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第五章
(五)
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先の初陣の際は後方に配されていた義利ら尾張勢も、此度は鶴翼の左を担っていた。先鋒の本多内記忠朝勢の後方に布陣し、家康の本陣を守る重要な役割である。軍勢の内訳は変わらず、成瀬隼人正が本陣へ向かい、竹腰山城守と渡辺忠右衛門が馬廻を務めていた。そして氏勝が一番組を率い、隊の先頭に立つことになっている。
義利は軍議を終えると帷幕を出て、前方に聳える小高い山を見上げた。昨冬の戦の際には家康が本陣を敷いた茶臼山である。今はそこに真田左衛門佐幸村と、毛利豊前守勝永が待ち構えていた。
「落ち着かれませんかな?」
氏勝は主の隣に並びかけて尋ねた。とはいえ義利の表情はいつも通りで、怖気た様子もなく、かといって気負っているようにも見えなかった。ただ東寺で人質を務めたときも同じように見えたが、あとで内心は怖ろしくて堪らなかったと打ち明けてくれたものであった。今もやはり、無理をしてそれを押し込めているのかもしれなかった。
「あそこに……真田がおるのだな?」
「で、ありましょうな」
氏勝は頷く。左衛門佐の父安房守が、徳川の不倶戴天の敵であったことは、この義利もよく知っているであろう。その天敵をようやくここまで追い詰めたと見るべきか、あるいはここまで誘き出されたと見るべきか。
「あそこからなら、この大軍をよく見渡せるであろう。いったい如何なる思いであろうな」
「はて……怖気ているか、あるいは心躍らせているか。古強者の中には、負け戦こそ華と考える輩もおりますゆえ」
我にはわからぬ。聞こえるか聞こえないかほどの声で、義利はつぶやいた。そうして手甲の中の拳をぎゅっと握り締める。
「あそこまで出張ってきているからには、此度は睨み合いでは済むまいの」
「はい。こちらを待ち構えているか、あるいは攻めかかって来るかはわかりませぬが」
「攻めてくる……この大軍を見ても、なお来るのか」
そう漏らした声はわずかではあったが震えていた。されどその底には、いっそ敵を称賛するような色さえ滲んでいた。そんな義利に、氏勝は一歩下がって呼び掛ける。
「殿。我らの旗印をご覧ください」
氏勝がそう言うと、義利は不思議そうな顔をしながらも、背後に翻る旗を見上げた。先の冬の陣の前に、家康から手ずから賜ったものだ。
「徳川の三つ葉葵にございます。あのように、殿はおひとりではございませぬ。竹腰どのも渡辺どのもいらっしゃいます。殿を支える、一万五千の兵たちも。どうか、皆を頼られませ」
若き主はその言葉に、ようやく少しだけ表情を和らげた。そうしてちらと氏勝を見上げると、ひょいと肩をすくめてみせる。
「大和は、我のことなら何でもわかっておるのだな」
氏勝は小さく頭を下げ、「……傅役ですゆえ」とだけ答えた。
※
戦端が開かれたのは、正午を回ってしばしが経った頃のことであった。茶臼山南方数十間というところまで突出していた先鋒・本多内記忠朝の勢が放った挑発の銃撃に、毛利隊のやはり先鋒であった竹田藤四郎の兵が反応したのである。両者は威嚇の鉄砲を撃ち合うには距離を詰め過ぎてしまっていた。やがて先走った雑兵が敵陣へ打ちかかり、すぐに両軍入り混じっての乱戦へと変わった。
忠朝はこれを機と見て、三千の兵を一気に茶臼山へと進ませた。それを受けて、同じく先鋒であった浅野采女正長重・秋田城介実季らの勢も、ともに前へ押し出してゆく。
