鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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新たなる出発

選び取った答え

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翌朝、空には淡い雲が広がり、風はどこかやわらかかった。
ダリオは鎧を身に着けず、平服で文官庁舎の裏庭へと向かっていた。

花壇のある小さな庭園。
そこは、彼とカタリーナの思い出が静かに息づく場所だった。

彼女はこの庭を好んでいた。
昼休みや仕事終わりのひととき、本を読みながら静かに過ごす姿が、今も瞼に浮かぶ。

(あの頃……)

出征前、彼は確かに誓った。

『必ず戻る。君の元へ。』

けれど、その約束は果たせなかった。
戦地で消息を絶ち、帰還できたのは七年後。
彼女はすでに、別の男の妻になっていた。

悔しさはあった。胸の奥を焼かれるような痛みも、夜毎感じた。
だが、それでも彼女の幸せを願えたのは、彼女を心から愛していたからだ。

(戻れない過去を悔やんでも意味はない)

だからこそ、彼は黙って見守ることを選んだ。

けれど今、彼女は自由の身となった。
そして再び、彼の視界に現れた。

(運命というものがあるのなら、今こそその糸を手繰り寄せたい)

誰かに背中を押されたわけではない。
ただ、今なら言えると思った。
あの日、伝えきれなかった言葉を。けれど、それも今すぐではないと分かっている。

彼女には、彼女の事情がある。
過去を背負い、今もきっと傷のなかにいる。

(だから俺は見守ろう)

ただ想いを押しつけるのではなく、そばで静かに、必要な時に手を差し伸べられる距離で。
何かがあった時には、迷わず駆けつけられるように。
それが、今の自分にできる“彼女を想う”ということ。

だから
たとえ相手が、直属の上司の娘であっても。
どれほど周囲に都合のいい縁談だとささやかれようと。

(いい加減な気持ちで、メリセラの想いを受け入れることなんて……俺にはできなかった)

それでいい。いや、それでこそ、いいんだ。

(そうすることが、俺のカタリーナへの真っすぐな気持ちだ)

ようやく、自分自身の心に向き合い、言葉にできたような気がした。

誰にも見られていない庭の隅で、彼はそっと息を吐いた。

これは焦らず、慌てず、けれど確かに始まった再会への、第一歩だった。


****

ダリオの意思は揺るがなかった。
自分が共に歩みたいのは、カタリーナただ一人だと。

上司でもあるカヴァリエの娘、メリセラから婚約を望まれ、父親を通して正式な申し出まであった。だが、ダリオはその縁談をきっぱりと断った。

「申し訳ありません。ですが、私には心に決めた人がいます。誰かの恩情や立場に甘えて、気持ちを偽ることはできません」

彼の答えを知った職場の女性たちは、ますますカタリーナを見る目を変えた。
彼女は、嫌がらせが、また始まったと感じる。

けれど今回は、以前とは違っていた。
まるで「これはあなたのせいだ」と言わんばかりの、無言の圧力。

回覧が意図的に最後まで回されず、
当番の日には帳簿が棚から姿を消す。
わずかに残ったお茶も、「あ、ごめん、全部使っちゃった」と笑いながら片付けられる。

給湯室で挨拶しても、誰かが無言で出て行く。
あたたかい会話の輪に近づくたび、微妙な沈黙が落ちる。

まるで、透明な壁に囲まれているようだった。

(私が何をしたというの……)

言い返すこともできない。
だが、黙っていれば「黙って耐えていれば、いい気になっている」と陰で囁かれる。

その中心にいるのが、リディアだということも、カタリーナはうすうす察していた。
メリセラの心情に寄り添うふりをして、実際にはその影で自分の立場を高めようとする、彼女特有の“微笑み”──それが、痛いほど冷たかった。

