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第二章
(七)
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会所の板張りの床は、まるで氷のように冷たかった。その上まだ雪の残る道を歩いてきたため、足はほとんど感覚すらなくなっている。されど、それを手で覆って温めることも今は許されない。だからこうしてじっと蹲踞したまま、主が現れるのを待っているしかなかった。
やがて襖が開き、女御衆たちが列を作って入って来る。そして最後のひとりの腕には、白川布でくるまれた赤子が抱かれていた。そしてかの女は赤子を上座の脇に寝かせると、足音を立てずにそっと戻ってゆく。
「では、皆の者。もっと近う寄って、夜叉熊の顔を見るがいい。これにて、内ケ島も安泰よ」
上座の男が、いかにも嬉しげに顔をほころばせながら言った。そうしておのれも、父に促されて立ち上がる。
「おう、萬壽丸(氏勝の幼名)か。ここにおるものの中では、おぬしが最も齢も近かろう。弟と思うて、可愛がってやってくれぬか」
「そんな……とんでもございません」と、傍らで父が恐縮しながら首を振る。「山下の家は、内ケ島あってにございます。弟だなどと……」
そんな父をちらと見たのち、一歩前に進んで赤子を覗き込む。手は五歳のおのれよりもさらに小さく、まるで精妙な細工物のようであった。されど身を包んだ白川布をしっかりと掴み、離そうとしない。早くも利かん気の強さを見せているようだ。
「よいか……萬壽よ。このお方が、そなたの主となるのだ」
父が囁くように言った。赤子に吸い寄せられるように目を離せぬまま、その声をぼんやりと聞いている。
「ゆめ、忘れるでない。このお方を守り、支えるためだけにそなたはおる。そなたは、そのためだけに生まれてきたのだぞ」
何ゆえであろう。その赤子を見ていると、不思議とその言葉にも得心してしまう。自然と首が動き、「……はい」と頷いてしまう。そうだ、おのれの命はそのためにあるのだと。
※
大坂城のとにかく長い廊下を進みながら、氏勝は今朝の夢のことを反芻していた。あれはそう、おのれが若殿とはじめて対面したときのものだ。今となっては記憶の彼方に霞んで、すぐには思い出すこともできないような光景。されど夢はひどく鮮明で、覚えているはずもないことまでやけに生々しく思い出させた。まだ雪の残る春の飛騨の寒さ、氷のように冷たい板床。上機嫌な主君・氏理の笑顔。はじめて目にする、赤子の小さな手。触れたらすぐに折れてしまいそうで、それでいてしっかりと身を包む布を掴む指先。すべてがまるで今この目で見て、この手で触れているかのようだった。
いったい何ゆえ今頃、あのような夢を見たのか。もはや思い出しても痛みしか覚えない、たまらなく幸福な情景。そのお陰で、どうにも気分が苛立って仕方がなかった。こんな心持ちのままであの女性に会っては、またつまらぬ舌禍を引き起こしてしまいそうだ。
だからといって、このまま引き返してしまうわけにもいかなかった。それでは何のために甲府から、わざわざ大坂まで出てきたのかもわからなくなる。
慶長六年も半ばを過ぎた秋のことである。関が原の大戦から一年が経ち、誰もが今度こそ戦乱も終わりと信じはじめたのか、世も次第に落ち着きつつあった。その中で内府家康は着々と支配体制を固め、その総仕上げとして朝廷に対し、征夷大将軍の任命を迫っているという。もしもそれが実現すれば、足利幕府の崩壊から三十年を待って、日の本に再び源氏の棟梁が君臨することとなる。形骸化してほとんど力を持たなかった足利幕府とは違い、今度は正真正銘、誰もが認めざるを得ない天下人だ。いよいよこの国はひとつにまとまり、長の静謐を得るのであろうと思われた。
氏勝もこの一年は、甲斐への移封に伴う諸事に奔走させられていた。それでもみな慣れた土地とあってか、比較的すんなりと進んではいた。主計頭の薫陶のお陰か、禄高に対する不満もそれほどは出なかったのは、裏方としてもありがたいことこの上ない。お松も新しい土地と屋敷に早くも慣れて、ずいぶんと寛いだ表情を見せるようになっていた。
