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第五章
(七)
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もうひとつの攻め口、将軍秀忠が布陣していた岡山口でも、すでに戦闘ははじまっていた。こちらも天王寺口と同様、大野主馬らの突撃によって片桐市正且元・井伊掃部頭直孝らの先鋒が押し込まれ、あやうく前線は崩壊しかねないところであった。されど先の戦での失態を取り戻さんとばかりに駆け付けた前田筑前守、さらには細川越中守・藤堂与右衛門らの奮闘によって、ひとまずは態勢を立て直す。あとはこのまま反転攻勢に出るべく、総大将である秀忠の下知を待つばかりであった。
そのとき、細川家の足軽頭・藪新九郎は奇妙なものを目の当たりにする。落ち着きを取り戻し、隊列を整え直そうとしている兵たちの間を割って、一頭の黒鹿毛の馬が疾駆してくる。鎧も兜も立派なもので、ひとかどの将であることは見ただけでもわかった。されど、それに続く徒士の姿はない。いったいどうしてただ一頭のみ、堂々と戦場を横切ってゆくのか。
「敵の間者か……いや?」
新九郎は咄嗟に馬首を返すと、瞬く間に通り過ぎて行った黒鹿毛を追った。そしてどうにか隣に並びかけると、必死で手綱をしごきながら大声で誰何した。
「何者ぞ、かようなところで何をしている!」
黒鹿毛の馬上の男は、見たところ四十半ばといった年輩であった。槍も大小も帯びてはおらず、背に馬上で扱うには大きすぎるほどの弓をひと張り背負っているだけだ。
「我は細川越中守が臣、藪新九郎じゃ。いずこへ行かれる、答えよ!」
そう名乗ったところで、男はようやくこちらに顔を向けた。何やら驚いたように、わずかに目を見開いている。
「内匠さまのお子か……立派になられたものよ」
疾駆する馬上にあるとは思えぬほどの飄々とした声で、男は言った。新九郎は思わず「……なっ」と言葉に詰まる。
「前に会うたときはほんの童であったの。お父上の大きな声に、泣いてばかりいたものを」
「ちっ、父をご存知か……貴殿はいったい……」
「山下大和守と申す。お父上には、半三郎がよろしく言っていたと伝えてくだされ」
男はそう言うと身を大きく揺らして、馬の腹をひとつ蹴った。すると黒鹿毛はぐいと加速し、新九郎の馬をみるみる引き離してゆく。
「まっ、待たれよ……!」
新九郎はそれ以上追いすがることもできず、とうとう諦めて馬の足並みを緩めさせた。そして肩で大きく息をつきながら、たった今聞かされた名を口の中で繰り返した。
「山下、大和守……半三郎?」
その背は見る見るうちに遠ざかり、やがて味方の兵たちの陰に隠れて見えなくなった。
※
鬱蒼とした木々の間を抜け、一気に視界が開けたときには、すでに戦ははじまってしまっていた。遠くにあっても響いてくる筒音でわかっていたことではあったが、浅野但馬守長晟はそれを目の当たりにして、焦りを覚えずにはいられなかった。
「いかん……何ということだ」
樫井での戦は大勝とは言っても無傷ではなく、さらには大和郡山より逃げ落ちてきた筒井の残党を再編成するのに手間取ってしまい、和歌山を出陣するのが数日遅れてしまったのだ。
とはいえ、それは決して失態といえるほどのものではなかった。何しろすでに浅野は、敵将塙団右衛門らの首級を上げる戦功を挙げている。それだけに家康もそれ以上の無理は求めず、兵を出せるようなら手薄な西を固め、城に圧力を掛けるだけで良いとの命を下すにとどめていた。
されど長晟自身が、それでは満足していなかった。必ずや万全の態勢を整えて大坂に参陣し、敵の実質的な総大将である真田左衛門佐の首を獲る。その決意のもとに、紀州路を駆けに駆けてきたのである。おそらくは此度もしばらくは睨み合いが続くであろうと踏んで、それでも十分に間に合うと思っていた。されど戦は慮外に早く展開しているようだった。
長晟は物見の報告を待てず、兵を割って先頭へと躍り出た。そして眼下に広がる戦場と、その向こうに見える小高い丘陵を眺め渡す。先の戦では家康が本陣を敷いていた茶臼山だ。此度はそこに、真田左衛門佐が兵を構えていると聞いていた。