誰にも見えない場所で、カタリーナは何度も自問していた。

職場での視線は日に日に冷たく、すれ違うときの沈黙が心に重くのしかかる。
何かを壊したわけでも、侮辱したわけでもない。

ただ、彼と話して笑っていただけだった。
それがいけなかったのだろうか。

「立場を利用してる」
「護衛に守られて、お姫様気分ね」

そんな声が、まるで地下水のように、知らぬうちに足元を濡らしていた。

リディアたちの態度が変わったのは、いつからだったろうか。
どこから間違えたのかも分からない。
でも、ひとつだけ分かるのは、自分には何の自覚もなかったということ。

(……わたし、ここにいない方がいいのかな)

その想いがふと胸に浮かんだ瞬間、息が詰まるような痛みが走った。
拒まれているわけではない。けれど、歓迎もされていない。
微笑みの下に隠された無言の拒絶が、むしろはっきりと伝わってくる。

何もしていないのに、何かをしてしまったような罪悪感だけが、静かに胸を満たしていく。
どこにもぶつけられないその感情が、重く冷たく心に積もっていった。
言葉にした瞬間、胸がきゅうっと締めつけられる。
何も分からないまま冷たい海に投げ出されたような不安だけが、確かにそこにあった。


***

ある日、庁舎の書庫で書類整理をしていたときのことだった。
帳簿の背表紙を指先でなぞりながら、ふと廊下から誰かの声が聞こえてくる。

「……それにしても、カヴァリエ閣下の娘さん、振られたって話だぜ?」

足が止まる。耳が、その先の言葉を拾おうと自然に傾く。

「おい、声が大きい。相手はダリオ様だぞ。断るなんて、よっぽどだよな」
「美人だし家柄も申し分ないのにな。本命が他にいるらしいじゃん。誰なんだろうなぁ」

一瞬、書類を持つ手がわずかに震えた。
(……まさか)
小さく首を振って、自分の思い過ごしだと言い聞かせる。
けれど、胸の奥がざわめくのを、どうしても無視できなかった。

その日の夕方、書庫の奥で棚を整理していたとき、ダリオとばったり出くわした。

重なるように視線が交わり、彼はふと、何かを思い出したように呟いた。

「……ああ、そういえば」

その言葉に、カタリーナの手が止まる。

「君に話してなかったか……カヴァリエ閣下が、娘との縁談を持ちかけてきてね」

一瞬、胸の奥がざわついた。だが、ダリオはすぐに言葉を継がなかった。

周囲には、まだ人の気配がある。
誰かが通りかかるかもしれない、こんな書庫の奥で、軽々しく交わしていい話ではなかった。

ダリオは声を落とし、そっと耳元で言った。

「……この話の続きは、ここではやめておこう」

そして、ほんの一瞬だけ迷ったように視線を伏せ、それからごく自然な動きで、懐から小さな封筒を取り出した。

「もし、時間があるなら……これを、読んでほしい。いつか、君の気持ちを聞かせてくれたら嬉しい」

それだけ言って、彼はそれをそっとカタリーナの手元に置いた。
まるで、本の栞でも差し出すような、さりげなさで。

ダリオが去ったあと、カタリーナは手元の封筒を見つめた。
薄く折りたたまれた紙の温もりが、かすかに指先に伝わってくる。

誰もいないのを確かめてから、そっと封を開ける。

中には、丁寧な筆跡で書かれた、短い手紙が入っていた。

ごめん。気づくのが遅くて……本当は、もっと早く伝えるべきだったんだ。
でも、君が今、少しでも居づらくなっているのなら……それは僕の責任だと思ってる。
ちゃんと話したい。ちゃんと、向き合いたい。

その一文一文を、ゆっくりと読み進めていくうちに、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
こらえていたものが、静かに揺れ動く。

自分のことを、こんなにも真っすぐに見て、向き合おうとしてくれている。
その思いが、心の奥深くまで、静かに染み渡っていく。

(……どうして、こんなふうに優しくしてくれるの)

ふいに胸が詰まり、目元が熱くなる。

それは、ずっと我慢して、耐えて、何も言えずにいた心に張りついていたものが、
ほんの少し、そっと解けていくようなそんな瞬間だった。

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