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第五章
(三)
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年が明けて慶長二十年一月。駿府へと戻った義利を、お亀の方は安堵の色も露わな明るい表情で迎えた。本陣の後詰として後方に控えることになっていた義利と頼将の軍勢は、ある意味もっとも安全な場所に配置されていたも同然であった。それでも母親としては気が気でなかったのであろう。
「ともあれ、無事に帰ってきて何よりです。お前たちもよく右兵衛を守ってくれましたね」
同席した正信と氏勝にも満面の笑顔を見せて、お亀はそう労った。同じく初陣であった正信が無事であったことも、やはり嬉しいのであろう。どちらもかの女性にとっては、同じくおのが子である。
「とはいえ、結局は戦らしい戦もありませんでした。我らはずっと後方で、遠くに城を眺めていただけ。いささか拍子抜けでございましたな、殿」
正信もすっかり緊張が解けたのか、そう顔を綻ばせる。されど義利だけは、まだ何かを思案し続けているような表情のままであった。
「どうしたのですか、右兵衛?」
その様子に気付いたお亀が、義利の顔を覗き込むように身を乗り出して尋ねた。されど義利は母親を案じさせまいとしてか、小さく笑って首を振る。
「いえ……何でもありませぬ。我もこうして無事に帰って来れたことを嬉しく思っております」
「そうですか……それなら良いのですが。どこかに傷など負ってはおりませぬな?」
そのようなことは、と義利はまた否定する。その遣り取りをちらと見て、正信はくすりと笑って言った。
「殿が上の空なのも仕方ありませぬ。こうして戦が終わったからには、先延べになっていた祝言の支度に取り掛からねばなりませぬからな。落ち着かぬのも無理なきことかと」
「そうか、そうであったな。そちらのほうはどうなっておるのだ、大和?」
思い出したようにまた弾んだ声で、お亀は尋ねてきた。氏勝は「……はっ」と頭を下げて、「もちろん、準備は滞りなく進めておりまする」と答える。
義利と春姫の祝言は、本来なら昨年のうちに執り行われることとなっていた。されど間の悪いことに、戦がはじまったために延期となってしまっていたのだった。浅野家のほうも準備は万端のようで、今か今かとその日を待ち望んでいるとのことだ。ならばこれ以上の日延べはできない。氏勝も挨拶を済ませたら、すぐに名古屋にとんぼ返りしなくてはならなかった。
されど義利が心ここにあらずなのは、そのことのせいばかりでもないようだった。むしろ祝言のことなど、すっかり忘れてしまっている。
「……殿」と、氏勝は静かな声で言った。「ここには殿のお身内しかおりませぬ。お心の裡は、何でも打ち明けるがよろしかろうと存じます」
まるで心根を見透かされたような言葉に、義利はわずかに驚いた様子を見せ、肩越しに背後の傅役を振り返った。そして小さく大人びたため息をつくと、背を伸ばして母親に向き直った。
「では申し上げます……我は、ずっと考えていたのでございます。此度の戦は、いったい何のためのものであったのかと。父上はかような戦はしとうなかったと申された。右府さまとて、徳川に恨みがあるようなことは申されてはおられなんだ……では何ゆえ、誰が何を望んで、かようなことになってしまったのかと」
そう、この若き大将は戦の間も、ずっとそのことを考えていた。とはいえ嘆いているわけでも、また憤っているわけでもない。ただただ知りたかったのだ。それはまるで、世の理を探るがごとく。
「されど戦はもう終わったのでございます。終わったことをあれこれと悩まれましても、詮なきことにございますぞ?」
正信が横からとりなすように言う。その声はおのが言葉に露ほどの疑いも抱いておらぬ明るいものだった。されどその正信に、義利は「……そうであろうか」と返す。
