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第五章
(四)
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祭りの余韻も冷めやらぬ、四月十四日。伏見へと発ったばかりの家康の元に、さらなる凶報が舞い込んできた。豊臣の旧臣であり徳川との交渉役であった大野修理が、大坂城において何者かの襲撃を受け深傷を負ったというのだ。さらには豊臣方の穏健派で、もうひとりの繋ぎ役でもあった織田有楽斎もまた、淀の方の不興を買って城を追われた。これにより徳川は、交渉の窓口をすべて失ってしまったことになる。
---いよいよ、やるしかないのか。
家康は決断を迫られていた。次に戦端が開かれれば、此度こそ決戦となろう。両者を隔てる堀はもはやない。互いが互いの身を晒し、獣心を剥き出しにして互いを食らい合う、酸鼻を極める戦となるのは間違いなかった。この十余年、いまだ戦国の血を滾らせている猛者たちをあの手この手で手懐け、牙を抜き、眠りに就かせてきた労苦もすべて水の泡となる。
「それだけは、避けたかったのう……」
伏見城の上段の間にて、ひとり盃を傾けながら、家康は誰に言うともなくつぶやいた。天下の静謐、永劫の泰平。それはもちろん徳川の体制を確固たるものとするためのお題目ではあったが、同時に人としての純粋な夢がなかったわけでもないのだ。人は策謀と打算だけで生きられるほど強くはない。おのれとてまた同じであった。
この乱世は、あまりに長く続き過ぎた。それによって大いに進歩したものもあったが、失われたものもまた多かった。もう十分であろう。そろそろ遍く平穏のうちに、繁栄を享受すべきときではないか。そしてその平穏をおのが手で。そんな夢だって、なかったわけではないのである。
「結局はまた、おぬしにしてやられたというわけか」
家康は声に出さずに、かつて散々煮え湯を飲まされた宿敵に呼び掛ける。いつまでも付き纏う亡霊が、浅墓な男よと嗤っている。
武士というものの本質は畢竟、獣と変わりないと。たとえいっときそれを眠らせることはできても、ほんの小さなきっかけですぐに目を覚まし、互いの肉を食らい合うのが運命と。されど、まことにそうか。それではあまりにも虚しいではないか。
そうため息をついたところで、家康はふと脳裏にひとりの男の顔を思い浮かべた。肥前名護屋ではじめて対面したとき、何もかも諦めたような目の奥に、燃え上がるような餓えを覗かせていたひとりの男を。あのときおのれがかの者を召し抱えようと思ったのは、その餓えが力にもなり得ると感じたのみではない。この者を野放しにしてはいけないという、危うさを覚えたからでもあった。
されどその男は家康の危惧をよそに、勝手におのれの生きる道を見付けたようだった。静謐の中にあってもどういうわけか生き生きと、その才を発揮してみせている。それを思うと、誰しもが変われるのだと信じてみたくなるのだ。
ゆえに、此度こそ最後の戦だ。この戦をもって、まことに乱世に幕を引く。そのためにはあの哀れな天下人の子も、生かしておくことはできぬであろう。おのれもまた鬼となり、すべての禍根を断つのだ。その先には必ず、新たな世が待っていると信じて。
「……やらいでか、安房守」
家康はひび割れた声でつぶやき、一気に盃を干した。
端緒となったのは、またしても浅野であった。婚礼の儀を見届けて和歌山へ戻った長晟の元に、大坂よりの使者が現れたのである。そして太閤への恩義と秀頼への忠義を説き、豊臣方への同心を迫ったという。
されど長晟はこれを拒み、使者をすげなく追い返した。すると大坂方はすぐさま兵を挙げ、浅野領への侵攻を開始する。まずは大野修理の弟・主馬正治房が三千の兵を率い、長晟の盟友でもあり同じく豊臣への参陣を拒否した、筒井主殿定慶の守る大和郡山城を落城させた。そして各地で一揆を扇動しながら、塙団右衛門・岡部大学助らを先鋒に、紀州へと攻め寄せたのである。
これを知った長晟は、五千の兵をもって和歌山城を出陣する。慶長二十年、四月二十九日のことである。そして地の利を生かして敵を樫井の地に誘い込むと、一気にこれを包囲、殲滅した。団右衛門や淡輪六郎兵衛ら多数が討死、岡部大学助はほとんどの兵を失い、這う這うの体で敗走することとなった。
主馬正治房はやむなく紀州から兵を引き、返す刀で徳川の兵站基地でもあった堺を攻め、町を焼き払った。これを受けて五月五日、ついに家康も京を発ち、大坂へと進軍を開始する。
徳川勢は河内路と大和路の二手に分かれて南下した。水野日向守勝成を先鋒とした分隊は大和路を進み、道明寺にて待ち構えていた豊臣勢を撃破、後藤又兵衛らを討ち取った。そして河内路を進んだ藤堂与右衛門高虎ら本軍は、八尾にて長宗我部土佐守盛親と遭遇、激戦の末に敗走させる。
相次ぐ敗戦に、豊臣方は兵をすべて大坂へと引き上げさせた。そうして残った七万余の軍勢をまとめ、いよいよ迫った徳川の大軍に対峙する。実質的な指揮官でもある左衛門佐幸村は、みずから最前線である茶臼山に布陣した。
対する徳川方は総大将である秀忠が岡山口に、また家康は幸村のいる茶臼山を睨む天王寺口に本陣を敷いた。その数は総勢十五万。さらには紀州路より、一揆を鎮圧し筒井の残党を吸収した但馬守長晟の軍勢が北上していた。
