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第五章
(八)
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半刻ほどの攻防の末、越前守忠直勢の壁がついに破られた。鎧がずり落ち、兜も脱げて逃散する雑兵たちの間を割って、六文銭の旗を翻した騎馬が駆け抜けてゆく。そのあとを、雄叫びを上げながら徒士が続いて行った。
騎馬と徒士はそのまま脇目もふらず、ただ真っすぐに突き進んでいた。その先には、大御所家康が構える本陣があるのみ。
「……いかん!」それを目の当たりにして、義利は思わず叫んだ。「父上をお護りするのだ。兵を押し出せ!」
その号令とともに、一万五千の尾張勢が動き出した。鶴翼の左から中央に向かって、本陣への壁となるべく進み出てゆく。されどはたして間に合うのか。
「真田勢に横槍を入れよ。遅れるな!」
壁を抜けてきたのはせいぜいが、兵二、三千といったところであった。それならば、間に合いさえすれば止められる。義利もそう確信していた。
「進めっ!」
すると真田勢も横槍に気付いたか、反転してそれに正面から突っ込んできた。岩と岩がぶつかるような低い衝撃音が響き、先頭の徒士が槍衾を叩き付け合う。
「弓隊、鉄砲隊は散開せよ。回り込んで後方へ放つのだ!」
こちらは敵に向かって、斜面を駆け下りてゆく格好になる。その勢いも手伝って、容易に押し戻せるはずであった。ちらと城方を見やると、越前勢は再び隊形を立て直して、真田勢の後続を食い止めている。さらにその向こう、土煙を透かしてうっすらと浅野の旗が揺らめいているのが見える。それは先ほどから動いていないように思えた。
どうやら氏勝も、長晟の説得に成功したらしい。ならばもう同士討ちの恐れもない。これが真田の計略のひとつであったのならば、その思惑も外れたことであろう。
あとは、この二、三千の敵兵を押し返せばいいだけだった。されどどうにも様子がおかしい。数の上では圧倒的に優位、あとは力任せにでも呑み込んでしまえばいいはずなのに、逆に押されている。波のように一斉に押し寄せたはずの前線が、じりじりと後退しはじめている。
「どうした、怯むな!」義利はなおも声を張り上げる。「敵は小勢なりっ、押し返せ!」
されどその激も、虚しく空回りするばかりであった。前線からは我先にと逃げ出す者さえ出はじめ、もはや趨勢は明らかだ。敵の怒声と、槍のぶつかり合う音が近付いてくる。この乱戦では味方を射てしまう恐れもあるため、弓隊も鉄砲隊もなすすべもなく呆然としていた。
「殿、これ以上前に出ては危のうございます。お下がりくださいませ!」
馬廻の正信が、早くも嗄れはじめた声で叫んでいた。されど義利は首を振り、なおも軍配を振る。
「ならぬ……退がってはならぬ。我らが退いては父上の本陣が危うい!」
そう答えたまさにそのとき、敵味方入り乱れる前線の向こうを、騎馬の列が悠然と過ぎてゆくのが見えた。そのあとを、千ばかりの徒士が付き従ってゆく。向かう先は、天王寺口の本陣に間違いなかった。
「駄目だ……行かせてはならぬ。止めよっ!」
いくら叫ぼうとも、兵たちは目の前の敵に手一杯でどうすることもできない。義利はただ、あざ笑うように中央を突破してゆく敵を見送るだけだった。
※
鬱蒼とした木々の茂る険しい山道を、家康は名も知らぬ若き兵の肩を借りながら登っていた。背後からは、早くも敵のものらしい罵声が聞こえてきている。捨ててきた本陣も、今頃はもう好き放題に蹂躙されていることであろう。
付き従う者は腹心である安藤帯刀と、その配下の十数名のみだった。あとは成瀬隼人正率いる五百ほどが本陣に残って真田勢を食い止めているが、それもいつまで持ち堪えられるか。まさかここまで攻め込まれるとは思っていなかった者も多く、そのため少なくない数の兵が戦うこともなく逃散してしまっていた。
「……無様な、ものよの」
息を切らしながらも、家康はそう自嘲する。自身はかようなこともあり得ると、ひそかに覚悟はしていた。されどまさかここまで早く、それも堂々と中央を突破されるとは思っていなかった。警戒していたつもりで、おのれもまた左衛門佐ら関ヶ原の生き残りを甘く見ていたのかもしれない。