忠朝は本多平八郎忠勝の二男である。本家の家督こそは長男である忠政に譲ったが、その父譲りの将器は兄よりも上と評されていた。また気性も父によく似て激しく、兵たちも泰平の世にあっても厳しく鍛え上げられていた。
ゆえに忠朝は、ろくに統制も取れておらぬような牢人どもに押し負けるなどとは露ほども思っていなかった。兵の数こそ慥かに多いが、すぐに浅野や秋田も、さらにそのあとから越前宰相忠直の勢も続いてくるはず。このまま豊臣の軍勢を茶臼山から蹴落とし、裸の城へ追い詰めてやれる。いさおしにもそう目論んでいた。
されどある程度まで進み入ったところで、堅い壁にぶつかったように急に勢いが鈍った。さらに敵はいつの間にか左右に広く展開し、側面を突くように回り込んでくる。後方を振り返れば、後続の浅野・秋田勢の姿は見えず、自軍が最前線で孤立してしまっているのがわかった。
そこに至ってようやく、忠朝はおのれが罠に掛かったことに気が付いた。戦がはじまってみれば、寄せ集めのはずの牢人衆は驚くほどに組織立っていて、一糸乱れぬ連携で本多勢を誘い込み、分断した上で幾重にも包囲していた。すべては最初からの目論見通りというわけだ。
忠朝は息を呑み、眼前の小高い山を見上げた。その頂に翻る、血のような赤に白く染め抜かれた六文銭の旗。それは三途の川の渡し賃、まさに立ちはだかる者を冥府へ落とす悪鬼の旗であった。その旗のたもとには、漆黒の悍馬に跨り、兜の下から長く白い蓬髪を靡かせる男の姿があった。
「真田……左衛門佐!」
その名をつぶやいた絞り出すような声は、すぐに轟いた鬨の声にかき消された。そうして右から、左から、前から。一斉に、鎧武者の群れが押し寄せてくる。
本多平八郎忠勝の子にして父にも並ぶと謳われ、家康からの信頼も厚かった上総大多喜藩主・内記忠朝は、かくして茶臼山にてその生涯を閉じた。その齢、まだ三十四という若さであった。
※
先行していた本多勢の馬印が敵中に呑み込まれるのを目の当たりにして、浅野采女正長重は馬上にて呆然としていた。先駆けとして本多勢が突撃を開始したので、それを助けるため下知もないままあとに続いたものの、それははたして正しい判断であったのか。突撃が失敗に終わったのが明らかな今、おのれはどうするべきなのか。引くか、あるいは進むのか。されど敵の勢いはすさまじく、今から救援に向かったところで本多勢を助けられるとも思えない。
どうする、どうする。長重は何もわからないまま、ただ空唾を飲み込むしかできなかった。この浅野家三男は、関が原の折は幼少であったため、兄たちとともに戦場に立つことは叶わなかった。初陣となった先の冬は、戦らしいことは何もしないままに終わった。だからかような戦闘は、これがまったくはじめてのことだったのである。
むろん戦の何たるかは、父や兄たちから色々と聞かされていた。されど当然、見ると聞くとではまったく違う。地を震わせるような鬨の声。さらに具足を鳴らす音が無数に重なって、もはや誰の声も聞こえないほどだ。むっとする熱気に鉄錆にも似た血の匂いが混じり、息をすることも難しい。されど何よりこの場に充満した闘気、なかんずく殺気に、何もせずとも身をすくませてしまう。
「あ……あ、ああ……」
喉からはただ、そんな呻き声だけが漏れてくる。やがてその目が、山肌を駆け下りてこちらに迫ってくる敵を捉えた。それはまるで波のように広がって、どこにも逃げ場がないように思えた。
「見よ、あれなるは浅野の旗印!」
馬上の将が、耳を圧するほどの怒号を発した。そして槍を真っ直ぐにこちらに向ける。
「太閤殿下の恩義を忘れ、徳川に与する不忠者を許すな。討ち取れいっ!」
「殿下……恩義、だと……」