「真田は……真田はいずこじゃ!」
されど憎き六文銭の旗が翻っているはずのその場所には、もはや何もなかった。ただほとんど無人となった帷幕の跡が残っているだけだ。そのさらに向こうで、土埃が立っているのがわかった。
「どういうことだ……まさか、大坂方から仕掛けたというのか?」
莫迦な、と思わず口をついて出た。そんなことはあり得ない。兵の数ではまったく劣勢のはずの大坂方が、徳川の大軍に攻め入るなど、正気の沙汰とも思えない。されどこの状況を見るに、そう考えるしかなかった。
そこへ物見に出していた先遣隊が戻ってきて、戦の推移を報告する。徳川方の先鋒であった本多内記の勢が真田の誘いに乗せられて突撃し、まんまと殲滅されたこと。さらに弟・采女正長重と秋田城介実季も敢えなく敗走し、徳川の前線は完全に崩壊したこと。そうして真田勢と毛利勢、合わせて一万八千はそのまま茶臼山を駆け下り、現在は越前守忠直の軍勢と交戦中とのこと。それらの報告を、長晟はわなわなと拳を震わせながら聞いていた。
「采女正さまの消息は不明に……ご無事であれば良いのですが」
「今は生きておると信ずるしかなかろう。それよりも戦じゃ」
「越前どのの兵は精強で知られております。そう簡単に押されはしますまい。それより我らはこの隙に、城に攻め入るべきかと」
いつの間にか傍らに並びかけてきた木村石見守が、冷静な声でそう進言してくる。されど長晟は首を振った。
「敵はあくまでも真田よ……右府さまではない」
徳川の圧力に負けて茶臼山を追い落とされ、城に撤退する真田勢を挟撃する。そのためにはこの大和口に陣するのは願ったり叶ったりであると思っていたものの、その目論見は完全に外れてしまっていた。それどころかこのままでは、大御所の本陣すら危うい。越前宰相忠直の勢を破られれば、その先にあるのは春姫の婿である、徳川右兵衛督義利の陣である。
「往くぞ。我らはこれより、真田の背後を突く!」
その言葉に、石見守も大きく頷いた。この男も、思いは主と同じであった。「ではどうか、先鋒はお任せを」
長晟は「……うむ」と頷き、軍扇を振った。それは朝鮮の砂埃と硝煙を吸った、兄紀伊守の形見であった。
和歌山よりひたすら駆けてきただけに、誰もがとうに疲れ切っているはずだ。それでもなお兵たちの士気は高く、馬でさえそれに伝染したかのごとく、力強く斜面を駆け下りてゆく。敵の背はまだ遠く、濛々と立ち籠める土煙の向こうに霞んでいた。されど必ず届く。そう信じて、長晟は叫び続ける。
「左衛門佐が首、我らが挙げるのじゃ。進めぇっ!」
どよめきのような「おう!」という声がそれに応える。茶臼山近辺に残っていた大坂方の兵が散発的な抵抗を見せてきたが、それも物の数ではない。先鋒の石見守が攻めかかれば鎧袖一触、瞬く間に散り散りとなって逃げて行く。やはり敵は真田ただひとり。他はまるで統制の取れていない烏合の衆であった。
これなら行ける。そう確信してなおも進む。そうしてついに、越前勢と交戦中の真田勢の姿をその目が捉えた。されどそのとき、不意に兵たちの足が鈍った。
「どうした、何ゆえ止まる!」
「いえ、木村さまが……」
どうやら先頭で何かがあったらしい。されど声も、また槍を合わせる音も聞こえない。ならば伏兵に遭ったわけでもなさそうだった。
長晟は苛立ちを覚えながらも、数名の供を連れて石見守のもとへ走った。そして困惑したように立ち尽くしているかの者の傍へ馬を寄せると、「どうしたというのだ!」と怒鳴りつける。
「殿、あれは……」
と、石見守が前方を指さした。するとその先に、土煙を割って疾駆してくる騎馬が見えた。後続はなく、ただの一頭のみである。ただしその面差しには、慥かに覚えがあった。
「あれは……山下どのではありませぬか。いったい何ゆえ……?」
遠目の利く石見守が、まだ戸惑ったように言った。目を凝らすとやはり間違いはない。されど槍は帯びていないようで、背に大きな弓をひと張り負ったのみである。
「我にもわからぬ……さて」
