尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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第二章

(六)

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 中村家が杭瀬川で大敗した翌日の九月十五日、徳川内府家康と石田治部少輔三成、それぞれ十万を超す本軍は、関ヶ原にてついに全面衝突に至った。されど長期に及ぶと思われた戦はわずか一日で決着し、西軍は実質的な総大将であった三成が敗走し、島左近、大谷刑部ら主だった将も命を落とした。
 その後十九日には小西摂津守行長が、二十一日に三成がそれぞれ捕らえられた。やがて二十七日、家康は西軍総大将・毛利輝元が退去した大阪城に入る。そして十月朔日、京の六条河原にて三成の斬首が行われた。かくして天下分け目の大戦は徳川方の勝利に終わり、内府家康は名実ともに天下人となったのである。
 氏勝はその報を、下野宇都宮にて知らされた。上杉はやはり追い討ちには出ず、むしろ北の最上討伐へと兵を向けたため、戦らしい戦はないまま。いわば、蚊帳の外であった。
 されどおのれには、それが似合っている気がした。世がどう動こうと、どう変わろうと、おのれには関わりのないことなのだ。そう気付くとまた、身の裡を乾いた風が吹き抜けてゆく。心は冷え冷えと醒めてゆく。
「いよいよ乱世が終わります……新しき世が来ますよ、若殿」
 そっと、声に出さずにつぶやく。されどその世を並んで見たい相手は、もうここにいない。
 
 
 出羽にて最上家との合戦を繰り広げていた上杉の元に西軍敗北の報が届けられると、長谷堂城に陣していた直江山城守も撤退を開始した。これを受けて下野宇都宮の徳川勢もそれぞれの領地へと戻ってゆき、のちに関ケ原の合戦と呼ばれることとなる大乱の幕は下りた。
 氏勝ら平岩勢は、家康の待つ大坂へと向かう親吉ら一行を除き、その足で厩橋へと帰還した。とはいえ、ほっと息をつく間もなかった。勘定方のひとりとしての大仕事が待っていたからである。
「長のお役目、ご苦労様でございました」
 半年ぶりに屋敷に戻ると、お松と女御衆が並んで氏勝を出迎えた。されどこうした応対にはいまだに慣れず、首を振りながら止めろと手振りで示す。
「我は何もしておらぬ。ただ西へ東へと走り回っておっただけよ」
「それも大事なお務めにございましょう」と、お松はにっこりと笑った。「お湯の支度もできております。まずはごゆるりと、戦の疲れを癒されますよう」
 氏勝は腰を下ろして「そうも言っておられぬ」と答える。そうして女中が運んできた湯漬けを、乱暴に喉へ流し込んだ。
「そなたらももう聞いておるであろう。我が殿主計頭さまは此度の戦の恩賞として、三万五千石の加増の上、甲斐へと戻られることになった。当然、我らもじゃ」
 大坂にて行われた評定に於いて、まずは譜代家臣らへの恩賞が決まったらしい。もちろん宇都宮にあった親吉はその場に居合わせることはできなかったが、此度の功をもって甲斐六万五千石へ加増転封との知らせが届いていた。親吉にとって甲斐は、小田原の役後に関東へ移封される前の旧領である。その上家臣たちの中には、甲斐衆と呼ばれる武田の旧臣も少なくない。つまりみな慣れ親しんだ土地への帰還が叶ったともいえるわけで、加増よりもそのことのほうが何よりの恩賞と言えた。
 とはいえ領地を移るというのは、たとえ旧領へ復するといっても、大変であることは変わりない。家臣とその郎党からして総出の引っ越しになる上に、それぞれの禄も再配分もされることになるからだ。ひと月やふた月で終わる仕事ではなく、勘定方として当分は寝る間も惜しむことになりそうだった。
「もちろん、聞き及んでおります。どうぞ家のことは任せて、お役目に励んでくだされ」
 氏勝は椀を置くと、ひと言「……頼む」と言って頷いた。するとお松が思い出したように、懐から書状を取り出した。
「そういえば、姉上から文が届いておりました。ご無事でいらっしゃるようで、旦那さまにもよろしく伝えて欲しいとのことでございます」
「そうか……それは何よりじゃ」一度は離縁も覚悟していたことなどおくびにも出さずに、氏勝は答えた。
 伏見の徳川屋敷にいた家康の側室たちは、三成の決起を聞くと速やかに、大阪城近くの淀城へと避難したと聞いていた。伏見城は焼け落ち、大阪城には西軍総大将の毛利中納言輝元が入り、上方は完全に反徳川に制圧された状態にあったためだ。されど三成も女たちには手を出さず、人質にもされずに過ごすことができていたらしい。
「ご不便であったろうが、よく我慢されたことよ」
「私も姉上も、貧乏暮らしに慣れておりまする。何ほどのこともございますまい」
 名家の娘を好んで囲った太閤とは違い、家康は身分の低い女性を選んで側室とすることが多かった。中でも六男辰千代(のちの松平忠輝)、七男松千代の生母である茶阿ちゃあの局などは、遠江の鋳物師の娘という完全に市井の女性である。このお松とお亀の方も、石清水八幡祀官家の流れを汲むとはいえ、所詮は荒れ寺の坊主の家に育った女たちだ。それだけにしたたかで逞しく、多少の不便はものともしないであろうと思われた。
「それでもお方さまは間もなく臨月じゃ。御身を大事にしていただかねば」
 お松は「……そうですね」としみじみ言った。新たな子を授かったことで、仙千代を失った姉の心が少しは癒えるであろうことを願っているのであろう。数か月前に対面したときのことを思い出し、あのお方は大丈夫だと言ってやりたかったが、今はやめておいた。そうすると、余計なことまで説明しなければならなくなりそうだったからだ。
 