そんな折、氏勝のもとに大坂のお亀より文が届いた。そこにはすぐに大坂に来るようにとの旨が、丁寧ではあるが有無を言わせぬ調子で書かれていたが、肝心の宛所(用件)が何も記されていなかった。嫌な予感は覚えたものの、さりとて断るわけにもいかない。氏勝はまたお松からの文を懐に携え、西への旅路に就いたのであった。
そうして大坂城の西の丸御殿にて、氏勝は一年ぶりにお亀と対面した。淡く藤の柄が染め抜かれた、明るい萌黄色の片身替わりに身を包んだお亀は、ずいぶんと肌艶も良く表情も満ち足りているようだった。
「お変わりないようで何よりです、信濃守」
「お方さまも、お顔の色もよろしいようで。少しふくよかにもなられましたか?」
ふくよかになった、というのはこの頃の女性に対して、決して悪口ではない。特に家康は、ふくよかで健康そうな女性を好んだとも言われている。
「五郎太丸さまもお元気とのこと、まことに喜ばしき限りにございます」
「やんちゃで手を焼いておりまする。いったい誰に似たのやら」
そう言いつつも、お亀の表情はやはり明るかった。仙千代は生まれて間もない頃から生気がなく、長く生きられぬということが最初からわかっていたものだった。それだけに、手を焼くほどに元気というのが嬉しくてならないようだ。お亀だけでなく、城の女御衆の顔もみな朗らかに見える。
「して此度は五郎太丸さまのお目見えの儀に、某もお招きいただけたというわけでございますか」
「儀というほどの大袈裟なものではございません」と、お亀は上機嫌に首を振った。「ちょうど主計どのも大坂に来られている由、五郎太と傅の者たちとの顔合わせをしておこうと思っただけです。これから長い関わりになるわけですから、ちゃんと挨拶をさせておかねばと」
「されど、どうして某もその場に?」
慥かに氏勝は、とうとう顔を合わせることもなかったが、先に亡くなった仙千代の傅のひとりには数えられていた。ただし五郎太丸については、まだ何も命じられていない。
「何を言っているのです」されどお亀は、にやにやと笑いながら答える。「そなたがいなくてははじまりませぬ。何しろそなたは、五郎太の傅役筆頭なのですから」
「……は?」と、氏勝は思わず妙な声を上げてしまった。「今、何と申されましたか?」
「ですから、そなたが傅役筆頭です。以前そう申したでしょう」
「いや……されどあれは、ただの戯れであったのでは……」
「あの子のことで、私が戯れなど申すわけがないではありませんか」
どうやらお亀のほうは、笑ってはいても本気であるらしい。されど氏勝としてはその責任の重さに、ただ尻込みするばかりであった。
「我などにさようなお役目が務まるは思えませぬ。どうかお考え直し下され」
「そうはいいきません。大殿にももうお許しをいただいております。今さら断るなどとは言わせませんよ」
「されど某には、甲斐での務めもございます。いくらか落ち着いてきたとはいえ、移封に伴う諸事もまだまだ残っており、中途で投げ出すわけにも参りませぬ」
「わかっております。五郎太は大殿から武蔵忍城を拝領いたしましたので、年が明ければそちらに移ることになるでしょう。お役目に就くのはそれからで構いません」
「忍城……で、ございますか?」
その城の名はもちろん知っている。以前過ごした厩橋からも近く、先日会津へと進軍する際に宿営地ともなった場所だ。江戸の北の守りの重要な拠点でもある。
「お松にも久しぶりに会えそうですね。楽しみにしていると伝えてくれますか?」
それ以上の反駁は許さぬとばかりに、お亀はにっこりと笑ってわずかに首を傾けた。
西の丸の会所には、平岩主計頭をはじめ二十人からなる者たちが整然と並び、これからおのが主となる幼君の登場を待っていた。その多くが若武者で、大役の緊張に顔を強張らせているように見える。中でも氏勝の隣に座っている正信はひときわ若く、まだほとんど童と言っていい。
「肩の力を抜きなされ、竹腰どの。何、此度はただの顔合わせにござる」
小声でそう言ってやると、若者はまだ顔を引き攣らせながらも笑みを浮かべた。