そうこうするうちにも、単騎の鎧武者はすぐに目の前まで駆け寄ってきて止まった。おそらくはずいぶんな距離を駆けてきたはずだが、馬も息の上がった様子はない。なかなかの駿馬であるようだ。
「どうにか間に合い申した。但馬守さま、お久しゅう……はございませぬな」
その声も、やはり右兵衛督義利の傅役、山下大和守氏勝のものだった。やはりここまで全速で馬を駆ってきたとは思えぬ、いつも無表情なこの男らしい、淡々とした口調である。
「山下どの……そなたの陣はずっと向こうであろう。かようなところまで、いったい何をしに来られた?」
氏勝は馬を降りると、負っていた弓を傍らに置き、その場に跪いた。そうしてわずかに目礼し、変わらぬ声音で言った。
「但馬守さまの真意を慥かめさせていただくためにございます」
「真意、とな。何のことやらわからぬが……」
「ただ今徳川の陣中では、但馬守さま逆心との報が飛び交っておりまする」
その言葉に、長晟は「……何と」と言ったきり絶句した。その隣では、木村石見守が血の気の引いた顔で「あり得ぬ!」と叫んでいる。
「我らがさようなことを……今寝返るくらいなら、はじめから大坂方に付いておるわ。殿がいったいどのような思いで、右府さまを敵に回すことを決意したと思われるか!」
氏勝は即座に頷いて、「わかっておりまする」と答える。「これすべて、真田の計略に間違いなく。されど惑う者も多く、その混乱を突かれる形で大坂方に押されておりまする」
「おのれ真田……どこまで我らを愚弄すれば気が済むかっ……!」
長晟はようやく、喉の奥から絞り出すような声でそう吐き捨てた。堪えがたき憎悪と怨嗟が色濃く滲んだ、灼けるような声であった。
「それで山下どのは、我らにどうせよと申されるのだ?」
「ひとまずは兵を退かれて、大和口を固めるか、城の西をお攻めいただきたく存じます」
「我らに……下がっていろと申されるか。さような濡れ衣を晴らすためにも、我らは真田を討たねばならぬであろうに!」
「されどこのまま進まれましては、越前勢と同士討ちになる恐れがございます。さすればますます、真田の思う壺」
長晟は歯を軋むほどに噛み締めて、じっと目の前の男を見つめていた。それからようやく、「……できぬ」とつぶやく。
「それはできぬ。真田は……真田だけは、我がこの手で討たねばならぬのだ!」
氏勝はついと目を上げて、声の主を見上げた。
「何ゆえに……やはり、紀伊守さまを殺めたのが真田だからでございますか?」
その問いには答えなかった。答えないことが、その推察を肯定していた。氏勝ははじめて端正な顔を歪め、痛みを堪えるかのように眉根をきつく寄せた。
「どのようにしてそれを掴まれたのか……はお訊きしませぬ」
それぞれの家が、どこへどれほどの間者を忍ばせているか。それは謀の根幹であって、どの家にとっても秘中の秘であった。同じ徳川方にあっても、ここで明かすことはできない。氏勝もそのことは理解しているようだった。
「されどそれを掴ませることもまた、真田の計略のうちであったとは考えられませぬか?」
長晟が「……ぐっ」と低く唸るような声を漏らした。この状況を見れば、それもまた考えられぬことではなかったからだ。
「あの者の狙いは、この地に阿鼻叫喚の地獄絵図を描くことにございます。誰もが獣心を剥き出しにし、敵味方問わず食らい合う……その上で大御所さまを討ち、再び世を戦乱へと引き戻さんとしておるのです。そのためには右府さまがどうなろうと、他の方々がどうなろうと、知ったことなどないのでしょう。もちろん但馬守さまや我々のことなども」
されど、そうはさせるものか。そう小声で続けて、氏勝は肩越しに戦場を振り返った。なおも立ち籠める土煙のせいで、戦況がどうなっているのかはよく見て取れない。されど依然として激しく両軍がぶつかり、互いに命を削り合っているのだけはわかっていた。
「それでも……」長晟は、なおも食い下がる。「それでも、我は行かねばならぬのだ」
「行かせはしませぬ」
氏勝も、負けじと繰り返す。静かであったが、固い決意の籠もった決然とした声であった。
「行ってしまえば、勝っても負けても浅野はただでは済みませぬ。たとえ濡れ衣は晴れても、お味方を混乱させた責は負わねばなりますまい。お家のお取り潰しもあり得まする。さようなことになれば、紀伊守さまに面目が立ちませぬ」