 
 そうして風雲の慶長五年も押し詰まった十一月二十八日、大阪城の西の丸にて、お亀の方は無事に男子を出産する。
 その誕生を、家康はことのほか喜んだと伝えられている。それは当初千千代せんちよと付けられた幼名を、あえて命じて五郎太丸ごろうたまると改名させたほどであった。『玉輿記』によれば五郎太丸という名について、家康はみずから「城郭櫓井樓の大壁に大石巨石を積重ぬるに、草尾くさびに五郎太石を以てせざれば叶はざる事なり、その如く天下の草尾は此子也」と説いたという。石垣を支える楔石に例えて、徳川家を、そして天下を支える楔であれかしと願っての命名であろう。されどこの喜びようを、おそらく周囲の者は奇異に感じたのではなかろうか。
 徳川内府家康という人物は、我が子、それも男子に対して非常に冷たい男として知られている。嫡子であった長男信康は、信長より武田との内通を疑われた際、申し開きのために生母築山殿とともに自死させている。二男秀康は生まれたのちも三歳になるまで会おうともせず、その後は秀吉の養子としてあっさり手離してしまった。結果的に嫡男となった三男の秀忠に対しても、情愛をもって接したとの記録は残っていない。
 ただしこうした親子というものも、戦乱の世にあっては決して珍しくはなかった。武家に生まれた子というのは、家康自身がそうであったように、人質として使われるのが常であったからだ。あるいは主家の命あれば、長男信康のように腹を切らせねばならなくなることもしばしばだった。親が子を愛し、子が親を敬うことすら許されないのが乱世というものだったのだ。
 つまり家康は誰にも従わずともよい天下人となったことで、ようやくおのが子を愛することを許されたといえる。それはいみじくも乱世の終わりをも意味しており、その記念すべき年に生まれた五郎太丸は、大袈裟に言えば新たな世の申し子でもあった。かような子が可愛くないはずがなかろう。
 そしてこの五郎太丸こそが、のちの尾張徳川家始祖、大納言義直よしなおである。氏勝はその報を、厩橋にて庶務に忙殺されながら聞いた。まだその赤子がおのれにとっても、まさに運命の子となるなどとは思いもせずに。
 
 
 とはいえ家康としては、当初はこの子を八男・仙千代と同じく、嫡子のいない重臣・平岩主計頭親吉の養子とする腹積もりであった。前述した通り親吉は家康にとって、苦しかった今川の人質時代をもともに過ごした、いわば兄弟同然の存在である。その親吉と同じように、この五郎太丸が嫡男秀忠を支えてくれるといい。そう考えていたのかもしれない。
 されど親吉は、この家康の申し出を固辞した。
「おのれの子は、仙千代君ただひとりにございます」
 というのが、その理由であったという。残る人間じんかんをその菩提を弔いながら過ごし、家が断絶するならそれでよし。親吉はもはや、そう心を決めてしまっているようであった。
 もしかするとかの者の内心には、家康の長男であった三郎信康のこともあったのかもしれない。親吉は信康の傅役でもあった。そして信長より謀反を疑われ、信康の腹を切らせなければならなくなったときは、代わりにおのれの首を差し出すよう進言したりもした。されど結局は信康を守ることができず、生涯の悔恨として残っていたのであろう。そのおのれが、またしても主君の子を死なせてしまった。これ以上は何も望む資格がない。さように考えていても不思議はない。
 主計頭親吉という男はかように、良く言えば生真面目、言い換えれば融通の利かない堅物であった。そして一度心を決めたら、梃子でも動かぬ頑固者でもある。家康もそのことは知り抜いていたので、無理強いする気はなかった。それでもどうにか後見人のみを引き受けさせ、もりはまた別の者を選ぶこととなった。
 ある夜、家康はお亀に「おぬしには、誰ぞ意中の者などはおらぬか?」と尋ねた。
「五郎太の傅でございますか。私ごときが望みを申してもよろしいのでしょうか?」
「構わぬゆえ訊いておる。わしは七之助(親吉)しか考えておらなかったからのう……」
 お亀はしてやったりといった顔でにやりと笑うと、意を決して口にした。
「では、私の義弟などいかがでございましょう」
 その言葉に、家康の頭にひとりの男の顔が浮かんだ。冷え冷えと醒めた色の奥に、隠しようのない餓えを湛えたふたつの目。「なるほど……あの者か」
「はい。義弟は私に借りがございますゆえ、よもや嫌とは言いますまい」
 ふむ、と家康は思案する。その若さに一瞬危惧も過ったが、すぐに面白いかもしれぬと思い直す。
「……考えておくとするか」
「どうぞ、よろしくお願いいたします」と、お亀はたおやかに頭を下げる。されどその胸の裡では、すでに傅はかの者と決まっていた。
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