尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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第五章

(六)

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 茶臼山の頂に翻っていた六文銭の旗が、さざめくように動きはじめた。それとともにどっ、どっ、という低い音が、地を震わすように伝わってくる。松平越前守忠直はそれによって、ついに真田の本隊が進軍をはじめたと悟った。
「……ようやく動くか、左衛門佐め」
 忠直は怖じることなく、馬上にてほくそ笑んだ。むしろこのときを待っていたのだ。先の冬の陣で前田勢、井伊勢を壊滅させた真田左衛門佐。それを討ち取りさえすれば、この戦の一番手柄は間違いない。さすれば徳川に越前松平家ありと、世に高らかに知らしめることができよう。猛将と謳われ、将軍秀忠をはるかに上回る将器に恵まれながらも、ついに徳川を名乗ることすら許されなかった父の無念も、少しは晴れるのではないか。
「者ども、あれが真田よ!」軍配を翻し、忠直は吼えた。「迎え討て。首級を上げよ。さすれば我らが一番手柄じゃ!」
 おお、という気勢がこれに応えてきた。兵たちにも怯む様子はまったくない。すでに敵先鋒の毛利勢も押し返しつつある。そこへ真田勢が加わったところで、数はまだこちらのほうが多い。
 されどそのとき茶臼山の向こう、やはり小高い丘の上に、一団の軍勢が現れた。遠目にはまだ旗印まで見ては取れないが、紀州路を北上してきた浅野勢で間違いなかろう。樫井で大野修理の一隊を撃退したのちは一揆の鎮圧に当たっていたが、その後軍勢を整えて大坂へ向かっていることは知らせが入っていた。
 だがその様子がおかしい。事前の軍議では、浅野は大和口に陣を敷いた上総介忠輝の軍勢と合力して、西から城に圧力を掛けることになっていたはずである。されど現れた一団は陣を整えることもなく、そのままこちらに向けて駆け下りてくる。それはまるで、真田勢のあとに続くかのようで。
「浅野但馬守、逆心!」
 どこかから声が上がった。それとともに先ほどまでの気勢が、戸惑いのどよめきに変わってゆく。
「浅野が攻めて来よる。裏切りじゃ!」
「おのれ表裏者め。返り討ちにしてくれるわ!」
「阿呆、とても持たぬわ……退くのじゃ、退け!」
 兵たちは口々に、そしててんでに怒鳴り合っている。槍を振り上げて吼える者がいるかと思えば、早くも我先にと逃げ出す者もいる。その混乱が伝わったか、毛利勢に当たっている前線も押し返されはじめていた。
「静まれ……者ども、静まれい!」
 忠直は混乱を収めようと、負けじと声を張り上げた。されどその目はどうしても、目の前に迫った真田勢ではなく、その向こうに近付いてくる集団へと向いてしまう。あれは慥かに浅野であるのか。何ゆえこちらに向かってくる。まさかまことに豊臣に同心し、我らに牙を剥こうというのか。聞くところによれば浅野但馬守は、筒井の残党や周辺の国衆を糾合し、二万にも及ぶ軍勢を整えたとのこと。
「静まるのじゃ。隊列を崩すな、持ち場に戻れっ!」
 もはやどれほど叫ぼうと、混乱は広がるばかりであった。そこへついに、真田の先駆けがぶつかってきた。それは鋭く尖った錐のように、いまだ混乱から醒めぬ隊列に突き刺さり、食い破り、深く押し入ってくる。
 

