今は主君の征夷大将軍宣下に向けて奔走していると聞いている。本多佐渡守正信の子・上野介正純こうずけのすけまさずみと並び、徳川家の政務における両翼とも言われている男だ。その直次を名代として送ってきたことからも、このお目見えに対する家康の力の入れようがわかる。若武者たちが緊張するのも無理はなかった。
 やがて会所の戸が開き、平岩主計頭がゆっくりと入ってきた。そうして上座の右側に腰を落とすと、「さあ、若さま。こちらへどうぞ」と促す。
 ややあって、小さな羽織袴に身を包んだ赤子がぎこちなく歩み入ってくる。そしてどうにか転ばずに辿り着くと、親吉の手を借りて上座に腰を下ろした。
 最後にお亀の方がその隣に座ると、親吉が威厳を帯びた声で言った。
「五郎太丸さまじゃ。一同、面を上げよ」
 氏勝も、少し遅れて小伝次も、その言葉に顔を上げた。そして眼前に座る、おのが主とはじめて向かい合う。
「ごろぉうた……まぁるであるぅ」
 舌っ足らずの調子で、それでも不思議と耳に染み入るような声で、幼君はそう名乗りを上げた。そして再び一同は、静かに首を垂れる。その有り様に、お亀の方が眩しげに目を細めているのがちらりと見えた。
「ここにいる者たちはみな、今このときより五郎太丸さまの家臣となる。心して仕えよ。よいな?」
 一同が声を合わせて「ははっ!」と応えた。その声に、五郎太丸は一瞬びくりと身を震わせる。わずかに目を上げてその顔を窺い見た氏勝は、この幼君もまたひどく緊張しているのがわかった。無理もない。おそらくはまだ何もわからぬままに、大勢の大人の前に座らされて、怯えるなというのも酷な話である。
「山下信濃守、出でよ」
 氏勝は「はっ」と答えて立ち上がった。そうして音を立てぬよう摺り足で、五郎太丸の前に進み出る。されどこれ以上幼子を怯えさせぬよう、十分な間を置いて膝をついた。
「もう少し前へ出よ」と、親吉が促す。されど無礼を承知で、氏勝は首を振った。
「某はここにて……五郎太丸さまも緊張されているご様子」
「よい……もっと前へ。殿は大丈夫じゃ」
 氏勝は顔を上げ、五郎太丸の様子を窺った。慥かに氏勝の不愛想な顔を見ても、それ以上怯えているようには見えなかった。それどころか興味深げに、身を乗り出してこちらを覗き込んでいる。
「……では」と、氏勝は前に進み出た。そうして一間ほどのところまで詰めると、出来るだけ声音を和らげて名乗った。
「山下信濃守氏勝にございます」
「信濃守」と、親吉が続けた。「そのほうを御傅役筆頭に任ずる。しかと務めよ」
 やはり断ることなどできぬか、と氏勝はそっと嘆息する。されどその任は、ここへきていっそう重く感じられていた。目の前の幼君の、触れれば壊れてしまいそうなあやうさよ。おのれごときに、守ることなど本当にできるのかと。
「どうした……信濃守?」
 返答がないことを訝しく思ったか、親吉が苛立たしげに尋ねてきた。仕方なく、氏勝も「はっ」と声を返そうとする。されどそのときだった。五郎太丸が、不意に立ち上がったのは。
「……五郎太?」
 気付いたお亀の方が、慌てたように腰を浮かした。それでもすぐに止めることはできず、幼君はそのままよちよちと氏勝のほうへ歩み寄って来る。しかしその手前で足を縺れさせ、つんのめるように倒れ込んできた。
 氏勝は咄嗟に手を伸ばして、五郎太丸が床に手をつく寸前で受け止める。すぐに親吉とお亀が駆け寄ってきて、幼君を両側から助け起こした。
「危のうございましたな……若殿」
 氏勝がそう柔らかく言うと、五郎太丸が嬉しそうに笑うのが見えた。その顔を見て、お亀が驚いたように目を丸くし、そして氏勝とを見比べた。何のことかわからぬまま、氏勝はなおも幼君に語りかける。
「さあ……どうぞお戻りくださいませ」
 そうしてお亀にも、小さく頷きかける。それを見てようやく我に返ったのか、お亀は五郎太丸を抱き上げようとした。されどそれと同時に、氏勝は右腕がぐいと持ち上げられるのを感じた。見ると、幼君の小さな手がこちらの袖を掴み、しっかりと離さずにいるのがわかった。
「これはまた……気に入られたものだのう」
 親吉もそれを見て、くすりと笑った。されど氏勝に目を戻すと、訝しげに眉を顰める。
「……信濃、おぬし……」
 お亀も幼子を抱き上げようとした中腰の姿勢のまま、また驚いて固まっていた。そのふたりの顔を見て、氏勝はようやくおのれのことに気が付いた。おのれが、我知らず泣いていることに。
―――我とともにいるのだ、いいな?
 そんな声が、耳元で慥かに聞こえた。
 氏勝はおのれの袖にそっと手を伸ばし、細くか弱い指を優しく解いた。そうして顔を隠すようにその場に平伏し、額を床に押し付ける。それでもなお、涙は滂沱のごとく溢れて止まらなかった。これはいったいどうしたというのだ。氏勝には、おのれでおのれがわからなかった。
「ご案じめさるな……若殿」言葉が、口をついて出る。「某が必ずや若殿をお守りし、お支えしてゆきます。すべて、この半三郎にお任せくださいませ」
―――ゆめ、忘れるでないぞ。
 再び声が聞こえた。それは遠き日の父の声だった。
―――そなたは、そのためだけに生まれてきたのだ。
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