長重は鸚鵡のように、その言葉を繰り返す。慥かに父長政からは、折に触れ豊臣への忠義を言い聞かされてきた。されど物心ついた頃から小姓として徳川に仕えてきた長重としては、会ったことすらない相手への恩義といわれても困惑するばかりである。
それでもやはり、我らは豊臣に与するべきであったのか。長兄である幸長が生きていればそうしたのかもしれない。されど次兄長晟からは、今の豊臣には決して与してはならぬと言い聞かされていた。大坂に集った牢人どもには、忠義など欠片もない。むしろ豊臣をかような窮地に追い込んだのはあの者たちだと。真に豊臣への忠義を果たさんとするならば、かの者らを残らず誅した上で右府さまの助命を請うしかないと。太閤になど会ったこともなく、ずっと仕えてきた徳川に今さら弓を引くことなど考えることもできなかった長重としては、救われたような思いでその言葉に従った。
されど今、こうして押し寄せる敵兵にすくみ上がりながら、それはやはり間違いだったのかと後悔する。おのれは不忠者であったのか。これは、それゆえの罰なのか。やはり父が言っていた通り、何を捨てても大坂に馳せ参じるべきであったのかと。
「……殿っ!」
そのとき、ようやく傍からおのれを呼び続けていた声に気が付いた。目を落とすとひとりの年輩の兵が、轡を取って馬首を返そうとしている。
「本多隊は総崩れにございます。ここは一旦下がり、越前勢と合力すべし。我らで食い止めますゆえ、殿はどうかお退きを!」
咄嗟には男の名が出てこなかった。慥か父の代からの家臣であることは何とか思い出せたが、そこまでだ。されど男のほうは、こんな情けない主君を身を張って守ろうとしてくれている。
「良いのか、こんな……不忠者の我を」
「しっかりなさいませ、殿!」
男が怒鳴りつけるように声を張り上げた。そして鎧の草摺を掴み、激しく揺さぶってくる。
「あのような戯言に耳を貸してはなりませぬ。兄君も申されておったではないですか。今この城に屯しておるのは、ただ戦がしたいだけのならず者どもに過ぎぬと。我らの殿が不忠などと謗られる謂れなどないわ!」
馬の嘶き、人の怒号。鎧と鎧がぶつかり合い、槍が肉を叩き削る。すでに先頭の兵たちは戦の波に呑み込まれていた。
「行かれませ、早く!」
男が馬の尻を槍の石突で激しく叩いた。同時に、手綱をしごきもせずに馬は走り出す。振り返ると、男もすでに背を向けて走り出していた。敵味方が入り混じる乱戦の中へ。
「待て、待つのだ……」そして長重は、ようやく男の名を思い出した。「待つのだ、内蔵助ぇっ!」
その男の名を、大石内蔵助良勝といった。良勝はこの合戦においてまさに獅子奮迅の槍働きを見せ、実に三十六もの首級を上げたと記録に残っている。
されどその奮闘も虚しく、浅野隊は二百を超える兵を失い敗走した。長重は辛うじて命を拾いはしたものの、三十余にも及ぶ多くの家臣を死なせ、常陸浅野家はその後の藩運営にも支障をきたすほどの損害を負ったという。その中にあってめざましい武功を挙げた大石家は、その後代々浅野家の筆頭家老を務めることとなる。
※
戦の火蓋が切られてわずか半刻足らず。その間に、徳川の最前線はすでに崩壊したも同然であった。左衛門佐幸村は茶臼山の頂にて、長く伸びた髭を撫でながら、そのさまを満足げに眺め見ていた。
「ここまではまず、上々でございますな」
傍らに控える海野六郎兵衛も、薄く笑みを浮かべながら言う。とはいえまだこれは序の口に過ぎなかった。
「されどこの先はそうもいかぬであろう。見よ」
幸村が軍扇を振り上げ、戦場の一角を指した。やはり徳川の先鋒の秋田城介の軍勢を蹴散らした毛利勢も、さすがにその勢いが鈍りつつあった。次に相対しているのは、越前宰相忠直の軍勢である。猛将と謳われた結城越前守秀康を父に持つだけあって、兵たちもよく鍛え上げられていた。これを単独で抜くのはなかなか骨が折れよう。