「この戦、まことに終わったのであろうか。我にはそうは思えぬのだ」
「ではこの和議も、いずれはまた破られると?」正信は信じられないとばかりに声を上げた。「それはあり得ませぬ。豊臣方は城の外堀はおろか、二の丸と内堀の破却にまで応じたのですぞ。もはや大坂城は丸裸も同然。さような城で戦はできぬことくらい、いくら何でもわかっておりましょう」
そう、それがこの和議における、徳川と豊臣の取り決めであった。豊臣方にとってはほとんど武装解除にも等しい大幅な譲歩であったが、拍子抜けするほど簡単にそれは受け入れられた。交渉に当たった豊臣の旧臣たちにすれば、もう戦はできぬとわかれば牢人たちも城を捨て、勝手に去ってゆくと考えてのことと思われた。かの者らも、あまりに我が物顔で振る舞い、いつの間にか戦を主導しはじめていた牢人たちに辟易していたのだろう。
「されどそれに対して、牢人たちもさして異を唱えなかったと聞きまする。それは何ゆえなのであろうとも考えていました。それで思ったのです。あるいはそれさえも、この戦を煽った者の思惑通りだったのではないかと」
義利は氏勝を振り返り、小さく頷きかけてきた。それで、この主がおのれと同じことを考えていると確信する。
「大和、そなたは申したな。静謐など、満たされている者のみが良しとするものだと。ならば今辛酸を舐めている者たちは何を望む?」
「それは当然、この静謐が崩れて、乱世へ逆戻りすることでありましょうな」
氏勝がそう答えると、義利は硬い表情でもう一度頷いた。
「そうだ。されどそれは、ただ戦を起こせばいいことか。それだけで、この静謐は崩せるのか?」
「……否、でございましょう」
「そうだ。それだけでは駄目なのだ。まして先の戦のような、堅い城壁を挟んでの睨み合いなど……何者かは知らぬが、この戦を仕組んだ者はさぞ不本意であったろう」
つまりは家康が、その不本意なありさまに持ち込んだということだ。そうした意味でも、この戦は徳川の勝利であったと言えよう。
「戦はまだ終わらぬ……それも次の戦こそは、さらなる戦乱の呼び水であらねばならぬ。兵たちがその身を晒して、血で血を洗うものであらねば」
まことの標的は、伊達・上杉・佐竹といった、徳川方にいる諸将たち。徳川に飼い馴らされ、戦を忘れた者たちの中に眠る、獣の血を呼び醒ますことだ。結局のところは大坂に集った牢人たちも、また秀頼ですらも、そのための生贄に過ぎぬわけか。まったくこれを仕掛けている者は、まさに悪鬼と呼ぶしかない。
「その戦は、さぞ凄惨なものになるであろうな……」
義利が囁くように付け加えたそのひと言に、正信がぶるりと身を震わせるのがわかった。されどその凍り付いた空気を払うように、氏勝はすっくと立ち上がる。
「では、こちらも負けてはおれませぬな」
それを斜に見上げながら、お亀の方が訝しげに尋ねた。「というと……何をするのですか?」
「もちろん、祝言の支度にござります。急ぎ名古屋へ戻らねば」
「されどまた戦ともなれば、此度も先延べとなるのではありませぬか?」
不安げなその言葉に、氏勝は毅然として首を振る。「いえ……ならばこそ、もう日延べなどしてはならぬのです」
名古屋の城下は、すでに民たちの移転も滞りなく済み、あとは主の入城を待つばかりである。新たな、静謐な世の象徴となるべき都。その歴史のはじまりは、この婚礼の儀こそが相応しい。
「尾張徳川家の総力を挙げて、この上なく華やかに、我らの姫をお迎えしとうございます。敵が世を再び戦乱へと引き戻さんとするならば、こちらは高らかに乱世の終わりを遍く謳い上げるのです。これこそが我らの戦と心得ましょうぞ」
「そうですな……叔父上!」正信も大きく頷いて、立ち上がる。「我も参りましょう。こうはしておられぬ」
では御免仕る。そう言い残して、ふたりは足早に去って行った。その背中を見送ると、お亀はやれやれとばかりに小さく息をつく。。
「まったくあの男は……熱いのか冷めておるのかわかりませぬ」