「……もうよい」
小高い丘を登り切り、いくらか開けた場に出たところで、家康はそう言っておのれを抱きかかえていた腕を振り解いた。そうしてその場にぺたりと座り込み、大きく息をつく。
「もうここまででよい。わしももう疲れたわ」
「大殿、何を申されますか!」
帯刀は驚いたように叫ぶ。されどそれに対しても、家康は力なく首を振って苦笑するばかりであった。
「真田め……そこまでこの首が欲しいなら、くれてやるわ。そうしたところで、今さら何も変わらぬ」
そうして首を巡らせ、眼下に広がる戦場を見下ろした。先ほどまでおのれがいた本陣にも、すでに六文銭の旗が翻っている。されど成瀬隊も踏ん張っているらしく、そこから先へは進めずにいるらしかった。
「結局はわしもまた、乱世の男なのであろう。そのわしが死んでこそ、ようやく終わるということよ……ならばよいではないか」
おのれが死んだところで、すでに幕府の体制は盤石だ。秀忠も将軍として堂に入ってきたし、無事に独り立ちした義利と頼将もいる。真田がどれほど執念を燃やしたところで、今さら乱世に逆戻りなどしはしない。まったくご苦労なことだ。
「せめてこの首を餞にしてやろうぞ。それで満足して、冥府へと帰るがよい……悪鬼め」
誰に言うでもなくそう独り言ちたところで、また帯刀が「なりませぬっ!」と怒鳴った。そして家康の両肩を掴み、激しく揺さぶってくる。
「ならばこそ、大殿には畳の上で大往生してもらいまする。それでこそ、まことに乱世は終わるのです。かようなところで死なせはいたしませぬぞ!」
そのとき、麓の戦場でおおうっという低いどよめきが起こった。見ると、辛うじて真田の後続を押し止めていた越前守忠直の軍勢が、ついに総崩れを起こしていた。そして大河の堰が切れたかのように、兵たちが波となって押し寄せてくる。その前に立ちはだかろうとしていた右兵衛督義利の軍勢も、いよいよここまでであろう。
「兵を集めよ!」帯刀が、傍らで呆然としていた鎧武者に命じた。「逃げた者も、まだそのあたりにおるはずよ。貝を吹け、再び呼び集めるのじゃ!」
まだ顔に幼ささえ見て取れる若武者は、その声にようやく我に返ったようだった。そうして「は……ははっ!」と答え、手にしていた法螺貝を鳴らそうとする。されどそれもうまくゆかず、ただすかすかという気の抜けた音を立てるだけだった。
「ええい……今の若い者は、法螺の吹きかたも知らぬのか!」
帯刀は堪らず若者から貝を引っ手繰ると、身を反らして力一杯に息を吹き込んだ。ぼおおっという見事な法螺の音が、空へ高らかに響き渡ってゆく。
※
どうしてこうなった。何がいけなかったのだ。思うようにならぬ戦に、右兵衛督義利は臍を噛むしかできなかった。兵たちも動揺からはすでに立ち直っている。隊列に乱れもなく、武具装束もむしろこちらの方が立派である。なのになぜ、かような小勢に成す術もなく押し込まれるのか。
つまりは、兵ひとりひとりの力が違うのか。関ヶ原の戦を経験し、その屈辱を身に刻んだ者たちの力とはそれほどのものなのか。そう思いかけて、義利はすぐに頭から振り払った。それは違う。兵の所為ではない。すべては、おのれの力不足ゆえだ。怯むな、進めといくら号令を掛けようと、そのおのれが怯んでいるのでは兵たちが従うはずもない。
そう、義利は怯んでいた。はじめての戦らしい戦に。目の前に迫った騎馬たちに。怒声を上げ、槍を振り上げ、この首を狙って遮二無二迫ってくる鎧武者たちに。精一杯隠してはいても、その怖気が声に表われ、味方の兵たちを委縮させてしまっている。それでは、誰も従うはずがないではないか。
だがこうしている間にも、敵は本陣にも攻め寄せ、父である家康の命をも危うくさせている。力不足を嘆いている暇などないのだ。どうにかして、この劣勢を立て直さなければならない。されどどうやって。そんな方策など、今まで目を通してきた書物にはどこにも書かれていなかった。
「……殿、下がられませ。危のうございます!」
脇を固める山城守正信が、再び大声で叫んだ。さらには忠右衛門守綱も戻り来て、義利の馬の轡を取って無理にでも引き戻そうとする。ここまで乗ってきた黒鹿毛ではない、馴染みのない馬。そういえばおのが愛馬は、今は貸し与えてしまっていたのであった。
「大和は……まだ戻らぬのか」