「兄上に……だと?」
「はい。かような小身の某に、恐れ多くも友として接してくださった紀伊守さまのためにも、ここをお通しするわけには参りませぬ」
その言葉に、長晟はくしゃりと顔を歪ませた。まるで小さな童が、零れ落ちそうな涙を堪えるかのように。
「我のことは、友と思うてくださらぬのか……山下どの」
険しかった氏勝の顔も、ようやく少しだけ緩む。そうして小さく息をひとつつき、また静かに目を伏せた。
「思うておるからこそにございます。どうか、堪えてくださりませ」
長晟はその巨躯を震わせて、おう、と呻いた。おう、おう、おう。それはしゃくり上げる嗚咽にも似て、もはや言葉にもならないようであった。
「……殿」
石見守はおのが主と氏勝とを比べ見て、やがて自身も言葉を失った。氏勝へと向けられた主の目は、恨みがましいようであって、同時にどこか感謝が籠もっているようにも見えた。
ややあって、長晟は何も言わずに背を向けた。そうして地を揺らすように足を踏み鳴らし、自陣へと戻ってゆく。その背を、馬を連れた兵が慌てて追ってゆく。氏勝は跪いたまま頭を垂れ、じっとそのうしろ姿を見送った。
長晟の大きな背中が兵たちの間に隠れると、氏勝は静かに立ち上がった。そしていまだなお土煙の立ち籠める戦場を振り返る。
目的はどうやら達せられたらしい。ならば一刻も早く、おのが主の元に戻らねばならなかった。されど何であろう、胸の裡に燻っているものがある。我のことは友と思うてはくれぬのか。そう言って、童のようにくしゃくしゃにした顔。おそらくは目に焼き付いて,いつまでも消えることはないであろうと思った。
友にあのような顔をさせてしまっては、ただでは帰れまいの。氏勝はそう、声には出さずに独り言ちた。そして傍らの弓を拾い上げて背に負うと、『白髭』なる名の黒鹿毛の首をそっと撫でた。どうやらもうひと走り、付き合ってもらわねばならぬ駿馬の首を。
そのとき、細川家の足軽頭・藪新九郎は奇妙なものを目の当たりにする。落ち着きを取り戻し、隊列を整え直そうとしている兵たちの間を割って、一頭の黒鹿毛の馬が疾駆してくる。鎧も兜も立派なもので、ひとかどの将であることは見ただけでもわかった。されど、それに続く徒士の姿はない。いったいどうしてただ一頭のみ、堂々と戦場を横切ってゆくのか。
「敵の間者か……いや?」
新九郎は咄嗟に馬首を返すと、瞬く間に通り過ぎて行った黒鹿毛を追った。そしてどうにか隣に並びかけると、必死で手綱をしごきながら大声で誰何した。
「何者ぞ、かようなところで何をしている!」
黒鹿毛の馬上の男は、見たところ四十半ばといった年輩であった。槍も大小も帯びてはおらず、背に馬上で扱うには大きすぎるほどの弓をひと張り背負っているだけだ。
「我は細川越中守が臣、藪新九郎じゃ。いずこへ行かれる、答えよ!」
そう名乗ったところで、男はようやくこちらに顔を向けた。何やら驚いたように、わずかに目を見開いている。
「内匠さまのお子か……立派になられたものよ」
疾駆する馬上にあるとは思えぬほどの飄々とした声で、男は言った。新九郎は思わず「……なっ」と言葉に詰まる。
「前に会うたときはほんの童であったの。お父上の大きな声に、泣いてばかりいたものを」
「ちっ、父をご存知か……貴殿はいったい……」
「山下大和守と申す。お父上には、半三郎がよろしく言っていたと伝えてくだされ」
男はそう言うと身を大きく揺らして、馬の腹をひとつ蹴った。すると黒鹿毛はぐいと加速し、新九郎の馬をみるみる引き離してゆく。
「まっ、待たれよ……!」
新九郎はそれ以上追いすがることもできず、とうとう諦めて馬の足並みを緩めさせた。そして肩で大きく息をつきながら、たった今聞かされた名を口の中で繰り返した。
「山下、大和守……半三郎?」
その背は見る見るうちに遠ざかり、やがて味方の兵たちの陰に隠れて見えなくなった。
※
鬱蒼とした木々の間を抜け、一気に視界が開けたときには、すでに戦ははじまってしまっていた。遠くにあっても響いてくる筒音でわかっていたことではあったが、浅野但馬守長晟はそれを目の当たりにして、焦りを覚えずにはいられなかった。