「なるほど……どうなされますか、殿。我らもそろそろ?」
「まあ、待て。頃合いを見るのも大事よ」
朋輩たちの苦境すら愉しむように、幸村は悠然と笑みを浮かべた。そのとき、馬に寄り添うように影が浮かび上がる。
「来たか、才蔵?」
「……はっ」と、影が短く答えた。「浅野但馬守、紀州路を北上してまいります。あと半刻もすれば現れることにございましょう」
幸村はいかにも満悦といった様子で「良し」と頷いた。そしてそこだけ生気で満ち満ちた両目をぎょろりと六郎兵衛へ向ける。
「では六郎、行くがよい。戦を知らぬ若造どもに、何たるかを教えてやれ」
六郎兵衛は「はっ」と答えて手綱を引いた。そうして背後に控える兵たちに、無言で手振りだけの下知を送る。
「して、我はいかがいたしましょう」と、影が尋ねてくる。「越前の小僧……おらねば、大分楽になりましょうや?」
「いや、それには及ばぬ。越前勢は、ほどなくして崩れよう」幸村はそうこともなげに言い、再び軍扇でその先を指し示す。「問題はそのあとよ……本陣を突くまでに、もうひとつ気になる軍勢がおる」
「と、申されますと……鶴翼の左、徳川右兵衛督?」
「さよう。童と聞いておったが、なかなかに統制が取れておる」
「……そうでしょうか」と、珍しく影が異を唱えた。「いささか、整い過ぎているようにも見受けられまするが」
「今は、の。まだ眠っておるようじゃ。されどああいった勢ほど、ひとたび目を覚ませば厄介なものよ。出来得るなら、そのまま眠らせておきたいの」
下知はそれで十分だったようだ。才蔵と呼ばれた影は「御意」と答えると、現れたときと同様、風に散らされるようにかき消えていた。
義利は軍議を終えると帷幕を出て、前方に聳える小高い山を見上げた。昨冬の戦の際には家康が本陣を敷いた茶臼山である。今はそこに真田左衛門佐幸村と、毛利豊前守勝永が待ち構えていた。
「落ち着かれませんかな?」
氏勝は主の隣に並びかけて尋ねた。とはいえ義利の表情はいつも通りで、怖気た様子もなく、かといって気負っているようにも見えなかった。ただ東寺で人質を務めたときも同じように見えたが、あとで内心は怖ろしくて堪らなかったと打ち明けてくれたものであった。今もやはり、無理をしてそれを押し込めているのかもしれなかった。
「あそこに……真田がおるのだな?」
「で、ありましょうな」
氏勝は頷く。左衛門佐の父安房守が、徳川の不倶戴天の敵であったことは、この義利もよく知っているであろう。その天敵をようやくここまで追い詰めたと見るべきか、あるいはここまで誘き出されたと見るべきか。
「あそこからなら、この大軍をよく見渡せるであろう。いったい如何なる思いであろうな」
「はて……怖気ているか、あるいは心躍らせているか。古強者の中には、負け戦こそ華と考える輩もおりますゆえ」
我にはわからぬ。聞こえるか聞こえないかほどの声で、義利はつぶやいた。そうして手甲の中の拳をぎゅっと握り締める。
「あそこまで出張ってきているからには、此度は睨み合いでは済むまいの」
「はい。こちらを待ち構えているか、あるいは攻めかかって来るかはわかりませぬが」
「攻めてくる……この大軍を見ても、なお来るのか」
そう漏らした声はわずかではあったが震えていた。されどその底には、いっそ敵を称賛するような色さえ滲んでいた。そんな義利に、氏勝は一歩下がって呼び掛ける。
「殿。我らの旗印をご覧ください」
氏勝がそう言うと、義利は不思議そうな顔をしながらも、背後に翻る旗を見上げた。先の冬の陣の前に、家康から手ずから賜ったものだ。