「さ……さようですね。お気遣い有難うございます、叔父上」
叔父などと呼ばれるのもまだ慣れないが、それでも小さく頷いてやった。この竹腰小伝次正信は、お亀の方が最初の夫・竹腰助九郎正時との間に産んだ子で、五郎太丸の異父兄にあたる。それゆえ齢十にしてすでに五千石を与えられ、小姓頭にも任じられていた。
とはいえその若さで大役を与えられ、重圧もひとしおであろう。お亀の方からは、この正信の面倒もよく見るよう任されていた。されど齢のわりに所作も堂に入っており、聡明なところも見て取れる。それほど手が掛かるとも思えなかった。
目を前に向けると、そこにひとりだけ壮年の武者が静かに佇んでいる。顔を合わせるのははじめてであったが、その名はよく知っていた。やはり家康の信任厚い重鎮、安藤帯刀直次である。
幼くして徳川に仕え、浅井・朝倉と戦った姉川の役にて戦功を挙げて以来、多くの戦に参じてきた猛将であった。さらに同時に政務にも通じ、今は主君の征夷大将軍宣下に向けて奔走していると聞いている。本多佐渡守正信の子・上野介正純と並び、徳川家の政務における両翼とも言われている男だ。その直次を名代として送ってきたことからも、このお目見えに対する家康の力の入れようがわかる。若武者たちが緊張するのも無理はなかった。
やがて会所の戸が開き、平岩主計頭がゆっくりと入ってきた。そうして上座の右側に腰を落とすと、「さあ、若さま。こちらへどうぞ」と促す。
ややあって、小さな羽織袴に身を包んだ赤子がぎこちなく歩み入ってくる。そしてどうにか転ばずに辿り着くと、親吉の手を借りて上座に腰を下ろした。
最後にお亀の方がその隣に座ると、親吉が威厳を帯びた声で言った。
「五郎太丸さまじゃ。一同、面を上げよ」
氏勝も、少し遅れて小伝次も、その言葉に顔を上げた。そして眼前に座る、おのが主とはじめて向かい合う。
「ごろぉうた……まぁるであるぅ」
舌っ足らずの調子で、それでも不思議と耳に染み入るような声で、幼君はそう名乗りを上げた。そして再び一同は、静かに首を垂れる。その有り様に、お亀の方が眩しげに目を細めているのがちらりと見えた。
「ここにいる者たちはみな、今このときより五郎太丸さまの家臣となる。心して仕えよ。よいな?」
一同が声を合わせて「ははっ!」と応えた。その声に、五郎太丸は一瞬びくりと身を震わせる。わずかに目を上げてその顔を窺い見た氏勝は、この幼君もまたひどく緊張しているのがわかった。無理もない。おそらくはまだ何もわからぬままに、大勢の大人の前に座らされて、怯えるなというのも酷な話である。
「山下信濃守、出でよ」
氏勝は「はっ」と答えて立ち上がった。そうして音を立てぬよう摺り足で、五郎太丸の前に進み出る。されどこれ以上幼子を怯えさせぬよう、十分な間を置いて膝をついた。
「もう少し前へ出よ」と、親吉が促す。されど無礼を承知で、氏勝は首を振った。
「某はここにて……五郎太丸さまも緊張されているご様子」
「よい……もっと前へ。殿は大丈夫じゃ」
氏勝は顔を上げ、五郎太丸の様子を窺った。慥かに氏勝の不愛想な顔を見ても、それ以上怯えているようには見えなかった。それどころか興味深げに、身を乗り出してこちらを覗き込んでいる。
「……では」と、氏勝は前に進み出た。そうして一間ほどのところまで詰めると、出来るだけ声音を和らげて名乗った。
「山下信濃守氏勝にございます」
「信濃守」と、親吉が続けた。「そのほうを御傅役筆頭に任ずる。しかと務めよ」
やはり断ることなどできぬか、と氏勝はそっと嘆息する。されどその任は、ここへきていっそう重く感じられていた。目の前の幼君の、触れれば壊れてしまいそうなあやうさよ。おのれごときに、守ることなど本当にできるのかと。
「どうした……信濃守?」
返答がないことを訝しく思ったか、親吉が苛立たしげに尋ねてきた。仕方なく、氏勝も「はっ」と声を返そうとする。されどそのときだった。五郎太丸が、不意に立ち上がったのは。
「……五郎太?」
気付いたお亀の方が、慌てたように腰を浮かした。それでもすぐに止めることはできず、幼君はそのままよちよちと氏勝のほうへ歩み寄って来る。しかしその手前で足を縺れさせ、つんのめるように倒れ込んできた。