「いかん……何ということだ」
樫井での戦は大勝とは言っても無傷ではなく、さらには大和郡山より逃げ落ちてきた筒井の残党を再編成するのに手間取ってしまい、和歌山を出陣するのが数日遅れてしまったのだ。
とはいえ、それは決して失態といえるほどのものではなかった。何しろすでに浅野は、敵将塙団右衛門らの首級を上げる戦功を挙げている。それだけに家康もそれ以上の無理は求めず、兵を出せるようなら手薄な西を固め、城に圧力を掛けるだけで良いとの命を下すにとどめていた。
されど長晟自身が、それでは満足していなかった。必ずや万全の態勢を整えて大坂に参陣し、敵の実質的な総大将である真田左衛門佐の首を獲る。その決意のもとに、紀州路を駆けに駆けてきたのである。おそらくは此度もしばらくは睨み合いが続くであろうと踏んで、それでも十分に間に合うと思っていた。されど戦は慮外に早く展開しているようだった。
長晟は物見の報告を待てず、兵を割って先頭へと躍り出た。そして眼下に広がる戦場と、その向こうに見える小高い丘陵を眺め渡す。先の戦では家康が本陣を敷いていた茶臼山だ。此度はそこに、真田左衛門佐が兵を構えていると聞いていた。
「真田は……真田はいずこじゃ!」
されど憎き六文銭の旗が翻っているはずのその場所には、もはや何もなかった。ただほとんど無人となった帷幕の跡が残っているだけだ。そのさらに向こうで、土埃が立っているのがわかった。
「どういうことだ……まさか、大坂方から仕掛けたというのか?」
莫迦な、と思わず口をついて出た。そんなことはあり得ない。兵の数ではまったく劣勢のはずの大坂方が、徳川の大軍に攻め入るなど、正気の沙汰とも思えない。されどこの状況を見るに、そう考えるしかなかった。
そこへ物見に出していた先遣隊が戻ってきて、戦の推移を報告する。徳川方の先鋒であった本多内記の勢が真田の誘いに乗せられて突撃し、まんまと殲滅されたこと。さらに弟・采女正長重と秋田城介実季も敢えなく敗走し、徳川の前線は完全に崩壊したこと。そうして真田勢と毛利勢、合わせて一万八千はそのまま茶臼山を駆け下り、現在は越前守忠直の軍勢と交戦中とのこと。それらの報告を、長晟はわなわなと拳を震わせながら聞いていた。
「采女正さまの消息は不明に……ご無事であれば良いのですが」
「今は生きておると信ずるしかなかろう。それよりも戦じゃ」
「越前どのの兵は精強で知られております。そう簡単に押されはしますまい。それより我らはこの隙に、城に攻め入るべきかと」
いつの間にか傍らに並びかけてきた木村石見守が、冷静な声でそう進言してくる。されど長晟は首を振った。
「敵はあくまでも真田よ……右府さまではない」
徳川の圧力に負けて茶臼山を追い落とされ、城に撤退する真田勢を挟撃する。そのためにはこの大和口に陣するのは願ったり叶ったりであると思っていたものの、その目論見は完全に外れてしまっていた。それどころかこのままでは、大御所の本陣すら危うい。越前宰相忠直の勢を破られれば、その先にあるのは春姫の婿である、徳川右兵衛督義利の陣である。
「往くぞ。我らはこれより、真田の背後を突く!」
その言葉に、石見守も大きく頷いた。この男も、思いは主と同じであった。「ではどうか、先鋒はお任せを」
長晟は「……うむ」と頷き、軍扇を振った。それは朝鮮の砂埃と硝煙を吸った、兄紀伊守の形見であった。
和歌山よりひたすら駆けてきただけに、誰もがとうに疲れ切っているはずだ。それでもなお兵たちの士気は高く、馬でさえそれに伝染したかのごとく、力強く斜面を駆け下りてゆく。敵の背はまだ遠く、濛々と立ち籠める土煙の向こうに霞んでいた。されど必ず届く。そう信じて、長晟は叫び続ける。
「左衛門佐が首、我らが挙げるのじゃ。進めぇっ!」
どよめきのような「おう!」という声がそれに応える。茶臼山近辺に残っていた大坂方の兵が散発的な抵抗を見せてきたが、それも物の数ではない。先鋒の石見守が攻めかかれば鎧袖一触、瞬く間に散り散りとなって逃げて行く。やはり敵は真田ただひとり。他はまるで統制の取れていない烏合の衆であった。