「徳川の三つ葉葵にございます。あのように、殿はおひとりではございませぬ。竹腰どのも渡辺どのもいらっしゃいます。殿を支える、一万五千の兵たちも。どうか、皆を頼られませ」
若き主はその言葉に、ようやく少しだけ表情を和らげた。そうしてちらと氏勝を見上げると、ひょいと肩をすくめてみせる。
「大和は、我のことなら何でもわかっておるのだな」
氏勝は小さく頭を下げ、「……傅役ですゆえ」とだけ答えた。
※
戦端が開かれたのは、正午を回ってしばしが経った頃のことであった。茶臼山南方数十間というところまで突出していた先鋒・本多内記忠朝の勢が放った挑発の銃撃に、毛利隊のやはり先鋒であった竹田藤四郎の兵が反応したのである。両者は威嚇の鉄砲を撃ち合うには距離を詰め過ぎてしまっていた。やがて先走った雑兵が敵陣へ打ちかかり、すぐに両軍入り混じっての乱戦へと変わった。
忠朝はこれを機と見て、三千の兵を一気に茶臼山へと進ませた。それを受けて、同じく先鋒であった浅野采女正長重・秋田城介実季らの勢も、ともに前へ押し出してゆく。
忠朝は本多平八郎忠勝の二男である。本家の家督こそは長男である忠政に譲ったが、その父譲りの将器は兄よりも上と評されていた。また気性も父によく似て激しく、兵たちも泰平の世にあっても厳しく鍛え上げられていた。
ゆえに忠朝は、ろくに統制も取れておらぬような牢人どもに押し負けるなどとは露ほども思っていなかった。兵の数こそ慥かに多いが、すぐに浅野や秋田も、さらにそのあとから越前宰相忠直の勢も続いてくるはず。このまま豊臣の軍勢を茶臼山から蹴落とし、裸の城へ追い詰めてやれる。いさおしにもそう目論んでいた。
されどある程度まで進み入ったところで、堅い壁にぶつかったように急に勢いが鈍った。さらに敵はいつの間にか左右に広く展開し、側面を突くように回り込んでくる。後方を振り返れば、後続の浅野・秋田勢の姿は見えず、自軍が最前線で孤立してしまっているのがわかった。
そこに至ってようやく、忠朝はおのれが罠に掛かったことに気が付いた。戦がはじまってみれば、寄せ集めのはずの牢人衆は驚くほどに組織立っていて、一糸乱れぬ連携で本多勢を誘い込み、分断した上で幾重にも包囲していた。すべては最初からの目論見通りというわけだ。
忠朝は息を呑み、眼前の小高い山を見上げた。その頂に翻る、血のような赤に白く染め抜かれた六文銭の旗。それは三途の川の渡し賃、まさに立ちはだかる者を冥府へ落とす悪鬼の旗であった。その旗のたもとには、漆黒の悍馬に跨り、兜の下から長く白い蓬髪を靡かせる男の姿があった。
「真田……左衛門佐!」
その名をつぶやいた絞り出すような声は、すぐに轟いた鬨の声にかき消された。そうして右から、左から、前から。一斉に、鎧武者の群れが押し寄せてくる。
本多平八郎忠勝の子にして父にも並ぶと謳われ、家康からの信頼も厚かった上総大多喜藩主・内記忠朝は、かくして茶臼山にてその生涯を閉じた。その齢、まだ三十四という若さであった。
※
先行していた本多勢の馬印が敵中に呑み込まれるのを目の当たりにして、浅野采女正長重は馬上にて呆然としていた。先駆けとして本多勢が突撃を開始したので、それを助けるため下知もないままあとに続いたものの、それははたして正しい判断であったのか。突撃が失敗に終わったのが明らかな今、おのれはどうするべきなのか。引くか、あるいは進むのか。されど敵の勢いはすさまじく、今から救援に向かったところで本多勢を助けられるとも思えない。