そうして義利と顔を見合わせ、くすりと笑った。
義利のその危惧は、さほどの間も置かずに現実味を帯びはじめた。和議が成り、ほぼ丸裸となってもいまだ、牢人たちは大坂城に居座ったまま立ち去ろうとはしなかったのである。そして豊臣家から手切れとして渡されたはずの金子で武具を買い集め、あろうことか一度埋められた堀を勝手に掘り戻しはじめた。それらは明らかに和議における協定破りであり、再度の戦支度と見做す他はなかった。
秀忠率いる幕府軍のみを伏見に残し、いったん駿府へと戻っていた家康も、これは看過できなかった。ただちに豊臣方へ向けて、大坂からの移封か牢人たちの退去、どちらかを受け入れるよう求めた。されどもはや大坂城は完全に牢人たちに占拠されている状態で、豊臣の旧臣たちの中にもかの者らに感化される者も現れる始末であったという。やむなく家康は留守居役であった小笠原兵部に兵を預け、伏見の守備として向かわせた。
そして四月四日、家康は駿府を出立して名古屋へ向かった。その途上で豊臣方にあって交渉役を務めていた大野修理の使者を迎え、秀頼の大坂よりの移封は受け入れられないとの返答を受ける。それでも牢人たちの退去についてはなおも努力しているところのようで、今しばらく時をくれとのことであった。
世はさように不穏な空気を漂わせながらも、四月十二日。徳川右兵衛督義利と春姫の婚礼の儀が此度こそ、盛大に執り行われた。和歌山を発った春姫の輿に続く列は一里にも達し、その道中には見物の民たちが群がったという。これは「できる限り華やかに、盛大に」という氏勝の求めに長晟が応じたものであったが、その後名古屋に於いて婚儀が豪奢なものになったのは、これがきっかけであったと言われている。
婚礼のあとの宴は真夜中まで続き、日が替わってもなお愉しげな声は絶えなかった。されど氏勝はその輪から離れ、真新しい床板の張られた本丸御殿を出た。そうして城下を見下ろすと、そこにもまだいっぱいに明かりが煌々と並んでいる。誰もみなこの日が来るのを待ち望んでいたのであろう、歌い踊る民たちの声がここまで届いてくるようだった。
久しぶりの酒で火照った身体を、まだ冷たい風に晒していると、ふと背後から近付いてくる足音を聞いた。振り返ると、見上げるような大きな影。今宵の主役のひとりである、花嫁の叔父・浅野但馬守長晟であった。
「かような場所でどうされたのですかな、傅役どの」
「但馬守さまこそ。良いのですか、宴を抜けてしまわれても?」
巨漢の大名はどこか気の抜けたような笑みを浮かべながら、城下を見下ろす氏勝の隣に並びかけた。そうして小さく首を振り、「……良いのですよ」とつぶやくように言う。
「我はこれにてお役御免でございましょう。肩から重い荷を下ろした心地にござる」
長晟にとって春姫は、兄から託された大事な娘との思いもあったのであろう。紆余曲折ありながら、無事にこの日を迎えられたことで、万感込み上げるものもあるのかもしれなかった。
形こそ違えど、それは氏勝もまた同じような心持ちであった。何より、この婚儀を献策したのはおのれなのである。あの日から、気が付けば十と三年の月日が流れていた。
「お春をこれほど温かく迎えていただいて、兄もきっと喜んでいることでございましょう。まことにありがたきことにございます」
「いえ、某こそ……これで紀伊守さまとの約定を果たすことが出来申した」氏勝は長晟にまっすぐ向き直ると、恭しく頭を垂れた。「但馬守さまにはひとかたならぬご尽力をいただき、まことに忝なく思っておりまする。どうか今後も我が主、右兵衛督をよしなにお願いいたし申す」
「とんでもございません、山下どの」長晟は慌てたように言った。「忝なく思っておるのはこちらにございますぞ。さ、どうぞ頭をお上げくだされ」
言われるままに頭を上げると、氏勝よりも頭ひとつは大きい巨漢は、岩のような顔を柔らかくほころばせた。