これなら行ける。そう確信してなおも進む。そうしてついに、越前勢と交戦中の真田勢の姿をその目が捉えた。されどそのとき、不意に兵たちの足が鈍った。
「どうした、何ゆえ止まる!」
「いえ、木村さまが……」
どうやら先頭で何かがあったらしい。されど声も、また槍を合わせる音も聞こえない。ならば伏兵に遭ったわけでもなさそうだった。
長晟は苛立ちを覚えながらも、数名の供を連れて石見守のもとへ走った。そして困惑したように立ち尽くしているかの者の傍へ馬を寄せると、「どうしたというのだ!」と怒鳴りつける。
「殿、あれは……」
と、石見守が前方を指さした。するとその先に、土煙を割って疾駆してくる騎馬が見えた。後続はなく、ただの一頭のみである。ただしその面差しには、慥かに覚えがあった。
「あれは……山下どのではありませぬか。いったい何ゆえ……?」
遠目の利く石見守が、まだ戸惑ったように言った。目を凝らすとやはり間違いはない。されど槍は帯びていないようで、背に大きな弓をひと張り負ったのみである。
「我にもわからぬ……さて」
そうこうするうちにも、単騎の鎧武者はすぐに目の前まで駆け寄ってきて止まった。おそらくはずいぶんな距離を駆けてきたはずだが、馬も息の上がった様子はない。なかなかの駿馬であるようだ。
「どうにか間に合い申した。但馬守さま、お久しゅう……はございませぬな」
その声も、やはり右兵衛督義利の傅役、山下大和守氏勝のものだった。やはりここまで全速で馬を駆ってきたとは思えぬ、いつも無表情なこの男らしい、淡々とした口調である。
「山下どの……そなたの陣はずっと向こうであろう。かようなところまで、いったい何をしに来られた?」
氏勝は馬を降りると、負っていた弓を傍らに置き、その場に跪いた。そうしてわずかに目礼し、変わらぬ声音で言った。
「但馬守さまの真意を慥かめさせていただくためにございます」
「真意、とな。何のことやらわからぬが……」
「ただ今徳川の陣中では、但馬守さま逆心との報が飛び交っておりまする」
その言葉に、長晟は「……何と」と言ったきり絶句した。その隣では、木村石見守が血の気の引いた顔で「あり得ぬ!」と叫んでいる。
「我らがさようなことを……今寝返るくらいなら、はじめから大坂方に付いておるわ。殿がいったいどのような思いで、右府さまを敵に回すことを決意したと思われるか!」
氏勝は即座に頷いて、「わかっておりまする」と答える。「これすべて、真田の計略に間違いなく。されど惑う者も多く、その混乱を突かれる形で大坂方に押されておりまする」
「おのれ真田……どこまで我らを愚弄すれば気が済むかっ……!」
長晟はようやく、喉の奥から絞り出すような声でそう吐き捨てた。堪えがたき憎悪と怨嗟が色濃く滲んだ、灼けるような声であった。
「それで山下どのは、我らにどうせよと申されるのだ?」
「ひとまずは兵を退かれて、大和口を固めるか、城の西をお攻めいただきたく存じます」
「我らに……下がっていろと申されるか。さような濡れ衣を晴らすためにも、我らは真田を討たねばならぬであろうに!」
「されどこのまま進まれましては、越前勢と同士討ちになる恐れがございます。さすればますます、真田の思う壺」
長晟は歯を軋むほどに噛み締めて、じっと目の前の男を見つめていた。それからようやく、「……できぬ」とつぶやく。
「それはできぬ。真田は……真田だけは、我がこの手で討たねばならぬのだ!」
氏勝はついと目を上げて、声の主を見上げた。
「何ゆえに……やはり、紀伊守さまを殺めたのが真田だからでございますか?」
その問いには答えなかった。答えないことが、その推察を肯定していた。氏勝ははじめて端正な顔を歪め、痛みを堪えるかのように眉根をきつく寄せた。
「どのようにしてそれを掴まれたのか……はお訊きしませぬ」
それぞれの家が、どこへどれほどの間者を忍ばせているか。それは謀の根幹であって、どの家にとっても秘中の秘であった。同じ徳川方にあっても、ここで明かすことはできない。氏勝もそのことは理解しているようだった。