小声で漏らしたその問いは、誰の耳にも届かなかったのであろう。答えは返ってこなかった。もしもあの者がここにいたならば、何と言ってくれたであろう。義利は、そんな詮ないことを思う。されどそのとき、ふと耳元で何者かが囁く声を聞いた。
---頼られませ。
義利は弾かれたように振り返ったが、そこには誰もいなかった。その声は、耳の奥に甦ってきたものだった。されどそのひと言に、若き当主はようやく落ち着きを取り戻していた。
「……忠右衛門」と、馬を引く老将に呼び掛けた。見上げてくる兜の下の顔は、眉も髭もほとんど真っ白であった。
「何でございましょう、殿?」
「我は未熟であったな。手間ばかり掛けさせてすまぬ」
馬を並べる正信が、「さようなことは……」と言いかける。されどそれを、義利は手で遮った。
「良いのだ……我はつくづく思い知った。生死の縁にあって、かような若輩者の言葉など誰にも届かぬのは道理よ。何しろ我には、まだ何もかもが足りておらぬのだ」
そうして義利は、じっと守綱を見つめた。おのれが持っていないものを、この者は余るほど持ち合わせている。
「ゆえに忠右衛門、我を助けてはくれぬか?」
「はっ、もちろんにございます。いかなることでも、この老いぼれにお申し付け下され」
「うむ……では渡辺忠右衛門、そなたが采を取れ。我とこの尾張勢の命運を託す。そなたの経験で、この我を守ってみせよ!」
渡辺忠右衛門守綱は、三河松平家譜代家臣の家に生まれ、その系譜は平安、嵯峨源氏の将・渡辺綱へと遡ると言われている。かつては半蔵と名乗り、若くして家康へ仕え、永禄五年の三河八幡の合戦にて大いにその名を轟かせた。
されど敬虔な一向宗の信者でもあり、一揆の際には本多弥八郎正信らとともに門徒衆へと身を投じ、家康に背いていた。のちに赦されて帰参したが、その恩義に報いるため、以後の生涯を徳川のために尽くしてきた。そしてほとんどの戦で先鋒を務め、満身創痍となりながら多くの武功を挙げ、ついには徳川十六将のひとりに数えられるまでになったという男であった。
されどその守綱も、すでに齢七十四。これが最後の戦と覚悟していた。されどその戦で、まさかかような晴れ舞台を与えられようとは。思わず感涙に咽びそうになるのを堪えながら馬上に跨り、ぐるりと兵たちを見渡した。
「前段より、退がりながら列を整えよ。そうだ!」
年月とともに擦り切れたような、嗄れた声が響き渡る。戦場にあって六十余年、ただ命じられるままに身を粉にし、ひたすら突撃だけを繰り返してきた身である。計も策もろくに知りはしない。されど今この場にあって、さようなものは必要なかった。
「どうだ、口惜しいか。仲間を嬲られ、旗を踏み躙られ、おぬしらはそれでいいのか?」
周囲に集まった者たちからは、しわぶきひとつ上がらない。されど誰もが、このままでいいとは思っていないのはわかっていた。まるでぎりぎりと、奥歯を噛み締める音が聞こえてくるようだ。
大丈夫、と守綱は確信した。いまだみな、心までは折れておらぬ。ただ身の裡に溜め込んだものを、どう吐き出せばよいのかわからぬだけだ。ならばそれを力に変えて、ひとつに束ねればよいだけだった。
「どうだ……尾張徳川家、こんなものだと見縊られたままでいいのか。さような屈辱を抱えたまま、この先生きてゆくつもりか?」
真田の本隊が、いよいよ越前勢の壁を抜けて迫り来るのが見えていた。敵の先鋒はそれを待っているのだろう。ひとまず攻め手を緩め、息を整えているようであった。されどひとたび合流すれば、一気呵成に雪崩れ込んでくるはず。ただ待ち構えているだけでは、もはや圧に耐え切れなかろう。ならば、行くのみだ。
「ふざけるなっ!」
守綱の一喝に、兵たちが一斉に俯けていた顔を上げた。ある者は決然と、またある者は恥辱に身を震わせながら。
「我らはこんなものではないぞ。かような有り様のまま終わりはせぬ。終わってなるものか。負け犬どもを、いつまでもいい気にさせておくものかっ!」
そこではじめて、「……おう」と低いどよめきが上がった。守綱はいったん言葉を切ると、背後に控えた義利を振り返る。
「では殿、ひと言お願いいたします」
「……何を言えば良い?」
「何でも宜しゅうございます。殿の、ありのままの言葉をお聞かせくだされ」