「わが紀州浅野家も、いまだ難題が山積みにございます。我もまた力不足を痛感させられるばかりにて、右兵衛督さまのお力添えを頼りにしておるのです。何とぞ、今後もよしなにお願いいたしますぞ」
「何を申されるか」と、氏勝はゆっくりと首を振る。「但馬守さまは兄君にも劣らぬ、立派な大名となられた。先の戦でも見事な戦いぶりであったとか」
戦の端緒となった木津川口砦の戦いでは、指揮を取ったのはあくまで蜂須賀阿波守であったが、援軍に駆け付けた浅野勢の働きも目ざましかったと聞いていた。大坂方の抵抗を封じ、瞬く間に砦を奪い、敵を城内へと引き返させたのも、精強な浅野兵と長晟の巧みな采配によるものであったと。
「右府さまを相手どっての戦、複雑な思いもあったことでしょう。心中お察しいたします」
「いえ……それはよいのです」
長晟はそう言って、また目を城下の明かりへと向けた。
「今の大坂は、ただならず者に乗っ取られた砦に過ぎませぬ。それも右府さまの弱さが招いたことであれば、致し方なきこと」
そうは言いつつも、長晟の目が痛みを堪えるように眇められるのが慥かに見て取れた。それは見るべきではないものなのだろうと悟って、氏勝はそっと目を逸らす。
「そんな弱きお方ゆえ……兄君は、右府さまをお守りしたかったのでござろうな」
「さて……兄はいったい、何を守ろうとしていたのであろうか。我にはもう、それもわからぬのでござる」
まるで血が滲むような声で、長晟は続けた。それは父が守ろうとしてきたもの、そして兄が守ろうとしてきたものとの、そして浅野家にとってはおのが身の一部と言っていい部分との訣別の言葉であった。
「もはや今の豊臣を守る気には……守ることは、出来申さぬ」
氏勝には、その顔はもう見ることができなかった。だから半ば俯いたまま、きつく握り締められた拳に目を落とす。爪がきつく食い込んで、血さえ滲んでいるそれを見て、ようやく理解した。長晟は兄の死について、何かしらの確信を得たのであろうと。
誰よりも敬愛した兄を殺めたのは、何者であったのかということについての確信を。
「ともあれ、無事に帰ってきて何よりです。お前たちもよく右兵衛を守ってくれましたね」
同席した正信と氏勝にも満面の笑顔を見せて、お亀はそう労った。同じく初陣であった正信が無事であったことも、やはり嬉しいのであろう。どちらもかの女性にとっては、同じくおのが子である。
「とはいえ、結局は戦らしい戦もありませんでした。我らはずっと後方で、遠くに城を眺めていただけ。いささか拍子抜けでございましたな、殿」
正信もすっかり緊張が解けたのか、そう顔を綻ばせる。されど義利だけは、まだ何かを思案し続けているような表情のままであった。
「どうしたのですか、右兵衛?」
その様子に気付いたお亀が、義利の顔を覗き込むように身を乗り出して尋ねた。されど義利は母親を案じさせまいとしてか、小さく笑って首を振る。
「いえ……何でもありませぬ。我もこうして無事に帰って来れたことを嬉しく思っております」
「そうですか……それなら良いのですが。どこかに傷など負ってはおりませぬな?」
そのようなことは、と義利はまた否定する。その遣り取りをちらと見て、正信はくすりと笑って言った。
「殿が上の空なのも仕方ありませぬ。こうして戦が終わったからには、先延べになっていた祝言の支度に取り掛からねばなりませぬからな。落ち着かぬのも無理なきことかと」
「そうか、そうであったな。そちらのほうはどうなっておるのだ、大和?」
思い出したようにまた弾んだ声で、お亀は尋ねてきた。氏勝は「……はっ」と頭を下げて、「もちろん、準備は滞りなく進めておりまする」と答える。
義利と春姫の祝言は、本来なら昨年のうちに執り行われることとなっていた。されど間の悪いことに、戦がはじまったために延期となってしまっていたのだった。浅野家のほうも準備は万端のようで、今か今かとその日を待ち望んでいるとのことだ。ならばこれ以上の日延べはできない。氏勝も挨拶を済ませたら、すぐに名古屋にとんぼ返りしなくてはならなかった。