かくして、五月七日の夜が明けた。山の稜線から顔を出した朝日が、静かに対峙する総勢二十万余の兵たちの姿を浮かび上がらせる。大坂の陣最大の激戦と言われる天王寺口の合戦の、火蓋が間もなく切られようとしていた。
---いよいよ、やるしかないのか。
家康は決断を迫られていた。次に戦端が開かれれば、此度こそ決戦となろう。両者を隔てる堀はもはやない。互いが互いの身を晒し、獣心を剥き出しにして互いを食らい合う、酸鼻を極める戦となるのは間違いなかった。この十余年、いまだ戦国の血を滾らせている猛者たちをあの手この手で手懐け、牙を抜き、眠りに就かせてきた労苦もすべて水の泡となる。
「それだけは、避けたかったのう……」
伏見城の上段の間にて、ひとり盃を傾けながら、家康は誰に言うともなくつぶやいた。天下の静謐、永劫の泰平。それはもちろん徳川の体制を確固たるものとするためのお題目ではあったが、同時に人としての純粋な夢がなかったわけでもないのだ。人は策謀と打算だけで生きられるほど強くはない。おのれとてまた同じであった。
この乱世は、あまりに長く続き過ぎた。それによって大いに進歩したものもあったが、失われたものもまた多かった。もう十分であろう。そろそろ遍く平穏のうちに、繁栄を享受すべきときではないか。そしてその平穏をおのが手で。そんな夢だって、なかったわけではないのである。
「結局はまた、おぬしにしてやられたというわけか」
家康は声に出さずに、かつて散々煮え湯を飲まされた宿敵に呼び掛ける。いつまでも付き纏う亡霊が、浅墓な男よと嗤っている。
武士というものの本質は畢竟、獣と変わりないと。たとえいっときそれを眠らせることはできても、ほんの小さなきっかけですぐに目を覚まし、互いの肉を食らい合うのが運命と。されど、まことにそうか。それではあまりにも虚しいではないか。
そうため息をついたところで、家康はふと脳裏にひとりの男の顔を思い浮かべた。肥前名護屋ではじめて対面したとき、何もかも諦めたような目の奥に、燃え上がるような餓えを覗かせていたひとりの男を。あのときおのれがかの者を召し抱えようと思ったのは、その餓えが力にもなり得ると感じたのみではない。この者を野放しにしてはいけないという、危うさを覚えたからでもあった。
されどその男は家康の危惧をよそに、勝手におのれの生きる道を見付けたようだった。静謐の中にあってもどういうわけか生き生きと、その才を発揮してみせている。それを思うと、誰しもが変われるのだと信じてみたくなるのだ。
ゆえに、此度こそ最後の戦だ。この戦をもって、まことに乱世に幕を引く。そのためにはあの哀れな天下人の子も、生かしておくことはできぬであろう。おのれもまた鬼となり、すべての禍根を断つのだ。その先には必ず、新たな世が待っていると信じて。
「……やらいでか、安房守」
家康はひび割れた声でつぶやき、一気に盃を干した。
端緒となったのは、またしても浅野であった。婚礼の儀を見届けて和歌山へ戻った長晟の元に、大坂よりの使者が現れたのである。そして太閤への恩義と秀頼への忠義を説き、豊臣方への同心を迫ったという。
されど長晟はこれを拒み、使者をすげなく追い返した。すると大坂方はすぐさま兵を挙げ、浅野領への侵攻を開始する。まずは大野修理の弟・主馬正治房が三千の兵を率い、長晟の盟友でもあり同じく豊臣への参陣を拒否した、筒井主殿定慶の守る大和郡山城を落城させた。そして各地で一揆を扇動しながら、塙団右衛門・岡部大学助らを先鋒に、紀州へと攻め寄せたのである。
これを知った長晟は、五千の兵をもって和歌山城を出陣する。慶長二十年、四月二十九日のことである。そして地の利を生かして敵を樫井の地に誘い込むと、一気にこれを包囲、殲滅した。団右衛門や淡輪六郎兵衛ら多数が討死、岡部大学助はほとんどの兵を失い、這う這うの体で敗走することとなった。
主馬正治房はやむなく紀州から兵を引き、返す刀で徳川の兵站基地でもあった堺を攻め、町を焼き払った。これを受けて五月五日、ついに家康も京を発ち、大坂へと進軍を開始する。
徳川勢は河内路と大和路の二手に分かれて南下した。水野日向守勝成を先鋒とした分隊は大和路を進み、道明寺にて待ち構えていた豊臣勢を撃破、後藤又兵衛らを討ち取った。そして河内路を進んだ藤堂与右衛門高虎ら本軍は、八尾にて長宗我部土佐守盛親と遭遇、激戦の末に敗走させる。
相次ぐ敗戦に、豊臣方は兵をすべて大坂へと引き上げさせた。そうして残った七万余の軍勢をまとめ、いよいよ迫った徳川の大軍に対峙する。実質的な指揮官でもある左衛門佐幸村は、みずから最前線である茶臼山に布陣した。
対する徳川方は総大将である秀忠が岡山口に、また家康は幸村のいる茶臼山を睨む天王寺口に本陣を敷いた。その数は総勢十五万。さらには紀州路より、一揆を鎮圧し筒井の残党を吸収した但馬守長晟の軍勢が北上していた。
かくして、五月七日の夜が明けた。山の稜線から顔を出した朝日が、静かに対峙する総勢二十万余の兵たちの姿を浮かび上がらせる。大坂の陣最大の激戦と言われる天王寺口の合戦の、火蓋が間もなく切られようとしていた。
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