義利は一瞬迷いを見せたものの、やがてひとつ頷いて、息を大きく吸い込んだ。
「……皆の者ぉっ!」わずかに声が裏返った。されど、気にせずに続ける。「か弱き我に、力を貸してくれっ!」
次の瞬間、一斉に雄叫びが上がった。それは地を震わすほどに激しく、まるであたりが突然燃え上がったかと思えるほどであった。
「良いかっ!」と、守綱が負けじと吼える。「我らが殿に、指一本触れさせるでないぞっ!」
おう、と再び地を突き上げる怒声。守綱は槍を振り上げ、馬の腹を力強く蹴った。
「続けぇっ!」
その声とともに、一万五千の兵が一斉に動き出した。そしてまさに山津波のごとく、勢いを増しながら斜面を雪崩れ落ちてゆく。義利もそのあとに続かんと、強く手綱を引いて馬首を返した。
「止めるなよ、小伝次。案ずるでない、みなが我を守ってくれよう」
正信も苦笑して、小さく頷いた。「わかり申した。では、ともに参りましょうぞ」
そうして駆け出そうとするふたりの背後に、ひとりの雑兵が音もなく近付いてゆく。するすると滑るように。そして手の中に隠した暗器を、馬に跨った義利の脚へと突き出した。
されどその切っ先は、わずかに覗いた具足の隙間を貫く直前で遮られた。貫いたのは、脇から突然差し出されてきた掌のみであった。そしてどこからともなく現れた、やはり陣笠姿の雑兵が、掌を貫いた暗器を離さぬように固く握り込んだ。
「そうはさせませぬよ、鹿右衛門さま。何しろ、頼まれてしまいましたからね……」
正体がすでに露見していたことを悟った雑兵は、相手の手の中に暗器を残したまま、その場から離脱すべく地を蹴って飛び去った。そしてもうひとりもまた、瞬きひとつほどの間にその場から姿を消していた。
当の義利は、おのれの背後で何が起こっていたのかに気付きもしなかった。いや義利のみならず、そこで起こった小さな出来事に目を止めた者など、誰ひとりいなかったのである。
騎馬と徒士はそのまま脇目もふらず、ただ真っすぐに突き進んでいた。その先には、大御所家康が構える本陣があるのみ。
「……いかん!」それを目の当たりにして、義利は思わず叫んだ。「父上をお護りするのだ。兵を押し出せ!」
その号令とともに、一万五千の尾張勢が動き出した。鶴翼の左から中央に向かって、本陣への壁となるべく進み出てゆく。されどはたして間に合うのか。
「真田勢に横槍を入れよ。遅れるな!」
壁を抜けてきたのはせいぜいが、兵二、三千といったところであった。それならば、間に合いさえすれば止められる。義利もそう確信していた。
「進めっ!」
すると真田勢も横槍に気付いたか、反転してそれに正面から突っ込んできた。岩と岩がぶつかるような低い衝撃音が響き、先頭の徒士が槍衾を叩き付け合う。
「弓隊、鉄砲隊は散開せよ。回り込んで後方へ放つのだ!」
こちらは敵に向かって、斜面を駆け下りてゆく格好になる。その勢いも手伝って、容易に押し戻せるはずであった。ちらと城方を見やると、越前勢は再び隊形を立て直して、真田勢の後続を食い止めている。さらにその向こう、土煙を透かしてうっすらと浅野の旗が揺らめいているのが見える。それは先ほどから動いていないように思えた。
どうやら氏勝も、長晟の説得に成功したらしい。ならばもう同士討ちの恐れもない。これが真田の計略のひとつであったのならば、その思惑も外れたことであろう。
あとは、この二、三千の敵兵を押し返せばいいだけだった。されどどうにも様子がおかしい。数の上では圧倒的に優位、あとは力任せにでも呑み込んでしまえばいいはずなのに、逆に押されている。波のように一斉に押し寄せたはずの前線が、じりじりと後退しはじめている。
「どうした、怯むな!」義利はなおも声を張り上げる。「敵は小勢なりっ、押し返せ!」
されどその激も、虚しく空回りするばかりであった。前線からは我先にと逃げ出す者さえ出はじめ、もはや趨勢は明らかだ。敵の怒声と、槍のぶつかり合う音が近付いてくる。この乱戦では味方を射てしまう恐れもあるため、弓隊も鉄砲隊もなすすべもなく呆然としていた。
「殿、これ以上前に出ては危のうございます。お下がりくださいませ!」
馬廻の正信が、早くも嗄れはじめた声で叫んでいた。されど義利は首を振り、なおも軍配を振る。
「ならぬ……退がってはならぬ。我らが退いては父上の本陣が危うい!」