されど義利が心ここにあらずなのは、そのことのせいばかりでもないようだった。むしろ祝言のことなど、すっかり忘れてしまっている。
「……殿」と、氏勝は静かな声で言った。「ここには殿のお身内しかおりませぬ。お心の裡は、何でも打ち明けるがよろしかろうと存じます」
まるで心根を見透かされたような言葉に、義利はわずかに驚いた様子を見せ、肩越しに背後の傅役を振り返った。そして小さく大人びたため息をつくと、背を伸ばして母親に向き直った。
「では申し上げます……我は、ずっと考えていたのでございます。此度の戦は、いったい何のためのものであったのかと。父上はかような戦はしとうなかったと申された。右府さまとて、徳川に恨みがあるようなことは申されてはおられなんだ……では何ゆえ、誰が何を望んで、かようなことになってしまったのかと」
そう、この若き大将は戦の間も、ずっとそのことを考えていた。とはいえ嘆いているわけでも、また憤っているわけでもない。ただただ知りたかったのだ。それはまるで、世の理を探るがごとく。
「されど戦はもう終わったのでございます。終わったことをあれこれと悩まれましても、詮なきことにございますぞ?」
正信が横からとりなすように言う。その声はおのが言葉に露ほどの疑いも抱いておらぬ明るいものだった。されどその正信に、義利は「……そうであろうか」と返す。
「この戦、まことに終わったのであろうか。我にはそうは思えぬのだ」
「ではこの和議も、いずれはまた破られると?」正信は信じられないとばかりに声を上げた。「それはあり得ませぬ。豊臣方は城の外堀はおろか、二の丸と内堀の破却にまで応じたのですぞ。もはや大坂城は丸裸も同然。さような城で戦はできぬことくらい、いくら何でもわかっておりましょう」
そう、それがこの和議における、徳川と豊臣の取り決めであった。豊臣方にとってはほとんど武装解除にも等しい大幅な譲歩であったが、拍子抜けするほど簡単にそれは受け入れられた。交渉に当たった豊臣の旧臣たちにすれば、もう戦はできぬとわかれば牢人たちも城を捨て、勝手に去ってゆくと考えてのことと思われた。かの者らも、あまりに我が物顔で振る舞い、いつの間にか戦を主導しはじめていた牢人たちに辟易していたのだろう。
「されどそれに対して、牢人たちもさして異を唱えなかったと聞きまする。それは何ゆえなのであろうとも考えていました。それで思ったのです。あるいはそれさえも、この戦を煽った者の思惑通りだったのではないかと」
義利は氏勝を振り返り、小さく頷きかけてきた。それで、この主がおのれと同じことを考えていると確信する。
「大和、そなたは申したな。静謐など、満たされている者のみが良しとするものだと。ならば今辛酸を舐めている者たちは何を望む?」
「それは当然、この静謐が崩れて、乱世へ逆戻りすることでありましょうな」
氏勝がそう答えると、義利は硬い表情でもう一度頷いた。
「そうだ。されどそれは、ただ戦を起こせばいいことか。それだけで、この静謐は崩せるのか?」
「……否、でございましょう」
「そうだ。それだけでは駄目なのだ。まして先の戦のような、堅い城壁を挟んでの睨み合いなど……何者かは知らぬが、この戦を仕組んだ者はさぞ不本意であったろう」
つまりは家康が、その不本意なありさまに持ち込んだということだ。そうした意味でも、この戦は徳川の勝利であったと言えよう。
「戦はまだ終わらぬ……それも次の戦こそは、さらなる戦乱の呼び水であらねばならぬ。兵たちがその身を晒して、血で血を洗うものであらねば」
まことの標的は、伊達・上杉・佐竹といった、徳川方にいる諸将たち。徳川に飼い馴らされ、戦を忘れた者たちの中に眠る、獣の血を呼び醒ますことだ。結局のところは大坂に集った牢人たちも、また秀頼ですらも、そのための生贄に過ぎぬわけか。まったくこれを仕掛けている者は、まさに悪鬼と呼ぶしかない。
「その戦は、さぞ凄惨なものになるであろうな……」