「されどそれを掴ませることもまた、真田の計略のうちであったとは考えられませぬか?」
長晟が「……ぐっ」と低く唸るような声を漏らした。この状況を見れば、それもまた考えられぬことではなかったからだ。
「あの者の狙いは、この地に阿鼻叫喚の地獄絵図を描くことにございます。誰もが獣心を剥き出しにし、敵味方問わず食らい合う……その上で大御所さまを討ち、再び世を戦乱へと引き戻さんとしておるのです。そのためには右府さまがどうなろうと、他の方々がどうなろうと、知ったことなどないのでしょう。もちろん但馬守さまや我々のことなども」
されど、そうはさせるものか。そう小声で続けて、氏勝は肩越しに戦場を振り返った。なおも立ち籠める土煙のせいで、戦況がどうなっているのかはよく見て取れない。されど依然として激しく両軍がぶつかり、互いに命を削り合っているのだけはわかっていた。
「それでも……」長晟は、なおも食い下がる。「それでも、我は行かねばならぬのだ」
「行かせはしませぬ」
氏勝も、負けじと繰り返す。静かであったが、固い決意の籠もった決然とした声であった。
「行ってしまえば、勝っても負けても浅野はただでは済みませぬ。たとえ濡れ衣は晴れても、お味方を混乱させた責は負わねばなりますまい。お家のお取り潰しもあり得まする。さようなことになれば、紀伊守さまに面目が立ちませぬ」
「兄上に……だと?」
「はい。かような小身の某に、恐れ多くも友として接してくださった紀伊守さまのためにも、ここをお通しするわけには参りませぬ」
その言葉に、長晟はくしゃりと顔を歪ませた。まるで小さな童が、零れ落ちそうな涙を堪えるかのように。
「我のことは、友と思うてくださらぬのか……山下どの」
険しかった氏勝の顔も、ようやく少しだけ緩む。そうして小さく息をひとつつき、また静かに目を伏せた。
「思うておるからこそにございます。どうか、堪えてくださりませ」
長晟はその巨躯を震わせて、おう、と呻いた。おう、おう、おう。それはしゃくり上げる嗚咽にも似て、もはや言葉にもならないようであった。
「……殿」
石見守はおのが主と氏勝とを比べ見て、やがて自身も言葉を失った。氏勝へと向けられた主の目は、恨みがましいようであって、同時にどこか感謝が籠もっているようにも見えた。
ややあって、長晟は何も言わずに背を向けた。そうして地を揺らすように足を踏み鳴らし、自陣へと戻ってゆく。その背を、馬を連れた兵が慌てて追ってゆく。氏勝は跪いたまま頭を垂れ、じっとそのうしろ姿を見送った。
長晟の大きな背中が兵たちの間に隠れると、氏勝は静かに立ち上がった。そしていまだなお土煙の立ち籠める戦場を振り返る。
目的はどうやら達せられたらしい。ならば一刻も早く、おのが主の元に戻らねばならなかった。されど何であろう、胸の裡に燻っているものがある。我のことは友と思うてはくれぬのか。そう言って、童のようにくしゃくしゃにした顔。おそらくは目に焼き付いて,いつまでも消えることはないであろうと思った。
友にあのような顔をさせてしまっては、ただでは帰れまいの。氏勝はそう、声には出さずに独り言ちた。そして傍らの弓を拾い上げて背に負うと、『白髭』なる名の黒鹿毛の首をそっと撫でた。どうやらもうひと走り、付き合ってもらわねばならぬ駿馬の首を。
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蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
田や沼に龍は潜む
大澤伝兵衛
歴史・時代
徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。
名を田沼龍助という。
足軽出身である父に厳しく育てられ武芸や学問に幼少から励んでおり、美少女かと見間違う程の美貌から受ける印象に反して、恐ろしく無骨な男である。
世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。
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