そう答えたまさにそのとき、敵味方入り乱れる前線の向こうを、騎馬の列が悠然と過ぎてゆくのが見えた。そのあとを、千ばかりの徒士が付き従ってゆく。向かう先は、天王寺口の本陣に間違いなかった。
「駄目だ……行かせてはならぬ。止めよっ!」
いくら叫ぼうとも、兵たちは目の前の敵に手一杯でどうすることもできない。義利はただ、あざ笑うように中央を突破してゆく敵を見送るだけだった。
※
鬱蒼とした木々の茂る険しい山道を、家康は名も知らぬ若き兵の肩を借りながら登っていた。背後からは、早くも敵のものらしい罵声が聞こえてきている。捨ててきた本陣も、今頃はもう好き放題に蹂躙されていることであろう。
付き従う者は腹心である安藤帯刀と、その配下の十数名のみだった。あとは成瀬隼人正率いる五百ほどが本陣に残って真田勢を食い止めているが、それもいつまで持ち堪えられるか。まさかここまで攻め込まれるとは思っていなかった者も多く、そのため少なくない数の兵が戦うこともなく逃散してしまっていた。
「……無様な、ものよの」
息を切らしながらも、家康はそう自嘲する。自身はかようなこともあり得ると、ひそかに覚悟はしていた。されどまさかここまで早く、それも堂々と中央を突破されるとは思っていなかった。警戒していたつもりで、おのれもまた左衛門佐ら関ヶ原の生き残りを甘く見ていたのかもしれない。
「……もうよい」
小高い丘を登り切り、いくらか開けた場に出たところで、家康はそう言っておのれを抱きかかえていた腕を振り解いた。そうしてその場にぺたりと座り込み、大きく息をつく。
「もうここまででよい。わしももう疲れたわ」
「大殿、何を申されますか!」
帯刀は驚いたように叫ぶ。されどそれに対しても、家康は力なく首を振って苦笑するばかりであった。
「真田め……そこまでこの首が欲しいなら、くれてやるわ。そうしたところで、今さら何も変わらぬ」
そうして首を巡らせ、眼下に広がる戦場を見下ろした。先ほどまでおのれがいた本陣にも、すでに六文銭の旗が翻っている。されど成瀬隊も踏ん張っているらしく、そこから先へは進めずにいるらしかった。
「結局はわしもまた、乱世の男なのであろう。そのわしが死んでこそ、ようやく終わるということよ……ならばよいではないか」
おのれが死んだところで、すでに幕府の体制は盤石だ。秀忠も将軍として堂に入ってきたし、無事に独り立ちした義利と頼将もいる。真田がどれほど執念を燃やしたところで、今さら乱世に逆戻りなどしはしない。まったくご苦労なことだ。
「せめてこの首を餞にしてやろうぞ。それで満足して、冥府へと帰るがよい……悪鬼め」
誰に言うでもなくそう独り言ちたところで、また帯刀が「なりませぬっ!」と怒鳴った。そして家康の両肩を掴み、激しく揺さぶってくる。
「ならばこそ、大殿には畳の上で大往生してもらいまする。それでこそ、まことに乱世は終わるのです。かようなところで死なせはいたしませぬぞ!」
そのとき、麓の戦場でおおうっという低いどよめきが起こった。見ると、辛うじて真田の後続を押し止めていた越前守忠直の軍勢が、ついに総崩れを起こしていた。そして大河の堰が切れたかのように、兵たちが波となって押し寄せてくる。その前に立ちはだかろうとしていた右兵衛督義利の軍勢も、いよいよここまでであろう。
「兵を集めよ!」帯刀が、傍らで呆然としていた鎧武者に命じた。「逃げた者も、まだそのあたりにおるはずよ。貝を吹け、再び呼び集めるのじゃ!」
まだ顔に幼ささえ見て取れる若武者は、その声にようやく我に返ったようだった。そうして「は……ははっ!」と答え、手にしていた法螺貝を鳴らそうとする。されどそれもうまくゆかず、ただすかすかという気の抜けた音を立てるだけだった。
「ええい……今の若い者は、法螺の吹きかたも知らぬのか!」
帯刀は堪らず若者から貝を引っ手繰ると、身を反らして力一杯に息を吹き込んだ。ぼおおっという見事な法螺の音が、空へ高らかに響き渡ってゆく。
※
どうしてこうなった。何がいけなかったのだ。思うようにならぬ戦に、右兵衛督義利は臍を噛むしかできなかった。兵たちも動揺からはすでに立ち直っている。隊列に乱れもなく、武具装束もむしろこちらの方が立派である。なのになぜ、かような小勢に成す術もなく押し込まれるのか。