氏勝は咄嗟に手を伸ばして、五郎太丸が床に手をつく寸前で受け止める。すぐに親吉とお亀が駆け寄ってきて、幼君を両側から助け起こした。
「危のうございましたな……若殿」
氏勝がそう柔らかく言うと、五郎太丸が嬉しそうに笑うのが見えた。その顔を見て、お亀が驚いたように目を丸くし、そして氏勝とを見比べた。何のことかわからぬまま、氏勝はなおも幼君に語りかける。
「さあ……どうぞお戻りくださいませ」
そうしてお亀にも、小さく頷きかける。それを見てようやく我に返ったのか、お亀は五郎太丸を抱き上げようとした。されどそれと同時に、氏勝は右腕がぐいと持ち上げられるのを感じた。見ると、幼君の小さな手がこちらの袖を掴み、しっかりと離さずにいるのがわかった。
「これはまた……気に入られたものだのう」
親吉もそれを見て、くすりと笑った。されど氏勝に目を戻すと、訝しげに眉を顰める。
「……信濃、おぬし……」
お亀も幼子を抱き上げようとした中腰の姿勢のまま、また驚いて固まっていた。そのふたりの顔を見て、氏勝はようやくおのれのことに気が付いた。おのれが、我知らず泣いていることに。
―――我とともにいるのだ、いいな?
そんな声が、耳元で慥かに聞こえた。
氏勝はおのれの袖にそっと手を伸ばし、細くか弱い指を優しく解いた。そうして顔を隠すようにその場に平伏し、額を床に押し付ける。それでもなお、涙は滂沱のごとく溢れて止まらなかった。これはいったいどうしたというのだ。氏勝には、おのれでおのれがわからなかった。
「ご案じめさるな……若殿」言葉が、口をついて出る。「某が必ずや若殿をお守りし、お支えしてゆきます。すべて、この半三郎にお任せくださいませ」
―――ゆめ、忘れるでないぞ。
再び声が聞こえた。それは遠き日の父の声だった。
―――そなたは、そのためだけに生まれてきたのだ。
やがて襖が開き、女御衆たちが列を作って入って来る。そして最後のひとりの腕には、白川布でくるまれた赤子が抱かれていた。そしてかの女は赤子を上座の脇に寝かせると、足音を立てずにそっと戻ってゆく。
「では、皆の者。もっと近う寄って、夜叉熊の顔を見るがいい。これにて、内ケ島も安泰よ」
上座の男が、いかにも嬉しげに顔をほころばせながら言った。そうしておのれも、父に促されて立ち上がる。
「おう、萬壽丸(氏勝の幼名)か。ここにおるものの中では、おぬしが最も齢も近かろう。弟と思うて、可愛がってやってくれぬか」
「そんな……とんでもございません」と、傍らで父が恐縮しながら首を振る。「山下の家は、内ケ島あってにございます。弟だなどと……」
そんな父をちらと見たのち、一歩前に進んで赤子を覗き込む。手は五歳のおのれよりもさらに小さく、まるで精妙な細工物のようであった。されど身を包んだ白川布をしっかりと掴み、離そうとしない。早くも利かん気の強さを見せているようだ。
「よいか……萬壽よ。このお方が、そなたの主となるのだ」
父が囁くように言った。赤子に吸い寄せられるように目を離せぬまま、その声をぼんやりと聞いている。
「ゆめ、忘れるでない。このお方を守り、支えるためだけにそなたはおる。そなたは、そのためだけに生まれてきたのだぞ」
何ゆえであろう。その赤子を見ていると、不思議とその言葉にも得心してしまう。自然と首が動き、「……はい」と頷いてしまう。そうだ、おのれの命はそのためにあるのだと。
※
大坂城のとにかく長い廊下を進みながら、氏勝は今朝の夢のことを反芻していた。あれはそう、おのれが若殿とはじめて対面したときのものだ。今となっては記憶の彼方に霞んで、すぐには思い出すこともできないような光景。されど夢はひどく鮮明で、覚えているはずもないことまでやけに生々しく思い出させた。まだ雪の残る春の飛騨の寒さ、氷のように冷たい板床。上機嫌な主君・氏理の笑顔。はじめて目にする、赤子の小さな手。触れたらすぐに折れてしまいそうで、それでいてしっかりと身を包む布を掴む指先。すべてがまるで今この目で見て、この手で触れているかのようだった。