どうする、どうする。長重は何もわからないまま、ただ空唾を飲み込むしかできなかった。この浅野家三男は、関が原の折は幼少であったため、兄たちとともに戦場に立つことは叶わなかった。初陣となった先の冬は、戦らしいことは何もしないままに終わった。だからかような戦闘は、これがまったくはじめてのことだったのである。
むろん戦の何たるかは、父や兄たちから色々と聞かされていた。されど当然、見ると聞くとではまったく違う。地を震わせるような鬨の声。さらに具足を鳴らす音が無数に重なって、もはや誰の声も聞こえないほどだ。むっとする熱気に鉄錆にも似た血の匂いが混じり、息をすることも難しい。されど何よりこの場に充満した闘気、なかんずく殺気に、何もせずとも身をすくませてしまう。
「あ……あ、ああ……」
喉からはただ、そんな呻き声だけが漏れてくる。やがてその目が、山肌を駆け下りてこちらに迫ってくる敵を捉えた。それはまるで波のように広がって、どこにも逃げ場がないように思えた。
「見よ、あれなるは浅野の旗印!」
馬上の将が、耳を圧するほどの怒号を発した。そして槍を真っ直ぐにこちらに向ける。
「太閤殿下の恩義を忘れ、徳川に与する不忠者を許すな。討ち取れいっ!」
「殿下……恩義、だと……」
長重は鸚鵡のように、その言葉を繰り返す。慥かに父長政からは、折に触れ豊臣への忠義を言い聞かされてきた。されど物心ついた頃から小姓として徳川に仕えてきた長重としては、会ったことすらない相手への恩義といわれても困惑するばかりである。
それでもやはり、我らは豊臣に与するべきであったのか。長兄である幸長が生きていればそうしたのかもしれない。されど次兄長晟からは、今の豊臣には決して与してはならぬと言い聞かされていた。大坂に集った牢人どもには、忠義など欠片もない。むしろ豊臣をかような窮地に追い込んだのはあの者たちだと。真に豊臣への忠義を果たさんとするならば、かの者らを残らず誅した上で右府さまの助命を請うしかないと。太閤になど会ったこともなく、ずっと仕えてきた徳川に今さら弓を引くことなど考えることもできなかった長重としては、救われたような思いでその言葉に従った。
されど今、こうして押し寄せる敵兵にすくみ上がりながら、それはやはり間違いだったのかと後悔する。おのれは不忠者であったのか。これは、それゆえの罰なのか。やはり父が言っていた通り、何を捨てても大坂に馳せ参じるべきであったのかと。
「……殿っ!」
そのとき、ようやく傍からおのれを呼び続けていた声に気が付いた。目を落とすとひとりの年輩の兵が、轡を取って馬首を返そうとしている。
「本多隊は総崩れにございます。ここは一旦下がり、越前勢と合力すべし。我らで食い止めますゆえ、殿はどうかお退きを!」
咄嗟には男の名が出てこなかった。慥か父の代からの家臣であることは何とか思い出せたが、そこまでだ。されど男のほうは、こんな情けない主君を身を張って守ろうとしてくれている。
「良いのか、こんな……不忠者の我を」
「しっかりなさいませ、殿!」
男が怒鳴りつけるように声を張り上げた。そして鎧の草摺を掴み、激しく揺さぶってくる。
「あのような戯言に耳を貸してはなりませぬ。兄君も申されておったではないですか。今この城に屯しておるのは、ただ戦がしたいだけのならず者どもに過ぎぬと。我らの殿が不忠などと謗られる謂れなどないわ!」
馬の嘶き、人の怒号。鎧と鎧がぶつかり合い、槍が肉を叩き削る。すでに先頭の兵たちは戦の波に呑み込まれていた。
「行かれませ、早く!」
男が馬の尻を槍の石突で激しく叩いた。同時に、手綱をしごきもせずに馬は走り出す。振り返ると、男もすでに背を向けて走り出していた。敵味方が入り混じる乱戦の中へ。