 
「浅野但馬守、逆心じゃ。浅野が我らに攻めかかってきよるぞ!」
 その動揺は、鶴翼左に構えた右兵衛督義利の陣にも広がっていた。あちこちで兵たちが不安と、怒りと、困惑とに声を上げている。その中で馬上の義利は、きつく手綱を握り締めながら「……あり得ぬ」とつぶやいた。
「あの但馬守どのが……あり得ぬわ」
 その隣では、正信もまた動揺を露わにあたりを見回している。何かを言わなければならないことはわかっているが、何を言えばいいのかわからないといった様子だ。
 おのれの持ち場に戻ろうとしていた氏勝は、思い立って馬首を返し、義利の隣に並びかけた。そうして淡々とした声で言う。
「その通り。あり得ませぬな」
 その言葉に、義利は少しほっとしたように顔を上げた。そして縋るような目で氏勝を見つめ、続く言葉を待つ。
「見ようによっては弟君である采女正さまの敗走を目の当たりにして、堪らず真田の背後を突こうとしているとも受け取れまする。慥かに大御所さまの下知とは違いましょうが、戦は生き物にございます。咄嗟にそうした判断をされることもあるでしょう」
「そ……そうよの。そうに決まっておる」
 されど氏勝は、険しい表情を崩すことなく続けた。
「ただ、これは良くありませぬな。越前さまの勢に明らかな乱れが見えます。おそらく我らと同じように、但馬守さま逆心との声が兵の間に広がっておるのでございましょう。このまま浅野勢が近付けば、同士討ちの恐れもあります」
 背後ではまた、「浅野じゃ、浅野が攻めて来よる!」と叫ぶ声が聞こえた。もしもまことにそうであったとしても、動揺の広がるのが早過ぎる。どうやら兵の間に、意図的にそう扇動しようとしている者が紛れ込んでいるようだ。おそらくは大坂方の間者であろう。
 つまりはこの状況も、すべて計算ずくということだった。敵のはずの但馬守長晟の軍勢をも操り、まるで味方に付けてしまったかのようだ。このままではすべてその手の中で、徳川の軍勢同士が相食む地獄絵図が繰り広げられよう。これが真田安房守直伝、左衛門佐幸村の軍略。げに恐ろしきと言わざるを得ない。
「では叔父上、どうしたらよいのでありましょうか」
 そう正信が尋ねてくる。氏勝はしばしの思案ののち、意を決したように深く息をついた。そうして馬上にて小さく頭を下げ、言った。
「殿……某を但馬守さまのところへ、伝令として遣わしてはいただけませぬか」
「伝令だと?」義利はまた困惑したように、形のよい眉をひそめた。「いったい何をする気じゃ、大和」
「むろん、但馬守さまをお止めするのでございます。当初の下知の通り大和口を固めるか、あるいは城へと攻め寄せるようにと」
「……まさか」と、正信はまたわなわなと目を見開く。「この戦場の中を突っ切るおつもりですか?」
「もちろん茶臼山を迂回して、お味方の陣を抜けて行きまするよ。間に合うかどうかは際どいところでございましょうが」
 おそらく岡山口の前田家の陣を抜けてゆくのが、もっとも近道となろう。それでも直進するのに比べれば遠回りとなり、浅野勢が越前勢にぶつかる前に追い付けるかは難しいところだ。ただし茶臼山にもいくらかは残兵もいるので、浅野もそこでいくらかは足止めをされるはず。
「であれば、御使番の誰かを遣わしましょう。何も叔父上がみずから向かわずとも……」
 なおも反駁する正信に、氏勝はゆっくりと首を振る。その脳裏に浮かんでいるのは、先日会ったときの長晟の様子であった。きつく、掌から血が滲むほどに握り締められた拳。今まさに鬼神のごとく突進してくる浅野勢には、あのときの長晟の姿が重なって見えるのだ。
「おそらく今の但馬守さまには、生半なまなかの者の言葉では届かぬ気がするのです。されど某の言葉であれば、きっと耳をお貸しいただけるはず」
 義利はじっと無言のまま、氏勝の真意を窺うようにその顔を見つめていた。されどやがて、何かを得心したように小さく頷いた。
「わかった。行け、大和」
 そう言って、やにわに馬を降りた。そうして手綱を引くと、ぐいとその首を氏勝に向ける。
「父上からいただいた駿馬、『白髭』じゃ。使うがよい」
「勿体なき限りにございます。では、お言葉に甘えて」
 義利はそこではじめて、にっこりと笑みを見せた。誰もが、その眩しさに陶然とするような屈託のない笑みを。
「必ず返すのだぞ」
 だから氏勝も、堪らず目を伏せて「……はっ!」と答えるしかできなかった。そうして馬を乗り換えると、槍と腰の大小を正信に預ける。急ぐのであれば、少しでも荷を軽くした方がいい。
「某の一番組は、ひとまず竹腰どのにお任せいたす。室賀むろが半之丞はんのじょうなる者、なかなか目端が利きまする。脇に控えさせるとよろしいかと」
「あいわかりました。ところで叔父上、この槍は要らぬのでございますか?」
「どうせ不得手ですからな。某には、これがあれば十分」
 氏勝はそう言って、背に負った黄櫨はしばみの大弓を指し示す。思えば、おのが人間は常にこの弓とともにあった。今となっては生まれ育った飛騨の地を偲ぶものは、このひと張りだけである。
 馬首を返して走り出すと、傍らを陣笠姿の雑兵がひとり駆け並んできた。そうして息を切らすこともなく語りかけてくる。
「大事なお役目、ご一緒したほうがよろしいですかね?」
 藤七であった。氏勝は頼もしさを覚えながらも、「……よい」と答える。
「こちらは心配無用よ。それよりも殿を頼む。お護り差し上げてくれ」
 籐七は陣笠の下からちらりと目を覗かせて、どこか訝しげに尋ねてくる。
「頼む、でございますか?」
「そうだ、頼む」
 すると小柄な忍びは何が可笑しかったのかひひっと笑い、足を止めた。それを確かめると、氏勝は馬の腹を蹴って一気に加速させる。
 
 
 遠ざかって行く雇い主の背中を見送ると、籐七は陣笠を深く被り直し、困ったように唇を歪めた。
「頼む、でございますか……簡単に言ってくれるもんでさぁ」
 そうして背後を振り返り、義利の陣容を眺め渡す。浅野の裏切りの噂に動揺はさして見られず、隊列に乱れはない。よく鍛えられたものだ。
 ならば敵は、次に何を仕掛けてくるか。おそらく氏勝も、それを案じていたのであろう。だからこのおのれを陣に残した。されどそれがどういうことかまでは、考えが回らなかったのかもしれない。
「やれやれ……どうやら、逃げそびれてしまいましたかね」
 籐七はため息とともにつぶやいた。その声も、すぐに戦場の風に散って消えてゆく。
「まあ、頼まれちまったものは仕方ありませんか」
 そうして手にしていた粗末な槍を握りしめた。とはいえこんな槍はあくまでも、雑兵を演じるための小道具でしかない。これから相対することになる男には、こんなものはものの役にも立ちはしないのだ。
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