いったい何ゆえ今頃、あのような夢を見たのか。もはや思い出しても痛みしか覚えない、たまらなく幸福な情景。そのお陰で、どうにも気分が苛立って仕方がなかった。こんな心持ちのままであの女性に会っては、またつまらぬ舌禍を引き起こしてしまいそうだ。
だからといって、このまま引き返してしまうわけにもいかなかった。それでは何のために甲府から、わざわざ大坂まで出てきたのかもわからなくなる。
慶長六年も半ばを過ぎた秋のことである。関が原の大戦から一年が経ち、誰もが今度こそ戦乱も終わりと信じはじめたのか、世も次第に落ち着きつつあった。その中で内府家康は着々と支配体制を固め、その総仕上げとして朝廷に対し、征夷大将軍の任命を迫っているという。もしもそれが実現すれば、足利幕府の崩壊から三十年を待って、日の本に再び源氏の棟梁が君臨することとなる。形骸化してほとんど力を持たなかった足利幕府とは違い、今度は正真正銘、誰もが認めざるを得ない天下人だ。いよいよこの国はひとつにまとまり、長の静謐を得るのであろうと思われた。
氏勝もこの一年は、甲斐への移封に伴う諸事に奔走させられていた。それでもみな慣れた土地とあってか、比較的すんなりと進んではいた。主計頭の薫陶のお陰か、禄高に対する不満もそれほどは出なかったのは、裏方としてもありがたいことこの上ない。お松も新しい土地と屋敷に早くも慣れて、ずいぶんと寛いだ表情を見せるようになっていた。
そんな折、氏勝のもとに大坂のお亀より文が届いた。そこにはすぐに大坂に来るようにとの旨が、丁寧ではあるが有無を言わせぬ調子で書かれていたが、肝心の宛所(用件)が何も記されていなかった。嫌な予感は覚えたものの、さりとて断るわけにもいかない。氏勝はまたお松からの文を懐に携え、西への旅路に就いたのであった。
そうして大坂城の西の丸御殿にて、氏勝は一年ぶりにお亀と対面した。淡く藤の柄が染め抜かれた、明るい萌黄色の片身替わりに身を包んだお亀は、ずいぶんと肌艶も良く表情も満ち足りているようだった。
「お変わりないようで何よりです、信濃守」
「お方さまも、お顔の色もよろしいようで。少しふくよかにもなられましたか?」
ふくよかになった、というのはこの頃の女性に対して、決して悪口ではない。特に家康は、ふくよかで健康そうな女性を好んだとも言われている。
「五郎太丸さまもお元気とのこと、まことに喜ばしき限りにございます」
「やんちゃで手を焼いておりまする。いったい誰に似たのやら」
そう言いつつも、お亀の表情はやはり明るかった。仙千代は生まれて間もない頃から生気がなく、長く生きられぬということが最初からわかっていたものだった。それだけに、手を焼くほどに元気というのが嬉しくてならないようだ。お亀だけでなく、城の女御衆の顔もみな朗らかに見える。
「して此度は五郎太丸さまのお目見えの儀に、某もお招きいただけたというわけでございますか」
「儀というほどの大袈裟なものではございません」と、お亀は上機嫌に首を振った。「ちょうど主計どのも大坂に来られている由、五郎太と傅の者たちとの顔合わせをしておこうと思っただけです。これから長い関わりになるわけですから、ちゃんと挨拶をさせておかねばと」
「されど、どうして某もその場に?」
慥かに氏勝は、とうとう顔を合わせることもなかったが、先に亡くなった仙千代の傅のひとりには数えられていた。ただし五郎太丸については、まだ何も命じられていない。
「何を言っているのです」されどお亀は、にやにやと笑いながら答える。「そなたがいなくてははじまりませぬ。何しろそなたは、五郎太の傅役筆頭なのですから」
「……は?」と、氏勝は思わず妙な声を上げてしまった。「今、何と申されましたか?」
「ですから、そなたが傅役筆頭です。以前そう申したでしょう」
「いや……されどあれは、ただの戯れであったのでは……」
「あの子のことで、私が戯れなど申すわけがないではありませんか」
どうやらお亀のほうは、笑ってはいても本気であるらしい。されど氏勝としてはその責任の重さに、ただ尻込みするばかりであった。
「我などにさようなお役目が務まるは思えませぬ。どうかお考え直し下され」