つまりは、兵ひとりひとりの力が違うのか。関ヶ原の戦を経験し、その屈辱を身に刻んだ者たちの力とはそれほどのものなのか。そう思いかけて、義利はすぐに頭から振り払った。それは違う。兵の所為ではない。すべては、おのれの力不足ゆえだ。怯むな、進めといくら号令を掛けようと、そのおのれが怯んでいるのでは兵たちが従うはずもない。
そう、義利は怯んでいた。はじめての戦らしい戦に。目の前に迫った騎馬たちに。怒声を上げ、槍を振り上げ、この首を狙って遮二無二迫ってくる鎧武者たちに。精一杯隠してはいても、その怖気が声に表われ、味方の兵たちを委縮させてしまっている。それでは、誰も従うはずがないではないか。
だがこうしている間にも、敵は本陣にも攻め寄せ、父である家康の命をも危うくさせている。力不足を嘆いている暇などないのだ。どうにかして、この劣勢を立て直さなければならない。されどどうやって。そんな方策など、今まで目を通してきた書物にはどこにも書かれていなかった。
「……殿、下がられませ。危のうございます!」
脇を固める山城守正信が、再び大声で叫んだ。さらには忠右衛門守綱も戻り来て、義利の馬の轡を取って無理にでも引き戻そうとする。ここまで乗ってきた黒鹿毛ではない、馴染みのない馬。そういえばおのが愛馬は、今は貸し与えてしまっていたのであった。
「大和は……まだ戻らぬのか」
小声で漏らしたその問いは、誰の耳にも届かなかったのであろう。答えは返ってこなかった。もしもあの者がここにいたならば、何と言ってくれたであろう。義利は、そんな詮ないことを思う。されどそのとき、ふと耳元で何者かが囁く声を聞いた。
---頼られませ。
義利は弾かれたように振り返ったが、そこには誰もいなかった。その声は、耳の奥に甦ってきたものだった。されどそのひと言に、若き当主はようやく落ち着きを取り戻していた。
「……忠右衛門」と、馬を引く老将に呼び掛けた。見上げてくる兜の下の顔は、眉も髭もほとんど真っ白であった。
「何でございましょう、殿?」
「我は未熟であったな。手間ばかり掛けさせてすまぬ」
馬を並べる正信が、「さようなことは……」と言いかける。されどそれを、義利は手で遮った。
「良いのだ……我はつくづく思い知った。生死の縁にあって、かような若輩者の言葉など誰にも届かぬのは道理よ。何しろ我には、まだ何もかもが足りておらぬのだ」
そうして義利は、じっと守綱を見つめた。おのれが持っていないものを、この者は余るほど持ち合わせている。
「ゆえに忠右衛門、我を助けてはくれぬか?」
「はっ、もちろんにございます。いかなることでも、この老いぼれにお申し付け下され」
「うむ……では渡辺忠右衛門、そなたが采を取れ。我とこの尾張勢の命運を託す。そなたの経験で、この我を守ってみせよ!」
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されどその守綱も、すでに齢七十四。これが最後の戦と覚悟していた。されどその戦で、まさかかような晴れ舞台を与えられようとは。思わず感涙に咽びそうになるのを堪えながら馬上に跨り、ぐるりと兵たちを見渡した。
「前段より、退がりながら列を整えよ。そうだ!」
年月とともに擦り切れたような、嗄れた声が響き渡る。戦場にあって六十余年、ただ命じられるままに身を粉にし、ひたすら突撃だけを繰り返してきた身である。計も策もろくに知りはしない。されど今この場にあって、さようなものは必要なかった。
「どうだ、口惜しいか。仲間を嬲られ、旗を踏み躙られ、おぬしらはそれでいいのか?」
周囲に集まった者たちからは、しわぶきひとつ上がらない。されど誰もが、このままでいいとは思っていないのはわかっていた。まるでぎりぎりと、奥歯を噛み締める音が聞こえてくるようだ。
大丈夫、と守綱は確信した。いまだみな、心までは折れておらぬ。ただ身の裡に溜め込んだものを、どう吐き出せばよいのかわからぬだけだ。ならばそれを力に変えて、ひとつに束ねればよいだけだった。
「どうだ……尾張徳川家、こんなものだと見縊られたままでいいのか。さような屈辱を抱えたまま、この先生きてゆくつもりか?」