「待て、待つのだ……」そして長重は、ようやく男の名を思い出した。「待つのだ、内蔵助ぇっ!」
その男の名を、大石内蔵助良勝といった。良勝はこの合戦においてまさに獅子奮迅の槍働きを見せ、実に三十六もの首級を上げたと記録に残っている。
されどその奮闘も虚しく、浅野隊は二百を超える兵を失い敗走した。長重は辛うじて命を拾いはしたものの、三十余にも及ぶ多くの家臣を死なせ、常陸浅野家はその後の藩運営にも支障をきたすほどの損害を負ったという。その中にあってめざましい武功を挙げた大石家は、その後代々浅野家の筆頭家老を務めることとなる。
※
戦の火蓋が切られてわずか半刻足らず。その間に、徳川の最前線はすでに崩壊したも同然であった。左衛門佐幸村は茶臼山の頂にて、長く伸びた髭を撫でながら、そのさまを満足げに眺め見ていた。
「ここまではまず、上々でございますな」
傍らに控える海野六郎兵衛も、薄く笑みを浮かべながら言う。とはいえまだこれは序の口に過ぎなかった。
「されどこの先はそうもいかぬであろう。見よ」
幸村が軍扇を振り上げ、戦場の一角を指した。やはり徳川の先鋒の秋田城介の軍勢を蹴散らした毛利勢も、さすがにその勢いが鈍りつつあった。次に相対しているのは、越前宰相忠直の軍勢である。猛将と謳われた結城越前守秀康を父に持つだけあって、兵たちもよく鍛え上げられていた。これを単独で抜くのはなかなか骨が折れよう。
「なるほど……どうなされますか、殿。我らもそろそろ?」
「まあ、待て。頃合いを見るのも大事よ」
朋輩たちの苦境すら愉しむように、幸村は悠然と笑みを浮かべた。そのとき、馬に寄り添うように影が浮かび上がる。
「来たか、才蔵?」
「……はっ」と、影が短く答えた。「浅野但馬守、紀州路を北上してまいります。あと半刻もすれば現れることにございましょう」
幸村はいかにも満悦といった様子で「良し」と頷いた。そしてそこだけ生気で満ち満ちた両目をぎょろりと六郎兵衛へ向ける。
「では六郎、行くがよい。戦を知らぬ若造どもに、何たるかを教えてやれ」
六郎兵衛は「はっ」と答えて手綱を引いた。そうして背後に控える兵たちに、無言で手振りだけの下知を送る。
「して、我はいかがいたしましょう」と、影が尋ねてくる。「越前の小僧……おらねば、大分楽になりましょうや?」
「いや、それには及ばぬ。越前勢は、ほどなくして崩れよう」幸村はそうこともなげに言い、再び軍扇でその先を指し示す。「問題はそのあとよ……本陣を突くまでに、もうひとつ気になる軍勢がおる」
「と、申されますと……鶴翼の左、徳川右兵衛督?」
「さよう。童と聞いておったが、なかなかに統制が取れておる」
「……そうでしょうか」と、珍しく影が異を唱えた。「いささか、整い過ぎているようにも見受けられまするが」
「今は、の。まだ眠っておるようじゃ。されどああいった勢ほど、ひとたび目を覚ませば厄介なものよ。出来得るなら、そのまま眠らせておきたいの」
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大澤伝兵衛
歴史・時代
徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。
名を田沼龍助という。
足軽出身である父に厳しく育てられ武芸や学問に幼少から励んでおり、美少女かと見間違う程の美貌から受ける印象に反して、恐ろしく無骨な男である。
世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。
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