「そうはいいきません。大殿にももうお許しをいただいております。今さら断るなどとは言わせませんよ」
「されど某には、甲斐での務めもございます。いくらか落ち着いてきたとはいえ、移封に伴う諸事もまだまだ残っており、中途で投げ出すわけにも参りませぬ」
「わかっております。五郎太は大殿から武蔵忍城を拝領いたしましたので、年が明ければそちらに移ることになるでしょう。お役目に就くのはそれからで構いません」
「忍城……で、ございますか?」
その城の名はもちろん知っている。以前過ごした厩橋からも近く、先日会津へと進軍する際に宿営地ともなった場所だ。江戸の北の守りの重要な拠点でもある。
「お松にも久しぶりに会えそうですね。楽しみにしていると伝えてくれますか?」
それ以上の反駁は許さぬとばかりに、お亀はにっこりと笑ってわずかに首を傾けた。
西の丸の会所には、平岩主計頭をはじめ二十人からなる者たちが整然と並び、これからおのが主となる幼君の登場を待っていた。その多くが若武者で、大役の緊張に顔を強張らせているように見える。中でも氏勝の隣に座っている正信はひときわ若く、まだほとんど童と言っていい。
「肩の力を抜きなされ、竹腰どの。何、此度はただの顔合わせにござる」
小声でそう言ってやると、若者はまだ顔を引き攣らせながらも笑みを浮かべた。
「さ……さようですね。お気遣い有難うございます、叔父上」
叔父などと呼ばれるのもまだ慣れないが、それでも小さく頷いてやった。この竹腰小伝次正信は、お亀の方が最初の夫・竹腰助九郎正時との間に産んだ子で、五郎太丸の異父兄にあたる。それゆえ齢十にしてすでに五千石を与えられ、小姓頭にも任じられていた。
とはいえその若さで大役を与えられ、重圧もひとしおであろう。お亀の方からは、この正信の面倒もよく見るよう任されていた。されど齢のわりに所作も堂に入っており、聡明なところも見て取れる。それほど手が掛かるとも思えなかった。
目を前に向けると、そこにひとりだけ壮年の武者が静かに佇んでいる。顔を合わせるのははじめてであったが、その名はよく知っていた。やはり家康の信任厚い重鎮、安藤帯刀直次である。
幼くして徳川に仕え、浅井・朝倉と戦った姉川の役にて戦功を挙げて以来、多くの戦に参じてきた猛将であった。さらに同時に政務にも通じ、今は主君の征夷大将軍宣下に向けて奔走していると聞いている。本多佐渡守正信の子・上野介正純と並び、徳川家の政務における両翼とも言われている男だ。その直次を名代として送ってきたことからも、このお目見えに対する家康の力の入れようがわかる。若武者たちが緊張するのも無理はなかった。
やがて会所の戸が開き、平岩主計頭がゆっくりと入ってきた。そうして上座の右側に腰を落とすと、「さあ、若さま。こちらへどうぞ」と促す。
ややあって、小さな羽織袴に身を包んだ赤子がぎこちなく歩み入ってくる。そしてどうにか転ばずに辿り着くと、親吉の手を借りて上座に腰を下ろした。
最後にお亀の方がその隣に座ると、親吉が威厳を帯びた声で言った。
「五郎太丸さまじゃ。一同、面を上げよ」
氏勝も、少し遅れて小伝次も、その言葉に顔を上げた。そして眼前に座る、おのが主とはじめて向かい合う。
「ごろぉうた……まぁるであるぅ」
舌っ足らずの調子で、それでも不思議と耳に染み入るような声で、幼君はそう名乗りを上げた。そして再び一同は、静かに首を垂れる。その有り様に、お亀の方が眩しげに目を細めているのがちらりと見えた。
「ここにいる者たちはみな、今このときより五郎太丸さまの家臣となる。心して仕えよ。よいな?」
一同が声を合わせて「ははっ!」と応えた。その声に、五郎太丸は一瞬びくりと身を震わせる。わずかに目を上げてその顔を窺い見た氏勝は、この幼君もまたひどく緊張しているのがわかった。無理もない。おそらくはまだ何もわからぬままに、大勢の大人の前に座らされて、怯えるなというのも酷な話である。
「山下信濃守、出でよ」
氏勝は「はっ」と答えて立ち上がった。そうして音を立てぬよう摺り足で、五郎太丸の前に進み出る。されどこれ以上幼子を怯えさせぬよう、十分な間を置いて膝をついた。