真田の本隊が、いよいよ越前勢の壁を抜けて迫り来るのが見えていた。敵の先鋒はそれを待っているのだろう。ひとまず攻め手を緩め、息を整えているようであった。されどひとたび合流すれば、一気呵成に雪崩れ込んでくるはず。ただ待ち構えているだけでは、もはや圧に耐え切れなかろう。ならば、行くのみだ。
「ふざけるなっ!」
守綱の一喝に、兵たちが一斉に俯けていた顔を上げた。ある者は決然と、またある者は恥辱に身を震わせながら。
「我らはこんなものではないぞ。かような有り様のまま終わりはせぬ。終わってなるものか。負け犬どもを、いつまでもいい気にさせておくものかっ!」
そこではじめて、「……おう」と低いどよめきが上がった。守綱はいったん言葉を切ると、背後に控えた義利を振り返る。
「では殿、ひと言お願いいたします」
「……何を言えば良い?」
「何でも宜しゅうございます。殿の、ありのままの言葉をお聞かせくだされ」
義利は一瞬迷いを見せたものの、やがてひとつ頷いて、息を大きく吸い込んだ。
「……皆の者ぉっ!」わずかに声が裏返った。されど、気にせずに続ける。「か弱き我に、力を貸してくれっ!」
次の瞬間、一斉に雄叫びが上がった。それは地を震わすほどに激しく、まるであたりが突然燃え上がったかと思えるほどであった。
「良いかっ!」と、守綱が負けじと吼える。「我らが殿に、指一本触れさせるでないぞっ!」
おう、と再び地を突き上げる怒声。守綱は槍を振り上げ、馬の腹を力強く蹴った。
「続けぇっ!」
その声とともに、一万五千の兵が一斉に動き出した。そしてまさに山津波のごとく、勢いを増しながら斜面を雪崩れ落ちてゆく。義利もそのあとに続かんと、強く手綱を引いて馬首を返した。
「止めるなよ、小伝次。案ずるでない、みなが我を守ってくれよう」
正信も苦笑して、小さく頷いた。「わかり申した。では、ともに参りましょうぞ」
そうして駆け出そうとするふたりの背後に、ひとりの雑兵が音もなく近付いてゆく。するすると滑るように。そして手の中に隠した暗器を、馬に跨った義利の脚へと突き出した。
されどその切っ先は、わずかに覗いた具足の隙間を貫く直前で遮られた。貫いたのは、脇から突然差し出されてきた掌のみであった。そしてどこからともなく現れた、やはり陣笠姿の雑兵が、掌を貫いた暗器を離さぬように固く握り込んだ。
「そうはさせませぬよ、鹿右衛門さま。何しろ、頼まれてしまいましたからね……」
正体がすでに露見していたことを悟った雑兵は、相手の手の中に暗器を残したまま、その場から離脱すべく地を蹴って飛び去った。そしてもうひとりもまた、瞬きひとつほどの間にその場から姿を消していた。
当の義利は、おのれの背後で何が起こっていたのかに気付きもしなかった。いや義利のみならず、そこで起こった小さな出来事に目を止めた者など、誰ひとりいなかったのである。
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どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
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日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
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作家 蔵屋日唱
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
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田や沼に龍は潜む
大澤伝兵衛
歴史・時代
徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。
名を田沼龍助という。
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世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。
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