義利が囁くように付け加えたそのひと言に、正信がぶるりと身を震わせるのがわかった。されどその凍り付いた空気を払うように、氏勝はすっくと立ち上がる。
「では、こちらも負けてはおれませぬな」
それを斜に見上げながら、お亀の方が訝しげに尋ねた。「というと……何をするのですか?」
「もちろん、祝言の支度にござります。急ぎ名古屋へ戻らねば」
「されどまた戦ともなれば、此度も先延べとなるのではありませぬか?」
不安げなその言葉に、氏勝は毅然として首を振る。「いえ……ならばこそ、もう日延べなどしてはならぬのです」
名古屋の城下は、すでに民たちの移転も滞りなく済み、あとは主の入城を待つばかりである。新たな、静謐な世の象徴となるべき都。その歴史のはじまりは、この婚礼の儀こそが相応しい。
「尾張徳川家の総力を挙げて、この上なく華やかに、我らの姫をお迎えしとうございます。敵が世を再び戦乱へと引き戻さんとするならば、こちらは高らかに乱世の終わりを遍く謳い上げるのです。これこそが我らの戦と心得ましょうぞ」
「そうですな……叔父上!」正信も大きく頷いて、立ち上がる。「我も参りましょう。こうはしておられぬ」
では御免仕る。そう言い残して、ふたりは足早に去って行った。その背中を見送ると、お亀はやれやれとばかりに小さく息をつく。。
「まったくあの男は……熱いのか冷めておるのかわかりませぬ」
そうして義利と顔を見合わせ、くすりと笑った。
義利のその危惧は、さほどの間も置かずに現実味を帯びはじめた。和議が成り、ほぼ丸裸となってもいまだ、牢人たちは大坂城に居座ったまま立ち去ろうとはしなかったのである。そして豊臣家から手切れとして渡されたはずの金子で武具を買い集め、あろうことか一度埋められた堀を勝手に掘り戻しはじめた。それらは明らかに和議における協定破りであり、再度の戦支度と見做す他はなかった。
秀忠率いる幕府軍のみを伏見に残し、いったん駿府へと戻っていた家康も、これは看過できなかった。ただちに豊臣方へ向けて、大坂からの移封か牢人たちの退去、どちらかを受け入れるよう求めた。されどもはや大坂城は完全に牢人たちに占拠されている状態で、豊臣の旧臣たちの中にもかの者らに感化される者も現れる始末であったという。やむなく家康は留守居役であった小笠原兵部に兵を預け、伏見の守備として向かわせた。
そして四月四日、家康は駿府を出立して名古屋へ向かった。その途上で豊臣方にあって交渉役を務めていた大野修理の使者を迎え、秀頼の大坂よりの移封は受け入れられないとの返答を受ける。それでも牢人たちの退去についてはなおも努力しているところのようで、今しばらく時をくれとのことであった。
世はさように不穏な空気を漂わせながらも、四月十二日。徳川右兵衛督義利と春姫の婚礼の儀が此度こそ、盛大に執り行われた。和歌山を発った春姫の輿に続く列は一里にも達し、その道中には見物の民たちが群がったという。これは「できる限り華やかに、盛大に」という氏勝の求めに長晟が応じたものであったが、その後名古屋に於いて婚儀が豪奢なものになったのは、これがきっかけであったと言われている。
婚礼のあとの宴は真夜中まで続き、日が替わってもなお愉しげな声は絶えなかった。されど氏勝はその輪から離れ、真新しい床板の張られた本丸御殿を出た。そうして城下を見下ろすと、そこにもまだいっぱいに明かりが煌々と並んでいる。誰もみなこの日が来るのを待ち望んでいたのであろう、歌い踊る民たちの声がここまで届いてくるようだった。
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「かような場所でどうされたのですかな、傅役どの」
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「我はこれにてお役御免でございましょう。肩から重い荷を下ろした心地にござる」