「もう少し前へ出よ」と、親吉が促す。されど無礼を承知で、氏勝は首を振った。
「某はここにて……五郎太丸さまも緊張されているご様子」
「よい……もっと前へ。殿は大丈夫じゃ」
氏勝は顔を上げ、五郎太丸の様子を窺った。慥かに氏勝の不愛想な顔を見ても、それ以上怯えているようには見えなかった。それどころか興味深げに、身を乗り出してこちらを覗き込んでいる。
「……では」と、氏勝は前に進み出た。そうして一間ほどのところまで詰めると、出来るだけ声音を和らげて名乗った。
「山下信濃守氏勝にございます」
「信濃守」と、親吉が続けた。「そのほうを御傅役筆頭に任ずる。しかと務めよ」
やはり断ることなどできぬか、と氏勝はそっと嘆息する。されどその任は、ここへきていっそう重く感じられていた。目の前の幼君の、触れれば壊れてしまいそうなあやうさよ。おのれごときに、守ることなど本当にできるのかと。
「どうした……信濃守?」
返答がないことを訝しく思ったか、親吉が苛立たしげに尋ねてきた。仕方なく、氏勝も「はっ」と声を返そうとする。されどそのときだった。五郎太丸が、不意に立ち上がったのは。
「……五郎太?」
気付いたお亀の方が、慌てたように腰を浮かした。それでもすぐに止めることはできず、幼君はそのままよちよちと氏勝のほうへ歩み寄って来る。しかしその手前で足を縺れさせ、つんのめるように倒れ込んできた。
氏勝は咄嗟に手を伸ばして、五郎太丸が床に手をつく寸前で受け止める。すぐに親吉とお亀が駆け寄ってきて、幼君を両側から助け起こした。
「危のうございましたな……若殿」
氏勝がそう柔らかく言うと、五郎太丸が嬉しそうに笑うのが見えた。その顔を見て、お亀が驚いたように目を丸くし、そして氏勝とを見比べた。何のことかわからぬまま、氏勝はなおも幼君に語りかける。
「さあ……どうぞお戻りくださいませ」
そうしてお亀にも、小さく頷きかける。それを見てようやく我に返ったのか、お亀は五郎太丸を抱き上げようとした。されどそれと同時に、氏勝は右腕がぐいと持ち上げられるのを感じた。見ると、幼君の小さな手がこちらの袖を掴み、しっかりと離さずにいるのがわかった。
「これはまた……気に入られたものだのう」
親吉もそれを見て、くすりと笑った。されど氏勝に目を戻すと、訝しげに眉を顰める。
「……信濃、おぬし……」
お亀も幼子を抱き上げようとした中腰の姿勢のまま、また驚いて固まっていた。そのふたりの顔を見て、氏勝はようやくおのれのことに気が付いた。おのれが、我知らず泣いていることに。
―――我とともにいるのだ、いいな?
そんな声が、耳元で慥かに聞こえた。
氏勝はおのれの袖にそっと手を伸ばし、細くか弱い指を優しく解いた。そうして顔を隠すようにその場に平伏し、額を床に押し付ける。それでもなお、涙は滂沱のごとく溢れて止まらなかった。これはいったいどうしたというのだ。氏勝には、おのれでおのれがわからなかった。
「ご案じめさるな……若殿」言葉が、口をついて出る。「某が必ずや若殿をお守りし、お支えしてゆきます。すべて、この半三郎にお任せくださいませ」
―――ゆめ、忘れるでないぞ。
再び声が聞こえた。それは遠き日の父の声だった。
―――そなたは、そのためだけに生まれてきたのだ。
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ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
田や沼に龍は潜む
大澤伝兵衛
歴史・時代
徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。
名を田沼龍助という。
足軽出身である父に厳しく育てられ武芸や学問に幼少から励んでおり、美少女かと見間違う程の美貌から受ける印象に反して、恐ろしく無骨な男である。
世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。
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