長晟にとって春姫は、兄から託された大事な娘との思いもあったのであろう。紆余曲折ありながら、無事にこの日を迎えられたことで、万感込み上げるものもあるのかもしれなかった。
形こそ違えど、それは氏勝もまた同じような心持ちであった。何より、この婚儀を献策したのはおのれなのである。あの日から、気が付けば十と三年の月日が流れていた。
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「いえ、某こそ……これで紀伊守さまとの約定を果たすことが出来申した」氏勝は長晟にまっすぐ向き直ると、恭しく頭を垂れた。「但馬守さまにはひとかたならぬご尽力をいただき、まことに忝なく思っておりまする。どうか今後も我が主、右兵衛督をよしなにお願いいたし申す」
「とんでもございません、山下どの」長晟は慌てたように言った。「忝なく思っておるのはこちらにございますぞ。さ、どうぞ頭をお上げくだされ」
言われるままに頭を上げると、氏勝よりも頭ひとつは大きい巨漢は、岩のような顔を柔らかくほころばせた。
「わが紀州浅野家も、いまだ難題が山積みにございます。我もまた力不足を痛感させられるばかりにて、右兵衛督さまのお力添えを頼りにしておるのです。何とぞ、今後もよしなにお願いいたしますぞ」
「何を申されるか」と、氏勝はゆっくりと首を振る。「但馬守さまは兄君にも劣らぬ、立派な大名となられた。先の戦でも見事な戦いぶりであったとか」
戦の端緒となった木津川口砦の戦いでは、指揮を取ったのはあくまで蜂須賀阿波守であったが、援軍に駆け付けた浅野勢の働きも目ざましかったと聞いていた。大坂方の抵抗を封じ、瞬く間に砦を奪い、敵を城内へと引き返させたのも、精強な浅野兵と長晟の巧みな采配によるものであったと。
「右府さまを相手どっての戦、複雑な思いもあったことでしょう。心中お察しいたします」
「いえ……それはよいのです」
長晟はそう言って、また目を城下の明かりへと向けた。
「今の大坂は、ただならず者に乗っ取られた砦に過ぎませぬ。それも右府さまの弱さが招いたことであれば、致し方なきこと」
そうは言いつつも、長晟の目が痛みを堪えるように眇められるのが慥かに見て取れた。それは見るべきではないものなのだろうと悟って、氏勝はそっと目を逸らす。
「そんな弱きお方ゆえ……兄君は、右府さまをお守りしたかったのでござろうな」
「さて……兄はいったい、何を守ろうとしていたのであろうか。我にはもう、それもわからぬのでござる」
まるで血が滲むような声で、長晟は続けた。それは父が守ろうとしてきたもの、そして兄が守ろうとしてきたものとの、そして浅野家にとってはおのが身の一部と言っていい部分との訣別の言葉であった。
「もはや今の豊臣を守る気には……守ることは、出来申さぬ」
氏勝には、その顔はもう見ることができなかった。だから半ば俯いたまま、きつく握り締められた拳に目を落とす。爪がきつく食い込んで、血さえ滲んでいるそれを見て、ようやく理解した。長晟は兄の死について、何かしらの確信を得たのであろうと。
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スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
田や沼に龍は潜む
大澤伝兵衛
歴史・時代
徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。
名を田沼龍助という。
足軽出身である父に厳しく育てられ武芸や学問に幼少から励んでおり、美少女かと見間違う程の美貌から受ける印象に反して、恐ろしく無骨な男である。
世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。
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